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2015年2月17日 (火)

ボストン美術館ミレー展(4)~Ⅲ.バルビゾン村

前座が長くなりましたが、いよいよ真打ち登場です。ミレーがバルビゾン村で農村風景を描いた作品や関連する画家たちの作品です。これと、この後の家庭の情景を描いた作品が、この展覧会の核心部ということになると思います。おそらくボストン美術館のコレクションは、ここでの展示作品がメインとして、それに関連するように周辺の作品が購入されていった結果というのではないかと思います。作品を見て行きましょう。

Milletbostontane「種をまく人」から見ていきましょう。この展覧会のポスターにも使われ、ミレーの代表作とされている作品です。そう言われても、私にはピンと来ない作品でもあります。率直に言って、何が描かれているのか分からない。全体として薄暗い画面の真ん中に影のように人の形があって、身体をひねっているようなのがかろうじて分かるという程度なのです。この何が描かれているのか判然とないというのは、抽象絵画のようにはじめから形を崩してしまったようなものではなくて、何かしらが描かれているようなのが、私には読み取ることが困難ということです。この作品は、私には展覧会のあいさつで述べられていた“田園で働く農民の姿や身近な情景、自然の様子を畏敬の念を込めて描き取ったジャン=フランソワ・ミレーは、写実主義を確立し、近代絵画への先駆者とされています。”というミレーに対する評価に疑問を抱かせる作品でもあるのです。この作品が写実的であるとしたら、ミレーという画家の技量が単に下手だということを明らかにしているものと、私の目には映ります。おそらく、この作品にはミレーという画家の特徴が集約的にあらわれていて、それを受け入れることのできる人は、この作品に高い評価を与えることができて、そうでない私には難解際なりないか、下手としか見えないということになるのではないかと思います。気がつくままに、その特徴を挙げていきたいと思います。まず、画面全体が暗くて鈍い色で覆われているため、全体に茫洋としてはっきりしない靄のよう見えるということです。色彩のコントラストは考慮されているようなのですが、一様に鈍くなっているためメリハリがなくなってコントラストの効果が死んでしまっています。また、写実的な画家は多くの場合は鋭角的なほど形態をキッチリと明確に描くのですが、この作品をみていると敢えて明確に輪郭を曖昧にさせているように描いていません。その形態も鋭角的とは反対の鈍角的に意図しているように見えます。そして、この作品にとくに現れていると私には思われるのですが、人物が無理しているとしか見
えない不可解なポーズです。この人物はまるで古代ローマの円盤投げの彫像のようなポーズです。これらのことから、私が勝手に考えたのですが(論理的に筋道が通っていないかもしれません)、ミレーという画家は主催者あいさつで述べられているような農民の姿を畏敬をこめて写実的に描いたという人には見えてこないのです。むしろ、当時のアカデミーの古臭い権威であったプサンなどのような古典的で安定し落ち着いた色遣いや柔らかい輪郭の描き方に倣おうとして、時代環境の違いと自身のセンスの鈍さゆえに、題材を同時代の農民に求めざるを得なかったのではないか。それは、ミレーの鈍い色彩感覚が農村風景の全体として地味でパッとしない風景に適したもので、写実的に見えたということではないか。また、丸く形態を捉え、輪郭を曖昧にするというようなミレーの古臭い描き方は、同時代のスマートな都会人には適さないけれど、屋外で着膨れたような格好をして動きの鈍い農民には反対に適していた。そして、当時の絵画の消費者である都会のブルジョワジーなどの中産階級が交通機関の発達によって、農村を含めたそのような郊外の風景を実際に目にすることができて、珍奇で新鮮に映ったその風景を、ミレーは題材としていた。そのように私には思えます。

