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2015年1月15日 (木)

森田亜紀「芸術の中動態─受容/制作の基層」(25)

2.「回顧的錯覚」─ベルグソン

このような「そう思われる」を、「錯覚」と言い切るのがベルグソンである。『思想と動くもの』においてベルグソンは、ある時点で実現し実在となったことについて、それがそれ以前に可能性として実在したとする立場を厳しく批判している。それは、何かが実現した後に成立した判断を、遡ってそれに先立つ過去に適用するという「誤謬」なのだ。ベルグソンの考え方からすれば、我々が問題にしている「表現によって知る」において、表現によって表現されることになるものは、表現以前にその現在には存在しないということになるだろう。表現以前には何を表現したいのか「分からない」のに、表現が完了した時点で「表現したかったのはこれだ」「私はこれを表現しようと思ったのだ」と思えるというのは、表現によって現実に表現されたものを、実現した表現から遡って過去に見出す「錯覚」なのである。したがって、コリングウッドが、表現によって表現された「想像的情緒」以前に、意識されない「心的情緒」があらかじめあるとするのは、ベルグソンから見れば誤りということになるはずだ。意識される以前の「心的情緒」は、表現が「想像的情緒」を表現することの可能性、「想像的情緒」が表現によって創り出され意識されることの可能性として、想定されたと考えられる。しかし表現がなければ表現される「想像的情緒」はないし、「想像的情緒」の内に「素材」として想定される「心的情緒」もない。表現されるものは表現以前には存在せず、表現によってはじめて存在するというわけだ。

表現以前の時点での「表現したい何か」は、知られていなかったのではなく、もともとなかったのだ。表現する前に、表現したいことはない。表現によって「知る」のは、出発点である過去の「表現したかったこと」ではなく、表現によって新たに生まれた「表現されたこと」である。未来に知られることになる自分は、過去の知られていない自分ではなく、未来の時点の新しい自分なのだ。

しかしベルグソンはこの「錯覚」を「誤謬」としてただ退けるのではなく、それが「我々の悟性の本質そのものに起因する」ことも指摘している。それは偶々生じた単純な勘違いではない。ベルグソンによれば、悟性には「持続を隠す」機能がある。悟性は持続の流れを、一瞬一瞬の位置や状態に分解し固定した上で、それらの関係というかたちに再構成して理解する。これらの位置や状態は固定され、それ自身として変化や運動を含まないものと捉えられている。悟性は、変わらない動かない何かを基盤として設定する。常に同一である固定的なものを、悟性は求めるということなのだろう。「回顧的錯覚」も、これと同様の悟性の働きかけから生まれるとベルグソンは考える。

何事かを真であると判断したその判断は、我々の悟性の本質により、いわば自動的に過去へと遡っていく。「錯覚」は、我々の意志と関わりなく生じてしまうのだ。ベルグソンは我々のうちに「現実がいったん生じたら、その現実のイマージュを過去へ投げ返す精神の働き」を見る。彼は、可能的なものが後に実現されるという言い方ははっきり否定するが、何かが実現したのちに「それは可能だった」と振り返って言うことそのものについては、必ずしも否定していない。彼は、「回顧的錯覚」が、我々の生きている中で避け難く、いわばひとりでに生じるものだと認めている。我々は「錯覚」を生きている。実現した現在によって、過去は絶えず作り直される。とすれば、そういう時間を我々は生きているということにもなるということだ。

 

3.「キアスム」としての時間─メルロ=ポンティ

ベルグソンの言う「回顧的錯覚」を「錯覚」とせずに、「遡行運動」を時間の成り立ちに積極的に組み込んで考察するのがメルロ=ポンティである。彼は、表現される考えや意味が表現に先立ってあらかじめ存在するということを繰り返して否定している。表現されるものは、表現以前にはどこにもなく、表現によってはじめて出現する。それは、表現において表現されるものがそれを表現するものと一体であるからだ。しかしメルロ=ポンティは、表現以前に全く何もないと言っているわけではない。彼は表現に先立つ「漠然とした熱気」あるいは「充ちることを求めるある欠如」を語る。ただしそれも、完了した表現から遡って気づかれることのようだ。

過去の内に現在の可能性を見ることは、ベルグソンにとって、刻一刻予測不可能な新しいものの生まれる自由がある、ということの否定を意味した。過去の内に現在の可能性があるならば、我々はすでに存在するものによってあらかじめ決定されているわけで、そこには自由がない。ベルグソンの考え方からすれば、我々があらかじめ決められていないということと、振り返って過去のうちに現在の予兆を見ることとは、互いに両立不可能なことである。しかしメルロ=ポンティは、ベルグソンにとって両立不可能なこの二つのことを、どちらも否定することなく認めようとする。「未来と過去の間の交換」を、彼は語るが、それは彼が、宙に浮いたもっぱら自由な精神を考えるのではなく、身体をもって世界を生きる人間を考えるからである。メルロ=ポンティにとって表現の問題は、そこに関わってくる。それは、拘束されながら自由であることの問題でもある。

晩年の論文『哲学を讃えて』において、メルロ=ポンティは、ベルグソンを論じつつ、この問題を取り上げている。メルロポンティは、ベルグソンの哲学を、「表現の哲学」へ向かうものとして捉える。ベルグソンは自由と物質、精神と身体を対立させたかもしれないが、他方で、物質や身体があってこそ、精神がこの世界に現われそこで自由を実現することができるということも認めていた。自由な精神は、必然的な物質や身体の内に、自らを「表現」しなければならないのだ。自由なものと必然的なもの、精神的なものと物質的なもの、という互いに対立する二項は「表現」において交差する。「真なるものの遡及的効力」「真なるものの遡及運動」も、単なる「回顧的錯覚」ではなく、深く「表現」に関わる事態である。

ある時点で成立した判断は。自ら過去に遡っていく。現在が過去をつくる。そしてその過去は過去にとっての未来である現在を準備していたものと捉えられる。表現以前に表現されるものはないが、表現は表現によって表現されることになるものを表現することでしかない。メルロ=ポンティはベルグソンの言う「真なるものの遡行運動」に、「表現」をめぐって「過去と現在」「物質と精神」という各々対立し合う二項が互いに立場を交換し、互いに依存し合う関係を見る。もつれ合う二項のうちのうち一方を、他方に交換することはできない。もつれはもつれのまま、それ自身で根源的な事態である。言い換えると、ベルグソンはが絶えざる変化を重視して、同じであり続けるものを否定したのに対し、メルロ=ポンティは変化するということと、同じであるということを、ともに肯定する。彼はむしろそのことから、大文字の「存在」を考えていく。彼の探究する大文字の「存在」は、対立する二項のもつれを通して気づかれるものと考えられている。「表現によって知る」ということ、「ああそうだったのだ」ということばが指し示すその事態は、メルロ=ポンティにとって、「真理」や大文字の「存在」を垣間見ることのできる特権的な交差の場なのである。

「キアスム」という概念は、このようなもつれに関わっている。二つの項が相互に含み合い依存と合ってどちらか一方に還元できない状態を、メルロ=ポンティは「キアスム」と呼ぶ。何よりも身体と精神がキアスムの関係にあると言われる。

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