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2015年2月

2015年2月28日 (土)

岡田暁生「音楽の聴き方」(9)

以上のような説明は、音楽美学において一般に、西洋近代に固有の「構造的聴取」と呼ばれているものである。そこでは個々の音は、それこそ言語と同じように、意味の担い手である。音楽による言語的/建築的構築物のパーツだと言ってもいい。周知のようにこうした聴き方は、ジョン・ケージ以降の音楽美学において、硬直した西洋クラシック・イデオロギーの権化のように批判されてきた。「意味」などから解放されて、もっと自由にサウンドの世界へ身を任せていい、傾聴するばかりが音楽の聴き方ではない、あたかも一つの環境のようにそれを聴いたっていいわけである。この主張は、次のようにまとめることができる。つまり西洋近代は専ら音楽の中で使われる音(楽音)ばかりを聴いてきた。だがこんな風に傾聴している時、実は私たちは音楽を聴いているのではない。音そのものの傍らを通り過ぎて、その背後の抽象的な意味─構造上の機能や記号内容─を探しているだけである。今ここで響いているサウンドの豊饒をやせ細らせる観念論はもうやめよう、心を無にして音そのものを聴こう、世界に満ちている魅惑的なノイズの世界に耳を開こう─東洋思想の影響を強く受けていたケージが夢見たのは、禅にも似た音楽聴取における「無我の境地」だったのだろう。

 

私はこうした考え方の中に、一定の妥当性を認めるにやぶさかではない。ただし、「意味を理解する」聴き方は西洋音楽の専売特許ではなく、高度に発達した音楽文化の中には常に認められるだろう。言語的性格、理論性、構築性、体系性、歴史性─こうしたものは、例えばインドの古典音楽だとかジャワのガムランだとか日本の雅楽やモード・ジャズなどにおいても、等しくその理解となっているに違いない。だが何より私がここで注意を喚起しておきたいのは、20世紀後半においてサウンド型聴取をかくも広く流通させた要因が、サティ=ケージ的な音楽思想への広い共感だけであったとは思えないということである。つまり、サティ=ケージ的な「音楽の再音楽化/脱意味化」が、本来それと相容れるはずのなかった現代の文化産業にとって、まことに好都合なものであったと考えられること。しかもそれが、これまた本来その仮想敵であったロマン派(とりわけその「音楽の宗教化」)と癒着し、一見しても分からないようなこんがらがった状況をつくり出していると思われることである。ここでまず問題になるのは、音楽における「する」と「聴く」の分業である。とくに1920年代からレコード及びラジオが普及し始めるとともに、家で音楽をする習慣は急激に衰退し始める。聴衆はもはや自分の身体を動かそうとはしない。家に居ながらにして、ソファに寝そべって、「第九」に感動することが可能になるのだ。能動的に意味を求めることをせず、うつらうつらしながら受身でサウンドに身を任せる。それがロマン派において聖化された擬似宗教体験としての「感動」をもたらす。かくして身体の萎えた愛好家相手の感動ビジネスとして、レコード産業が生まれてくる…。このレコード/ラジオの普及がもたらした音楽の聴き方の変化をさらに加速させたのが、おそらくそれに伴う音楽市場のグローバル化である。この音楽市場が市場として成立するのは、その音楽は世界中で売れなければならない。そこで、意味はローカルかもしれないが、サウンドはグローバルだ。文化産業が意味を捨象して、サウンドによる音楽販売を開始したのは当然のことだったろう。それに聴衆にとっても、音楽を意味から切り離して、ゴージャスなサウンドとしてただ受身に楽しむほうが、気楽だったはずだ。いわゆる「ハイファイ録音」が喧伝され始めた1950年代が、ケージの実験音楽と時代的に重なっていたことも、偶然とは思えない。そして意味がなくなったサウンドという容器に注入すべく、さまざまな物語ソフトが開発されていく。ありとあらゆる映像の類、マスコミを流れるスター神話、あるいは感動エピソードの類である。音楽がサウンドへ解体されていく背景には、個人の力ではどうにも抗し難い時代趨勢があったのである。

もちろんどういう音楽の聴き方をするかは自由だ。しかしあえて言わせてもらうなら、サウンド型聴取が孕んでいるある種の危うさに、私はどうしても強い危惧を覚えずにはおれない。それは、「音楽を聴く」という、人がおのれのすべてを賭けて行うに値する行為を、単純なハプロフ的「刺激と反応」に還元してしまうような気がしてならないのである。私にとって音楽とは、人が人に向けて発する何かである。それは他者、つまり私以外の誰かがこの世に存在している、つまり渡し一人ではないということの証ではないか。対するに眼を閉じてサウンドに聴き入るとき、外界は姿を消して何やら様々な音刺激で満たされた脳感覚だけが世界のすべてになってゆく─このことがどうにも私を不安にするのである。19世紀に民主化の夢とともに生まれた「考えないでいい音楽」が孕んでいた逆説がいよいよ白日のもとに明らかになったのが、20世紀だということである。

2015年2月27日 (金)

岡田暁生「音楽の聴き方」(8)

音楽は聴くものであると同時に、読んで理解するものである。そして音楽を正しく読むためには、「学習」が必要となってくる。文法規則を知り、単語を覚えなければならない。音楽には語学と同じように学習が必要な面がある─これが意味するところはつまり、「音楽にも国境はある」ということにほかならない。サウンドとしての音楽は国境を越えるだろう。甘い囁きや苦悶の絶叫は、細かい意味内容を知らずとも、万人に理解できる。だが言語としての音楽は、文法と単語をある程度知らなければ、決して踏み込んだ理解は適わない。例えば記号的な音の使い方は西洋音楽に限ったことではなく、中国の京劇だとか日本の歌舞伎や近世邦楽にも無数に例があるはずだが、私にはそうした知識がない。だからいつまで経ってもそれらを「サウンド」としてしか聴くことが出来ない。理解が深まっていかない。国境の壁を越えることが出来ないのである。

にもかかわらず、それでは一体なぜかくも頻繁に「音楽は国境を越えた言葉だ」と言う表現を人が口にするのかと考えた時、これと密接に関わっていたと想像されるのが、「音楽は語れない」のイデオロギーである。音楽は言語では語れないサウンドだからこそ、国境を越えて誰にでも直接訴えるのだ。もし音楽がそれ自体言語であるなら、人はそれを理解するために学ばねばならない。それでは分かる人と分からない人が選別されてしまう。「音楽は語れない」と「音楽は国境を越えた言葉だ」は、ともに音楽の言語性格の否定であると言う点で、根は同じなのである。音楽は誰にでも分からなくてはならないと言う呪縛である。「音楽は国境を越えた言葉だ」という言い方がいつうまれてきたのかは、「語れない」というイデオロギーと同じく、それが19世紀の産物であることは、まず間違いないだろう。そもそも近代的な意味での国境の概念が生まれてきたのが。まさにこの頃なのである。だが同時に民族独立運動の19世紀は、人々が全人類の融和の夢を見始めた時代でもある。かつての教会や国王のような、超国境的な統治者がいなくなった世界に再び統一を与えるという、特別な使命を期待されたのが音楽ではなかったか。つまり、言語が世界を構成する「国家/国民」と言う単位にアイデンティティーを与えたとすれば、言語による分割を再び無効にして、感動の坩堝の中で世界を再統一するのが音楽というわけである。もう少しうがった言い方をするなら、音楽は自国中心文化のグローバル化を図るための、格好の手段であったとも考えられよう。周知のように19世紀になると、数多くの民族が独立した国家を作ることを希求すると同時に、自分たちの国民アイデンティティーとしての音楽を持つことを熱望するようになる。ウェーバーやヴェルディやショパンといった、国民楽派の作曲家たちは、こうした背景から登場してきた。そして国民音楽は民族を結集させるアイデンティティーの核であると同時に、その民族文化を国境を越えて普遍化する役割を与えられていた。自国の音楽を世界基準として流通させる際の標語が、「音楽は言葉ではない/国境を越えている」だった可能性は、それが潜在意識的なものであったとしても、かなり高いはずだ。本当はその文化に精通しなければ理解のかなわぬ「言語」であるかもしれない音楽を、自己の中心性は隠したまま、「国境を越えている」と言い立てて世界に広めるわけである。

近代社会が目指したのが音楽による感動共同体であり、そのためには国境を越えて「誰にでも分かる音楽」が必要だったとすれば、それを欺瞞に満ちた近代イデオロギーとして手厳しく批判するのが、指揮者のアーノンクールである。19世紀に入って生じた音楽のパラダイム転換を、彼は次のように定式化する。19世紀以前の音楽は話す音楽であり、語られるものと同様に理解されねばならないものであるの対して、それ以降の音楽は描くものとなり、気分に働き掛けるものになった。そして、気分は理解する必要はなく感じるべきものだという。このように音楽が気分に訴えることの方を重視するようになっていったのは、19世紀の民主化幻想に起因するもので、「誰にでも分かる音楽=気分に訴える音楽」の成立であるという。その経緯について次のように述べる。「フランス革命において問題となっていたのは、音楽を政治的な全構想に統合することであった。その理論的原理によれば、音楽は万人に理解できるほど単純であらねばならなかったし、音楽はその人の教養の度合いに関わらず、万人を感動させたり、興奮させたり、眠らせたりしなければならなかった。音楽は、万人が学ばずして理解するある種の<言語>であらねばならなかった」。そしてアーノンクールの考えによれば、この「万人が理解できる音楽」を流通させるための政治制度が、音楽院にほかならない。「感動させる音楽」の量産を目的として作られた音楽院のシステムを、アーノンクールは、かつての音楽が小さな文節から組み立てられた「センテンス」だったのに対して、こうした区切りを廃して、滔々と流れる心揺さぶるため息のメロディを強調する音楽が取って代わった。このように言語からサウンドへ変化していったのである。

2015年2月26日 (木)

岡田暁生「音楽の聴き方」(7)

第3章 音楽を読む─言語としての音楽

「音楽を語る」ということについて私たちは、ひょっとすると難度が高い方から始めてしまったかもしれない。前章で見たような気分だとか運動感覚だとか質感といった要素は、間違いなく音楽の中で最も「感じやすい=分かりやすい」側面だろう。だが音楽とは矛盾に満ちた存在であって、最も感じることが容易な要素ほど語るのはとても難しい。さまざまな比喩を駆使して、間接的に指し示す以外にない。そして逆に、誤解の余地なく言葉に置き換えられる部分ほど、それを聴いて明確に把握するには経験と知識が要る。専門的な耳が必要になってくるのである。感じて分かることは言葉にし難く、言葉に出来ることは感じるのが難しい─ここに音楽理解の手ごわさがある。端的に言ってこの矛盾は、サウンドであると同時に言語でもあるという、音楽の二重性に起因している。感じやすいけれども言葉では表現にくいのが「サウンドとしての音楽」であり、言葉で明確に指摘できるが予備知識なしに感じるのは難しいのが「言語としての音楽」にほかならない。音楽は感じるものであるだけでなはない。それ自体が言語的な構造を持っており、つまり読むものでもあるのだ。つまりも音楽は決して単なるサウンドではなく、言葉と同じように分節構造や文法のロジックや意味内容をもった、一つの言葉でもある。次のようなことを考えれば、音楽もまた一つの言語であることは、さらに明らかになるだろう。それは分節/文節の問題である。例えば「僕は学校へ行く」という文章は、「僕は/学校へ/行く」という具合に、三つの文節に分割される。周知のように文節とは、それだけ取り出してもきちんと意味の通る、文章の最小単位だ。「は」はそれだけでは意味を成さない。「僕は」となって初めて意味の単位となる。そして音楽でも実は、まったく同じことが当てはまるのである。例えばベートーヴェンの「運命」冒頭の「ダダダダーン」は、意味ある一つのまとまりとして感じられる。つまり文節である。しかし単なる「ダ」では何のことか意味不明だろう。それが偶然切り取られた音楽の一部なのか、それとも単にコントラバス奏者が誤って音を出しただけなのか、区別はつくまい。「ダ」は意味を持たない単なる音節なのであって、このように音節と文節の区別があると言う意味でもまた、音楽は言語なのだ。

「音楽を正しく読む」など問えばいかにも難しげに聞こえるかも知れない。しかし実のところそれは、ジャンルを問わず、音楽を聴くとき私たちが無意識のうちに行っていることにほかならない。例えばベートーヴェンの「運命」の冒頭を「ダダ・ダダーン」と区切って聴く人など、まずないだろう。こんな聴き方をしたのではややこしくて仕方がない。このように普段から馴染んでいる音楽について私たちは正しい文節が何となく分かる。文法の教科書など読まずとも、その土地で暮らしていればいつの間にか、言葉の分節規則について察しがつくようになってくるのと同じである。とはいえ、日常的に馴染んでいない音楽の場合、誰でもすぐ分かるというわけにはいかない。それが異文化音楽の理解の難しさである。すべての音楽には暗黙のルールというものがあり、人はそれを学習しなければならない。こうした音楽の分節規則と密接に関わっているのは、やはり「言葉」である。どんな言葉をふだん話しているかが、自ずと音楽の分節規則をも規定してくるわけである。

音楽はまた、複数の文章が集まって段落となり、段落が集まって節になり、複数の節から章がつくられるといった多層的な建築構造の点でも、一つの言語である。建築が凍った音楽だとはよく言われることだが、聴き手に対して集中力を要求する音楽ほど、この建築構造が複雑だ。つまり音楽を聴きながらそれをきちんと言語として把握し、そして言語性があるが故に可能になる音の建物を、しかるべき形で眼前に表象する能力が必要になってくるのである。それを理解する近道の一つが、音楽のロジックのパターンを知ることである。音楽のセンテンス(例えばメロディー)が、どういう論法でもって互いに関連付けられ、大きな建物へと組み上げられているか。それについて意識的になれば、ずいぶん音楽の聴き方が変わると思うのだ。

曲における文と文、段落と段落の関係が、同じセリフの反復変奏によって作られているか、それとも「そして」でつないで物語的になっているか、あるいはセミコロンをいれて気分転換を図っているか、または否定の「しかし」を音楽のロジックの中に持ち込むか。19世紀における交響曲や弦楽四重奏やピアノソナタなどは、こうした論理的性格を持つ音楽ジャンルの代表であって、それは西洋的音楽の金字塔であると同時に、理解するのが極めて難しい。それらは「聞き流す」ことが出来ない。論理学のテーゼを組み立てていくように作られているせいで、気を抜いてどこかを聞き落とすと、直ぐ二前後の脈絡が全く分からなくなってしまうのである。

このように音楽を言語的な建築物として理解する必要は、いわゆる多楽章形式の音楽になるとさらに不可欠なものとなってくる。多楽章とは要するに、交響曲やピアノソナタのように複数の楽章がセットになって一つの作品となっているタイプの音楽である。普通に考えれば、四楽章の交響曲と言っても、そこには四つの別々の曲があるだけである。なのにどうしてそれらが一つになって、もっと大きな一つの曲になるのか。四つの別の曲をどうしてその順番で聴いていかなければいけないのか。ベートーヴェン以降の音楽。それを構成する楽章は、特に交響曲や弦楽四重奏やピアノソナタといった厳格な形式の場合、絶対にその順番で演奏されなくてはならない。そして三つないし四つの楽章の背後には、一つの大きな物語を読まなくてはならない。これが聴き手にとっても演奏者にとっても、これらの音楽が理解できるかどうかの差代の試練となるのである。「運命」交響曲のフィナーレにしても、第一楽章の闇、第二楽章の休息、第三楽章における光と闇の葛藤を経由してからそこに到達するからこそ、あれだけ輝かしく雄弁に鳴り渡るのだ。それを単独で取り出して繰り返し聴いてみても、何故にかくもハイテンションで雄叫びを上げ続けるのか、さっぱり分かるまい。こうしたタイプの音楽は、聴き手に音楽という「時間」を音の建物という「空間」の中で視ることを、暗黙の内に求めてくる。時間の中で熟してくるものを瞬間の中に聴き取る能力と言ってもよかろう。ベートーヴェンの第9交響曲の歓喜の唄のメロディーの中に、それがたち現れてくるまでに要した長いプロセスという、深さの次元を聴き取る力である。そしてこうしたこと全ての基礎となるのが、音楽を一種の言語構造として把握する習慣なのである。

これまで見てきたのは、主として音楽の文法的側面である。音楽をどう分節し、どう抑揚をつけ、どんなロジックで組み立てていくか─こういった主として形式面に関わってくる問題と言っていい。しかしながら音楽は、意味論的な次元でもまた、しばしば一つの「言語」である。つまり特定の楽器や調性や音型などが、ある具体的な意味内容を指示する記号として機能するのである。私たちは長調の曲は明るく、短調の曲は暗く聴く。いわゆるカッコウの音型が出てくれば鳥のさえずりの模倣だと思うし、上昇する半音音階を聴くと、何となく切ない気分になる。記号として音楽を読み取っているわけである。聴き手はこれらの意味合いを区別しながら曲を聴金場ならない。こうした記号を全く知らなければ、これらの音楽を理解することは不可能だろう。半ば無意識であれ、いろいろな記号の意味が何となく理解できているからこそ、これらの曲が分かるのである。

2015年2月25日 (水)

岡田暁生「音楽の聴き方」(6)

一般に専門的な音楽用語と思われている言葉の多くが、本来わざ言語的な機能を持っていると考えられる。例えば「スタッカート」は「はがす、ちぎる」という動詞に由来している。練った小麦粉をちぎってパスタにするイメージを重ねるのも面白いかもしれない。

たしかに一見したところ西洋音楽には、音楽を語る身体的ジャルゴンが目立って少ないようにも思える。長三度、減七の和音、提示部といった客観的な専門用語を大量に発展させてきた。それに対して身体比喩として流通している言い回しは、そう多くはない。これはおそらく、音楽を一種の数学的秩序と考える古代ギリシャ以来の西欧の伝統、そして身体を穢れたものとするキリスト教の思想に深く関わっているのであろう。舞踏と並んで音楽は、人間が動物だった頃の本能を鮮烈に喚起する芸術であるが、総じて西洋音楽は生々しい剥き出しの身体性を蒸留し、清澄な神の国の響きへ昇華しようとするのだ。

しかし、地元の人である西欧の人の口からは音楽を語る比喩を耳にする。彼らが頻繁に使う、「彼はきちんと音楽をしていた」/「あれは音楽じゃない」という表現である。例えば有名演奏家の、極めてブリリアントではあるものの、これみよがしで技術が空回りしているような演奏について、彼らはよく「あれは音楽じゃない」という言い方をする。逆に、非常に不器用だが、音を大事にして、何かを伝えようとするような弾き方に対しては、「彼はちゃんと音楽をしている」という賞賛が贈られる。

 

音楽の営為が「すること」/「聴くこと」/「語ること」のトライアングルから成ると考えるなら、輸入音楽の場合、異文化理解という点で最もハンディが生じやすいのが「語ること」であるのは、否定できまい。輸入音楽の場合、「語る」が抜け落ちて、どうしても「する」と「聴く」だけの二極構造になってしまいがちなのである。私たちの聴いている音楽の大半が、程度の差こそあれ、こうした輸入された音楽である以上、「音楽は語れない」という信仰が増幅される条件は、十分すぎるくらいに揃っていたわけである。

日本における西洋音楽の批評言説に固有の問題としてさらに、明治以来の洋楽受容に際してそれが、ほとんど専らドイツ古典音楽をモデルとして、極めて硬直した教養主義の文脈中で輸入されてきたことが挙げられるだろう。今でもクラシック音楽批評で散見される「精神性」とか「深い」とか「内面的」とか「崇高」といった、ドイツ観念論ばりの語彙は、この頃に日本へ持ち込まれたものなのだろう。身振り豊かな砕けたジャルゴンでもって、生き生きと音楽について語る可能性は、日本のクラシック音楽受容過程においては、最初から排除されていたのかもしれない。

 

再三繰り返すが、音楽文化は「すること」と「語ること」とがセットになって育まれる。しかし「音楽を語ること」は決して高級文化のステータス、つまり少数の選良の特権であってはならない。どんなに突拍子もない表現であってもいい。お気に入りの音楽に、思い思いの言葉を貼り付けてみよう。音楽はただ粛々と聴き入るためだけではなく、自分だけの言葉を添えてみるためにこそ、そこに在るのかもしれないのだ。理想的なのは、音楽の波長と共振することを可能にするような語彙、人々を共鳴の場へと引き込む誘いの語彙である。いずれにせよ、音楽に魅了されたとき、私たちは何かを口にせずにはいられまい。心ときめく経験を言葉にしようとするのは、私たちの本能ですらあるだろう。

2015年2月24日 (火)

岡田暁生「音楽の聴き方」(5)

こうしてみてくると、音楽を宗教なき時代を救済する新たな宗教にしようとする勢力と、台頭してきた市民階級の聴衆を相手に音楽で持って商売をしようとする勢力との利害関係がピッタリ一致したところに生まれたのが、「音楽は言葉ではない」というレトリックだったことが分かる。ドイツ・ロマン派によって音楽が一種の宗教体験にまで高められていくとともに、音楽における「沈黙」がどんどん聖化されていく。批評もまた、言葉の無力を雄弁に言い立てるというレトリックでもって、沈黙する聴衆の形成に加担する。しかも世は分業の時代、音楽行為が「すること」と「享受すること」と「語ること」とに、どんどん分化していった。そして19世紀に生まれた音楽産業にとっては、聴衆があまり自己主張せず、黙っていてくれるほど好都合なことはなかった。「音楽は語れない」のレトリックには、多分に19世紀イデオロギー的な側面があったわけである。ことさらに「語ることの出来ない感動」を求めるとき、ひょっとすると私たちは前々世紀の思想にいまだに呪縛されているのかもしれないのである。

そもそも近代芸術は、ある種の公共性を持つ存在たらんとしてきた。だからこそ新聞雑誌といった公論において批評され、美術館やコンサートホールといった公共空間で展示されてきたわけである。音楽に対して「信者」たらんとするか、それとも「公衆」としてそれに接するか。後者の立場を選ぶ限り私たちは、「たとえ意識しなくても、判断してからうけいれる」ことをせざるをえない。そこでは「批判の機能が本質的な役割を演ずる」のである。だからこそ音楽を語ることの意味はある。公衆たらんとする限りにおいて、私たちは大いに音楽について語っていいし、語るべきなのである。

音楽の少なからぬ部分は語ることが可能である。それどころが、語らずして音楽は出来ない。そもそも音楽家からして、本当は批評言語を駆使しているはずなのだ。例えば、一流指揮者のリハーサルのDVD等を見れば、一目瞭然だ。チェリビダッケやクライバーの練習風景は、見る者に鮮烈な印象を与える。天衣無縫に音楽をやっていると見える彼らだが、リハーサルでは絶え間なしにオーケストラを止め、詳細極まりない指示を出している。流麗な音楽は、実は言葉によって吟味熟考され、修正され、方向付けられた結果なのだ。しかも彼らが音楽に貼り付ける言葉は、ただ説得力があるばかりか、どれもの本当に面白い。こういうものを見ていると、ひょっとすると「音楽を語ること」は「聴くこと」以上に楽しいのではないかとすら、思えてくるはずだ。「音楽は言葉に出来る/音楽は言葉で作られる」ということの意味の、これ以上に説得力ある証はあるまい。

