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2015年1月18日 (日)

表現の自由…個人的妄言

フランスの新聞社が襲撃され、その後の一連の動きは規模が大きくなり、表現の自由とか、自由といったところにまで議論が広がり、欧米の各地で大規模なデモが行われたり、と連日報道されているのを目にしていて、戸惑いを感じているので、少し書いてみたいと思います。ただし、これは、個人的な独断と偏見に基づくもので、理解不足による誤解が含まれているおそれが多分にあるので、読んでいただけるようであれば、その点を留保しておいて下さい。

まず、テロ云々のことは、ここでは触れません。話はその後の議論と、それによって発生した動きに、私は注目していて、それに戸惑っているからです。だから、襲撃行為の是非とか、その人たちがどうだということは、切り離し離すことにします。

で、風刺の戯画を掲載した新聞社が襲撃されて、関係者が亡くなった。それは表現の自由に対する重大な脅威であり、それは民主主義の根幹を揺るがすもので、守らなければならない。それはフランス一国のものではないということで、パリのデモにヨーロッパの大国の首脳が顔を揃えて行進したりしたのでしょう。

そこで、まず議論のひとつとしてあるのは、表現の自由ということです。新聞社が襲撃されたということが、表現の自由に対する脅威に直結したということです。これは、ひとつには襲撃されたのが新聞社であったということがそうであったのかもしれませんが。この場合に、何をどのように表現したか、あるいはしようとしたかということは、とりあえず措いて、そのことに対する吟味は全く行われず。表現をするという行為自体が優先されたということです。これに対して、襲撃した側は襲撃という暴力手段だけが取りざたされ、その動機とか原因は不問に付されたということです。そこに恣意が働いている、そうまで言わなくても、無意識のうちにそのように進めてしまっている、そこにバイアスがかかっている。表現の自由ということに議論を絞ってみれば、民主主義の体制にとっては大切な事柄で尊重すべきことです。しかし、表現の自由ということなら何でも認められるということはありえないはずです。つまり、何を言うのも表現するのも自由で、言いたい放題というのではないし、そんなこと現実には出来ない。だから、実質的なところで認めるべき表現と、そうでない表現に区別されて手いるはずです。そこには、何をどのように表現するかという表現に対する吟味と判断が、前提として働いていなければなりません。実際の事実をみてもれば、このような表現の自由が大声で主張されているさなかに、フランスでコメディアンが自身のフェイスブックでの発言によって連行されています。彼の発言には自由が認められていないということになりますが、新聞社への襲撃に端を発して大規模に人々が参加した国で、その連行に対して表現の自由の侵害と大声で抗議したという報道はありません。

そうであれば、表現の自由の内実として、新聞社の風刺記事は守られるべきもので、コメディアンの発言は守られるべきでないという線引きがされたということでしょう。そうであれば、新聞社を襲撃した人々は、襲撃という手段は別して、その守られるべきか否かという線引きを知らなかった、あるいは別の線引きをしていたと考えられのではないか。実行者たちは亡くなって真偽を確認する術はありませんが、少なくとも遺された発言からは使命感をもって実行に及んだことは確実であると思うのです。

そうであれば、この襲撃をもって一概に表現の自由そのものに対する侵害と言ってしまっていいのか。襲撃の実行者たちも、表現の自由を尊重していたと考えられる節があります。それは、自身の実行に際してメッセージを残しているという点です。彼ら自身も表現しているのです。自身の主張を表現しているということは、表現ということを尊重しているからこそです。そして、それが制度として成立するためには表現の自由を認めなければいけないはずです。

これらのことを考えてみて、今回のことが表現の自由に対する侵害とか、脅威であると普遍化して言っていいのか、そういう議論があってもいいのではないかと思います。そこを一足飛びに、表現の自由への脅威であると、一種ヒステリックなほど欧米各地で大勢の人々が動員され、首脳が相次いでメッセージを発表している。それらは、まるで、表現の自由を認める線引きと自分たちのバイアスは一致していて、それ以外の線引きをしている人々は一切認めないと言っているように私は見えます。多分、デモに参加している人たちは、そんなことは意識していなくて善意な人々で、自分たちは被害者であるというような危機意識で参加しているのでしょう。それだけに無意識のうちに、自分たちの基準がグローバルスタンダードであるということに何の疑いも抱いていないように思えるのです。そこに、言いすぎかもしれませんが、ヨーロッパの帝国主義的な支配意識、とくに文化的な支配を前提にされているのが垣間見えるのです。私は、被害者意識が強いのかもしれません。しかし、表現の自由を守れという声の中に異文化の存在を認めるとか尊重するという姿勢は見られなかった気がします。

そこに私は、個人的に違和感を強く抱きます。実際のところ、パリで行われた大規模なデモ行進にヨーロッパの首脳は参加していましたが、それ以外の国々の首脳は一部を除いて見られませんでした。

このことに対しては、他にも目に付くことがありますが、ここでは議論の焦点がぼやけてしまうので、これ以上は触れません。

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コメント

表現することって勇気が要りますよね、必ず軋轢を生むものですから。でもそうせざるを得なかった、その背景を考えると貧困とか不寛容だとか多分、色々な問題とかあると思うんですけと、あまりそういった事って表面的な報道ではわからないですよね。実行犯には大切にしたい家族や愛する人などは、いなかったのだろうか、とか。私も思う事っていろいろありますけど、人の本性は争いや暴力が好きなのかしら、それに各々勝手な言い分をつけているだけなのだろうかしらなどと考えていたりしますね、最近では。

コメディアンがどのような理由で連行されたか分かりませんが、彼に売名の意識があったことはたしかでしょう。今回の、漫画での風刺を売りにしていた新聞社もそれを商売にしていたわけで、批判精神が大いにあることは認めるものの、それがリスクのある商行為でもあったことは事実です。現に普段は10万部以下の発行部数が今回の事件で300万部も発行されました。そこのところに自覚がないと、「全くの正義」という原理主義的な方向に利用されてしまうことになります。全く同列に論じられるべきではない「イスラムの大義と」いう原理主義と「表現の自由」という原理主義が激突する姿に何となく違和感と危険な臭いを感じている日本人も多いのではないでしょうか。

poemさん、コメントありがとうございます。仰ることは、多分、表現の自由の侵害とかテロとか、安易に一般化しないで、ケースとして、事情をもっと考えることが必要ではないか、ということだと思います。新聞の風刺をした側には、表現をしたことの、のっぴきならないもの、必然性があったと思いますが、その吟味が、もっと為されてもいいのではないか、私も、poemさんの仰るような事情を知りたいと思います。
それがなくて、一足飛びに普遍化させた議論にすり替えられてしまっていることに、違和感をもっているのです。

OKCHANさん、コメントありがとうございます。このケースとして具体的事例だけを取り上げれば、銃による襲撃という手段の適正性ということを全く考慮しなければ、どっちもどっちで、喧嘩両成敗の原則を当て嵌めたっていいかもしれません。OKCHANさんが仰る原理にしても、どちらも普遍性があるのか、というと、それは何とも言えず、本来であれば利益の調整をすべき政治の人々が、強引に押し切ろうとしているように見えてしまうということです。

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