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2015年2月21日 (土)

岡田暁生「音楽の聴き方」(2)

第1章 音楽と共鳴するとき─「内なる図書館」を作る

思うに音楽は、その場の空気だとか、よく分からない相性だとか、聴いたときの体調や気分だとかに、ひどく左右される芸術である。「こういうものを評価する人がいるのは分かるけれど、自分の好みではないなあ」とか、「大傑作というわけではないのだろうけれど、今の自分にはとてもピンと来る」と言った具合に、文学や美術や映画では、人は別にためらいもせず、こういった判断を素直に口にしている。「客観的な事実判断」と「自分の主観的な好み」と「その時の自分の気分」との間に、ある程度の線引きが出来る。だが音楽の場合、ことはそう簡単ではない。それは何とも曖昧模糊とした逸楽であって、客観的評価を堂々と口にするのは通の特権ように思われているところがあるし、そもそも自分が一体どう感じたのか、自分でもよく分からないということすら、時として起きるのだ。

端的に言って音楽体験は、何よりまず生理的な反応である。文学のような概念を通した情報伝達ではない。造形芸術のような客観的な認識対象でもない。それは空気振動を通して鼓膜を愛撫する技なのだ。有名な『音楽美論』でハンスリックが述べているように、人はしばしば「身にからみついた音のひびきから脱け出ることはできない」。なぜなら「音楽は我々の肉体のあらゆる神経に触れる」からである。触れてくるものを客観的に判断するのは難しい。しかし音楽は私たちに触れてくる。触れられると、意志とは関係なく、特定の反応が身体に生じる。だが愛撫の感覚は、とこまでいっても、決して「何となく…のような気がした」を超えていかない。そこでは対象と自分とが幾重にも絡み合って降り、客観的に見て本当にそれがよかったのか、それとも自分の身体の方が勝手に反応し ただけなのかの区別すら、時としてつかないのである。

とはいえ、音楽に対する生理反応がまったく議論不能かといえば、もちろんそんなことはない。ある音楽に反応した、あるいはしなかった─そこには必ず理由があるはずだし、だからこそ「音楽についての言説空間」とでも呼ぶべきものが、それなりに成立してきたのだ。例えば「波長の相性」とでも言うべきものを考えてみる。音楽とは人が人に宛てて発する何かなのだから、当然そこには発信者の身体的なクセ─口調や声音や気配や身のこなしの抑揚─のようなものが刻印されることになるだろう。私がここで考えているのは、音楽の調子、筆致、リズム、テクスチャー等がないまぜになって生まれる、一種の律動のようなものである。立ち居振る舞いのペースが自分と似ていたり、たとえ違っていても、それがうまく補完関係にある人と付き合うのは、居心地がいい。逆に互いのリズムがいちいち相殺し合ってしまうような人と一緒にいると、ひどく疲れたり苛々いしたりする。そして人間関係だけではなく、人と音楽との関係においても、似たようなことがしばしば生じるのである。私たちは、他のどんな芸術にも増して音楽体験が、生理的な反応に左右されやすいことを、よく自覚しておいた方がいい。「自分はこうしたタイプのメロディにぐっと来てしまうクセがあるんだよなあ」とか「こういうリズムを聴くと反射的に嫌悪を感じてしまうんだ…」といった具合に、自分の性癖を理解しておくわけだ。それこそが、個人の生理的反応の次元と客観的な事実をある程度分けて聴くための、最初のステップである。

20世紀初頭のドイツで活躍した音楽評論家パウル・ベッカーは、「芸術体験において、人はあらかじめ自分の中にあるものを再認識しているだけなのだ」として、次のように述べている。「ある芸術作品が私に働きかけるか否かは、ひとえに私がそれを既に自分の中に持っているかどうかにかかっている。一見新しく見えるものも、実はこれまで意識してこなかったものが突如として意識されるようになっただけ、以前から暗がりの中でまどろんでいた内面の領域に突如として光が当たっただけなのだ。私が感じたり、見たり、聴いたりするのは、私の中にあるものだけなのである。それが私自身の一部である場合にのみ、芸術作品は私にとって生き生きとしたものとなるのである。それは潜在的な感情価の目覚めなのであって、決して絶対的な意味で新しいものではない」。自分の感性の受信機の中にあらかじめセットされていない周波数に対して、人はほとんど反応できない。相性がぴったりの音楽との出会いとは、実はこれまで知らなかった自分の出会いなのかしれないのだ。芸術体験におけるこうした「相性」の問題について、フランスの文学理論家ピエール・バイヤールは、誰もが「内なる図書館」を持っていて、これまで読んだ本、読んだけれど忘れてしまった本、噂に聞いたことがある本などについて諸々の記憶の断片から、それは成っているという。この「内なる図書館」は私たちの読書ノート、つまり単なる客観的な記録であるだけではない。この図書館こそ、「少しずつわれわれ自身を作り上げてきたもの、もはや苦しみを感じさせることなしにわれわれと切り離せないもの」、つまり自分自身の履歴書だというのである。この「内なる図書館」が、私たちの考える「相性の良し悪しを規定する感性の受信機」と極めて近い概念であることは、言うまでもない。これまでどういう本に囲まれてきたか。どのような価値観をそこから植えつけられてきたか。それについて、どういう人々から、どういうことを吹き込まれてきたか。一見生得的とも見える「感性」は、実は人の「内なる図書館」の履歴によって規定されている。それは今や自分の身体生理の一部となっているところの、私たちがその中で育ってきた環境そのものなのだ。「相性の良し悪し」、私たち一人一人のこれまでの人生そのものに関わってくる問題だといえよう。芸術鑑賞の下部構造はこういうものによって規定されている。

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