MilletbostonsheepgirlMilletbostoncorot_2「羊飼いの娘」という作品は、ボストン美術館のミレーのコレクションの中でも「種をまく人」に劣らないミレーの代表作であるということです。草原に腰を下ろしている少女の姿を題材にした作品は、同じ会場で展示されていたコローの「草刈り」と比べて見ていただきたいと思います。同じように草原に座った女性を題材にした作品ですが、コローの作品では背景に対して女性が際立つように明確に描かれていて、笑顔を浮かべているものの、どこか表情にしまりがなく疲れが仄見え、肩を落として腰掛けている姿勢や服の着こなしにも崩れたようなところが精細に描かれています。ここから彼女の労働の辛さと疲労を想像することもできるように描かれています。この作品を観る者は、画面の精緻な描写から様々な情報を得ることができ、そのように観察することができるのです。これに対して、ミレーの作品では顔の表情は大雑把で細かく描き込まれていません。座っている姿勢の描き方も人物が座っているというパターンの形態として描かれているようで細かな情報を得ることはできません。画面から得ることのできる情報はコローの作品に比べると限られたものになっていると思います。だから、この作品を観ると、コローの作品の場合のような距離をおいて観察するという態度ではなく、一体何が描かれているのかと、一歩作品に歩み寄り、身を乗り出して画面に入り込もうとするように導かれることになります。しかも、ミレーの作品では少女はコローの作品のように背景から際立たせられているのと反対に背景と同じような描かれ方をしているので背景に溶け込んでいるようなのです。それゆえ、この作品を観ようとするものは、作品の風景の中に入り込んで観ようとしないと、という態度に誘われるのです。このようなことから、ミレーの作品では、コローの作品に対する場合と、観る者が作品に対して置く距離感が異なってくることになります。ミレーの作品では、観る者が作品に一歩近づくことを余儀なくされるのです。それが結果的に作品への距離を近いものにさせ、親密さとか感情移入を誘うものとなっているのではないかと思います。

Milletbostonrutsu順番は戻りますが、展示室で最初に目に入ってくるミレーの作品は「刈入れ人たちの休息(ルツとボアズ)」という作品です。大作です。旧約聖書のルツ記の物語の一場面を題材にしているとのことです。これは「種をまく人」でも「羊飼いの娘」でもそうなのですが、これらのミレーの作品は、単に農村の情景を写生したのではなくて、伝統的な歴史画の物語や神話の場面やその構成に農村の人物や風景を当てはめて描いているということです。つまりは、農村の事物をパーツにして歴史画を制作したということです。私には、ミレーという画家は当時にはなかった農村をリアルに描くということを新た表現として打ち立てるほどの独創性はなかったし、本人にもそのような意志はなかったのではないかと思うのです。むしろ、ミレーという人は従来の伝統的な方法論に従って画家としてのキャリアを積み上げたいと考えていたという、考え方とか姿勢としては凡庸な人ではなかったのかとおもうのです。それが、よく表われているのが、この「刈入れ人たちの休息(ルツとボアズ)」という作品ではないかと思います。同じ物語を取り上げた作品として、当時の権威であるプサンの「夏」という作品があります。多分、ミレーはこの作品を参考にしているのではないかと思わせるところがあります。その点からも、ミレーは新しいことをしようとしていなかったことが分かります。しかし、ミレーはプサンのようには描くことができなかった。それは、技量の点や時代状況などの外在的な要因からではないかと思います。そのような意図せざる結果として、彼の農村を描いた作品が生み出されたのではないか、展示されている作品をみていると、私にはそう思われてきます。それは、展覧会の主催者のあいさつや解説で説明されている、ミレーが農家の出身で農村のことを知悉していたとか、農民に対して自ずから共感を抱いていたとかと言うこととは無関係のことです。敢えて言えば、ミレーの持っていたセンスとか感覚を培ったのが、彼の出自によるものかもしれないということくらいでしょうか。少し脱線しました。話を戻しますと、この作品が古典的な歴史画の構成とか方法に則って制作されていたということは、画面全体に安定感を与えると思います。当時の作品を観るひとにとって前衛的といえるような斬新な画面よりも、伝統的なつくりの画面の方が親しみやすいのは確かです。そこで、パーツとして題材になっているのは珍しい新鮮な農村の風景ということで、親しみやすいけれど新鮮さがあるということになったのではないかと、想像するのです。そこに、画家としてミレーの作品が認知される要因があったと私は考えます。