 

面白いことに、恩かせく形が日常的な音楽の現場で用いる言葉は、少なくとも私の知る限り、総じて砕けていて端的であり、感覚的で生々しい。「精神性」とか「宗教的」といった観念的な表現を当の音楽家たちはまず使わない。それどころか彼らは、身体的実感が伴わない物言いを、何よりも軽蔑する。音楽家を納得させる語彙の第一条件は、形而上学的ではないこと、つまり身体的であることだという印象がある。この意味で興味深いのが、さきにあげたリハーサル映像で指揮者たちが使っている言葉の性質である。彼らが練習で用いる語彙は、明確に幾つかのカテゴリーに分類することが出来る。一つは「もっと大きく」とか「ここからクレッシェンドして」といった直接的指示。二つ目は「ワイン・グラスで乾杯する様子を思い描いて」といった詩的絵画的な比喩。そして三つ目が音楽の内部関連ならびに外部関連についての説明。どれも音楽を語る言葉としてポピュラーなものだ。だが私が何よりも注意を促したいのは四つ目の語彙、つまり身体感覚に関わる彼らの独特の比喩の使い方である。リハーサル映像を見ていて気付くのは、彼らが時としてそれを耳にした途端にこちらの身体の奥に特定の感覚が沸きあがってくるような、一風変わった喩えを口にすることである。それまで単なる抽象的な音構造としか見えなかったものが、その言葉がそこに重ねられるやいなや突如として受肉される。体温を帯びた生身の肉体の生きた身振りとなるのである。例えば、スメタナの『モルダウ』のリハーサルでフリチャイは、「狩りの音楽」について「ここではもっと喜びを爆発させて、ただし狩人ではなく猟犬の歓喜を」という指示をしている。ここで意図しているのは、静止した詩的な絵画イメージなどではなく、もっと生々しい臨場感─制止もできずはね回り、主人に抱きつこうとする犬たちの四方八方にこだまする吠え声、小刻みに震える尻尾など─だろう。これは、スメタナの音楽が狩人ではなく猟犬の歓喜を表現しているというのではない。そうではなくて、音楽の中に本来内在している強烈な運動感覚が、「猟犬の歓び」という言葉を与えられることで、まざまざと私たちの身体に喚起されてくるのである。フリチャイはこの箇所の前後で、四本のホルンがひとかたまりになって溶け合うことなく、それぞれが独立して四方から呼び交わし、こだまするような効果を再三求めている。おそらく「猟犬」という比喩も、こうした声部の独立性を詩的に表現したものであろう。ここでは、音楽が猟犬を表現しているのではなく、「猟犬」という言葉が音楽構造の比喩として機能しているわけである。

生田久美子は『「わざ」から知る』のなかで、特定の身体感覚を呼び覚ますことを目的とした特殊な比喩を、「わざ言語」と呼んでいる。そこで例示されているのは日本舞踊で、その伝承においては、「手をもっと上げて」といった、誤解の余地のない一義的な指示はあまり使われない。代わりに師匠たちは、「指先を目玉にしたら」とか「天から舞い降りる雪を受けるように」といった、一見突拍子もなく、あるいは曖昧な表現を使うのを好む。前者の表現はそれなりに正確かもしれないが、それでは単なる身体部位の一パーツの表面的な「形」の模写に終わってしまう。手を上げればそれでいいというわけではない。むしろ一つの動作の細部ではなく、どういう身体の構えと感覚─生田はそれを「形」に対比させ「型」と呼ぶ─でもってそれを行うかが、とても重要なのだ。私なりに言い換えるなら「わざ言語」とは、身体の共振を作り出す言葉である。それまでばらばらだった自分の気分(感情)/動作/身体感覚の間の関係。あるいは自分と他者との間の身体波長のようなものの関係。それが、一つの言葉を与えられた途端、生き生きと共鳴し始める。そういう作用を持つのが、「わざ言語」ではないか。ただ単に手を一定の角度だけ上げる事が問題なのではない。何も考えず、感じず、ひたすら外面的な動作を正確に真似すればいいのではない。重要なのは、例えばひらひらとゆっくり舞い落ちてくる動き、冷たい白さ、ごく軽く脆いものを慎重に、優しく受け止めるイメージなどを共有することなのだ。そう考えれば、指揮者の指示もまた、典型的な「わざ言語」である。

2015年2月23日 (月)

岡田暁生「音楽の聴き方」(4)

第2章 音楽を語る言葉を探す─神学修辞から「わざ言語」へ

音楽は、文学や美術と比べて言葉にしにくい芸術である。聴覚が嗅覚や味覚と同じように一種の触覚であるとすれば、よく言われるように「触れる」とは「触れられる」ことであって、聴体験における「私」は響きに織り込まれ、どこまでが自分で、どこからが対象なのか区別すらつかなくなってしまう。対象を客観的に記述することが出来なくなってしまうのである。さらに、嗅覚や味覚と比べたときの、音楽体験の際立った特徴がある。それは単に言葉にすることが難しいというだけではなく、言語化すること自体に対して、しばしば私たちが禁忌の意識を感じてしまう点にある。おそらくこの意識は、音楽がかつての呪術の痕跡を色濃く残す芸術であることと、無関係ではないだろう。今日なお音楽は、多くの人にとって神秘であり、魔術である。魔法にかかるために人は、まずは合理的な思考をいったん停止しなければならない。魔術は言語を宙吊りにしたところで初めて成立する。言葉では到達できない何かがそこにあると信じるからこそ、私たちはかくも深く音楽の魔力に魅了されるのだろう。

しかしながら、「音楽を言葉にするのは難しい」/「言葉にすることがためらわれる」ということとある程度切り離して考えなくてはならないのは、「音楽を前にした沈黙をことさらに人々が聖化するようになったのは比較的近代になってからのことだ」という事実である。つまり、「音楽は言葉にできない…」という発想自体はそんなに古いものではなく、これを言い出したのは19世紀のドイツ・ロマン派の詩人たちなのだが、それが今日に至るまでの私たちの音楽の聴き方/語り方に強い縛りをかけているのである。そもそも18世紀までの西洋の美学体系において音楽は、詩や絵画と比べて格落ちの二流芸術と見なされていた。それはなぜかといえば、音楽は明晰な概念や形を欠いていて、心地よいけれども曖昧だからである。それが、ロマン派の詩人たちは「言葉がないから、音楽は深さに欠ける」という従来の論法を、「言葉がないが故に、音楽は言葉を超越する」という方向へ180度裏返してしまった。ロマン派の芸術創造の生命は無限の憧れであって、彼らは遠い彼方へ祈るような切ない眼差しを向ける。そして造形芸術や言語芸術と違って形がないからこそ、音楽はロマン派詩人のファンタジーを隈なくかきたててくれる。このことが意味するのはつまり、音楽がかつての宗教にも比すべき祈りに、そして超越的世界の啓示の場になったということにほかならない。こうした19世紀における音楽の神聖化と不可分の関係にあったのが、ロマン派の時代に生まれた音楽批評である。音楽について語るものは芸術の神殿に仕える司祭であって、神の代理人たる彼らの言葉は一種の神託なのだ。だから詩的神秘化とも言うべき、一種独特のレトリックをしばしば用いた。音楽そのものについて即物的に語るというより、音楽との摩訶不思議な交感が詩的アラベスクでもって綴られている。批評言説は音楽と一心同体になって恍惚の表情を浮かべてみせるのである。こうしたロマン派の音楽批評は、まるで神を名指すことを憚るかのように、ことさらに言葉の無力を言い立てる。言葉を用いながら、言葉の無力を嘆いてみせる。ここにロマン派的な音楽批評が本質的に孕んでいる自己撞着がある。一方で音芸術を「言葉を超えたもの」として神聖化しながら、他方でそれについて語らざるを得ないという矛盾を、いかにして繕うか。それが近代の芸術批評の直面した課題だったとすら言えるかもしれない。

他方で音楽批評という職業が、どういう経緯で生まれてきたかといえば、それは近代における芸術マーケットの成立と密接に関わっている。封建時代の芸術創作は顧客による芸術家の丸抱えであったのに対して、18世紀の後半になると新興市民が鑑賞者/購買者として台頭してきた。ただしかれらはお抱え芸術家など持てないし、そもそも成り上がり進行ブルジョワには審美眼などあまりなく、何を買えばいいか分からないことも多かっただろう。そこで生まれてきたのが芸術のマーケットとジャーナリズムである。つまり創作側からすれば、丸抱えしてもらえないのなら、出来るだけ多くの買い手を獲得すべく、少しでも自分の作品を宣伝してほしい。そして買い手から見れば、マーケットに氾濫している多数の作品のうち、どれが「いい」のか教えてくれるアドバイザーがほしい。こうして双方の利害が一致したところに。芸術ジャーナリズムは生まれた。

産業革命以後の社会システムの最大の特徴である「分業」が、音楽の世界でも生じ始めたという言い方も出来るかもしれない。つまり音楽における「する」/「聴く」/「評する」の分離である。「する」権利の譲渡により、自ら実践する「自分で弾く」楽しみから、「本職の演奏を恭しく拝聴させていただく」ことへ移動し始めた。そして、近代の聴衆が放棄したのは、「すること」だけではない。かつての王侯貴族が作曲家に向かって自分の意見や要求を堂々と口にしていたのとは対照的に、18世紀の後半から生まれてきた市民階級の音楽愛好家、最初から自分の意見を直接音楽家に伝える手立てを持っていなかった。自分の目や耳や判断し、自分の言葉でそれを評する手間と権利を、聴衆はジャーナリズムに外注せざるをえなかったのだ。かくして一種の隙間産業として、「いいもの」と「悪いもの」の区別を教えてくれる仲介者が登場してくる。それが芸術批評家である。よかったのか悪かったのかの判断を、近代の聴衆はジャーナリズムに委ねた。だが黙ってきているだけの聴衆ほど与しやすいものはない。往々にして評価は音楽と関係ないところで決められるようになる。一方に音楽の神格化、他方に音楽の詐欺商売化という両極端が同時進行し始めたのが、近代の音楽界であった。

2015年2月22日 (日)

岡田暁生「音楽の聴き方」(3)

「内なる図書館」とは、私と周囲環境との関わりの歴史にほかならない─このことが示唆するように、嗜好や相性は必ずしも個人的なものではない。変人は純粋に自分の自発的な好みだと信じていても、それは物心ついて以来の、周囲環境からの絶え間ない刷り込みによって形成されてきたもの、その意味で社会的なものである可能性は高い。相性が純粋に個人的なものであることは、一般に思われているほど多くはない。生理的かつ個人的な相性や嗜好と見えるものの多くは、実はその人の履歴であり、しかも集団的に規定されている。そして集団が違えば、価値体系は全く異なってくる。「よかった」や「悪かった」は常に、「彼ら/彼女らにとってはよかった悪かった」なのである。

とはいえ、音楽に対する反応がすべて「相性」のみに還元されてしまうのだとすれば、それではいかにも寂しい。「その人がいい/よくないと思ったから、それでいいじゃない?」─その程度のものしかこの世に存在しないのだとしたら、私たちは一体何のために音楽を聴いているのだろう?私が言いたいのはつまり、相性だの嗜好だの集団的な価値観の違いだのといったことを突き抜けた、有無を言わさぬ絶対的な価値の啓示というのも、確かに存在するということだ。「彼ら/彼女らにとっては」などといった但し書き必要としない、超越的な体験と言ってもいい。そんなときの音楽はもはや快適な娯楽などではない。三島由紀夫は『小説家の休暇』の中で次のように書いている。「音楽というものは、人間精神の暗黒な深淵のふちのところで、戯れているもののように私には思われる。こういう怖ろしい戯れを生活の愉楽にかぞえ、音楽堂や美しい客間で、音楽に耳を傾けている人たちを見ると、私はそういう人たちの豪胆さにおどろかずにはいられない。こんな危険なものは、生活に接触させてはならないのだ。音という形のないものを、厳格な規律のもとに統制したこの音楽なるものは、何か人間に捕えられ檻に入れられた幽霊と謂った、ものすごい印象を私に惹き起こす。音楽愛好家たちが、こうした形のない暗黒に対する作曲家の精神の勝利を簡明に信じ、安心してその勝利に身を委ね、喝采している点では、檻の中の野獣の演技に拍手を送るサーカスの観客とかわりが。ないしかしもし檻が破れたらどうするのだ。その瞬間に音楽は有毒な怖ろしいものになり、毒ガスのような致死の効果をもたらす。音はあふれ出し、聴衆の精神を、形のない闇で、十重二十重にかこんでしまう。聴衆は自らそれと知らずに、深淵に突き落とされる。…」音楽に対する三島のこの恐怖/畏怖は、誇張とは思えない。音楽体験とは本来、そんなに生やさしいものではない。それは文明化された世の中に最後まで残った、古代の呪術の名残かもしれないのである。「よかった」とか「よくなかった」などと、安全地帯にとどまりながら品定めするお気楽な「芸術鑑賞」とは、次元を異にするものなのだ。こうした法外な体験を言葉にするのは本当に難しい。なぜなら芸術がもたらす戦慄は、あらゆるエクスタシー経験の常として、本質において極めて身体的なものだから。それを自分と共有している人との間では、言葉一つでコミュニケーションが成り立つ。しかし身体の記憶の中に「打ち震えた」経験を持たない人に対して、言葉はほとんど用をなさない。

もちろん私たちは幸か不幸か、この種の途方もない音楽に頻繁に遭遇するわけではない。むしろそれは、とりわけ現代の管理社会において、一生の間に数回居合わせることができたら幸運というくらいの、極めて稀な出会いなのかもしれない。自分自身のことを振り返ってみても、音楽を聴くようになって30年以上が経つが、人生が変わるようなこの種の体験にライブで出会ったことは、10回にも満たないように思う。それらは単なる「いい演奏」というのとは少し違う。技術的にかなり傷があったり、録音状態があまりよくないものも多い。にもかかわらずこれらの録音は、いつ耳にしても得体の知れない力で私を呪縛する。私にはこれらが一種破滅の記録であり、その中には魔物が閉じ込められているような気がしてならない。だから私はこれらを滅多に聴かないようにしているし、たまに禁忌を破って耳にすると、聴いてはいけないものを耳にしたような畏れの感情に襲われる。さきの三島の言葉決して大げさではない。「よかった」という言葉が暗黙の内に前提としているような、自分の掌中に対象がきちんと収まっているようなお気楽な感覚は、そこに存在しない。既に引用したように、パウル・ベッカーは「結局人は自分の中にあらかじめ存在しているものにしか反応しないのだ」という、読みようによってはかなり醒めた見解を述べていた。私もおおむねこれには賛成である。だが今あげたような体験を想起するたびに私は、究極の芸術体験とはひょっとすると「未知なるものとの遭遇」であるかもしれないという思いに捉われる。

おそらくこのことと関係しているのだろう、人生観が変わってしまうような音楽体験はしばしば、人がそのジャンルに夢中になり始めたばかりのころに集中する傾向があるように思う。思うにそのような鮮烈な印象は、結局のところ「言葉」の問題と関わっているように思えてならない。つまり音楽に言葉という網をかけるのがうまくなるほど、人は体験の衝撃をまともに喰らうことなく、自分と音楽との間に言語のクッションを介在させてショックを和らげるようになるのではないか。やがてルーティン化が恒常的になってくると、何を聴いても「これって要するにこういうことだよね」と、すぐに概念でもって納得してしまうようになる。そして逆に言えば、それを前にして、どういう言葉を口にすればいいか途方にくれてしまう音楽、手垢がついた既成の言葉を一度無効にしてしまって、ゼロから「音楽を語る言葉」を鍛え直すことを求めてくる種類の音楽だったのだろう。おそらくこういう体験だけが、音楽に反応する感受性の表面積を根底から拡張してくれるのだと思う。

これは、世間一般に言われるところの「感動」とは、かなり性質が違う。周知のように今や感動は巨大なマーケットであって、スポーツや映画と同じように音楽においても、心震わせ涙するためのパッケージ商品が世間に溢れかえっている。そして私たちは音楽についてのあらゆる情報を雑誌や新聞やテレビによって刷り込まれ、場合によってはいかにもそれらしい映像を見せられてコンサートに臨む。「世界一の○○フィルの芳醇な弦楽器の響き」などと言った決まり文句は、それでも一応音楽に関わるものだから、まだいい。私が何より問題だと思うのは、近年増加の一途を辿っているところの、音楽家の人生を感動物語に仕立てて商売にするやり方である。それはもはや音楽体験ではない。音楽は、あらかじめ脳髄に植えつけられた物語を大写しにする、音響スクリーンとして機能しているだけだ。何に対してどんな風に感動するか、どんなお話をそこに投影するか、すべて前もってセットされているのである。まさに「感動の仕方」が他者によって誘導されるという点で、この刷り込み型の感動は、私が先に「未知なるものとの遭遇」と形容したような体験と、決定的に違っている。前者の予定調和性に対して、後者を特徴づけるのは、いきなり雷に撃たれるような不意打ちの感覚なのだ。

この章では、言葉による媒介をまだほとんど経ていない音楽との出会いについて、いろいろシュミレーションしてみた。言葉でもって自分の印象を整理したり、修正して納得したり、様々な事実を関連付けて理解を深めたりする以前の、いわば感性しかないような状態である。だが結局のところ、すべての音楽体験の原点となってくれるのは、まだどんな言葉も湧き上がってこないような、純粋に感覚的な「第一印象」以外にありえないだろう。一体自分はその音楽にどう反応しているのか。まったく何の印象も感じていないか、何とはなしに居心地が悪いか、それとも気にはなっているのだが、まだうまくそれを言葉に出来ないでいるのか。音楽体験において一番大切なのは、他人の言葉や世評等に惑わされず、まずは自分の内なる声に耳を澄ませてみることではないかと、私は考えている。自分が音楽にどう反応しているかをきちんと聴きとってあげる─実はこれはそんなに簡単なことではない。マスメディアの時代に生きる私たちは、音楽を聴く以前に既に大量の情報にさらされているし、知らないうちに「音楽の聴き方」についていろいろなことを刷り込まれている。それに他人の意見や反応だって気になる。そして私自身が音楽を聴くときの目安にしているのは何かといえば、それは最終的にただ一つ、「音楽を細切れにすることへのためらいの気持ちが働くか否か」ということである。細切れとはつまり、演奏会の途中で席を外したり、CDなら勝手に中断したりすることだ。何かしら立ち去りがたいように感覚と言えばいいだろうか。音楽という不可逆にして不可分の一つの時間を、音楽とともに最後まで共体験しようという気持ちになれるかどうか。自分にとってそれが意味/意義のある音楽体験であったかどうかを測るサインは、最終的にこれ以外ないと思うのである。これは「分かる」とか「ぐっと来る」とか、そういうこととは必ずしも関係ない。すぐにはピンと来ないかもしれない。だが、たとえ一般的な意味で「よかった!」と言う感想を持つわけではなかったとしても、「これは最後まで聴いてあげなくてはいけないものだ」という感情がどこかに湧いてきたとすれば、それこそが「縁」というものだ。それは音楽を通して一つの時間を自分とともに体験する隣人への敬いの気持ちであり、音楽を何かしら命あるものとして感じている証なのだと思う。

いずれにせよ私たちは、今の自分にとって「縁」のある音楽から始めるしかない。不可分/不可逆な時間を共有できるパートナーとしての音楽を少しずつ増やすことを通して、自分だけの図書館を、つまり自分自身を作り上げていくのだ。

2015年2月21日 (土)

岡田暁生「音楽の聴き方」(2)

第1章 音楽と共鳴するとき─「内なる図書館」を作る

思うに音楽は、その場の空気だとか、よく分からない相性だとか、聴いたときの体調や気分だとかに、ひどく左右される芸術である。「こういうものを評価する人がいるのは分かるけれど、自分の好みではないなあ」とか、「大傑作というわけではないのだろうけれど、今の自分にはとてもピンと来る」と言った具合に、文学や美術や映画では、人は別にためらいもせず、こういった判断を素直に口にしている。「客観的な事実判断」と「自分の主観的な好み」と「その時の自分の気分」との間に、ある程度の線引きが出来る。だが音楽の場合、ことはそう簡単ではない。それは何とも曖昧模糊とした逸楽であって、客観的評価を堂々と口にするのは通の特権ように思われているところがあるし、そもそも自分が一体どう感じたのか、自分でもよく分からないということすら、時として起きるのだ。

端的に言って音楽体験は、何よりまず生理的な反応である。文学のような概念を通した情報伝達ではない。造形芸術のような客観的な認識対象でもない。それは空気振動を通して鼓膜を愛撫する技なのだ。有名な『音楽美論』でハンスリックが述べているように、人はしばしば「身にからみついた音のひびきから脱け出ることはできない」。なぜなら「音楽は我々の肉体のあらゆる神経に触れる」からである。触れてくるものを客観的に判断するのは難しい。しかし音楽は私たちに触れてくる。触れられると、意志とは関係なく、特定の反応が身体に生じる。だが愛撫の感覚は、とこまでいっても、決して「何となく…のような気がした」を超えていかない。そこでは対象と自分とが幾重にも絡み合って降り、客観的に見て本当にそれがよかったのか、それとも自分の身体の方が勝手に反応し ただけなのかの区別すら、時としてつかないのである。

とはいえ、音楽に対する生理反応がまったく議論不能かといえば、もちろんそんなことはない。ある音楽に反応した、あるいはしなかった─そこには必ず理由があるはずだし、だからこそ「音楽についての言説空間」とでも呼ぶべきものが、それなりに成立してきたのだ。例えば「波長の相性」とでも言うべきものを考えてみる。音楽とは人が人に宛てて発する何かなのだから、当然そこには発信者の身体的なクセ─口調や声音や気配や身のこなしの抑揚─のようなものが刻印されることになるだろう。私がここで考えているのは、音楽の調子、筆致、リズム、テクスチャー等がないまぜになって生まれる、一種の律動のようなものである。立ち居振る舞いのペースが自分と似ていたり、たとえ違っていても、それがうまく補完関係にある人と付き合うのは、居心地がいい。逆に互いのリズムがいちいち相殺し合ってしまうような人と一緒にいると、ひどく疲れたり苛々いしたりする。そして人間関係だけではなく、人と音楽との関係においても、似たようなことがしばしば生じるのである。私たちは、他のどんな芸術にも増して音楽体験が、生理的な反応に左右されやすいことを、よく自覚しておいた方がいい。「自分はこうしたタイプのメロディにぐっと来てしまうクセがあるんだよなあ」とか「こういうリズムを聴くと反射的に嫌悪を感じてしまうんだ…」といった具合に、自分の性癖を理解しておくわけだ。それこそが、個人の生理的反応の次元と客観的な事実をある程度分けて聴くための、最初のステップである。

