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2015年1月25日 (日)

ウフィツィ美術館展(4)~第3章 大工房時代のフィレンツェ

派手な大作はボッティチェリでほぼ出尽くし、この後は小品に面白いものが数点ありました。

Ufizpietaアンドレア・デル・サルトの「ピエタのキリスト」という作品です。ボッティチェリの絢爛豪華とは正反対の作品。デル・サルトが意図して描いたのか、結果としてこのような形で残されたのかは分かりません。ピエタという題材は多くの作品ではキリストの死体を聖母マリアや弟子たちを含めた人々が取り囲み、その死を悼むという情景が描かれているものですが、そこにはキリストを抱きしめる人や涙を流す人など様々な人物が描かれているものです。しかし、この作品では中央に死んだキリストがぽつねんと腰掛けている姿があるだけです。キリストの姿だけを取り出してみれば、同じく展示されていたペルジーノの同名の作品に通じるところがあって、現実の人間のリアルな人体になっています。後輪光も見えずアトリビュートもほとんど見られません。ここにいるのは、独りの男の死体だけです。その寂しい姿は、どのような人であろうとも、たとえキリストであろうとも死ぬときは独り死んでいくしかない、死そのものの孤独さを表わしているかのようです。がっくりと肩を落として俯いた姿からは表情を読み取ることもできません。しかし、その肩を落としたような姿はまた、耐え切れないほどの重みを背に負った姿にも見えます。それは、両腕を広げたようなポーズや、背をかがめているにもかかわらず、腹筋が張っているように見えることから窺われます。私はキリスト教徒ではないので、キリストの逸話を知悉しておらず、そこに想像をめぐらすには限界がありますが、受け取り方によっては、その死によって大きなものを抱え込んだ姿が時には崇高に見えてくるかもしれない、と想像することもできなくはありません。この姿は、言うなれば、人が独りの個人として神とか信仰に向き合ったときに、その独りの個人に対して訴えかける作品になっているといえないでしょうか。それは、教会に通い形式的な儀礼に参加することが信仰であるというマスとしての民衆ではなくて、個人としての内面を持つにいたった、つまりはパスカルに代表されるような独りの精神として神に向き合うという信仰の姿に応じたものになっているのではないか、と私には思われます。それは教会に大々的に掲示され、人々を教え導くのではなくて、一人ひとりの自覚した精神に働きかけ、問いかけようとするものなっているのではないか、と思えます。その意味で、近代的な精神の信仰に適ったものとして見ることができるものになっていると言えます。それは、別の意味では、感動とか共感といった近代的な鑑賞にも耐えうるものになっているということです。

Ufizpieta2アンドレア・デル・サルトという画家は、他にも「自画像」などの作品が展示されていましたが、本人が意図してこのような描き方をしたのかは分かりませんが、後世の近代主義の世俗化された芸術とか精神とかに十分に沿うことのできるものを残していた画家として、私にとっては今回の大きな収穫でした。ボッティチェリに対しては、落胆しかなかったのを埋め合わせるに十分でした。

この後の展示では、プロンヅィーノなどのマニエリスムの画家たちの展示がありましたが、残念なことに場つなぎの数量あわせとしか、私には思えない展示としか見えなかったので、感想を書くほどのもでもないと思います。全体として、日本人というのはヨーロッパの人からはなめられているのであることが、全体の展示を見ていて感じました。こんなものでも本場ものとして、ありがだがるのだろうと、たかを括っているというイタリアの姿勢が透けて見えた、というのでしょうか。私が僻みっぽい性格だからかもしれません。

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