無料ブログはココログ

« 昨年のベストセレクション | トップページ | 森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(17) »

2015年1月 5日 (月)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(16)

4.私であることの中動

言語学者たちは、中動態の用法の一つとして、心的出来事の領域に関わる表現を挙げている。「こわがる」「怒る」「悲しむ」というような情動の動詞、また、「思う」「考える」というような認識の動詞にも、しばしば中動態が見られるという。日本語のニュアンスでは、むしろ「こわい」「腹が立つ」「悲しい」、そして「と思われる」「と考えられる」なのかもしれない。

デカルトのコギトにおいて確かなものとされた「我思う」は、もともとは中動態の「と私には思われる」だと長井真理は指摘している。長井は、分裂病患者においては、自己を対象化しようとしなくても日常行動や思考活動においてその都度不本意に生じる自己意識、しかも自分自身の性質において何の内容規定ももたらさないような自己意識が、患者本人に意識されているというのである。通常の自己意識は、自分自身を対象化し、自分自身の性質について内容規定をもたらすが、それとは別の通常の「非対象的・非措定的」な自己意識である。長井はこのもう一つの自己意識が、患者以外でも通常、意識されることなく生じていると考える。それは「非対象的・非措定的」である以上、本来は意識されない。長井は、この非対象的・非措定的な「自己意識」をデカルトのコギトと重ね、それが中動態で表現されることに注目する。

長井は、デカルトが「私」の確実性に達したのは彼の「疑う」という行為の中に「疑われる私」という視点が生じたときだと、「最終的に確実だとされた私は、単なる能動主体としての私でも、単なる受動的客体としての私でもなく、疑うことが同時に疑われることでもあるような行為、単なる能動でも受動でもないような行為の容態に関わる限りでの「私」である。」と述べ、このような「容態」を考える手がかりとして、中動態を持ち出してくる。この「容態」は、我々の日常生活においては気づかれないが、私や世界の確実さを常に背後で支えており、その隠蔽性は、私や世界の明証性と密接に関係する。

我々はここに、「私であること」を支える中動態の自己関与を見ることができる。自己関与である以上、それは私と私との関わりであろうが、この私と私は、一方が主体であり一方が対象であるような別々のものではない。これは再帰ではない。ここに対象化はない。ここに二はない。しかし全き一もない。つまりそこには関わりを可能にする差異のようなものが生じていなければならない。「私であること」はそのような一と二の間で成り立っていることであり、だから中動態なのであろう。

私と私の差し向かいではなく、自分自身を対象化するのではない自己との関わりは、現象学においても重要な問題として論じられている。現象学においては、反省の徹底化の中で、反省に先立つ反省の根拠が求められる。新田義弘によれば、現象学が先反省的根拠を求める次第は以下の通りである。従来の反省は措定的反省であり、そこにおいて自我は、反省する自我と自我に分裂している一方、分裂を通して反省する自我が反省される自我に分裂している一方、分裂を通して反省する自我と反省される自我に分裂している一方、分裂を通して反省する自我か反省される自我と同一の自我であることを確認する。しかしこの同一性の確認は、時間の中で、常に流れ去った自我を後から覚認することでしかない。とすれば、自我の同一性は反省によってつくられるのではなく、反省に先立ってすでにあるのでなければならない。また、反省という自我分裂に先立って、自我の分裂の可能性も成立していなければならない。すなわち、反省の根拠としての、「分裂しつつ同一であるごとき自我の原初的在り方」が、反省に先立ついまだ主題化されない根源的事態として、要請されるというのである。我々はここにもまた、差異化であり媒介である働きを見出す。現象学は長井の言う「非措定的・非対象的自己関与」と同じような事態を見出している。新田はこのような根源的事態、「非対象的な自己感触」が、「遂行態」においてのみ生起しており、したがって反省による対象化を常に逃れるということを指摘する。そしてそこに「現われは入ってこないで、現われを成立させるために身を引くはたらき」を見る。これは、長井の言う「非措定的・非対象的自己関与」が、それ自身は意識されず、しかも世界や「私」の確実さを支えていることと、同様の構図ではないだろうか。見えるものと、見えるものを見えるようにしている見えないもの─おそらくここにも、差異化と媒介の働き、中動態で表わされる事態があるのではないか。

最後に注目しておきたいことは、本章で取り上げた中動態で表わされる事態が、いずれも「生き生きとした」出来事として経験されるということである。この「生き生きとした」を表わす形容詞は、フッサールが先反省的な根源的事態を「生き生きとした現在」と呼んだというばかりでなく、カッシーラが表情体験を記述する際にもしばしば用いられている。それは、それらの出来事における中動態を要求する特徴が、新田の言葉で言えば「遂行態」においてのみ、それと認められるということを意味する特徴が、新田の言葉で言えば「遂行態」においてのみ、それと認められるということを意味する。後から反省的に分析すれば矛盾を含むと言わざるを得ないことが、人がそれを生きる只中において成立している。

« 昨年のベストセレクション | トップページ | 森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(17) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(16):

« 昨年のベストセレクション | トップページ | 森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(17) »