20世紀初頭のドイツで活躍した音楽評論家パウル・ベッカーは、「芸術体験において、人はあらかじめ自分の中にあるものを再認識しているだけなのだ」として、次のように述べている。「ある芸術作品が私に働きかけるか否かは、ひとえに私がそれを既に自分の中に持っているかどうかにかかっている。一見新しく見えるものも、実はこれまで意識してこなかったものが突如として意識されるようになっただけ、以前から暗がりの中でまどろんでいた内面の領域に突如として光が当たっただけなのだ。私が感じたり、見たり、聴いたりするのは、私の中にあるものだけなのである。それが私自身の一部である場合にのみ、芸術作品は私にとって生き生きとしたものとなるのである。それは潜在的な感情価の目覚めなのであって、決して絶対的な意味で新しいものではない」。自分の感性の受信機の中にあらかじめセットされていない周波数に対して、人はほとんど反応できない。相性がぴったりの音楽との出会いとは、実はこれまで知らなかった自分の出会いなのかしれないのだ。芸術体験におけるこうした「相性」の問題について、フランスの文学理論家ピエール・バイヤールは、誰もが「内なる図書館」を持っていて、これまで読んだ本、読んだけれど忘れてしまった本、噂に聞いたことがある本などについて諸々の記憶の断片から、それは成っているという。この「内なる図書館」は私たちの読書ノート、つまり単なる客観的な記録であるだけではない。この図書館こそ、「少しずつわれわれ自身を作り上げてきたもの、もはや苦しみを感じさせることなしにわれわれと切り離せないもの」、つまり自分自身の履歴書だというのである。この「内なる図書館」が、私たちの考える「相性の良し悪しを規定する感性の受信機」と極めて近い概念であることは、言うまでもない。これまでどういう本に囲まれてきたか。どのような価値観をそこから植えつけられてきたか。それについて、どういう人々から、どういうことを吹き込まれてきたか。一見生得的とも見える「感性」は、実は人の「内なる図書館」の履歴によって規定されている。それは今や自分の身体生理の一部となっているところの、私たちがその中で育ってきた環境そのものなのだ。「相性の良し悪し」、私たち一人一人のこれまでの人生そのものに関わってくる問題だといえよう。芸術鑑賞の下部構造はこういうものによって規定されている。

2015年2月20日 (金)

岡田暁生「音楽の聴き方」(1)

大多数の人にとって音楽を聴く最大の喜びは、他の人々と体験を共有し、心を通い合わせ合うことあるはずである。例えば素晴らしいコンサートを聴き終わった後、それについて誰かと語り合いたくてうずうずしているところに、ぱったりと知人と出会って、どちらからともなく「よかったよね!」の一言が口をついて出てきたときのこと。互いの気持ちがぴったりと合ったと確信させてくれる、コンサートの後のあの「一言」がもたらす喜びは、音楽を聴いている最中のそれに勝るとも劣らない感興を与えてくれると、私は信じている。聴く喜びはかなりの程度で、語り合える喜びに比例する。音楽の楽しみは聴くことだけではない。「聴くこと」と「語り合うこと」とが一体となってこそ音楽の喜びは生まれるのだ。

とはいえ、「よかったぁ…!」と感嘆の声をあげるだけで満足するのではなく、もっと彫り込まれた表現で自らの音楽体験についての言葉を紡ぐのは、もとよりそう容易なことではない。「音楽を語る言葉を磨く」ことは、十分努力によって可能になる類の事柄であり、つまり音楽の「語り方=聴き方」には確かに方法論が存在するのだ。

美術史家のゴンブリッチは名著『美術の歩み』の中で、興味深いことを書いている。例えば人からある絵画をなぜ傑作だと感じたのかは、「普通、言葉では正確に説明することはできない。しかし、このことは、この作品もあの作品も、同じようによいものだとか、好き嫌いの問題は議論することができないとかいう意味ではない」。こうした問題について議論することを通して、「以前には見逃していた点に私たちは気付くようになる。私たちは気付くようになる。私たちは、各時代の芸術家たちが成し遂げようと努力した調和ということに関して、感覚を高めるようになる。これらの調和に対する私たちの感覚が豊かになればなるほど、私たちは、それらの作品をもっと楽しむようになる」。ゴンブリッチいわく、「紅茶を楽しむ習慣を持たない人々にとっては、一つの銘柄は、他のものと、どう見ても似たりよったりの味に見える」が、「その人たちがもし、洗練された味を探すだけの暇と意志と機会を持てば、どのタイプとのミックスが好ましいかについて一家言をもつ本当の「鑑定家」となり得る」。つまり、「好みというものは洗練し得るという事実を隠せるものではない」というのである。私の文脈で言えば、「趣味を語る言葉」の問題だ。例えばワインのテイスティングにおいては、特定の味覚に対応するさまざまな語彙を覚えていくことを通し、微妙な感覚の差異や関連や同一性や連想に徐々に気づくことが出来るようになっていくのであろう。だが「重い/軽い」「辛い/甘い」くらいしかワインの味覚を語る語彙をしらない私などは、いつまで経っても「趣味を洗練する」に至らない。個々の経験がいつまで経ってもばらばらな印象にとどまったままで、互いに明瞭に関連付けられ、知の体系となっていくことがない。芸術(音楽)体験においても、感覚的印象と言葉との関係についての事情は、これとよく似ているに違いない。

端的に言って、「聴き方」とは「聴く型」のことだと、私は考えている。「こういう音楽が来たら、こういうパターンとして聴く」という暗黙の約束事が、一見「どう聴こうが自由」と思える音楽鑑賞の世界にも、無数に存在している。具体的な例を一つ挙げよう。例えばシューマンの「子供の情景」の一曲目。夢見るような二小節の旋律が、ここでは絶え間なしに変奏され、繰り返される。正確に言えば、このABAの三部形式の曲では、Aでは二小節動機が四回、Bでは三回繰り返される。だが西洋音楽の語法に通じている人は、これを「二小節の動機が十一回繰り返される」とは聴かない。「八小節が三回繰り返される」、そして「一回目と三回目は長調であり、しかも内容的に同じであるのに対して、二回目は短調であって、両端の部分とコントラストを成している」、つまり「これはABAの三部形式である」という具合に聴く。ソナタ形式とかロンド形式といったものもすべて、作曲の型であると同時に聴く型でもあるのだ。構造面についてだけでなく、音楽が惹き起こす情動的な反応についても、私たちはいろいろな型を刷り込まれている。その典型が「感動」であろう。クライマックスの熱狂へ向けて盛り上がる音楽を聴いたときは、我を忘れて喝采を送り、他の人たちと熱い思いを分かち合い、時に涙する─こういった反応の仕方もまた、特定の音楽が暗黙の前提としている、「聴く型」なのだ。仮にそれを知らなかったとして、一体ベートーヴェンの「運命」をどう聴いたらいいのだろう。なぜあのように煽りたてるのか、全く理解不能なのではないだろうか。すべての音楽には、いい具合にそれを味わうための暗黙の反応モードというものがあるし、それを知らないと著しく感興を削がれることにもなるのである。

こうした問題を考えるうえで示唆に富んでいるのは、ゴンブリッチの見解である。『芸術と幻影』の中で彼は、心理学から借りてきた「メンタル・セット」という概念を持ってくる。芸術作品と向き合うに際しての、「メンタルな構えについての一連のモデル」くらいの意味として理解しておけばいいだろう。これは「知覚/認識のための枠組」のようなもの、つまり美学でいう「図式」とほぼ同義だと思われる。受容された知覚情報を整理し、選別し、切り取ってパターン化し、それに意味を与える枠組みのことだ。ゴンブリッチによれば私たちは、芸術観賞において「すでに波長を合わせ済みの受信機をもって彼らの作品に臨む」という。この受信機が「メンタル・セット」であり、つまり型なのである。受信機という比喩はとても分かりやすい。その自覚があろうがなかろうが、音楽を聴くときはいつも、私たちは自分の手持ちのありとあらゆる「聴く型」を総動員し、そのスイッチをオンにして、どれかが反応してくれることを願って臨んでいるのではあるまいか。

音楽受容には、ありとあらゆる次元における、隠れた「型」がある。音楽形式とか、音楽に対する反応モードだけではない。音楽を上演する場についての型もあれば、音楽を語るロジックもあるだろう。音楽の文化的背景もまた、後に見るように、「聴く型」をいろいろと規定してくる。私たちが音楽を聴いてあれこれ言うときに、何気なくスイッチを入れている様々な「聴く型」。それらを一度意識化し、整理してみることが、本書の目的である。

音楽は決してそれ自体で存在しているわけではなく、常に特定の歴史/社会から生み出され、そして特定の歴史/社会の中で聴かれる。どんなに自由に音楽を聴いているつもりでも、私たちは必ず何らかの文化文脈によって規定された聴き方をしている。そして「ある音楽が分からない」というケースの大半は、対象となる音楽とこちら側の「聴く枠」との食い違いに起因しているように思う。私たちは皆、特定の歴史/社会の中で生きている以上、音楽の聴き方もまた、それからバイアスをかけられるのはいかんともしがたい。自由に音楽を聴くことなど、誰にも出来ない。ただし、自分自身の聴き方の偏差について幾分自覚的になることによって、もっと楽しく音楽とつきあう事が出来るのではないか─これが本書において最も私が言いたいことである。

2015年2月19日 (木)

ボストン美術館ミレー展(6)~Ⅴ.ミレーの遺産

いわゆるバルビゾン派に属することになっている画家たちで、ミレーよりも若い世代で、ミレーの影響を受けたと考えられている人々の作品です。

Milletbostonbeturiヨーゼフ・イスラエルの「別離の前日」という作品です。1×1.25mという大型の画面で、母親が手に顔を埋めて、海で死んだ夫の喪に服している。その子供は裸足で座り込み、母親の足にもたれかかり、そばにろうそくの置かれた棺がかろうじて見える隣の部屋を凝視している、という作品ということです。ここには、前回見たミレーの「編物のお稽古」の暗さよりも深い暗さと光との強いコントラストが劇的な情景を作り出しています。まるでレンプラントのような光と影の対比は、観ている者にものがたりを想起させずはいられません。また、二人の人物の衣服の色褪せ、くたびれた写実的な描写はミレーにはなく、人物の表情は隠されていますが、母親のうつむいて顔を手に埋めるポーズはミレーの作品では見られないものです。光と影の強いコントラストや演劇的な作為も加わった迫真的な描写が、悲劇性とこの人々の生活の厳しさを強く印象付けるものになっています。

Caravaggioemaoミレーには、このような迫真性とか悲劇性は見られません。ミレーの場合には、その代わりに一種のメルヘンチックな感じ方が可能になったと考えることができます。それは都会の人は経験していないにもかかわらずノスタルジックな感傷を思い起こさせることを可能にするものです。さらに、それは遠くはなれたアメリカ東部の開拓者たちに対して、肯定感を付与するものとなったのではないかと思います。ヨーロッパの都会から遠く離れて、厳しい未開の自然の前で土にまみれて働く開拓民たちに、宗教的な敬虔さを含んで、あなたたちの姿は美しい、とミレーの作品は語りかけるように受け取られたのかもしれません。少なくとも、イスラエルの迫真的な作品では、都会人に農家の厳しい状況をアピールする力はあるでしょうが、ミレーのような受け取られ方は難しいと思います。

Milletbostonemaoレオン=オーギュスタン・レルミットの「謙虚な友(エマオの晩餐)」という作品です。キリストが磔にされた後、復活を遂げて弟子の前に現われた事績を描いています。私には、何年も前にカラヴァッジオの同じ題材を扱った劇的な作品の印象が強く印象に残っています。この作品は1.5×2mというサイズの大作で迫力のあるものですが、カラヴァッジオのような光と影の劇的なドラマというよりは、農村の宿屋の日常の風景に置き換え、登場人物を迫真的に描くことによって、人間ドラマとして迫ってくるものがあります。レミレットの作品には他にも「小麦畑(昼の休息)」という農作業の休憩を題材とした作品も展示されていました。金色の小麦は真昼の太陽の熱を強調しているようで、束ねられた麦の山の中で農夫と水筒を持ってきた少女が休息している場面でしょうか。素早い筆捌きと光の効果を強調する明るい画面は印象派の作風に似た印象を受けます。それだけに、巧みな画家ではあるのでしょうが、ミレーの鈍重とも言える画面に比べると洗練されすぎているような印象を受けます。レルミットの作品は巧みで分かりやすいものとなっていますが、ミレーのような雰囲気を醸し出すという感じはありません。ノスタルジーというよりは、風景を分かりやすく写生したスナップショットのような印象です。

Milletbostonmugi「謙虚な友」に視線を戻しましょう。画面左側の人物はパンを割り祝福したことで復活したキリストであることを示しています。相対している2人の男性はキリストの弟子たちということになります。中央の禿げ頭の男は恐怖の表情で右手を顔の前に防ぐようにあげるポーズで強調しています。また右の弟子は左手で椅子を握り締めています。それが、バルビゾン村の宿屋をモデルにした、当時の農家の簡素な室内がエマオの奇跡の舞台として違和感なく画面に納まっています。これは、ミレーの「晩鐘」のような作品が有していた宗教性を直接的なものにしていった作品ではないかと思います。これは、これで当時の人々に親しみやすいものだったし、十分にアッピールするものだったと思います。事実、この作品は発表当時高い評価を受け、レルミットは経済的にも成功した画家であったということです。

Milletbostondrinkそして、ジュリアン・デュプレの「牛に水を飲ませる娘」という作品です。ミレーのもっていたノスタルジックな性格をさらに推し進め、牧歌的な情景をリアリステックな手法で描いています。ミレーに比べて全体の色調は明るく、真昼の隅々まで光線が行き渡っているようです。ここでは、牧歌的な風景画、あたかも目前に再現されているかのように描かれています。例えば、都会のブルジョワの居間に伝統的な肖像画や歴史画とともに飾っても違和感のないような様式で描かれているともいえるので、ミレーよりも当時のブルジョワや画壇には受け容れやすかったのではないかと思います。「ガチョウに餌をやる子どもたち」という作品などは微笑を誘う一篇の情景となっています。しかも、描写はしっかりしています。そこには、燦燦と降り注ぐ陽光と、その下での健康的な生活、都会では失われつつある家族の絆が多少のユーモアを交えて描かれています。「干し草づくり」という作品では、農作業のたいへんさや厳しさの表現は後方に退き、牧歌的な風景が強調されているといえます。ミレーの場合には、ノスタルジックな要素もありながら、厳しい農作業により鈍重となった農民の姿がそれなりに描かれて、様々な要素が入り混じっていたのが、後の世代の人々はミレーの一面をそれぞれに特徴的に展開させていったということでしょうか。その反面、ミレーにあった様々な面が一面的になってしまった感があります。面白いのは、ここで見た画家たちに共通して言えるのは、方向性は異なっているのにもかかわらず、表現技法においては一様にリアリスティックな写実的表現を推し進めている点です。ミレーの写実には一歩距離をとっていた表現には、これらの画家たちは反対していたということでしょうか。

Milletbostongacyoそれゆえに、私にはミレーよりもこれらの画家たちの作品に方に、より親しみを覚えます。それは、当時の農村の実際を知らないからかもしれません。府中市美術館での展覧会と、このボストン美術館の名品を集めた展覧会と、立て続けにミレーの作品をまとめて観て来ました。ミレーの農民画家というイメージには、当初から眉唾と思っていましたが、それは半分当たっていて、そのことは実際の作品をみて分かりました。そういう先入見を捨てて観た、ミレーの作品は下手という印象が強く、下手な画家が下手なりに生き残っていくには、他の画家が手をつけていない領域で勝負するしかないとして、農村や農家を描かざるを得なかった。そのように思わせるところがありました。ミレー自身がノルマンディーの農家出身で苦労して絵を学んだというストーリーはとくに開拓時代のアメリカや明治維新で新興の機運のあった日本で宗教的な敬虔さとか勤労を肯定する雰囲気のなかで作品よりも先に評価されてしまったのではないか、という議論には説得力があり、作品はその後でストーリーを裏打ちするものとして評価されてきたという問題意識があったのは府中市美術館の展示で、それは納得できるものでした。そうであれば、ミレーの作品の魅力はストーリーと切り離したところで何なのか、作品自体に魅力はあるのかということには府中市美術館の展示は必ずしも説得力あるものを提示し切れていなかったと思います。また、ボストン美術館のコレクションは府中市美術館の議論以前のミレー観で展示されていたことが、却ってストーリーと作品の両方を並行して見つめることを期せずして可能したことが、私にとってミレーという画家の作品を見直すこととなりました。とはいっても、未だにミレーの作品の魅力はここにあると明確に述べるには至っていませんが。少なくとも、下手としか見えなかったミレーの作品については、事実としてミレーはこのようにしか描けなかったと思いますが、その下手な表現そのものに実は大きな意味があった、その下手でなければ表現できない世界があったと思うに至りました。しかし、そう考えられたとしても、私にはミレーという画家は常日頃から親しみたいという画家ではありません。残念ながら。そういうわけで、またいつかまとまって作品に触れる機会があれば、もやもやしてはっきりしない、この人の魅力について、私的にはっきりさせることがあるかもしれないと思います。Milletbostonhosikusa


2015年2月18日 (水)

ボストン美術館ミレー展(5)~Ⅳ.家庭の情景

Milletbostonknitt2ミレーの農作業風景と供に代名詞ともいえるのが、農家の家族の情景を描いた作品です。農作業の風景と比べて、ほとんど全部が女性や子供が中心となって描かれ、農作業の風景以上に似たような構図で何枚もの作品が描かれたと思います。フェルメールなどの17世紀のオランダのブルジョワの市民生活を描いた風俗画に通じているところが見えます。構図とか、鈍い色遣いとか、暗めの室内とか、まるで17世紀のオランダの市民の室内を19世紀のフランスの田舎の農家の室内に置き換えたようにも見えます。おそらく、そういう物に対するニーズが増えてきたのに応えるように、ミレーは何枚も描いたのではないかと思います。

Milletbostonknitt1「編物のお稽古」という作品は、同じ題名で2枚展示されていましたが、ほとんど同じような作品です。ひとつの安定したパターンとして、細部に細工を施して個々の作品の差別化を行いながら量産していったのではないかと思います。突飛な飛躍かもしれませんが、17世紀オランダの画家フェルメールの有名な「牛乳を注ぐ女」の女性のポーズと、ミレーの子供に編み物を教える女性のポーズ、とくに上半身は、ほとんど同じというほどそっくりです。そればかりでなく、画面のほぼ中央に人物を配して、左側に窓のある側に位置させて、左手から光を取り入れていて、女性が光に向かうようにしているところまで、そっくりです。おそらく、ミレーはオランダ絵画を勉強したのではないかと思います。そして、フェルメールの作品に体現されているようなパターンを学習して、それをうまく使ったのではないか。このようなオランダ絵画のパターンは、フランスでも受け容れられる普遍的なものになっていた。では、フェルメールを単に農家に場面を替えただけなのでしょうか。ミレーとフェルメールとでは、作品を一見しての印象はまったく異なります。その違いは何なのでしょうか。多分、その違いが、ボストン美術館でミレーのコレクションが作られるほど受け容れられた理由なのではないかと思います。私が受けた両者の違いの大きな点として、ひとつはミレーの方が簡素に見えたということです。実際に画面に描かれた物の数だけを比べるとミレーの方が圧倒的に少ないように見えます。それは、ブルジョワの室内と慎ましい農家の室内という先入観はあるのかもしれませんが、実際の画面をよくみれば、数の違いはあまりなくて、フェルメールのほうは窓下のテーブルに集中的に物が置かれているので、たくさんあるように見えているのに対して、ミレーは文指されているのと、背景になっていて物の存在感が希薄になっているため、物がないような印象を与えていると思います。そのことが、ミレーの方がより簡素に見えてきます。そして、ミレーは細部を細かく描いていません。例によって、人物の顔を描き込むことをせず、フェルメールのように人物の着ている衣服の布地の肌触りの違いや、服地のつくりだすひだやそこに当たる光による細かな陰影といった精細な描写はミレーにはありません。それは、ミレーには筆力が及ばなかったのか、似たような製品を何点も制作する、いってみれば薄利多売で糧を得るためにひとつひとつを細かく描き込む手間をかけられなかったのか、あるいは丸っこい人物表現に見合うように作品全体を統一するために敢えて細部を描き込まなかったのか、それらのいずれも当てはまるような気もします。それによって、農家の慎ましい生活というのがパターンのイメージとして受け取られやすくなっている効果をあげていると思います。一方、フェルメールにある技巧的な感じ、何か仕掛けがあるというのか、隠喩的に何事かが隠されていると勘繰ることに誘われるような、何かありげな思わせぶりな、一種過剰なところは、ミレーではありません。ミレーでは、その簡素さが際立っていて、それがまた農家の情景に見合い、細部を省略しているところが画面を一種寓話的というのかおとぎ話の一場面のように見せるような効果を作り出しています。

Milletbostonfelそして、フェルメールとちがって、ミレーの画面は全体として暗いのです。その暗さのなかでの明暗の微妙な陰影を観る者に想像させ、ます。そして、暗いということだけで、農家の光の乏しい貧しさ、慎ましさを印象付けます。それが、例えば、アメリカ東部の敬虔なプロテスタントの禁欲的で敬虔な人々にとって共感を誘うものであったのではないと思います。

「糸紡ぎ、立像」という作品。他にも「糸紡ぎ、座像」という似た作品が一緒に展示されていました。ボストン美術館のコレクションはこれらをまとめて所有しているのでしょう。ミレーは、糸紡ぎを題材に何点も似たような作品を制作したのでしょう。私は美術作品の知識が豊富ではないので分かりませんが、もしかしたら、これらも過去の作品の構図のパターンを上手く利用しているのかもしれません。このように、ミレーの作品をみてくると、農民を写実的に描いたというような主催者あいさつにあるようなミレーの姿とは異なった姿が私には見えてきます。それは、農民の姿を執拗にスケッチして、その中からあらたな伝統的な描き方に捉われない、新たな表現方法を創り出したというのではなくて、伝統的な構図とか様式を骨格として、農村や農家を題材として当てはめるように描き、そのなかで現れ出てくる矛盾を適宜手直ししながら、作品として筋の通ったものにまとめていった、というのがミレーの芸術ではないか、と私には考えられます。それは、決して、ミレーを貶めようとするものではなくて、実際に、それまでの方法論で想定外のものを新たに絵画の対象とするだけでも大変なことだったはずですから。

