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2015年1月11日 (日)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(22)

2.制作と遡行

制作とは、単に想を抱くことではなく、知覚可能な客観的事物としての作品を現実につくり出すことである。つくり手が何事かを表現したいと思っても、たとえそれをどのような物質的感覚的形象に表現すればよいのか頭の中で明確に構想したとしても、それが他人の目に見える実物にならない限り、作品を制作したことにはならない。つくり手の表現したいことがら、それを表現する手段や方法、つくり手の「意図」は、それが単なる「思い」や「構想」にとどまっている限り、いまだ作品ではない。他者にも受容可能な事物となったものがはじめて作品と呼ばれ、そこにまで至る過程全体が制作なのである。結果として出来上がった芸術作品において、精神的意味的なものと物質的感覚的なものという二つの契機が見て取られることが確かだとしても、制作において、精神的意味的なものを生み出す過程が別々にあるとは限らない。作者が表現したい精神的意味的内容をまずこころに抱き、次にその精神的意味的内容を表現するのに十分な物質的感覚的形象を実在として形成する。仮にそう考えるとしても、精神的意味的内容がどのようにして物質的感覚的形象に表現されるのかが、なお問題として残る。その結びつきはどこでどのようにしてつくられるのか。作者が頭の中で、表現すべき精神的意味内容を十分に構想し、次いでそれを、現実の世界で、現実の素材や技術を用いて実現するというのだろうか。しかし実在の作者のつくる作業を見る限り、たとえ「構想」といえども頭の中だけで生み出されてはいない。造形の領域で言えばアイデア・スケッチや絵コンテを描いたりエスキスをつくったりする作業なと、作者は何らかの物質的感覚的実在を実際に扱い、多くは試行錯誤する中から形象をつくり出している。そこには「やってみる」という作業がある。

制作における「技術」と「かたち」が、この問題を考察する足掛かりになる。「かたち」は、物質的素材に対しては主観の側に(質量に対する形相)、精神的意味的内容に対しては客観の側に(内容に対する形式)属するとみなされてきた。技術もまた、物質的自然に対してはそれに形を与える主観の側、精神に対する目的を達成するための手段として客観的な事物の世界の側に属すとみなされる。技術もかたちもどちらの側とも言え、どちらの側でもないといえる両義的位置を占めている。裏返せば、技術やかたちは、物質的感覚的なものと精神的意味的なものとのあいだ、両者をつなぐ位置にある。かたちは物質的素材に外から押し付けられるものではなく、技術は目的に対する手段ではない。かたちは、主観と客観とが関わる中、人間と世界が交わる行為の中から、両者の間にいわば両者の相互限定として生じる。目的や意味はかたちが生じてくる中から、かたちの内に限定されて現われてくる。かたちは、物質的感覚的なものと精神的意味的なものを差異化=媒介する。われわれはここにも中動相を見出したのである。

芸術作品の制作に「やってみる」作業がなぜ必要なのか、その理由をこの中動の位相に見ることができるだろう。芸術作品の制作において、精神的意味的なもの(主観的なもの)と物質的感覚的なもの(客観的なもの)との結びつきは、つくり手の頭の中だけで出来上がりはしない。(生きた精神である)つくり手が(物質的感覚的な)素材や環境と実際に関わる身体的行為の中から、相互限定によるかたちが生まれ、実在するそのかたちにおいて、精神的意味的なものが物質的感覚的なものと一体となって見出される。つくり手は、精神的意味的なものと物質的感覚的なものとが一体となって目の前にあるということをめざして、物質的感覚的実在を相手にあれこれ試行錯誤するのだろう。制作において、つくり手が直接に扱うことのできるのは感覚的物質的実在であって、精神的意味的なものではないからである。精神的意味的なものは、つくり手とつくり手の扱う物質的感覚的実在とのあいだにあるかたちが成立したとき、はじめいそこに現われてくるはずだ。芸術作品を構成する精神的意味的内容と物質的感覚的形成物は、目で見、手を動かす具体的行為の中から、一緒になって生まれてくる。

もちろん、つくり手が、つくろうと思う作品について、あらかじめ何らかの目標や見通しを全く持っていないということはないだろう。精神的意味的な層においてであれ、物質的感覚的な層においてであれ、あるいはそのどちらでもないかたちで、「こうしたい」「こういう感じ」というような何かが、程度の差はあれ、あるはずだ。少なくとも動機となるような何かがなければ、作品をつくるという意図的行為は始まらないのではないか。つくり手はそのような何かを抱き、出発点におけるその何かが、実際のつくる作業を通じて試行錯誤の内に限定され明確化されていくとも考えられる。つすればつくり手は、作品が出来上がってはじめて、自分がどのような作品をつくろうとしていたのか知るわけだ。このようなつくり手は、制作過程を外から支配し制御する者とはいえないだろう。どのような作品をつくるのか、何を表現したいのか、どのような精神的意味的内容をどのような物質的感覚的形象に担わせるのか、どうすればそれができるのか等々を、明確に把握した上で作品をつくっているわけではないからだ。つくり手は、つくる過程を超越的な位置から能動的に支配するのではなく、過程の中動の中に巻き込まれている。つくり手は、どんな作品をつくろうとしていたのか、作品が出来上がらないとわからない。実在の作者とは、出来上がった作品を見て、「ああこれだ」と、気がつくようなつくり手である。

出来上がった作品を前にして、「自分がつくろうとしていたのはこれだったのだ」と気づくというのは、どういうことなのだろうか。ここには時間を遡る判断がある。あらかじめどのような作品をつくろうとするのかはっきりとわからないままつくっていたつくり手が、出来上がった作品を見て自分が何をつくりたかったのが気づくという事態は、作品が出来上がった時点で成立した判断を、時間を遡らせて、つくる以前やつくっている最中にも当てはめるということに他ならない。我々はここに、メルロ=ポンティの言う「真なるものの遡行運動」を見ることができる。「真なるものの遡行運動」とは、もともとベルグソンに由来する概念で、ある時点ではじめて真だと判断されたことが、真理は永遠であるという思いによって、その時点より以前にも真であったとされること、言い換えると、真なるものについての経験が、それに先立つ時間自らを投影することを指す。ベルグソンにとってこれは、批判すべき回顧的錯覚だった。しかしメルロ=ポンティは、これを「表現」の特徴と捉えるのである。表現されたものは表現によってはじめて「ある」のだが、その表現はあくまで「表現されたもの」あっての表現である。ここには一種の循環がある。表現したい内容であれ、つくるべき作品の構想であれ、作者の意図であれ、あらかじめ何かがあったわけではない。しかし作品は、そういう何かの実現として成立している。精神的意味的なものが物質的感覚的形象に表わされている。つくり手はそこから遡り、そこに見て取られる意味内容を構想や意図等を、日付を遡らせて自分のものとする。つくり手には、それがもともと自分のもっていたものだったと思える。出来上がった作品は、自分が自分から主体的につくったものだと思える。つくり手にとって作者であるとは、こういうことであるようだ。

つくり手の作者であることは、出来上がった作品から事後的に成立することと考えてよいのではないか。作品をつくる過程が、主観的なものと客観的なものとのかたちを介した相互限定なのであれば、つくり手自身、つくる過程の中で変化している。それは、作品に呼応した変化のはずだ。つくり手は、出来上がった作品から、作品が出来上がったということから、遡ってその作品の「作者」になる。作品に先立つ「作者」であることを後日引き受ける。「作者」である自分が「作品」をつくり出したと、時間を遡って認める。「実在の作者」は、こうして成立すると考えられるのではないか。

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