Milletpusan「刈り入れ人たちの休息」という作品について、プサンの「夏」と比べながら観ていきましょう。両者の画面構成の大きな違いは、プサンは手前の人物と背後で農作業に勤しむ人々の姿、そして背景と三つの景色で構成されているのに対して、ミレーは主人公である二人が休息している人々の集団と同じ場面に含まれていて、それら背景と二つの景色で構成されていることです。その結果とし、ミレーの作品では、場面を突き放した客観的な視点が後退しているような外観を呈しているように思います。プサンにはあった遠景がないミレーの作品は空間の広がりでは及びませんが、作品を観る者の視界がプサンの作品に比べて近いものになっています。それが作品の空間に観る者が近しい感覚となる、さらにいうと突き放した客観的な視線ではなく、観る者自らが画面に入り込むような主観的な要素の含んだ視線になってきているのです。その一方で、それだけ観る者の距離感を近しいものとしながら、ミレーの作品では、主人公をはじめとした人物の表情を細かく描き込まれていません。顔はのっぺりとして、一応の形の輪郭までは描かれていますが、そこまでです。しかも、人物の描き方は丸みを帯びた人形のようなパターン化に近い描き方になっています。それが、私にはミレーの作品を観るときに戸惑わされるものでした。せっかく、画面に近寄るように誘い掛けておきながら、肝心のところにくると冷たく突き放されるような印象を受けたのでした。人物に近寄ってみたら無表情で肩透かしをくうのです。ミレーは細かく顔を描けなかったのでしょうか。それは最初に見たような肖像画を描くことが出来るのですから、できるのに敢えて描かなかったのです。そこには何らかの意図があったと思えるのです。それはミレー自身が顔を精細に描くことの意味を考えられなくなっていたことでしょうが。その理由として考えられるのは、描く対象となっている農民の顔が無表情であったということ、都会人のような社交で生きているのとちがって農民には大げさな表情とか演技するということがなく、絵画に描くような明確な表情の変化というものが見られず、敢えて描こうとするとわざとらしくなってしまう、ということ。また、ミレーの描く作品は人物をクローズアップして顔を微細に描く人物画ではなくて、いうなれば中景の距離感で人々の動きを捉えるというスタンスを取り始めていたことから、人々の身体の動きやポージングが雄弁にものがたるものとなっていたため、顔に表情を描き込むと観る人の視線が細かな顔に行ってしまって、身体への目配りが疎かになってしまうことを避けるためにという目的。さらに、画面に接近してみて、顔の表情が描かれていないことによって、観る者に想像させる余地を与えていると考えることも出来ると思います。もしそうであれば、ミレーの作品は単に作品を眺めると言うこと以上に積極的に画面に参加し、観る者は想像力を働かせることを要求するものになってきていると考えることもできます。

Milletbostonsukiもし、そうであるとすれば、有名な「種をまく人」に対する見方も変わってくることになります。私には、この作品は何をやっているのか分からない、形態もはっきりしない、暗く薄ぼんやりしたなかで古代ローマの円盤投げの彫像のような無理なポーズをした人体がある程度にしか見えなかったのです。従って、この絵がなぜ、ミレーの代表作とされているのか理由は分かりませんでした。解説の説明によれば、当時のフランスではミレーの作品に対して汚いという評価を与える人々がいたそうですが、さしずめ、この作品などは、その典型的なものではないでしょうか。正直、私もそう思います。それが、この作品が単に種をまく農民の姿をえがいたというだけでなく、聖書の寓話を仮託してもいることがあって象徴的な意味合いも重ねられているゆえに、描かれている人物はシンボリックに見える必要があったということを考えると、そうせざるを得なかったのかもしれないと想像することはできるようになりました。とはいっても、この作品は、私にはとっても相変わらず不自然で、何が描かれているのか不可解な、要するどこがいいのか理解しがたい作品であることに変わりはありません。同様の描き方でも「鋤く人」という作品は、その描き方ゆえに人物にダイナミックな力感があって力強さと土地を耕すということが活写されているようにみえて、こちらの方が私には親しめる作品になっています。

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コメント

ミレーが好きな百姓です。
種を播く人の絵はきわめて写実的だと思います。
実際に種を播いている人を見てスケッチしています。
肩から掛けた袋に入った種を、傾斜のある畑でまくと
このような姿になります。実際に真似をしてやって見ると
よく分かります。
これを模写したゴッホの絵が変なのは、
実際に種を播いている人を見ずに、
人が書いた絵を模写したからです。

コメントありがとうございます。ご意見、ありがとうございました。とても参考になりました。

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