Milletbostonspinner実際のところ、ミレーの作品個々については、ひとつを取り出して単独に価値とか意味とかを議論するというものではなくなってきているように私は思います。個々の作品の独立した存在感というよりは、一種、工業製品に近くなっているというのでしょうか。だから、ここでも、個々の作品については、ミレーの作品の例として議論することになっていると思います。それは、ミレーが似たような作品を量産したということもあるでしょうし、時代も大量生産、大量消費の大衆社会に足を踏み入れようとしていた影響ではないかと思います。ミレーは、とりあげた題材こそ農村ですが、その内実とか制作の構造は都会の労働者などの大衆社会に対して、当時の権威である画家たちよりも一歩先んじて適応した画家ではなかったのか、と私には思います。それが、伝統をもたない、アメリカにおいてむしろ受け容れられたのは、そのせいだったのではないか、と私には思われるのです。パターンを量産する、省略の多い描き方は、高尚な芸術という教養を欠く人間からは、むしろ親しみやすいのではないか。それでいて、伝統的な安定的な画面構成は、それを人々は意識していなくても、印象派のような過激な画面に比べれば、人々の常識の範囲内で見る際に葛藤を起こすことがない、しかし、ある意味で格調は維持されているので、それなりのブライドを満たすことはできる。ミレーの作品は、そういうものとして受け容れられた。一方、旧社会である故国フランスでは、大衆に媚びるように教養ある人々の目に映って、軽蔑を招いた。そういう人々は、評論とか、そういう形として残るものをつくる人たちであったので、そういう記録が評価として残ったのではないか。私には、そんな想像をしていました。

そういう想像をさらに助長させたのは、ミレーの遺産として、彼の影響を受けたとされる後代の画家たちの作品をミレーと比べて見たことでした。そして、私にはミレーよりも、後代の画家たちの作品の方が親しみやすいものに思えたのです。

2015年2月17日 (火)

ボストン美術館ミレー展(4)~Ⅲ.バルビゾン村

前座が長くなりましたが、いよいよ真打ち登場です。ミレーがバルビゾン村で農村風景を描いた作品や関連する画家たちの作品です。これと、この後の家庭の情景を描いた作品が、この展覧会の核心部ということになると思います。おそらくボストン美術館のコレクションは、ここでの展示作品がメインとして、それに関連するように周辺の作品が購入されていった結果というのではないかと思います。作品を見て行きましょう。

Milletbostontane「種をまく人」から見ていきましょう。この展覧会のポスターにも使われ、ミレーの代表作とされている作品です。そう言われても、私にはピンと来ない作品でもあります。率直に言って、何が描かれているのか分からない。全体として薄暗い画面の真ん中に影のように人の形があって、身体をひねっているようなのがかろうじて分かるという程度なのです。この何が描かれているのか判然とないというのは、抽象絵画のようにはじめから形を崩してしまったようなものではなくて、何かしらが描かれているようなのが、私には読み取ることが困難ということです。この作品は、私には展覧会のあいさつで述べられていた“田園で働く農民の姿や身近な情景、自然の様子を畏敬の念を込めて描き取ったジャン=フランソワ・ミレーは、写実主義を確立し、近代絵画への先駆者とされています。”というミレーに対する評価に疑問を抱かせる作品でもあるのです。この作品が写実的であるとしたら、ミレーという画家の技量が単に下手だということを明らかにしているものと、私の目には映ります。おそらく、この作品にはミレーという画家の特徴が集約的にあらわれていて、それを受け入れることのできる人は、この作品に高い評価を与えることができて、そうでない私には難解際なりないか、下手としか見えないということになるのではないかと思います。気がつくままに、その特徴を挙げていきたいと思います。まず、画面全体が暗くて鈍い色で覆われているため、全体に茫洋としてはっきりしない靄のよう見えるということです。色彩のコントラストは考慮されているようなのですが、一様に鈍くなっているためメリハリがなくなってコントラストの効果が死んでしまっています。また、写実的な画家は多くの場合は鋭角的なほど形態をキッチリと明確に描くのですが、この作品をみていると敢えて明確に輪郭を曖昧にさせているように描いていません。その形態も鋭角的とは反対の鈍角的に意図しているように見えます。そして、この作品にとくに現れていると私には思われるのですが、人物が無理しているとしか見
えない不可解なポーズです。この人物はまるで古代ローマの円盤投げの彫像のようなポーズです。これらのことから、私が勝手に考えたのですが(論理的に筋道が通っていないかもしれません)、ミレーという画家は主催者あいさつで述べられているような農民の姿を畏敬をこめて写実的に描いたという人には見えてこないのです。むしろ、当時のアカデミーの古臭い権威であったプサンなどのような古典的で安定し落ち着いた色遣いや柔らかい輪郭の描き方に倣おうとして、時代環境の違いと自身のセンスの鈍さゆえに、題材を同時代の農民に求めざるを得なかったのではないか。それは、ミレーの鈍い色彩感覚が農村風景の全体として地味でパッとしない風景に適したもので、写実的に見えたということではないか。また、丸く形態を捉え、輪郭を曖昧にするというようなミレーの古臭い描き方は、同時代のスマートな都会人には適さないけれど、屋外で着膨れたような格好をして動きの鈍い農民には反対に適していた。そして、当時の絵画の消費者である都会のブルジョワジーなどの中産階級が交通機関の発達によって、農村を含めたそのような郊外の風景を実際に目にすることができて、珍奇で新鮮に映ったその風景を、ミレーは題材としていた。そのように私には思えます。

MilletbostonsheepgirlMilletbostoncorot_2「羊飼いの娘」という作品は、ボストン美術館のミレーのコレクションの中でも「種をまく人」に劣らないミレーの代表作であるということです。草原に腰を下ろしている少女の姿を題材にした作品は、同じ会場で展示されていたコローの「草刈り」と比べて見ていただきたいと思います。同じように草原に座った女性を題材にした作品ですが、コローの作品では背景に対して女性が際立つように明確に描かれていて、笑顔を浮かべているものの、どこか表情にしまりがなく疲れが仄見え、肩を落として腰掛けている姿勢や服の着こなしにも崩れたようなところが精細に描かれています。ここから彼女の労働の辛さと疲労を想像することもできるように描かれています。この作品を観る者は、画面の精緻な描写から様々な情報を得ることができ、そのように観察することができるのです。これに対して、ミレーの作品では顔の表情は大雑把で細かく描き込まれていません。座っている姿勢の描き方も人物が座っているというパターンの形態として描かれているようで細かな情報を得ることはできません。画面から得ることのできる情報はコローの作品に比べると限られたものになっていると思います。だから、この作品を観ると、コローの作品の場合のような距離をおいて観察するという態度ではなく、一体何が描かれているのかと、一歩作品に歩み寄り、身を乗り出して画面に入り込もうとするように導かれることになります。しかも、ミレーの作品では少女はコローの作品のように背景から際立たせられているのと反対に背景と同じような描かれ方をしているので背景に溶け込んでいるようなのです。それゆえ、この作品を観ようとするものは、作品の風景の中に入り込んで観ようとしないと、という態度に誘われるのです。このようなことから、ミレーの作品では、コローの作品に対する場合と、観る者が作品に対して置く距離感が異なってくることになります。ミレーの作品では、観る者が作品に一歩近づくことを余儀なくされるのです。それが結果的に作品への距離を近いものにさせ、親密さとか感情移入を誘うものとなっているのではないかと思います。

Milletbostonrutsu順番は戻りますが、展示室で最初に目に入ってくるミレーの作品は「刈入れ人たちの休息(ルツとボアズ)」という作品です。大作です。旧約聖書のルツ記の物語の一場面を題材にしているとのことです。これは「種をまく人」でも「羊飼いの娘」でもそうなのですが、これらのミレーの作品は、単に農村の情景を写生したのではなくて、伝統的な歴史画の物語や神話の場面やその構成に農村の人物や風景を当てはめて描いているということです。つまりは、農村の事物をパーツにして歴史画を制作したということです。私には、ミレーという画家は当時にはなかった農村をリアルに描くということを新た表現として打ち立てるほどの独創性はなかったし、本人にもそのような意志はなかったのではないかと思うのです。むしろ、ミレーという人は従来の伝統的な方法論に従って画家としてのキャリアを積み上げたいと考えていたという、考え方とか姿勢としては凡庸な人ではなかったのかとおもうのです。それが、よく表われているのが、この「刈入れ人たちの休息(ルツとボアズ)」という作品ではないかと思います。同じ物語を取り上げた作品として、当時の権威であるプサンの「夏」という作品があります。多分、ミレーはこの作品を参考にしているのではないかと思わせるところがあります。その点からも、ミレーは新しいことをしようとしていなかったことが分かります。しかし、ミレーはプサンのようには描くことができなかった。それは、技量の点や時代状況などの外在的な要因からではないかと思います。そのような意図せざる結果として、彼の農村を描いた作品が生み出されたのではないか、展示されている作品をみていると、私にはそう思われてきます。それは、展覧会の主催者のあいさつや解説で説明されている、ミレーが農家の出身で農村のことを知悉していたとか、農民に対して自ずから共感を抱いていたとかと言うこととは無関係のことです。敢えて言えば、ミレーの持っていたセンスとか感覚を培ったのが、彼の出自によるものかもしれないということくらいでしょうか。少し脱線しました。話を戻しますと、この作品が古典的な歴史画の構成とか方法に則って制作されていたということは、画面全体に安定感を与えると思います。当時の作品を観るひとにとって前衛的といえるような斬新な画面よりも、伝統的なつくりの画面の方が親しみやすいのは確かです。そこで、パーツとして題材になっているのは珍しい新鮮な農村の風景ということで、親しみやすいけれど新鮮さがあるということになったのではないかと、想像するのです。そこに、画家としてミレーの作品が認知される要因があったと私は考えます。

Milletpusan「刈り入れ人たちの休息」という作品について、プサンの「夏」と比べながら観ていきましょう。両者の画面構成の大きな違いは、プサンは手前の人物と背後で農作業に勤しむ人々の姿、そして背景と三つの景色で構成されているのに対して、ミレーは主人公である二人が休息している人々の集団と同じ場面に含まれていて、それら背景と二つの景色で構成されていることです。その結果とし、ミレーの作品では、場面を突き放した客観的な視点が後退しているような外観を呈しているように思います。プサンにはあった遠景がないミレーの作品は空間の広がりでは及びませんが、作品を観る者の視界がプサンの作品に比べて近いものになっています。それが作品の空間に観る者が近しい感覚となる、さらにいうと突き放した客観的な視線ではなく、観る者自らが画面に入り込むような主観的な要素の含んだ視線になってきているのです。その一方で、それだけ観る者の距離感を近しいものとしながら、ミレーの作品では、主人公をはじめとした人物の表情を細かく描き込まれていません。顔はのっぺりとして、一応の形の輪郭までは描かれていますが、そこまでです。しかも、人物の描き方は丸みを帯びた人形のようなパターン化に近い描き方になっています。それが、私にはミレーの作品を観るときに戸惑わされるものでした。せっかく、画面に近寄るように誘い掛けておきながら、肝心のところにくると冷たく突き放されるような印象を受けたのでした。人物に近寄ってみたら無表情で肩透かしをくうのです。ミレーは細かく顔を描けなかったのでしょうか。それは最初に見たような肖像画を描くことが出来るのですから、できるのに敢えて描かなかったのです。そこには何らかの意図があったと思えるのです。それはミレー自身が顔を精細に描くことの意味を考えられなくなっていたことでしょうが。その理由として考えられるのは、描く対象となっている農民の顔が無表情であったということ、都会人のような社交で生きているのとちがって農民には大げさな表情とか演技するということがなく、絵画に描くような明確な表情の変化というものが見られず、敢えて描こうとするとわざとらしくなってしまう、ということ。また、ミレーの描く作品は人物をクローズアップして顔を微細に描く人物画ではなくて、いうなれば中景の距離感で人々の動きを捉えるというスタンスを取り始めていたことから、人々の身体の動きやポージングが雄弁にものがたるものとなっていたため、顔に表情を描き込むと観る人の視線が細かな顔に行ってしまって、身体への目配りが疎かになってしまうことを避けるためにという目的。さらに、画面に接近してみて、顔の表情が描かれていないことによって、観る者に想像させる余地を与えていると考えることも出来ると思います。もしそうであれば、ミレーの作品は単に作品を眺めると言うこと以上に積極的に画面に参加し、観る者は想像力を働かせることを要求するものになってきていると考えることもできます。

Milletbostonsukiもし、そうであるとすれば、有名な「種をまく人」に対する見方も変わってくることになります。私には、この作品は何をやっているのか分からない、形態もはっきりしない、暗く薄ぼんやりしたなかで古代ローマの円盤投げの彫像のような無理なポーズをした人体がある程度にしか見えなかったのです。従って、この絵がなぜ、ミレーの代表作とされているのか理由は分かりませんでした。解説の説明によれば、当時のフランスではミレーの作品に対して汚いという評価を与える人々がいたそうですが、さしずめ、この作品などは、その典型的なものではないでしょうか。正直、私もそう思います。それが、この作品が単に種をまく農民の姿をえがいたというだけでなく、聖書の寓話を仮託してもいることがあって象徴的な意味合いも重ねられているゆえに、描かれている人物はシンボリックに見える必要があったということを考えると、そうせざるを得なかったのかもしれないと想像することはできるようになりました。とはいっても、この作品は、私にはとっても相変わらず不自然で、何が描かれているのか不可解な、要するどこがいいのか理解しがたい作品であることに変わりはありません。同様の描き方でも「鋤く人」という作品は、その描き方ゆえに人物にダイナミックな力感があって力強さと土地を耕すということが活写されているようにみえて、こちらの方が私には親しめる作品になっています。

2015年2月16日 (月)

ボストン美術館ミレー展(3)~Ⅱ.フォンテーヌブローの森

Milletbostonmapミレーの作品に行く前に、ボストン美術館がコレクションしているバルビゾン派の画家による風景画の展示です。描いた場所はバルビゾン村に近いフォンテーヌ・ブローの森です。19世紀前半にパリの画壇にも風景画が普及していったといいます。鉄道網の拡大により、芸術家や旅行者が郊外の手つかずの自然が残る場所へ容易に出かけることができるようになり、このような移動手段の向上により郊外の風景に容易に触れることができるようになり、そのような風景を描いた絵画のニーズが生まれたといいます。現代であれば、旅行やハイキングで記念に写真を残すことができますが、写真のない当時は、その風景を描いた絵画を見ることによって、旅行を思い出したり、まだ行ったことのないところへの思いを馳せるということが生じてきた。そういう新しい風景画のニーズが生まれたと言えます。しかし、当時の既存の風景画は、歴史画の舞台としての古代の風景や物語の舞台背景として都合よく理想化された風景しかなかったと思われます。そんな絵画では新たに生まれたニーズに応えられない。そんなときに、バルビゾン派の画家たちがパリ郊外のフォンテーヌブローの森を写生した風景画は新たなニーズに応えるものであったと言えるのではないか。だからこそ、コローといった大家を含めた何人もの画家たちがバルビゾン村に居を構えたのではないかと思います。この章の展示では、このようなバルビゾン派の風景画を集めて、ミレーの同時代で、彼に近い環境の動きを概観するとともに、個々で展示されている画家たちと比べて、ミレーの独自性が見えてくるということを期待する展示になっていると思います。

Milletcorotまずは大家カミーユ・コローの作品を見て行きましょう。コローは若い頃にイタリアに留学し、古典的な絵画を現地で学んだといいます。古典的な手法で現代的な題材を対象として描いたというのがコローの特徴で、ルネサンスの著名な「モナ・リザ」と同じポーズの女性を描いた「真珠の女」という作品などは、その代表的な例と言えます。風景画についてもこの後で見てみる、他の画家たちに比べて明るい画面で、伝統的な古典の手法でくっきりと明確な輪郭で描かれています。これは、パリのような都会で生活している人々にとって郊外の風景を幾分か理想化し、都会人の抱く自然への憧れを、リアルな自然から乖離させることなく巧みに纏め上げているといえます。例えば、「ファンテーヌブローの森」という作品です。典型的なフォンテーヌブローの風景いう都会人イメージを古典的な構成の中で、個々の写実的な描写うまく当てはめていくという方向の作品ではないかと思います。前景、中景、後景の個々の要素により規則的に部活された構図は、中心から左に位置する大木と水を飲むために池に入っている牛が観る者の視線を左から右へと引きつけ、後退する背景へと導くように描かれています。観る者の目はジグザグとした動きの構図を見せる作品に導かれるように羊飼いの娘が水を飲ませるために3頭の牛を連れている道を見つけるに至ります。しかし、それははるかに眺めるに留まるもので、前景にある池を囲む雑草と大きな石が、この風景の中に入ろうとする視線を妨げるはたらきをしているように見えます。ここで詳細で鮮明なコローの描く画面に対して、観る者はコローが一時的につくり出した空間をのぞき込むように眺めるだけです。それは、都会から旅行で一時的なに風景を眺める視線です。いわば、絵葉書的な風景と言ってもいいかもしれません。

Milletbostonbrunoy_2「ブリュノワの牧草地の思い出」という作品です。ブリュノワとはパリとフォンテーヌブローの中ほどに位置する場所だそうです。この作品でのコローは「ファンテーヌブローの森」のような厳格に描き込んだ風景画から流れるような筆遣いに淡く薄い絵の具の塗りで幻想的な雰囲気の漂う優美な風景に変化してきています。明るい緑の風景の中で、白い花々が白色の軽いタッチで散りばめられ、木々の葉はサッと流れるように描かれています。それがうららかな場面の雰囲気をつくり出しています。二人女性と一人の子どもの三人組が森の中の、右手にいる牛の横を通り小道を奥に進んでいます。コローは、この作品を「思い出」というカテゴリーの一つとしているそうですが、どこか郷愁を誘うようなノスタルジックな幻想の風景のようです。

Milletbostonflower_2コローの三つ目の作品は「花輪を編む若い娘」という作品です。都会の着飾った淑女にはない、素朴で可憐な少女です。しかし、彼女の着ている衣装は、後のミレーの描く農民のくたびれ色褪せたものと異なり、演劇かオペラの舞台衣装のような感じでスタイルこそ農民風ですが、どこか華やかなところがあります。少女のうつむいた表情は見る者の関心に気づかず、花を編むことに没頭しているようで、それが都会の淑女のように摺れていない、可憐さを引き立てる効果をあげています。少女のちょうど後ろには花輪に使われる色とりどりの花が軽やかに描かれています。その他の草木はスケッチ風で、画面左には石造りの古代風の建物の一部が描かれています。これらはまるで演劇の舞台のようで、そう考えると少女のポーズやうつむいた表情も、どこか演劇くさい、ちょっとわざとらしい造ったような感じもしないわけでもありません。いずれにしても、これらの作品から観るコローの描いたものは、都会から田舎を眺める一時的な風景で、都会と田舎の間には越えられない境界があって、その境界を隔てて観る者は都会にいて珍しい風景をのぞくという視線が貫かれているように思えます。

Milletbostonresso1次に、コローと同世代のテオドール・ルソーの作品を見てみることにしましょう。ルソーの風景画へのアプローチは、コローとは違って古典的な設定や構成に制限されることは少なかったといいます。他方で、精密な空間構成と日常の様子に溢れ、深みのある茶系統の暖かみのある色調のオランダ風景画からの影響を受けていたと言います。形態と構図を理想化し、一場面として装飾されているかのような古典的な風景画ではなく、目の前の情景に素直に反応するような写実的な風景を描いたといいます。

「森の中の池」という作品は、コローの描くような明快で整った庭園のような風景ではなく、鬱蒼とした森です。その森が観る者の目前に広がっているかのようです。前景中央を取り囲む木々は精緻に描写され、池の表面のハイライトや野原の草の軽やかな筆致が、森の奥へと観る者の視線を誘うようです。とくに樹木の精緻で力の入った描写が焦点といえると思います。しかし、その一方で、池のほとりにいる赤いマントの農民と牛はまるで補足のようで、これほどまでに小さく描かれていることから、オマケのようなものであると思います。

Milletbostonresso2また「フォンテーヌブローの薪拾い」という作品は、画面の中央に、二人の女性が奥の森から続く小道をゆっくりとこちらのほうに進んでくる風景です。茶色く色づいた森や草原の深い緑の秋の気配が漂う風景の広がりに対して、人物は点景のように小さく描かれています。ルソーは森の風景を精緻に描写し、観る者に森へ誘うような迫真の画面を提示しました。コローは森をスケッチした後、アトリエで作品にまとめたのに対して、ルソーは屋外でキャンバスを立てて写生をして作品を制作したといいます。その違いがリアルさとなって表われているのかもしれません。しかし、距離感はコローと、それほど変わりません。ルソーの作品を観る都会の人々は都会とは違う郊外の風景を物珍しさとして見たのではないかと思います。描写が精緻か形式的かの違いはあるにしても、現在の我々で言えばツァーの観光客のような物見遊山の視線のニーズに応えるものであったと思います。

Milletbostonpenyaナルシス・ヴィルジル・ディアズ・ド・ラ・ペーニャという画家は、当時のフォンテーヌブローの森を描いた売れっ子画家だったとのことで「森の奥地」という作品は、ルソーの精緻な描写に色彩や明暗のコントラストをつけ、この作品では木の間を差し込んでくる陽光と影の織り成すコントラストが後の印象派のように強調されています。この作品など、あざとさまではいかないけれど、効果をあげる演出が施されて風景をいっそう印象深くしているといえます。これらに描かれるフォンテーヌブローの森は眺める対象として、離れて在るということで共通しています。これらは共通して映画で言えばロングショットの遠景なのです。

Milletbostonsheepここで、ミレーの作品が他の作品に紛れるようにひっそりと展示されていました。展示されていた作品はフォンテーヌブローの森を対象とした風景画というよりは、付近の農民の姿を描いた風俗画といえると思います。それだから、というわけではないでしょうが、他の画家たちの作品と比べる対象との距離感が異なっているのです。「木陰に座る羊飼いの娘」という作品です。先ほど見たコローの「花輪を編む若い娘」と比べて見てほしいと思います。ふたつとも若い娘を中心にした作品ですが、「花輪を編む若い娘」のほうは立ち姿全身を描き背景には左手にはるか遠景の石造り建物の一部がのぞめます。これに対して「木陰に座る羊飼いの娘」は座った姿を描き背後は大きな木の幹に隠されて僅かに左手に森の木々がのぞいています。二つの作品を比べると、「木陰に座る羊飼いの娘」の方が女性に近寄った視点で、「花輪を編む若い娘」は引き気味の視線で、遠景も入れていることから尚更、その感じが強くなります。そのため、「花輪を編む若い娘」は距離をおいて若い娘を見るという客観性の強い視線になっています。この作品が、どこか舞台装置めいた演劇の一場面のような様相を呈しているように見えるのもそのためでしょうか。これに対して、「木陰に座る羊飼いの娘」は、羊飼いの娘に寄った視線になり、背景はせいぜい森の木々という中景の範囲にとどめて視線の近しい距離にして描いています。しかし、そこまでして、視線を近しいものにして、親近感を抱くことのできるような距離感にしているにもかかわらず、この羊飼いの娘の表情は、ぼんやりとしか描かれていないのです。せっかく近しい距離にして、羊飼いの娘にクローズアップしているにもかかわらず、肝心の娘の顔がぼんやりとしているのです。それはわざわざ観る者の視線を近しいものにしたところで、最後のその視線を突き放すようなことになっているのです。観る者が勝手に想像してくれと言わんばかりです。娘の顔は背景の筆を流しているような草葉と同じような程度の描き込みになっています。これに対して、「花輪を編む若い娘」のほうは可憐な表情まで描かれているのと対照的です。私には、このような視線の距離感が他の画家にない独特のところ、ここでいえば人物画といってもおかしくない作品が風景画のように描かれている、そこにミレーの特徴があって、その不思議な距離感で農民の風景を描くと、客観的に観るというのとは違う印象を観る者に与えることになっているのではないか、そう思わせるところがあるのではないかと思います。 

ここの章は、解説から大部分をパクりました。

2015年2月15日 (日)

ボストン美術館ミレー展(2)~Ⅰ.巨匠ミレー序論

ボストン美術館のミレーのコレクションはバルビゾン派の代表的な画家として農民や農村の情景を描いた画家としてミレーを評価しているでしょう。ここでは、ミレーがバルビゾン村に移る前にパリで修行をし、故郷にちかいシェルブールの町で肖像画家として、最初の妻であるポーリーフ・オノや周辺の人たちを中心に肖像を描いていた頃の作品を、「序論」として展示しています。点数も少なく3点しかありません。正直にいえば、ミレーの展覧会で展示されているから見ますが、これらの作品を画家の名を伏せて、他の画家の作品と一緒に並べて展示されていて、この作品に目を留めるかは、甚だ疑問です。素通りしてしまうのではないかと思います。

Milletbostonself「自画像」は、ミレーが4点しか描かなかった自画像のうちの1点で、画家の27歳の肖像だそうです。後年の農民画では、人の顔や表情を描き込むことを敢えて避けて、丸型の輪郭にまとめてしまっているのですが、ここでは肖像画というせいもあり、顔の造作をきちんと描き込んでいます。その意味で、後年の作風とは異なるミレーがここにいます。画面を見ていると、背景は省略されて塗り込められていて人物が浮かび上がるようになっています。描かれた人物の肌は大胆な色調のコントラストがほどこされ、鼻筋のほぼ白色のハイライトによる線から、頬のピンクやクリーム色へと向かった部分です。これに対して、人物の頭部を強調するためでしょうか赤褐色の背景に黒っぽい衣装を着せて、波打つ茶色い髪の毛は黒いコートの襟に溶け込んでいるように見えます。これによって顔に視線が集まるように工夫されています。このような細かな工夫はミレーの一般的なイメージとは異質です。肖像画家として生きていこうとするならば、このような効果をあげるためのテクニックは必要なものだったのでしょう。しかし、顔がクローズアップされるような工夫がほどこされている、その顔の表情が物足りないというのでしょうか、眼は表情を語っているのでしょうが、口や下あごは陰になってしまって表情を語るまでに至っていません。せっかくクローズアップしても顔自身が弱いので、画面全体の印象が薄いのです。若い画家の自画像であれば、決意とか自負のようなものが強く伝わってきそうなものであってもいいのに、そういう主張はなされていないのです。これであれば、肖像が魅力あるものになったのか。地味という印象は避けられません。ミレーという画家の生来のものであろう地味に作風というのが、ここに表われていると思いますが、それが果たして肖像画というジャンルに適したものであったのか、甚だ疑問です。

Milletbostonwife「JFミレー夫人(ポーリーヌ=ヴィルジニー・オノ)」という最初の妻を描いた作品。府中市美術館の「生誕200年ミレー展 親しきものたちへのまなざし」では、彼女を描いた肖像が3点ありましたが、それらとは趣向の異なる作品。雰囲気は暗く、上目遣いにこちらを見つめているようなポーズです。府中で見た3点とは違って頭巾を被っているため、黒髪は一部しか見えません。しかし、そのため農家の女房のような印象になって、繊細ではかなげな府中の3点とは違いたくましさを感じさせるものになっています。これはこれで、まとまった作品ではあるのですが、この作品だけを取り出して魅力あるものとピックアップできるかというと、地味であるといわざるを得ません。

これはミレーの対象との距離感によるところが大きいのかもしれません。それが肖像画を描くときには中途半端になってしまうということになってしまう。対象に近づくのであれば思い入れとか愛情が込められた濃厚な表現がなされるのでしょうし、逆に対象から離れるのであれば客観的な視線から特徴を際立たせたり効果をあげるための装飾的な操作を施すこともできるでしょう。しかし、ここでのミレーの描いた肖像は、そのどちらでもなく、淡々と描かれているように見えます。装飾を施すにはてらいがあり、かといって愛情を前面に出すには恥ずかしいというのでしょうか、どちらかに徹することができず、結果として訴えるところの少ない結果となったものと思います。

Milletbostonhouse「グリュシーのミレーの生家」という作品。ミレーが19歳まで過ごした生家を描いた作品だということです。生家というタイトル(おそらくタイトルはミレー自身がつけたのではなく、後年に画家以外の人物が他の作品と区別するために便宜的につけたもののような感じですが)をつけている割には、故郷の懐かしい家というような家に対する思い入れが溢れているものになっているとは思えません。石造りの家の建物が正面から描かれているわけではなく、しかも緑に覆われた生垣と木々によって隠されたようになってしまっています。画面では木々・生垣や石造りの塀を描く筆遣いが細かくて、それ以外は、背景として大雑把に描かれています。つまり、風景を淡々と描いていると言った方がいいのではないかと思うのです。それは、郷愁とか思い出を喚起させるという象徴的な小道具や細部が見出せるような距離の近さではなく、かと言って、それ以前の伝統的な大家の人たち、プッサンとかヴァトーといった人々が歴史画の題材として一場面の風景を描いたような遠景の距離感とか空間構成に比べれば、風景を見せるという距離には近すぎます。つまり、中途半端なのです。そのような淡々と描かれた風景は、タイトルである家の建物が後ろに引っ込んでしまっているし、一人だけいる人物についても焦点が当たっているようには見えず、だいたい何をやっているのか定かでない、この作品は何を見ればいいのか、見ていて掴めないのです。

府中市美術館のミレー展では、肖像画の注文を受けるには、そのための技量に欠けるということを思いましたが、ここでの展示をみていて、その原因として、距離感が合わないということを思いました。そして、この距離感こそが、ミレーの特徴であり、後年の農村を描く際にはプラスに転じたのではないか、と思われるのです。それは、次の展示でフォンテーヌブローの森を描いた様々な画家たちの作品を見ると、違いが分かってくると思います。

2015年2月14日 (土)

ボストン美術館ミレー展(1)

2014年11月 三菱一号館美術館

Milletbostonpos9月に府中市美術館の「生誕200年ミレー展 親しきものたちへのまなざし」を見た印象が未だ残るうちに、こんどは別のミレー展があり、それをみる機会に恵まれました。

「生誕200年ミレー展 親しきものたちへのまなざし」の際にも、漏らしましたが、私には、ジャン・フランソワ・ミレーよりはジョン・エヴァレット・ミレイの方を見る機会が多かったので、今年は、われながらちょっと不思議な機会に恵まれた、ということにしておきましょう。

相次いでミレーの企画展を見てきたということで、それぞれを較べながら、それぞれの展示の特徴を含めたミレーという画家の作品の印象について、改めて私なりに整理しながら述べて行きたいと思います。この「ボストン美術館 ミレー展」の大きな特徴は、ボストン美術館のコレクションがミレーに対するある種のストーリーをもって、そこにある作品のラインアップには一つの解釈の姿勢が表われているように見えることです。それは、主催者のあいさつに読み取ることができます。

“田園で働く農民の姿や身近な情景、自然の様子を畏敬の念を込めて描き取ったジャン=フランソワ・ミレーは、写実主義を確立し、近代絵画への先駆者とされています。ミレーは1814年にフランス北部・ノルマンディ地方の農村で生まれ、1849年にはパリ郊外のバルビゾン村に家族で移住、村に集まった芸術家と交流を持ちながら生涯制作を続け、1875年に亡くなりました。それまで美術の対象とは見なされなかった農民の地道な日々の営みを、荘厳な芸術に高めた画期的な試みにより、ミレーは西洋絵画史に大きな足跡を残しました。そして自然に寄り添う人々とその勤勉さを称賛する表現は、日本人の心の琴線に触れるものであり、我が国でも時空を超えて愛され続ける画家となりました。ミレー絵画の素朴かつ崇高な魅力は、ヨーロッパや日本のみならず、アメリカにも波及しています。19世紀半ば、絵画修行のために渡仏してミレーと親交を結んだマサチューセッツ出身の画家たちが、故郷にミレーを紹介したことに端を発し、ボストン美術館は、ミレーの母国フランスにも比肩する充実したミレーの作品群を収蔵することになったのです。”

このあいさつでは、ミレーという画家は農民の働く姿や情景を畏敬を込めて描いた画家としいう捉え方と言う事ができると思います。「種まく人」や「刈り入れ人たちの休息」「羊飼いの娘」といった今回の展示でボストン美術館の3大ミレーと言われるという作品などは、まさにそのようなものとして見ることができると思います。また日本のミレーを愛好する人々も、これらの作品に加え、「晩鐘」とか「落穂拾い」といった有名な作品などから、そのようなイメージを抱いている人も多いのではないかと思います。

また、この展覧会にボストン美術館の館長が寄せている言葉の中にミレーについて次のような一節があります。“1860年代以降、アメリカにおいて、彼の作品について批評家たちがたびたび論じたことからも明らかなように、ミレーは非常に注目を集めていた。ミレーと農民という主題は、道徳性とキリスト教の理想の具現化の観点からアメリカ人に認識されていた。たとえば、彼の作品は子どもの本の中で、立派な暮らし方のモデルとして掲載された。1875年(ミレーの没年)の『ニューヨーク・トリビューン』紙の匿名記事では次のように説明している─「最後に、ミレーという名は聖なるものとなった」。”

府中市美術館でのミレー展との大きな違いは、このようなミレー解釈に由来するものではないかと思います。府中市美術館で展示されていた肖像画や晩年の風景画は、ここでは最初の自画像を除いて展示されていませんでした。これはボストン美術館のコレクションが農民の働く姿や生活の情景を描いた作品に限りなく重点を置いたものになっているからではないかと思います。それは、引用した館長の言葉に中にあった“ミレーと農民という主題は、道徳性とキリスト教の理想の具現化の観点からアメリカ人に認識されていた。”という一節から、ミレーの農村を描いた作品は、絵画として優れていて、人々の好みに沿うものであったという以上の何かを持っていたのではないかと思います。それは、ミレーの作品を見ることにより人々が触発されて紡ぎだすストーリーのようなものではないかと思います。ミレーの作品が制作された当時のボストンと地域を考えてみれば、敬虔で道徳的なピューリタンたちが開拓によって農業を営んでいた地域だったと思われます。そのような人々にとって、華やかで賑やかな都会であるパリを離れて、貧しさのなかで農村に住み、農家の情景を丁寧に描くミレーという画家の姿は、道徳的に共感できるもの、もっと言えば尊敬できるものとして映ったのではないかと思います。その、ミレーの描く農民たちの慎ましく、勤勉な姿は彼らにとって理想の姿として芸術という以上に道徳的なものとして捉えられたのではないかと思います。その様なミレーの捉え方からすれば、いい格好に扮した人物を立派に描く肖像画などは、鑑賞の対象にはあまり入ってこなかったといえるのではないかと思います。他方、ミレー以外にも農民を描いた画家はいたにもかかわらず(例えばブリューゲル、コンスタブル)、ミレーほどの支持を得られなかったのは、そのためではないのかと思います。

このような姿勢は、展示の章立てにも表われていると思います。

Ⅰ.巨匠ミレー序論

Ⅱ.フォンテーヌブローの森

Ⅲ.バルビゾン村

Ⅳ.家庭の情景

Ⅴ.ミレーの遺産

私の場合は、ミレーが農村風景を題材として作品を描いたことや、そこに彼の作品を特徴付けていることは事実としてあるとは思いますが、ちょっと違うというのが正直な実感です。これから具体的な作品に則してみて行きたいと思います。

2015年2月11日 (水)

ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(6)~Ⅴ.永劫回帰─アポリネールとジャン・コクトーの思い出

いよいよ展示も最後の章です。これまで、デ・キリコの作品を初期の形而上絵画から新古典主義、ネオ・バロックを経て、形而上絵画に回帰し、ここにきて形而上絵画を展開させたような作品を制作しました。

この章のタイトルが永劫回帰というのは大仰な気がしますが、このタイトルにあやかって、私もこの展覧会の感想のはじめのところに戻ろうと思います。はじめのところで、私はデ・キリコの作品の印象を“軽さ”と言いました。それは絵画の視覚的な表現が自立していないというのか、彼が頭で、言葉を使って考えたアイディアを形にするというものだったのではないか、という印象です。頭の中で言葉でこねくり回したアイディアは往々にして視覚的な必然性とは別の次元で発展させられるものであるために、画像として表現されるとチグハグとした印象は避けられません。頭で考えたアイディアで勝負ということになると、どうしてもアイディアの独自性ということになり、インパクトの強さを求められるようになります。それが視覚的な常識からは違和感を起こすような異化作用によるインパクトが作品に特徴として現われているといいました。それは、デ・キリコの作風の変遷をみても、形而上絵画から新古典主義、ネオ・バロックを経て再び形而上絵画に回帰するという作品だけを見ていると筋が通っていない、脈絡がないと思われることも、視覚的表現の軽視ということと、頭で目先のインパクトを追いかけるという姿勢から考えて見れば、とりたてて無理があるということにはならなくなると思います。こんなことを言うと、流行を無節操に追いかける軽薄な人間のように思われるかもしれませんが、デ・キリコという人は大衆消費社会の中で、自ら教養とか見識をもたず大勢に付和雷同するような、いわゆる大衆の性向にうまく見合うものとして広い支持を得たのではないかと思います。パット見の一見での違和感を生むほどのインパクトがあり、そして、もともと言葉で考えアイディアを視覚化してものであるため、言葉で説明しやすくなっています。それは、大衆に啓蒙する批評家という商売の人たちには、たいへん扱いやすいものです。一見難しそうなのが、深淵そうで、しかも教化するのに説明しやすい。形而上絵画で前衛的というレッテルを獲得し、その尖がったテイストを新古典主義やネオバロックの明快で大衆にも分かりやすい傾向に作風を変化させても、全面的に同調するのではなくて一部に破綻を含むことで尖がった味わいをスパイスのように残し、形而上絵画にもどったところでパターン化された作品を大量にばら撒くというマーケティングのお手本のような展開を結果的にした。何か、悪口に聞こえるかも知れませんが、そういうことが可能になる作品であった、ということなのではないかと思います。それが、私がデ・キリコの作品に感じる“軽さ”です。それはまた、ベンヤミンの言う現物のアウラをあまり感じさせない、実際の作品と複製、例えばパソコンの画面に映る画像との差異をあまり感じさせないことにもよるのかもしれません。しかし、だからこそ同じパターンのマンネリズムともいえる同系統の一連の作品については画面に含まれるパーツの組み合わせや配置を組み替えることで画面に差異を生み、その変化によって画面の表わすものが変わってくるというパズルの組み換えのような面白さを生み出すことを可能にしました。それは、もともとのデ・キリコの制作が頭で考えたアイディアを後追いで形にしていくというものだったのが、組み合わせという出来合いの結果が作品となるというつくることと考えることの順序が逆転していって、もともと“軽い”ものであったのが、考えという重し、つまり内容も重視されなくなるに至って、もっと“軽い”ものになっていったと思います。だから、こういうのも変かもしれませんが、美術館や展覧会場で、深刻にしかめっ面をして鑑賞する芸術なんぞではなくて、ウェブで検索して画像を眺めたり、街角のポスターへの引用とか挿絵などで見るとはなしに、視線の邪魔をすることなく視界に入ってくると、「あっ!」と気がつくという程度の関わり方が似つかわしいのではないか、と今回の一連の展示を見ていて思いました。

デ・キリコという人も、典型的な画家というタイプの人ではなかったのではないか、と私は想像します。私が考える典型的な画家とは、例えば有り余る才能に翻弄されてしまうような天才的な人でカラバッジォのように才能に振り回されるように作品を生んでしまう人、あるいは何よりも描くことが好きで、努力の末に作品を成熟させていったシャルダンのような人です。そして多くの画家は彼ら二人のような極端ではないものの程度の差こそあれ二人を結ぶ直線の上にどちらの傾向によっているかの程度の差によって並んでいるのではないかと思います。しかし、デ・キリコはその直線には乗ってこない人だったのではないか、と私には思えるのです。それは、先の二人に共通している「描く」という行為を重視する姿勢がデ・キリコには感じられないからです。そういう精魂を込めて描くというような重さがないということから、デ・キリコの作品に対しては、芸術を鑑賞させていただく、という格式ばった姿勢ではなく、リラックスした消費の対象のような向かい方ができる、と思います。

Chiricosunこの展示会の感想においても、いつもなら個々の作品を取り上げて、それらを個別にああだこうだと感想をかたるのですが、このデ・キリコの展示作品については、個々の作品にはそのような存在感とか表現の強さのようなものがないので、個別の作品として区分がしにくいものになっていると思います。だから、このように全体として作品を語るという方が適していると思うので、大雑把で抽象的なもの言いになってしまっていますが、あえて逆らわずに、こうやって書いています。

「燃え尽きた太陽のあるイタリア広場、神秘的な広場」という作品です。デ・キリコは広場を題材にしたシリーズ物のような作品を描いていますが、そのひとつと言っていいのではないかと思います。それが、展示の章立てで前の章と別立てにして、あえてここに展示している意味が私には分かりませんでした。“永劫回帰”という物々しいタイトルの展示の中にありますが、はっきり言って、前の章で展示されていた作品のパターンに見えました。ここで展示されている作品は、そういう点で、それぞれの作品の個性というのは、とりたてて感じられない、パターン化されたシリーズのひとつ、一種のパーツのようなもののように思えます。

Chiricoyuri「オデュッセウスの帰還」という作品です。このような室内に船を浮かべているパターンもデ・キリコはいくつか描いているようですが、舞台を室内にするとか、古代ギリシャ風の物とか並べられている小物類をみていると、デ・キリコ風のパーツを盛り込んで、いかにもデ・キリコ風という作品になっていると思います。そういう意味では、デ・キリコ風として出回っているイメージを焼きなおして再生産するということは繰り返しを続けることに他ならず、格好いい言葉にすると“永劫回帰”というのが当てはまるのかもしれません。

色々と辛らつなことを書いてきましたが、デ・キリコの作品については形而上絵画とかシュルレアリスムの先駆とか、あまり祀り上げるようなことをしないで、軽いイラストのポスターのような、鑑賞するではなく、インテリアの一部くらいにリラックスしてなんとはなしに眺めるくらいが丁度よいのではないかと思います。これは、貶しているつもりはありません。

2015年2月10日 (火)

ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(5)~Ⅳ.再生─新形而上絵画

デ・キリコは形而上絵画に回帰します。

いろいろ試みて、紆余曲折ありましたが、結局、これが原点で戻ってきました、というのが回帰という考え方で、これが評価の基底になっているような気がします。

Benmond結論から先に言ってしまうと、私はこの新形而上絵画(というよりもデ・キリコの形而上絵画について、この時期の回帰した新形而上絵画においてデ・キリコは自覚的になったというべきなのでしょうが)は、ピート・モンドリアンの「コンポジション」名づけられた一連の作品と同じようなものではないかと思えるのです。モンドリアンの「コンポジション」は黒い水平と垂直の直線と、その直線で作られる方形に三原色を塗り分けたというだけの極限にまで単純化されたスタイリッシュな一連の抽象画です。そして、直線の位置どりによる方形の変化や色の組み合わせの変化によって、単純な構成の抽象画で様々なバリエーションを生み出しました。極限まで要素を削ったモンドリアンと様々な要素をごった煮のように画面にぶち込んだデ・キリコの形而上絵画を同じというには無理があるように思えるかもしれません。

ここで、そもそも形而上絵画とはどのような絵画かということを考えると、普通に考えると何の関係もない要素を画面に同列に並べることによって観る者に意外性を感じさせる異化の効果によって、何か意味ありげなものであるかのように見せるもの、というのが前にも述べた私の捉え方です。そうであれば、作品に描かれた個々の事物は、それ自体で存在感があるとか独自の意味とか存在を主張するものではなく、他の事物との関係で、たまたま作品の中に置かれているものに過ぎないということになります。違った面から言えば、意外性を感じさせるという組み合わせが大切なのであって、その個々の組み合わされる事物が単独で美しかったり実在感がある必要はないのです。むしろ、組み合わせが第一として、その組み合わせができるために融通無碍に使えることのほうが必要になってくるはずです。このとき、個々の事物の自立性は邪魔になるといっていいでしょう。以前にデ・キリコの描写とその対象との関係は言葉の恣意性に似ていると述べたことがありましたが、デ・キリコの作品の中の個々の事物は、その言葉のような位置づけに似ていると思います。例えば「火事だ!」という叫びについて、火事を観察していた新聞記者が記事の取材をしていた言葉を発したのであれば、客観的な事件として火事を指しているのでしょうが、実際に火事に焼かれて、間近に火が迫っている人が発したのであれば助けを求めていることを表わしているでしょうし、そこに出動してきた消防士の言葉であれば、周囲の人への避難の呼びかけになるわけです。つまり、「火事だ!」という言葉は、その言葉の置かれたテクスト、コンテクストとの関係によって意味が変わってくる、決められているのです。「火事だ!」という言葉そのものに意味はありますが、ここではコンテクストが第一なのです。デ・キリコの形而上絵画で描かれている古代風の建築とかマネキンのような人物とか様々な事物は、この言葉のような性格のものとして位置づけてよいと私は思います。そして、そのような性格の要素の組み合わせで画面を作っていくということを究極的にまで追求したのがモンドリアンの「コンポジション」だったと思うのです。デ・キリコの作品の事物はモンドリアンの作品の直線、方形、色彩といった突き詰めたものではありません。それは時代の制約か、デ・キリコという画家の中途半端さかもしれません。

一方、そうであれば、デ・キリコの形而上絵画は組み合わせと構成の妙が一番大切ということになります。そうであれば、組み合わされる個々の事物は独自の存在を主張しないほうがいいし、目立ってしまったら却って邪魔です。それならば、組み合わせを際立たせるために個々の事物は御馴染みのものを使いまわしたほうが下手に目立つことはなくなります。そこで、同じような事物をとっかえひっかえ様々な作品に流用して微妙に組み合わせの異なる作品を制作していくということになるわけです。

Chiricobisketそのような意味で、私には、デ・キリコは形而上絵画を推し進めた結果として、回帰とか再生というのではなくて、もともとそういうものを純化させていったのではないか、と思えるのです。観る側としては、モンドリアンの「コンポジション」を観るのと同じように、構成の微妙な変化をそれぞれ吟味して楽しむというものになっていると思います。それは、他方で、大量消費の大衆社会において意図的にマンネリのパターンとすることで、分かりやすいブランド化を図ることもできることになります。水戸黄門の印籠がでてくると視聴者は安心して楽しめるのと同じパターンです。このデ・キリコはこれだという単純なパターンが他の画家との差別化を生むことによってブランド化し、人々に広く受け容れられやすくなるわけです。

そのような視点で、作品を見ていくことにしましょう。「ビスケットのある形而上学的室内」という作品です。最初に見た「福音書的な静物」と同じようなパーツが使われています。それらの組み合わせや大きさのバランス等といった構成を変えて、シリーズ物として様々な作品を提供するということを可能にしていると思います。私には、「福音書的な静物」が描かれた1916年には物珍しさもあって衝撃的に受け取る人々がいて形而上学的とかいうレッテルでわけがわからないことをもっともらしく評していたのが、50年の時間を経て当時の衝撃はなくなり、このような作品以上にわけのわからない作品が数多現れた後では、物珍しさも失せてしまった。その時に、わけのわからなさを糊塗するような形而上学的などという形容は、昔日の栄光のような思い出の中にあると言う状態になって、作品をただ観るということが可能になったのではないかと思います。形而上学的などとレッテルを貼ってしまうと、往々にして画面そのものを見ているようで、描かれていないものを意識的に見ようとしてしまうことが多くなります。しかし、それは実は作品を観ていない。デ・キリコの作品といのは、本人も含めて、そのような目に遭っていたのではないか、と思わせるものがあると思います。これは、私の偏見かもしれませんが。さて、二つの作品を比べるように観てみると、単に同じシリーズの作品として同列に並べていいように見えるのが、大きな驚きです。「ビスケットのある形而上学的室内」は「福音書的な静物」よりも50年も後に制作され、その間、画家は様々な試みに挑戦し、画家として成長したのではないかと普通なら考えるのではないかと思いますが、その考えるときに期待する成熟とか表現の進歩とか、そのような痕跡が全く見られないのです。例えば、双方にあるビスケットの描き方を観ていても、相変わらずそれと知らされていなければビスケットであるとにわかに判別できないような下手さなのです。この50年間というのはデ・キリコにとって何であったのかというものが全く見えてこないのです。あれは、ある意味すごいことなのではないかと思うこともあります。

Chiricokodai「古代的な純愛の詩」という作品。デ・キリコという私が真っ先にイメージする少女の影が走るのは、たしかこのような建物のある広場だったと思います。この作品の空間構成のめちゃくちゃさや前景の配されている物の描き方は、新古典主義やネオバロックの時期を経たとは思えない、パターン化したようなへたうまの図案です。これらのような作品を見ていると、デ・キリコはこの時期には何かを描くとか、何かを表現するとか伝えるといったことを、自覚して排そうとしていたのではないか、と私には思えます。それは、かつては形而上学とかいった思想を作品を描くことによってそこに表現していようとしていたのかもしれませんが、この時期のコピーのような作品を見ていると、出来合いのパーツを並べて画面に描いていて結果として出来上がったものが、なんらかの作品となっている。ある意味での即興性のような方法というのでしょうか。そういうものを極端にまで推し進めたのがモンドリアンのスタイリッシュな抽象絵画だったりするのでしょうが、デ・キリコはそこまで突き詰めて考える人ではなかったのかもしれず、そのかわりに遊びのような感覚がモンドリアンにはない魅力としてあるように思います。そのような遊びの感覚が強く感じられるのが、デ・キリコ独特のキャラクターと思うマネキンを用いた一連の作品ではないかと思います。例えば、「慰めのアンティゴネ」という作品は、まるでまんがのキャラのようです。

Chiricoantigone

2015年2月 9日 (月)

ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(4)~Ⅲ.ネオバロックの時代「最良の画家」としてのデ・キリコ

バロックは古典的で安定した画面に比べて空間を歪めて劇的な要素を強調したのが特徴で、古典主義と区別できるというのが私の見方です。この展覧会で“古典主義への回帰”と“ネオ・バロック”とを、特徴をどのように分けているか、よく分かりませんが、展示の説明ではルーベンスの作風の勉強した結果のようなことが述べられていたと思います。デ・キリコの作品では、平面的でごちゃごちゃにパーツを詰め込んだ画面では古典的な空間構成がもともとできていないので、この期に及んで空間を歪めるなどというまでもないことです。デ・キリコの場合には、古典主義とかバロックと形容することに意味はあるのか、むしろデ・キリコのトレード・マークといえる形而上絵画のパターンを取っていない作品と言った方が適当ではないかと、私は思います。

Chiricoautumn「秋」という作品。最愛の奥さんをモデルにしたという裸婦像です。堂々と大画面にドーンとヌードです。下世話な話かもしれませんが愛する妻をモデルにして作品を制作することはあるでしょうけれど、ヌードを、しかも大作で堂々と公表するなどと言う事が、男性としてどうなのでしょうか。普通に考えれば、奥さんの写真を年賀状やフェイスブックに貼ったりすることはあっても、ヌード画像を出すということはしないでしょう。デ・キリコは芸術家だから別ということでしょうか。私の勝手な想像ですが、デ・キリコには奥さんをモデルにして描いたという作品で、奥さんの裸と描かれた裸像を結び付けて考えなかったのではないか、と思うのです。つまり、描かれた作品が描かれたものを表わすということを信じていないからではないか。さらに言うと、描写とか表現の真実性を素直に信じていなかったからではないか。だからこそ、描かれた作品に対して感情的な態度を取ることがなかった。だから、奥さんの裸像を作品としても、その作品を公にすることに羞恥の感情を起こすこともなかった、と私は考えます。これは、デ・キリコの父親の世代に属するフェルディナンド・ド・ソシュールの言葉に対する考え方に似ていると言えます。ソシュールは言葉の恣意性といいましたが、「うさぎ」という言葉と動物のうさぎとの間には何の関係もないのです。私たちは何の疑いもなくうさぎという動物を「うさぎ」と呼んでいますが、それはたまたま、そのように決めているからにすぎません。だから恣意性というのです。仮に、日本人とある狩猟民族がお互いに言葉がつうじないまま茂みの前に並んで座っていたところに、茂みから突然うさぎが出てきました。その時、とっさに日本人は「うさぎ」と叫び、狩猟民族は「gavagay」と叫んだとしましょう。日本人は動物を見て「gavagay」という言葉は「うさぎ」のことを指していると考えるでしょうか。でも、日本人は動物の名前の言葉を言いましたが、狩猟民族はうさぎを獲物と見たかもしれません。だから、彼が叫んだのは日本語にすれば「夕飯」だったかもしれません。だから、言葉はものの関係は一様ではなく、たまたま集団の中でそのように決めているだけにすぎないのです。一見不条理に思えるかもしれませんが、だからこそ、人は言葉を使って現実から離れた想像をすることができるのです。さらに駄洒落のような言葉遊びは、言葉がものと必ずしも結び付いていないからこそ可能になるといえます。駄洒落というのは現実のものの関係では結び付かないような意外なものを、言葉の響きの類似性で現実の脈絡に関係なく結び付けてしまうという異化作用によって笑いを起こすというものです。このような言葉のあり方は、現実には関係として結び付かないものを絵画の画面の中に配置を考慮せずごちゃごちゃに並べる。まるで画像による駄洒落です。言葉の抽象性と、それによる融通無碍になっているという性格を絵画に取り入れてキッチュな作品世界をつくった、それがこの作品にも表れていると思います。

Chiricorubens「秋」は尻をこちらに向けた裸の女性の全身像です。画面の中の人物のスケールがバランスを欠いて大きく描かれています。この女性の足元には、まるで彼女に踏み潰されそうなほど小さな風景が描かれていて、それに比べると特撮映画の怪獣のサイズに見えます。それは女性だけに留まらず、観る側から見る手前の果物も女性に合わせたサイズになっているので、背景からは巨大な物体になってしまっています。これは、意図的にバランスを崩して異化効果を狙ったものなのでしょうか。それにしては、背景の小さな風景の描き方が目立たなくて、注意して観ていない気がつかないものとなっています。それ以上に、被写体として魅力あるものを前にして、それをストレートに描くということをしないで、このように、いってみれば小細工を施してしまっている、というところにデ・キリコという画家の特徴が表われているのではないか、と私は思います。デ・キリコがこの時期にお勉強したと説明されているルーベンスの作品の女性像は、その豊満な肉体の迫力や艶やかさで、観る者に迫るような圧倒的な存在感があります。それが画面からはみ出さんばかりの迫力で観る者を魅了してしまうものです。これに比べて、ここでデ・キリコの描く女性には存在感とか観る者を魅了する要素は感じられません。生気がないというのか、豊満な肉体の形態は描かれているのですが、そのかたちの人形のようなものと見えてしまうのです。参考としてルーベンスの「三美神」という作品を観ていただくと、ここに描かれている女性の身体のラインの崩れまで描いているものの、生気に満ち溢れています。観る人によっては辟易させられるほど圧倒的です。ここにデ・キリコという人の画家としての特性でしょうか、さきにも述べましたように対象をうつすという絵の真実性を信頼していない、というのかそれを追求していないのか、忠実に写すことのできる技量がないのか分かりませんが、それだからこそ、画面に細工を施してしまうのではないか、と勘繰ってしまうわけです。

Chiricostill3「田園風景の中の静物」という作品です。この作品も背景の田園風景と手前の果物との大きさのバランスが遠近法のバランス以上に果物が大きくて、巨大な果物のオブジェが屋外に設置されているようにしか見えない景色です。バロック絵画では、ボデコンとよばれる静物そのものを描いただけの作品が瞑想を誘うような崇高な静物画がありますが、そういう物のなかにも神は宿るというように事物を描くというのではなくて、ここでの果物は、“らしく”描かれている、何かのかたちで、何かに組み合わせるパーツのようにしか見えません。もしかしたら、デ・キリコという画家は形而上絵画とかシュルレアリスムの先駆とか言われているようですが、このように描くことしかできない不器用な画家で、それを活かすための唯一の道が、このような細工であったのかもしれない、とこれらの作品を観ていて思いました。もしかしたら、デ・キリコ自身も古典主義とかネオバロックとか、王道をいく正統的な絵画制作を試み、自分にはそれができないことを思い知らされたではないかとよからぬ想像の誘惑にかられてしまいます。 

2015年2月 8日 (日)

ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(3)~ Ⅱ.古典主義への回帰

絵を描くのが好きとか嫌いとかいう以前に、生まれながらの絵描きというタイプの人がいると言います。有名な画家には、そういう人が多く、例えばピカソなんかがその典型ではないかと思います。そういう人は、日常的に、何の構えもなく同然のように描いているという、考える前に手が動いて描いてしまう人です。例えば、レストランでディナーを食べて、普通の人は「美味しかった」と感想を述べるのでしょうが、それより先に手が勝手に動いてしまうように紙ナプキンにペンでたった今食べた料理の美味しそうなスケッチをサッと描いてしまう人です。おそらく、デ・キリコは、そういうタイプではないのではないかと思います。描くということをする前に、ワンクッションが入っているように作品を見て思いました。観念先行というのでしょうか。レストランの例で言えば、デ・キリコは料理の美味しさを、まず「美味しい」と言ってから、家に帰って反芻し、その印象を改めて何をどう描くかを考える、という感じがします。それは、展示されている彼のデッサンを見ると分かります。デッサンには描く喜びのようなことが感じられなくて、必要だから義務的にやっているような感じがするのです。

さて、この展示は「古典主義への回帰」というテーマです。形而上絵画で高い評価を得たデ・キリコでありましたが、言うなれば奇を衒ったような作品は、時の経過と共に人々の目に慣れてくれば、当初の衝撃が薄まってしまい、月並みなものになっていったと思われます。当時のフランスは1830年代のナポレオン3世のバブル経済政策によって大衆消費社会の端緒が発生し、教養とか趣味の蓄積を持たない大衆という新たな消費者が大勢の嗜好に流されるように、大量消費を始めた時代だった言えます。その消費傾向の副産物として生まれた潮流が流行という現象です。大衆は短期的な波のように繰り返される流行に乗せられるように、後から後から目新しいものを消費するというパターンが形作られるようになったといいます。絵画芸術の世界も、ハイ・アートなどといって超然としてたわけではなく、その担い手になっていたブルジョワは流動的な階層であって大衆から成り上がる人々も多く、大衆社会の影響から無縁でいたわけではなかったと思います。そんな中で、デ・キリコの奇想が一時的にもてはやされ、短期間のうちに飽きられて、次第に顧みられなくなってくるということは十分想像できることです。(実際は、そうだったのかは分かりません)奇を衒うということは、それを受ける人々の反応を考えて行うことです。ゴーイング・マイウェイで自分の芸術を脇目も振らず追求するのであれば、人々の反応を第一に考えることもなく、したがって奇を衒う必要などありません。つまり、デ・キリコは人々の反応を、つまりは自分の作品が人々に及ぼす効果をまず考えていた人であったと思います。そうであれば、奇想に人々が衝撃を受けなくなってきたことには敏感で、気づいていたのではないかと思います。奇を衒うということは標準的なパターンからの逸脱でありますが、それが度重なることになれば、今度はそれがパターンになってしまいます。いつまでも奇を衒うことを続けることはできない。そこで考えたのではないか。それが古典主義というのは、頭で考えるよくあるパターンでしょう。王道で行こうというわけです。しかも、当時は新古典主義の風潮もあったといいます。

Chiricoself_2「自画像」を見ていきます。いわゆる形而上絵画の平面的な作風に対して、こちらは人物に立体的な厚みが表現されていて、あえて言えば普通の肖像画の雰囲気の作品になっています。しかし、古典の安定した画面とは、いささか印象を異にしています。デ・キリコという画家は素直ではないのでしょうか。どこかに屈折していて、ストレートに絵筆を執る前にワンクッションあって、グダグタ考え込んで恣意的な操作を加えてしまう癖があるようです。それは、形而上絵画ではなくて、この作品のような文法に従って素直に描けばよいような古典主義的な作品であるからこそ、そういう特徴が表われているのかもしれません。例えば、全体のバランスを少しずつ崩している(意図的なのか、下手なのかは分かりませんが、手の大きさの不均衡とか、顔の左右の不均衡とか)、過剰に細かく顔のところにマチエールを重ねているとか、敢えて生気のないような色遣いをして背景とのバランスが取れていないとか、また胴体を石像のように彩色しているのは趣向なのかもしれませんが、質感は石になっていないとか。重箱の隅をつついているようですが、デ・キリコというひとは、他の多くの画家と違って、描くということに何か懐疑を抱いていたのではないか、それが素直になれない原因はないか、と私には思えてきます。テ・キリコはニーチェをはじめとした哲学に親しみ、アポリネールをはじめとした文筆の人と親しく交わったのは、自分が描くということを信じられなくて、どこかで意義付けてくれる説明を求めていたのではないか、と私には思われるのです。人は何事かに熱中しているときには、その何事かに対して懐疑的になるということはありません。熱烈な恋愛の真っ最中の人は人生の意味等を考えないし、野球に熱中している人は野球の魅力は何かなどとは考えることもないでしょう。しかし、この同じ人が失恋をしてしまったり、野球チームの補欠に落とされてしまったりして、距離を置くことを強いられたときに、人生の意味とか野球のどこか面白いか、などと考え始めるのです。それが一般的で、絵を描くことに対しても、画家が疑問を抱くということは普通考えられないことでしょう。そんなことは画家の自己否定に繋がってしまうことになりますから。それが、デ・キリコという画家には絶えずあったのではないか。私は、デ・キリコの屈折には、そういうことが原因しているのではないか、と思われるのです。それが、描くことに対して、どこか屈折してしまって作品に投影されてしまっているのが、これらの古典主義的な作品には、表われやすくなっている、と私には見えます。それだけに、今見ると、形而上絵画よりも、こちらの諸作品のほうが異様な感じがするのです。

Chiricostill2_2「母親のいる自画像」もどこかわざとらしいのです。髪の毛一本まで丁寧に描いていながら、それが写実として髪の質感とかリアルな顔になるのではなくディテールが突出しそうな感じですし、背景の柱と人物と手前のテーブルと散りばめられた小物がちぐはぐな感じが強いのです。もっとも、デ・キリコだから一筋縄ではいかないという先入観で見ているからかしれませんが。

しかし、それまでの形而上絵画の平面的でスパッと切り捨てたようなキレはこのような作風になると後退してしまったように見えるというデメリットもあると思います。ここで展示されている「谷間の家具」という作品は、それまでの形而上絵画に則った作品ではあるものの、思い切りの良さが感じられない、穏やかさが入り込んでしまって微温的な作品になってしまっていると思います。例えば、色彩の緊張関係が希薄になってしまっていたり、空間構造の矛盾がなくなり、単に組み合わせの突飛さくらいしか残っていないことなど。この作品を見ていると、形而上絵画のアイディアが枯渇してきていたと言えるかも知れません。それを、誰よりもデ・キリコ自身が分かっていたからこそ、新たな展開を模索したのかもしれません。そういうデ・キリコにとっては、古典主義は絵画を描くことのベースとして土台になるということよりも、取捨選択のできるスタイルのひとつ程度の認識しかなかったのかもしれません。だから、作品を見ても、徹底して修行するというのではなくて、古典主義のスタイルを試してみようという程度のものだったような気がします。だから、古典主義がイマイチということであれば、他のスタイルにチェンジすることに躊躇はなかったと思います。

Chiricovalley


 

2015年2月 7日 (土)

ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(2)~Ⅰ.序章:形而上絵画の発見 

デ・キリコは20代の若さでパリで形而上絵画が評価されたということで、展示についても最初から、そのような作品が展示されています。これらを観ていると、奇を衒っているような感じがします。あくまでも後世から見ればの話ですが、当時は、それが批評家たちに天才的なとど言われたのでしょう。先のことになりますが、この次の展示である古典主義への回帰が始まるまでのあいだ、ここで展示されているような、いわゆる形而上絵画は10年にも満たない期間で制作されたということになります。具体的にここが、あそこがというような指摘はできませんが、よい意味でも、悪い意味でも、ここで展示されている作品を見ているとアマチュアリズムという形容が思い浮かびます。ものがたりの捏造をしますが、若いデ・キリコが思いつくアイディアを忘れてしまわないうちに形に残していった。その際に多少の仕上げの粗さは気にせず、時には描きなぐるかのように急いで作品を制作して行ったという印象です。それが、アイディアが汲めども尽きず湧いてきたと思われる若い頃をすぎると、頭の柔軟さがなくなってきて、また、作品を受け容れる批評家や顧客たちもデ・キリコの奇想にだんだん慣れてきて当初の衝撃が薄れてくる。つまりは、作品が飽きられてくる、というようなことで形而上絵画の生命は、それほど長く続かず、もともと土台がなかったデ・キリコは古典に助けを求めた、というようなフィクションです。

ただ、ここで展示されている作品には、若さゆえでしょうか、あまり些事にこだわらず、一気に描きたいものだけを描きたいように描くというような、一種のキレのようなものが感じられます。そこにある種の清新さがあるのは否定できないと思います。

Chiricostill「福音書的な静物」という作品です。デ・キリコの形而上絵画のうちでも、とくに形而上的室内とよばれるものだそうです。“こうした作品は、ハイパー・リアリズムの表現で描かれることで、ふだん見慣れた事物の奇妙さを浮かび上がらせるものであった。謎めいたアトリエの中に共存するこうした事物は、古くからあるユダヤ人街の店先で目にする菓子類や定規とフレーム、何かの測定器具、小旗、おもちゃ箱、カラフルな大麦糖菓子、指標が書き込まれていない白地図、建物の斜面あるいは矛盾した遠近法、ひっそりとしたイオニア式円柱の影など。”と解説されています。たしかに、この作品が制作され発表された同時代であれば、ここで解説されたとおりだったかもしれません。しかし、およそ100年を経た目でみると、この作品から“ふだん見慣れた事物の奇妙さが浮かび上がる”というような衝撃は、はるかに薄くなってしまっていると思います。では、このような作品は時代の流行に乗った一過性の消費物のようなものだったのか、というと、私には、そういう側面は弱くないと思います。デ・キリコ本人はどうであったか分かりませんが、画商や周辺のデ・キリコを売り出した人々には、これで一発あててやろうというヤマッ気はあって、それがまんまと当たったというところではないかと思います。実際に、作品にそれに沿うような軽快さを備えていると思います。多分、その軽さという味が、100年後の2014年にデ・キリコの作品に見出した興味ではないかと私は思います。軽さというか、もっと具体的にいえば、キッチュさです。

この作品は題名からすると静物画ということになるのでしょうが、静物の置かれてある空間がはっきりしません。多分室内なのでしょうが、その室内のどこにそれぞれのものがあるのかという器の室内空間がはっきりしません。解説の意図に則して考えれば、そこに奇妙さがあるということになるのでしょう。しかし、それならば、もともとの空間を想定し、それを否定するような手続きを踏むはずです。しかし、この作品を見ると最初から、空間の感覚がないと言った方が適切なように思えるのです。つまり、事物を配置すべき空間という感覚が当初からなくて、たんに画面上に事物をぶち込むという印象なのです。その雑多な感じといいますか。そこに、室内にそぐわないようなものが、それぞれの関係を無視したように、なんの脈絡もなく詰め込まれている。喩えて言えば幼児のおもちゃ箱です。多分、デ・キリコは、これを描いているときは楽しかったのではなかったのか、そう思わせるものがあります。しかも例えば、右側中央の輪のようなものとその左の縦の長方形を見てください。解説から想像するに、ビスケットか何かではないかと思いますが、そう言われないと何だか分かりません。お菓子の質感とか、実在感とかがこの輪にはないのです。その上(後方ではないでしょう。画面上というしかないでしょう。)の定規についても、それらしい形状をしていますが、木製であれば厚みとか木の堅い感じとか重さとかスケール感とかがまったく感じられません。それは一種の抽象化された記号のような、“らしい”ものでいいのです。デ・キリコにはこれ以上リアルに描く技量は持ち合わせていなかったとであろうし、画面に“らしい”ものを入れ込むことで十分で、だからこそ観るものもリアルを感じ取ることなく画面の雑多な組み合わせを笑うことができることになるわけです。言葉遊びに駄洒落というのがありますが、この作品は言うなれば、視覚的な駄洒落というような事物の記号の組み合わせ遊びのようなものではないかと思います。それがキッチュさです。しかも、ごていねいに「福音書的な静物」などというものものしい題名がつけられているではありませんか。このような可笑しさが、この作品の魅力になっていると、私は、正直思います。

Chiricomisterry「謎めいた憂愁」という作品。憂愁という題名にあるような憂いの色彩もなく、画面全体は鮮やかな色彩を対照させて、明確な印象を観る者に与えます。“魅惑と魔術の神であるヘルメスの胸像が、床の向こう側という謎めいた構図の中に登場する。床板の後ろに置かれたヘルメス像は、ビスケットが入った箱と色のついた積み木の間に引っ込んでいるように見えるが、こうした作品は、「機械仕掛けの幾何学的な亡霊のいる無限の奇妙さを」、「常軌を逸した我々の生活が過ぎ去る、まるでその場所の中に」起き上がらせるものであった。”このような解説を作品のたびに引用するのかというと、そうでないと画面に何が描かれているか分からないからです。敢えて言えば、デ・キリコは“へたうま”なのです。ただ、このような作品では、それで十分で、うまく写実的に描写されてしまったら、キッチュさは失せてしまいます。多分、この作品は、デ・キリコも参加しているような思いっ切りスノッブな人々の集まりのなかで、制作当初から意図だの内容だのが散々話題にされた挙句に発表されたのではないかと思います。だから、画面上方の人物なのか胸像なのかはヘルメスであることは、たんに作品を見ただけでは分かりません。伝統的な神話を題材にした歴史画であれば、ヘルメスを暗示する杖かなにかが添えられているのですが、そのようなものも描かれていない。ということは、デ・キリコには、意図とか何かをちゃんと画面を通じて伝えるというようなことは、あまり重視していなかったのか、不特定多数の人々を想定していなかったのか、です。多分、デ・キリコとしては後者の方ではなかったのかと思います。このような作品に解説にあるような評価をするためには、この画面に描かれているものについて予備知識やデ・キリコの傾向について知悉していることが前提になるからです。言ってみれば、スノッブな人々の自尊心をうまくくすぐり、もっともらしい高尚に響く議論を誘発するツールとてしてのニーズに応えるものとして重宝されたものであったのだろうと思います。今の日本で言えば、ちょっとアートっぽいマンガのようなものでしょうか。しかし、現代の日本で、美術館でこの作品を見る私はヘルメスをよく知りませんし、画面を見るだけでヘルメスとは分かりません。このヘルメスと現代の「テルマエ・ロマエ」で描かれたローマのパロディとどちらが上手かといえば、私は躊躇なくヤマザキ・マリに軍配を上げますが、この両者を較べるために持ち出したのは、一種のパロディとしてこの作品を見ることができると思うからです。言ってみれば、現代の私から見れば、この画面の中では、ビスケットも積み木も立て掛けられた棒もヘルメスも、もともと備えている価値とか意味を剥奪されて同列に並べられていると言えます。そこにあるごった煮の感覚というのか、キッチュさですね。権威を笑い飛ばすような結果になっている。そんなキッチュさがありながら、画面全体は静けさがあるので、ちょっと不思議な可笑しさがあるのです。

Chiricomisterrytelこれは、私の想像ですが、パリとかローマのスノッブな人々に受け容れられ、サロンなどの集まりで談笑に加わりながら、制作する作品が、その人々にウケたので気をよくして、この方向でいいのだと作品を制作していたのが、いわゆる形而上絵画であったと思います。しかし、それも長く続くはずはなく、次第に飽きられてくる。そうすると、もともとアマチュアリズムでやっていたデ・キリコには技術的な土台がしっかりしていないため苦境に陥ってしまうことになる。そのときにすがったのが絵画の古典だったのではないか。それが。次の展示となると思います。

2015年2月 6日 (金)

ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(1)

2014年11月  パナソニック汐留ミュージアム

Chiricopos都心の用事が予定より早く終わり、始めて訪れる美術館であるけれど、興味がないわけではない画家なので、少し足を伸ばすことにした。ホームページに新橋駅からのアクセスが写真を交えて親切に説明されてガイドに従って向かったが、途中、何度か迷ってしまった。それは、美術館とはいいながらパナソニックという企業のロビーの片隅に間借りしているような、まるで、パナソニックを訪問するような体裁になっているからだと思う。しかも、この会社はなんとなく雰囲気が暗い。業績が反映しているのかわからないけれど、その中にある美術館までの足取りは重くなったのは正直なところ。

会社の受付のような入場券の販売窓口で訪問カードのようなカードを受け取ってロッカーに荷物を預け(このカードキーには紐がついていて首から下げると会社を訪問しているような気分になる)。館内(というよりは室内)は広くはなく、展示作品の数が多ければ余裕がないという感じ、私が訪れたのは夕刻の閉館時間の1時間前だったので、入場客は多いとはいえないだろうけれど、室内の広さの感覚から余裕があるようには感じられなかった。

初めて訪れた美術館だったので、少し印象を書きましたが、ここからは本題のデ・キリコの印象について書いていきたいと思います。

デ・キリコという画家や作品については、恥ずかしながら、有名な少女が古代風の建物の広場で走っているイラスト風の作品を目にした程度でした。それもあって、例によって主催者のあいさつでの説明を引用することにします。“20世紀を代表する画家、ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)。イタリア人の両親のもとでギリシャで生まれた画家はね父親の死後、17歳でミュンヘンへ移り、同地で、アーノルド・ベックリンなどの北方の幻想的な象徴主義と、ニーチェの思想に大きな影響を受けました。1911年にパリを出たデ・キリコは、写実的でありながら現実離れした神秘的な雰囲気の作品を発表、詩人アポリネールによって「新しい世代のなかで最も驚くべき画家」と称され、画壇にその名を知らしめます。彼の生み出した「形而上絵画」とは、ありふれた日常の裏側に潜む、まったく新しい未知の精神世界を画面に出現させようとしたものであり、その斬新な手法は、後のシュルレアリストたちに大きな影響を与えました。第一次世界大戦後、絵画のマティエールを重視した古典主義絵画への回帰の時代を経て、豊かな色彩と堅固な構成を得る一方、デ・キリコの画面には、馬や剣闘士など新たなモティーフが登場します。そして、ローマに定住した晩年には、初期の形而上絵画のテーマを再び取り上げた新形而上絵画を創造し、その芸術世界に新たな価値を与えました。─中略─、デ・キリコの作品は、現実と非現実の境を行き来し、観る者の不安や困惑を誘う一方で、その芸術に隠された大きな謎のゆえに、私たちを惹きつけてやみません。”少し長い引用になりましたが、おそらく一般的なデ・キリコ像に近いものであろうと思います。

Chiricobecさきにも書きましたように、私は予備知識もないところで作品を観てきた感想を、この引用を参照しつつ、まずは、デ・キリコの作品群の印象を大雑把に書いて、後で、展示された作品の個々の感想を綴って行きたいと思います。私が観たデ・キリコの印象は“軽さ”です。例えば、主催者あいさつの最初のほうで触れられている、デ・キリコか影響を受けたというアーノルド・ベックリンと較べてみるとよく分かります。ベックリンは象徴主義と言われる画家ですが、ここにあげた「死の島」は暗い空の下、墓地のある小さな孤島をめざし、白い棺を乗せた小舟が静かに進んでいくさまを描いた神秘的な作品と言われています。写実的でありながら神秘的な雰囲気の濃厚な作品で、このような言葉の形容だけであれば、デ・キリコと同じものになってしまうでしょう。しかし、印象はまったく異なります。それは、ベックリンには島の岸壁の重量感とか質感が表現されていて、画面に描かれた物体に存在感があるのに対して、デ・キリコにはそういうものが感じられないという点です。ベックリンの作品では、写実的で現実にありそうなもののように描かれた死の島と、島に向かう小舟に白いひとがたが独り立っている姿が、小さくしか描かれていないのに視線が集まってしまい異様さが目に付いて、不気味な印象を強くします。デ・キリコの作品には、このようなベックリンの作品にあるような迫力は感じられません。デ・キリコの作品は、ベックリンに比べると、平面的でノッペリとした画面になっていて、個々のものの輪郭はキチンと描かれているようなのですが、いかにも上手に描かれている画像という域を超えることはありません。私はデ・キリコの伝記的事実に詳しくないので、彼がアカデミックな技法を修行したのかは分かりませんが、作品を見る限りではベックリンほど習熟していないのは明白ですし、むしろそのような画面の迫力とかいうよりも、自分のアイディアを手軽に画面に活かせるような手段として絵画の表現技法を考えていたのかもしれない、というタイプに見えてきます。描く内容があって、それをいかに描くかというのは単純な議論で、逆に描いているうちに描くものが見えてくるという場合もあるでしょう。そのどこに重きを置くかは画家によって千差万別です。その中で、キリコは絵筆を握る手の比重が相対的に重くなくて、頭でアイディアを考えるタイプの人だったのかもしれません。その場合には、画面そのものに重い存在感があると操作しにくくなります。つまり、ベックリンの作品のような世界は、デ・キリコにとっても鈍重で融通の利かないものだったのではないか、と考えたとしても不思議ではありません。デ・キリコの場合は、結果として画面の出来栄えとか完成度よりも、アイディアを考え付いた時点である程度作品そのものが決まってしまう、というようなあり方であったような気がします。しかも、頭の中で考えるということは視覚的な実在というよりも、言葉で組み立てていくようなことになるので、彼の作品の中には、視覚的に生かされていないものも見受けられる(アイディア倒れ)、また言葉で考えると、視覚的なデリケートなニュアンスに言及することは難しくなるため、パターンの繰り返しが増えてしまうおそれがある。

私は、デ・キリコの作品の大きな要素は、画面に意外なものを持ち込んだことによって生じる違和感にあると思います。ブレヒト等の理論をデュシャンが実践した「異化」を作品画面の中に持ち込んだというものに近いものではないかと思います。ただ、デュシャンのような過激な形態をとらずに、作品を観る人に「あれ?」と思わせることで、なんとなく深い意味があるのではないかと錯覚させるというものだったと思います。そのためには、画面自体に迫力があると、画面自体が自立してしまって「あれ?」と思わずに納得されてしまうことになるでしょう。デ・キリコはそういう描き方をしていたからアイディアを特化させていかざるをえなかったのか、もともとアイディアを持っていてそれを作品にするために描き方を選択したのか、は初期の修作期の作品を見なければ分かりません。

それでは、個々の作品を観て行きたいと思います。なお、展示は次のように章立てされていましたので、その順で観て行きたいと思います。

Ⅰ.序章:形而上絵画の発見

Ⅱ.古典主義への回帰

.ネオバロックの時代─「最良の画家」としてのデ・キリコ

Ⅳ.再生─新形而上絵画

Ⅴ.永劫回帰─アポリネールとジャン・コクトーの思い出

2015年2月 5日 (木)

ルディー和子「合理的なのに愚かな戦略」(6)

第4章 日本企業がコミュニケーション下手な本当の理由

日本人が海外で活躍する際に問題となってくるのは、①英語が話せるかどうかの問題とともに、②自分の意見を相手に的確に伝え、なおかつ、自分の意見を相手に納得してもらう(つまり、相手が自分の意見を採用するように説得する)ことが出来る能力の問題と二つあるからだ。実際のところ、英語が話せないと悩んでいる人の問題は、語学を修得できない問題というよりも、自分の考えや意見を明確にして発言することを躊躇する態度が障害になっていることが多い。言い方を換えれば、自分の意見をもち、それを筋道立てて発言できる日本人は、それほど英語が堪能でなくても、海外で現地の人とコミュニケーションできる。また、その過程のなかで英語を急速に修得していくことができる。外国語というツールを使いこなすことが出来るかどうかは、それを話す人が自分自身と自分が話している内容に自信を持っているかどうかによるのだ。自分の考えを相手に分からせようとう意欲があるかどうかが重要なのだ。

 

会社が人間から構成されている組織である限り、日本企業のコミュニケーションのスタイルが、日本人の平均的コミュニケーション・スタイルと似通ったものになることは当然であろう。例えば、日本企業のソーシャルメディアの利用の仕方には、日本人の性格が表われている。話すことに慣れていなくて、話せば相手が直ぐに理解してくれると思い込んでいて、理解してくれない場合でも説明するなんて面倒くさいと思っている人間が、見知らぬ人たちの集まり例えばパーティーに放り込まれたらどうなるか?

パーティーのような社交的な場に慣れていない日本人、そしてこういった日本人を構成要素に持つ日本企業は、ネット上で不特定多数の消費者とインタラクティブにコミュニケーションするように促されても、どうやったらよいのかよく分からない。相手の機嫌をそんじたらどうしようかとあとずさりしてしまう。炎上するのが怖くて(自分が傷つくのが怖くて)、積極的に声などかけられない。アメリカ企業でも炎上することはある。炎上したときに、それでも自分の言い分を聞いてもらい理解してもらおうと社長自らメッセージを送る。それが米国流だ。要は、双方向の直接の会話を恐れない文化をもった企業、つまり社交的な企業でなければ、米国型ソーシャルメディアを効果的に利用できないということだ。

 

日本では暗黙知という言葉が、暗黙という漢字がもたらす神秘的イメージのためか注目を浴び、独り歩きして、間違った認識が広まった感がある。暗黙知という言葉の美的感覚に惑わされ、語らず分からせない行為は正当化されると感じてしまったのかもしれない。その結果、暗黙知は日本の職人、とくに匠の技術の基本となる大切なものだという認識が広まっただけで、それを形式知に変換する努力を軽視されている懸念がある。

伝統的職人技能が親方から弟子へと伝授される。親方によっては、自分のノウハウを知ってはいても、それをわざと弟子に教えないこともある。自分の体で覚えろということだ。そんな場合、弟子は親方のやり方を見て覚える。まねて覚える。これを「技を盗む」と言った。一方、親方自身も自分のノウハウの特徴を認識していないと言葉で説明することができない。

また、暗黙知には、ノウハウと呼ばれるもの以外にも、主観的インサイトであり直感とか勘とか呼ばれるタイプのものがある。たとえば、世の中に現在存在していない製品コンセプト(ひらめいたアイディア)を思いついた。だが、この世に存在していない製品コンセプトをどうやって、他人に理解させることが出来るだろうか。これを言葉で説明しようと努力しても相手はなかなか理解してくれない。こういった暗黙知を形式知に変換する場合によく使われるのがメタファー(隠喩)だ。このメタファーを巧みに使ったのがスティーブ・ジョブズだ。彼は、自分のアイディアをメタファーを使って説明することができ、きっと素晴らしい製品に違いないと、投資家や消費者に一瞬の内に思わせることに何度も成功している。

2015年2月 4日 (水)

ルディー和子「合理的なのに愚かな戦略」(5)

消費者がブランドを選択するとき、そこには論理はない。力を発揮するのは好き嫌いとかイエスやノーの感情だけ。しかも、無意識の感情だ。意識的選択が無意識のうちに準備されるということを最初に証明したのは、神経心理学者ベンジャミン・リベットだ。1980年代のことで、被験者が手首をふろうという意図を待つ前に脳はすでに指示を出していたことを証明した。そして、被験者の意思決定は最初は無意識のレベルで成され、それが後になって意識のレベルに伝達される。被験者が自分の意志の指令によって筋肉が動いたと信じるのは、すでに起こった出来事をあとから説明付けようとするからだとした。つまり、被験者が意思決定をしていると意識するのはたんに生化学てき後知恵であり、自由意思が存在するのは幻想ということになる。

企業が、アンケート調査などの消費者調査を通して消費者の購買動機や購買プロセスを理解しようとしても、それは消費者が意識している領域を明らかにするだけ。消費者の無意識の領域における動機やプロセスを理解できるわけではない。消費者の無意識の領域における動機やプロセスを理解できるわけではない。そのうえ、人間は、自分の実際の行動と自分が(意識している)信念とが調和しないことに耐えられないので、その不調和を隠せるような説明を無意識のうちに考え出してしまう。だから、その説明を聞いて納得できたとしても、それは、消費者の本当の選択動機を知ったことにはならない。

無意識の世界での選択(意思決定)のアルゴリズム、つまり一定のルールは二つある。最初に、喉が渇いたと感じたらカルピスと思い出してもらう。こういったプロセスが簡単に出来るためには、目標と商品名とのつながりが長期記憶として保存されていなければならない。そのために必要なのは繰り返しだ。渇きを癒すという目標を達成するにはカルピス…という想起をなんども発生すれば、そういった脳細胞の経路が構築される。同じブランドのメッセージ繰り返されることで、長期記憶が生み出されるのだ。ブランドに関する長期記憶をつくるためには、定期的な広告宣伝や広報活動が必要だ。長寿ブランドと呼ばれるような商品は、発売20周年を記念してていった名目でイベントをしたり派生商品を限定販売したりして話題づくりし広告宣伝する。あるいは、大幅リニューアルとかいって広告を出す。いったん出来上がった想起のための神経細胞のルートは、暫く使われないと消えていってしまう。忘れられてしまうということだ。だから、ブランドを長生きさせるためには、広告や広報を通じて、固定化されたルートが消滅しないようにしなくてはいけない。

もう一つのルールは感情に関係する。人間の脳の中では、論理的思考をするネットワークと、感情に関係するネットワークが協力し合わなければ、意思決定して選択するという行動を起こせない。感情の中で威力をもっているのは、無意識の領域で生まれる感情で、好きとか嫌いとかイエスとかノーといったような、ポジティブあるいはネガティブといった無単純明快な感情だ。どのブランドが選択されるかどうかの基準も、この無意識の感情によって決められる。米国で2007年に行われた実験では、自分が好きな商品が登場すると、脳の報酬系が活性することが明らかになっている。好きとか嫌いとかいったポジティブな感情が生まれているのだ。報酬系が活性化する商品なら選ばれるということだ。そこで、どうやって報酬系を活性化することが出来るか?だ。脳には明確な目標がある。この目標を達成させるのに必要な、あるいは関連性が高いモノには報酬系が活性化する。

世界的に著名なジュエリーブランド「フォーエバーマーク」は、東日本大震災直後の4月にダイヤモンド入りのコードブレスレットという当時の社会の雰囲気には似つかわしくないタイプの高額の商品を発売した。「絆」をテーマにしたデザインと、収益の一部を被災地の子供を援助するNPOに寄付するということで人気を呼び、売上を伸ばした。自粛とまではいかなくとも不要不急の商品は買わないであろうと言われた社会状況において、高額のジュエリーを売ることが出来た理由は、

 ブレスレットへの欲望…ジュエリーそのものに対して報酬系が活性化する。

 安心を得たいという欲望。このブレスレットの結びはヘラクレス・ノットといって「絆」の意味合いがあって、家族や友人とのつながりを感じ安心感を得られる。その意味で、報酬系が活性化する。

 罪悪感を減少させる。こんなときにジュエリーを買うなんて被災地の人に悪いという罪悪感を抱きやすい社会状況にあった。しかし、購入金額の一部をNPO法人に寄付するということで罪悪感を減少させることが出来、自分自身の購買行為を正当化できることでネガティブな感情を抑制することが出来る。

この企業がしていることは、自分たちが想定するターゲット客の状況に身を置き、彼女がどう考えているか、どう感じているかを想像する。罪悪感など本人は感じていることを意識してはいないかもしれない。不安にしても、自分がどのくらい不安を感じているか本人は意識していないかもしれない。そういった無意識の領域まで把握するには、論理的に推測するのではなくて、他人の感情を共有する、つまり共感しなくてはいけない。共感することによって初めて、ターゲットの行動に影響を与えるにはどう対処したらよいか直感的に知ることが出来る。

ただし、他人の思いを想像し共感する力は、革新的な新製品を創造する力はない。あくまで、このジュエリーのように、ターゲット客の置かれた状況を想像し、適切な販売促進活動や広告を企画する。あるいは既存の製品を改善したり、ちょっと手を加えて付加価値を向上するようなときに威力を発揮する。

アップルのiPhoneとかソニーのウォークマンのような革新的新製品は、想像力や共感力によって生まれたわけではない。もちろん、想像力や共感する力で消費者の意識的あるいは無意識的考えや感情を推測することは、製品開発の役に立つに決まっている。が、こういった世界的にヒットするような画期的製品の場合は、立場が全く逆になる。消費者がこの製品に共感するのだ。製品の創造者が消費者に共感するのではなく、消費者が創造者の創造物に共感し、場合によって創造者自身に共感するのだ。このような革新的ヒット商品はターゲットとする客の国籍、民族を問わず、共感をひきつけることができる。そして、その秘密のカギは、一つしかない。創造する人間が自分が創造しているモノに夢中になることだ。消費者の心理を把握しようなんてところから革新的ブランドは創造できない。自分がつくるものに消費者が共感してくれる。そのためには、自分自身がつくる商品の一番のファンであることが肝心なことだ。革新は、心底、好きな仕事から生まれる。

2015年2月 3日 (火)

ルディー和子「合理的なのに愚かな戦略」(4)

第3章 過去の成功がもたらした「しがらみ」がブランドをつぶす

トヨタ自動車は、「レクサス」と「トヨタ」とは別のブランドだと思ってもらいたいと考えている。しかし、トヨタ自動車はレクサス開発にあたって、ブランドはそもそもどういったものなのか、何もわかっていないまま突き進んだ。トヨタ自動車自身のコメントでは「1989年9月、米国で高級販売網『レクサス』の営業を開始した。(中略)新チャネル設立の背景には北米現地生産の本格化により自主規制下での輸出枠に余裕が生じるという事情や、トヨタ車のお客様が上級車に移行する際の受け皿となる高級車がなく、メルセデスやBMWに乗り換えてしまうということがあった。」、とまるで流通チャネルである販売店網が中心であるかのような書き方だ。競合他社の車に乗り換えられないための受け皿。それがレクサスのブランド・コンセプトであった。ドイツのラグジュリー・カーと競争できる車をつくり、それを、既存の流通チャネルとは異なるプレミア・チャネルづくりに大半の努力を傾けた。結果として、ラグジュリー・ブランドとは何であるかが分からないまま、新しいモデルや車種がつくられマーケティングがなされてきたというわけだ。

トヨタのような日本を代表する一流企業がブランディングの基本も知らない。

家電、化粧品、ビールといったメーカーにとって客は消費者ではなく特約店や系列販売店だった。これらのメーカーは、卸問屋の特約化や小売販売店の系列化を進めることで全国各地に進出を果たし、戦後の高度成長時代に繁栄を謳歌した。だから、地区ごとに販売代理権を与えられた特定卸売業者や系列化された販売店に、なるべく多くの商品を仕入れてもらうのがマーケティングだった。だから、大事なのは商品ブランドではなく企業ブランドだ。化粧品においては資生堂、ビールにおいてはキリンがトップの座にあり続けたのは、商品ブランドが良かったからというよりは、流通チャネルの系列化を競合他社よりも早く確保することに成功していたからだ。

同じように自動車業界では、1950年代に特約代理店構築にすばやく着手したトヨタや日産が市場の50%のシェアを占有した。60年代から高度経済成長に合わせて個人の乗用車需要が増大。それに対応して、米国の方式を参考にして、1県1ディーラーという単位で販売チャネルを構築した。そして、より幅広い顧客層に訴求するため、またシェアを拡大するためも1県1ディーラーの建前を守りながらも販売チャネル数を増やす方策として、次から次へと新しい車種を出していった。車種が異なれば、新しいチャネルをつくっても、既存チャネルからの苦情に対処することができる。あるいは、また、消費者の観点を考慮すれば、新しい車種を他の車種と差別化するために、同一のチャネルで販売せずに別のチャネルを構築したということもある。実際のところ、異なるチャネルで販売される車種間の違いはあまりなかった。極端な場合、メーカーは同一コンセプトの車種でネーミングを変更することで異なる車として異なるチャネルで販売するようなことまでした。つまり、消費者のために新しいブランドを発表したというよりは、新しい販売チャネルをつくるため、あるいは、既存チャネルのディーラーの不満をなくすために、異なる、でも類似したブランドをだしたということだ。ここに流通チャネルへの方針はあっても、ブランドに対するきちんとした考え方などなかった。また、一つのブランドを大切にするという発想もなかった。

ブランド力が弱いのは自動車メーカーに限ったことではない。戦後、流通チャネルの系列化を進めた家電メーカーや化粧品といった業種には、次から次へと新製品を出し、その結果として強いブラントを作れなかった企業が多い。こういった企業には、流通チャネルはあってもブランと戦略はなかった。

 

資生堂にとっては、長い間、顧客は消費者ではなく、チェーンストアと呼ばれた系列小売店だった。消費財メーカーとして消費市場の個人を相手にビジネスをしていたのではなく、系列小売店や系列販売会社を相手に、まるで産業材メーカーのような法人相手のビジネスをしていた。だから商品ブランドではなく企業ブランドを大切にした。これは世界の化粧品会社と蔵別非常に珍しい現象だ。

たとえば、米国に本社を置くエスティローダーという化粧品会社がある。日本デパートの化粧品売り場に行けば、エスティローダー傘下のブランドが六つか七つぐらいは別々のカウンターを構えている。が、海外でも日本でも、一般消費者はこういったブランドがエスティローダーの子会社だということは知らないはずだ。なぜならそういった情報を敢えて積極的に公開しないからだ。ブランドは個性である。競合ブランドと明確に差別できる個性がなくてはならない。だから、ブランドをどう扱うかはそれぞれのブランドのトップに判断させればよい。そうすることによって、多くのブランドを傘下に抱えていても、各ブランドの個性が生きる。ブランドの差別化を際立たせるために、同じグループに属していることを、消費者は知らないほうがよい。また、各ブランドを管理運営する経営者を親会社の長は干渉しないほうがよい。

だが、資生堂は、ブランドの考え方が根本的に違っていた。資生堂にとっては、販売店との交渉に当たって、一流の会社で信頼できると感じてもらうために、企業のイメージや知名度が重要だった。企業ブランドさえしっかりしていれば、そこから発売された商品ブランドの名前とかコンセプトとかいったものはそれほど大切な問題ではなかった。

資生堂は1930年代後半に自社製品は系列小売店だけが取り扱うことができ、全国統一価格とするメーカー/系列販社/系列小売店/消費者までをつなぐ垂直的流通システムを構築した。これにより競合他社は自社製品を販売するスペースが少なくなり、その分市場からの競争排除となった。しかも、定価を守ることで消費者が安い価格で買い機会もゼロにした。この流通システムは戦後の資生堂の高度成長を支える強力な基盤となり、戦後生まれの団塊の世代の女性が成長するにつれて新製品を発売しマス広告を出せば飛ぶように売れ、70年代はじめまで毎年2桁の成長を続けることが出来た。

しかし、70年代半ばになるとメーカーである資生堂と系列販売店との共存共栄の関係のなかで互いに甘えが発生し、高度成長にブレーキがかかるとともにビジネスへの弊害となっていった。販売店は販売技術を磨いたり、新規客を獲得する努力を怠るようになる。既存客を相手にするならば、目新しい新製品があれば売りやすい。また、競合メーカー製品が売れていると話題になれば、同じような製品を対抗上ほしくなる。だから、新ブランドや新製品を出してマス広告を打てば、売上は一時的に上がるため、メーカーである資生堂に要望する。その結果が、流通チャネル内に在庫が残っていく。他との差別化も出来ない個性のない弱いブランド商品が在庫としてつみ残っていく。メーカーの資生堂にしても、営業担当者は、自分のノルマが達成できないときに販売店に在庫があることが分かっていても、お願い販売を強要してきた経緯から要望を断れない。店頭での売上でなく、仕入れ時点で売上として計上してしまう仕組みが弊害となっていた。販売店側も仕入額に応じてリベートが支払われるから、店頭で売れる見込みがなくても仕入れてしまう。つまり、消費者がどれだけ買ってくれたかではなく、小売店がどれだけ買ってくれたかが、メーカーの売上になっていった。共存共栄の関係は、いつの間にか、不都合な真実を互いに押し付けあう関係へと変化していった。こうして、かつて資生堂に栄光をもたらしてくれた完璧な垂直型流通チャネルシステムは、重い足枷となって資生堂の足を引っ張るようになる。

資生堂の経営陣は、自分たちのブランド政策やチャネル政策が現状に合わなくなってきていることに早くから気がついていたが、思い切った改革が出来なかった。なぜなら、戦後ずっと50年以上にわたり、系列の販売店とは運命共同体としてやってきて、改革の邪魔になるからと断ち切る決断が出来なかった。それは、社長も平社員だった頃から関係をもち恩義を受けたものを裏切ること似るからだ。みずから構築して自らが絡めとられてしまった、系列販売店との複雑な関係。断ち切ろうとしても断ち切れない関係の中で、資生堂は改革が必要とわかっていても実行できないまま、中途半端なかたちで事業を続けざるを得なかった。

自分がある行動をすると、それに応じて他の人たちがどう行動するかだいたい決まっている。だから、そういった予測が上手な人、仕組みが直接的に理解できる人は、自分が望んでいるような行動を他人にとってもらうために(インセンティブ)必要な行動をとることができる。それはまた、他者が望んでいるであろうと予測できる行動をじぶんもとらなくてはいけないということも意味する。つまり、まわりに相手にされなくなったり悪く思われたりしないような行動を自分もする。みんながそう思うことによって秩序が保たれる。長い歴史、成功の歴史を抱えた企業には、このような「しがらみ」が生まれ、それが経営者の意思決定まで拘束するようになる。このようなしがらみは外だけでなく内にもある。新入社員のときから世話になった先輩、とくに自分に目をかけて昇進へと導いてくれた先輩たちの意見を、社長になったからと言って否定できなくなる。

また、一般社員においても、ずっと一つの会社にいて、入社してから10年、20年…、ずっと同じブランドに接していると人間は飽きてくる。愛社精神と同じように愛自社製品はあっても、それはファンであるのと違う。会社に出勤すれば、同じ商品が溢れ、それについて考え議論を繰り返す。熱心な社員であればあるほど、仕事をしていないときでも普通の消費者とは感覚が離れてしまう。そこで「飽き」がどうしても生じてしまう。自分は自社商品に飽きているとは意識しなくても、脳は飽きてしまっている。新鮮な目で見られなくなる。そこかに硬直が生まれ、若い社員の邪魔をする存在になってしまう。

 

2015年2月 2日 (月)

ルディー和子「合理的なのに愚かな戦略」(3)

第2章 「勇気」がなければ価格は変えられない

売り手にとって理想的な売り方は、買い手一人ひとりの懐具合に応じて価格を変えることだ。顧客を価格感応度の高低で分ける。そして、価格の違いに敏感な価格感応度の高い人には、割安の値段をつけ、価格感応度の低い人には高値をつける。これは売り手にとって理想的な販売方法だ。

もともと、同一の商品はいつでも誰にでも同じ価格で販売するという慣習は、売り買いの長い歴史から見れば比較的最近のものだ。産業革命後、同規格の製品が大量生産されるようになり、市場も大きく広がっていった。拡散する流通経路では乱売も発生。末端価格が不適切に安くなることを嫌ったメーカーが、小売店に同一価格を維持するように強制したり圧力をかけたりすることで、定価という概念は広まった。それまでは、いきでも露天商やフリーマーケットなどで見られるように、売り手と買い手が交渉して値段を決める方式がずっと長い間続いていた。売り手は買い手の身なりとか話しぶりから相手の懐具合や購買意欲の高低を判断して言い値を決める。

現代では、同じ店舗で同じ商品を買う客に、異なる値段で売れば苦情が出る。だから不景気になり値段が下がると、結局、すべての人に平等に値段を下げて売ることになる。値下げすれば客数が増えるから、以前の売上を維持することが出来ると考えるわけだが、類似商品を販売するライバル企業が存在すれば、そううまくは進まない。ライバル企業も対抗値下げをしてくるから客数は増えない。つまり、値段も下がり売上も下がるという「どつぼにはまる」こととなる。

渡辺努は日本企業の価格設定行動が、デフレ下にあった海外先進国の企業とは異なることを指摘し、「(競合他社との競合のなか)価格を上げるとライバル企業に顧客が流れてしまうおそれがある。そのため、少々需要が増えたりコストが増加したりしても、価格の引き上げに踏み切る勇気がない」と指摘している。経営者、値段を上げる理由、下げる理由、どちらをも正当化する調査結果とかその他もろもろのデータ資料に囲まれる。経営会議を開けば、値下げ賛成、あるいは反対、どちらかを支持する役員がそれぞれの方針を正当化する議論を展開するだろう。当然のことながら、二つの選択肢にともなうリスクも考慮されるはずだ。そして、決断を下すときに、経営者を悩ますのは、それぞれの選択肢がもたらす利益ではなくリスクのほうになるはずだ。決断を下すということは、二つの選択肢(値上げする、しない)のどちらかをそのリスクとともに選ぶということだ。そして、通常、利益が大きい選択肢はともなうリスクも高い。利益が大きいがリスクは低いという選択肢はあまりしない。だから、決断するときはリスクを引き受ける勇気が必要になるのだ。選択肢が資料やデータで裏づけされ、場合によってそれぞれのリスクも予想確率といっしょに列挙される。そういったデータを把握するまでが論理の世界である。だが、どの選択肢を選ぶか決断するのは「勇気」である。勇気がないというのは、リスクをとるだけの勇気がないということだろう。

日本の企業は、世界のどの企業よりも、市場での価格競争が厳しいと強く感じているようだ。しかも興味深いことに、日本企業の大半は価格競争についてはライバルが仕掛けてきたと思っている。つまり、ほとんど価格競争において、日本企業はその競争に進んで参加しているというよりは、巻き込まれたという被害者意識を感じているという。実際に起こったことを想像してみると、次のような状況であろう。

自社の何らかの行動(たとえば、売上が下がったので10日間だけ値引きキャンペーンをしてみる)によって、競合他社が対抗値下げする。自社の行動が他者を刺激するなんて考えてもいなかったので、びっくりしながら、じぶんのそれにあわさざるを得なくなる。このように、他企業の反応を十分に意識しないで安易に値段を変えるから、「その競争は競合他社が仕掛けた」ということになってしまうのだろう。

サイモン・クチャー&パートナーズというコンサルティング会社は、日本企業の価格力の弱さについて、次の2点を要因として挙げている。

 技術革新やサービスの改善等による顧客への追加的価値が創造できていない

 価格戦略の弱さ

この二つの要因を、経営者の心理に焦点を当てて書き直してみると、「勇気がない」と同じような意味合いの言葉を使い、「自信がない」とか「他人を説得する力がない」と言う事ができる。

まず第一に、日本の多くの経営者は、自分たちが提供している製品やサービスには競合他社から差別化された価値があると考えてはいても、自身を持って主張はしないだろうということだ。よく言えば謙虚だが、実体は自信たっぷりに主張することに慣れていないだけ。この問題は、価格戦略の拙さにも通じる。価格戦略が下手だということはコミュニケーション能力が低いとい解釈することが出来る。日本企業は無駄を省いてコストを削減するという点では、とくに製造業においては、自信を持って世界一だといえるだろう。だが、コストを削減するプロセスは、身内との協働作業だ。従業員や仕入先や取引先と一丸となって協力し無駄を省く。これは日本企業が得意とするところだ。一方で、価格について、この製品やサービスの価格は価値に見合っている、あるいは価値の割には安いと、外部の不特定多数の他人(例えば消費者)を説得するプロセスは日本企業が不得手とするところだ。いかにして他人の心に影響を及ぼし、その意思決定に影響を与えることが出来るか…つまり、(身内でない)赤の他人へのコミュニケーションは日本企業の弱い部分だ。そのうえ、自社製品やサーヒスの価値について自信を持って主張できないとしたら、値上げするのが難しくなることは明白だ。

日本は近代資本主義経済の歴史上かつてないほど長期間のデフレ下にあった。消費者にとってみれば「デフレは悪いものではない」。とくに収入が増える見込みのない高齢者にとっては、デフレはある意味よいことである。インフレで給与が上がる見込みがある若者であっても、人間は同じ額であるなら、収入が増えることによる満足感よりも、支払いが増えることによる不満足感のほうが高くなる性向をもつ。デフレ慣れしたのは経営者も同じだ。15年の間に、価格を下げたことはあっても価格を上げる経験をした経営陣は少なくなっている。タイミングとか上げ幅とか、価格を上げるのに必要なノウハウをもっている経営陣は少ない。そして、上げることが消費にどれだけの影響を与えるのか、そのリスクをとる経験をした経営者も少ないことになる。つまり、値上げする「勇気」をもてない経営者が増えたことになる。

 

売り手企業は消費者調査をし、その結果をコンピュータ入力して複雑な分析をし、商品やサービスが提供している価値に見合った価格を算出する。そういった方法で見つけた適正価格は、消費者の購買時の感覚を捉えたものになっているだろうか。多くの消費者は価格と価値の関係を企業が考えるような複雑なプロセスで把握し購買するか否かを決めているわけではなく、直感とか勘、ひらめきというアバウトな感覚で購買決定している。

そもそも消費者は、買い物をする時に、「この商品の価値はこれこれで、よって、この価格は適切だ」などと論理的に考えているわけではない。適正な絶対値を持っているわけではない。消費者は他商品の値段と比べて相対的に判断していることがほとんどだ。だから、「値ごろ感」は売り手がつくることができる。…というか売り手がつくるものだ。消費者が値ごろ感を知覚するコンテクストを設定するのだ。昔から商人は、コンテクスト(状況、文脈)を変えることによって、何が値ごろかを変えることができことを、経験から知っていた。

消費者は豆腐の値段は50円でなくてはいけないとか高級自動車は500万円ではいけないという絶対値を持っているわけではない。反対に、どちらかと言えば、価格を手がかりにして価値を判断している傾向が強い。だから、昔から「高かろう良かろう、安かろう悪かろう」ということわざが言い伝えられているのだ。高価格なら品質も良い。反対に低価格だと品質が悪いという常識は、おおよその場合正しい。相対的な選択決定では、幾つかの情報をもとに判断するわけではない。手間隙をかけないで一つの情報を手がかりとして判断する。日常の購買のほとんどにおいて、価格そのものが価値を判断する手がかりとなっていることが多いのだ。だからこそ、一度価格を安くしたら価値はもとに戻らない。

価格は企業のメッセージだ。価格に価値(他競合商品からの差別化)が含まれていない場合、企業が消費者に送るメッセージは、「価格が安いですよ」の安売りメッセージだけになってしまう。何らかの価値が含まれているのなら、それを強調するメッセージをつくりしんずることができる。その意味で、「安くしなければ売れない」という発言は企業経営者には許されないはずだ。正しく言えば、「価値が低い、あるいは価値がないので安くしなければ売れない」でなければいけない。もし、「消費者が知覚する価値が低いので安くしなければ売れない」のであれば、そして、自社製品に価値があると信じているのなら、消費者がそのように知覚してくれるようにコミュニケーション内容やコミュニケーション方法を変えなくてはいけない。こういったプロセスを辿ることなく、すぐにギブアップして「安くしなければ売れない」と短絡的に考えるから、「日本企業は技術革新やサービスの改善によって客への追加価値が実現できていないと考えている」みなされるのだ。「知恵がないから価格を下げる」と、厳しい叱り言葉を投げかけられたりするのだ。

2015年2月 1日 (日)

ルディー和子「合理的なのに愚かな戦略」(2)

第1章 「顧客志向」と「売上」との相関関係は低い

第1章では、顧客志向という考え方そのものが正しいのかどうかを考えてみる。どの企業も「顧客志向」をスローガンとしている。が、「顧客志向」は、誰もが口をそろえて言うように、本当に、ビジネスの成功をもたらす最大要因なのか?「顧客第一主義」の考え方は誰もが否定することができない大前提なのだろう。

顧客志向という考えで「企業の目的の正しい定義はただ一つ、顧客を創造することだ」と主張したピーター・ドラッカーは、近代的マーケティングの先駆として1673年創業の越後屋呉服店を評価している。「現金、安売り、掛け値なし」という方針が革新的で大いに業績を伸ばしたといわれている。その越後屋の接客心得に、「そもそも御客本位というは、御客様大門神のことなり、御客様一大事なり、御客様の御無理を御道理とするにあり」と明記されていた。これが、日本の接客精神の基本だ。これが日本の接客業でよく使われる言葉「おもてなし」精神の基本である。店内にいる間は、すべての不快感を忘れて(不快感を小僧にぶつけることで忘れて)、さっぱりした快の気分で外に出て行っていただく。ここにおいて、売り手企業と顧客との間は、大人と子供の関係となる。だから、客も、企業に思いっきり甘えてよい、子供みたいに駄々をこねてもよい。それを企業(店員)は逆らわずに上手にあしらう。これは、その反面、「客」の立場にある者は、子供のようなふるまいをして無理難題をふっかけてもよしとする風潮が、いまだに残っている。

これは1970年代に土居健郎の主張した「甘え」に通じる。「甘え」は、どんなに自己中心的でわがままな言動をとっても相手は許してくれると、相手の好意を当然のように思うことである。「甘え」の原型は、親子や同胞な特定の近しい特定の人間関係に見られる特徴である。日本の接客業においては、企業と客との間に束の間の親子のような親しい身内の関係を構築していることになる。

アメリカのノードストロームという高級デパートは「客にノーと言わない」という顧客サービスの素晴らしさで有名だった。その評判やイメージで売上を伸ばしていたが、90年代に利益が減速してしまった。理由は、ノードストロームが顧客ニーズの変化についていけず、マーチャンダイジングで遅れをとったからだと専門家は分析した。例えば、中核商品だった婦人服ではカジュアル化の傾向が進んでいたことに、デパートは気づかず保守的な路線をとり続けたために、若い顧客が離れていった。この実例は、顧客はいくらサービスがよくても、肝心販売商品が気に入らなければ離れていくという現実を教えてくれる。また、どの客にも差別なく手厚いサービスを提供することが顧客について知ることにはつながらないことも教えてくれる。

越後屋の接客心得に、高価な服装を身にまとった人も粗末な身なりをしている人も、いったん、店内に入れば同じお客様。差別なく丁寧に待遇しなくてはいけないと書かれている。公平平等で素晴らしいことのように聞こえるが、言葉を換えれば、客について何も知らなくてもよいということでもある。「おもてなし」精神は受動的だ。相手が要求する無理難題を道理とすることは、ある意味簡単だ。相手を怒らせないように、気分を害さないようにすればよい。だが、相手が口に出して要求しないことを探り出すことは、ノードストロームの例でも明らかなように、受動的な態度だけでは達成できない。

 

クレイトン・クリステンセンの『イノベーションのジレンマ』では「優良企業が成功するのは、顧客の声に耳を傾け、顧客の次世代の要望に応えるよう積極的に技術、製品、生産整備に投資するためだ。しかし、逆説的だが、その後優良企業が失敗するのも同じ理由だからだ…」と優良な大企業が新興企業の前に力なく倒れていく理由は、まさにその優秀さにあると指摘していた。顧客の声に耳を傾けて既存製品の性能を高める「持続的技術」に積極的に投資する優良企業は、(最初の頃は)どちらかと言えば性能が低く、収益率も低い「破壊的技術」を開発し採用する新規参入企業に取って代わられる運命にある。

さらにクリステンセンはこうも言う。「すぐれたマネージャーは顧客と緊密な関係を保つという原則に盲目的に従っていると、致命的な誤りを犯すことがある。」実績の在る優秀な企業は、新しいイノベーションの存在に気づいても、既存市場の顧客の要求に応え既存製品の改善を続けたほうが、財務的に魅力があるという理由から、イノベーションを無視してしまう。新しい技術に投資をしても、十分なだけの結果が出ないと判断して投資しない。顧客(既存の市場)の要求に従うことがチャンスを逃すことになるというわけだ。顧客の欲求について深く考えることは、何が欲しいかと尋ねることとは異なる。消費者が言えることは、いまある既存製品のここが良いここが悪いというコメントであり、消費者の声に耳を傾けていれば、既存商品の改善を進めるだけで終わってしまう。

リスクをとりたがらないのは、その企業に実績があるからだ。実績ある大企業は、新しいイノベーションの技術を自ら開発したとしても、それに投資することを避ける傾向があると、クリステンセンは書いている。なぜなら、小さい市場で失敗することが、既存市場に悪影響を与えることもある。そのうえ、新しいイノベーションがもたらしてくれる新市場は小さすぎることが多い。反対に、小さな新興企業は失うものは何もない。だから、リスクをとることを躊躇しない。

 

1950年代にドラッカーが顧客第一主義を唱えたことは確かだが、高度経済成長時代にはほとんど注目されなかった。70年代半ばごろから、市場の成長が停滞し、類似製品が並ぶようになり、差別化が難しくなり、売上が上がるより下がることのほうが多くなった。そのころからだ、「顧客志向」という言葉が使われるようになったのは。新製品を次から次へとヒットしない状況の中、企業が自分たちの判断に対する自信をなくした結果として、顧客の声に耳を傾けることが重要だと考えるようになった。あるいは、また、同じような製品を販売していても、顧客と感情的に結び付くことによりロイヤリティを高め、競合他社との差別化が実現できるのではないかと考えるようになった。しかし「顧客志向」を実現するためには顧客と接触する機会の多い従業員が、その考え方に賛同し、自発的かつ積極的に行動してくれる必要がある。そういった意味で、「従業員第一」を企業理念として掲げることは、「顧客志向」をスローガンだけに終わらせないためのベストな方法なのだ。同じ企業理念を通じて一体化した従業員なら、顧客と感情的に結び付くことができる。また、顧客の声に真摯に耳を傾けることができる。ドラッカーが唱えた顧客第一主義を実行に移すためには従業員第一主義が必要なのだ。ただし、従業員を通じて入ってくる顧客情報から期待できるのは、持続的イノベーションだけだということを忘れてはいけない。既存製品の改善・改良に役立つだけだ。だからといって、顧客の声を聞いても仕方がないというのは、もちろん、極論だ。消費者調査も必要だし、顧客の苦情や質問に耳を傾けることは、当然のことながら大切だ。だが、それが破壊的イノベーションをもたらしてくれるチャンスは低いことを忘れてはいけない。「お客様は神様」だとしても、顧客の声がいつも天(神)の声だというわけではない。神様といっても死神もいるし貧乏神もいる。結局、破壊的イノベーションを生み出すためには、自分の心の声(直感)に耳を傾けるしかない。神頼みはダメなのだ。

 

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