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2015年2月26日 (木)

岡田暁生「音楽の聴き方」(7)

第3章 音楽を読む─言語としての音楽

「音楽を語る」ということについて私たちは、ひょっとすると難度が高い方から始めてしまったかもしれない。前章で見たような気分だとか運動感覚だとか質感といった要素は、間違いなく音楽の中で最も「感じやすい=分かりやすい」側面だろう。だが音楽とは矛盾に満ちた存在であって、最も感じることが容易な要素ほど語るのはとても難しい。さまざまな比喩を駆使して、間接的に指し示す以外にない。そして逆に、誤解の余地なく言葉に置き換えられる部分ほど、それを聴いて明確に把握するには経験と知識が要る。専門的な耳が必要になってくるのである。感じて分かることは言葉にし難く、言葉に出来ることは感じるのが難しい─ここに音楽理解の手ごわさがある。端的に言ってこの矛盾は、サウンドであると同時に言語でもあるという、音楽の二重性に起因している。感じやすいけれども言葉では表現にくいのが「サウンドとしての音楽」であり、言葉で明確に指摘できるが予備知識なしに感じるのは難しいのが「言語としての音楽」にほかならない。音楽は感じるものであるだけでなはない。それ自体が言語的な構造を持っており、つまり読むものでもあるのだ。つまりも音楽は決して単なるサウンドではなく、言葉と同じように分節構造や文法のロジックや意味内容をもった、一つの言葉でもある。次のようなことを考えれば、音楽もまた一つの言語であることは、さらに明らかになるだろう。それは分節/文節の問題である。例えば「僕は学校へ行く」という文章は、「僕は/学校へ/行く」という具合に、三つの文節に分割される。周知のように文節とは、それだけ取り出してもきちんと意味の通る、文章の最小単位だ。「は」はそれだけでは意味を成さない。「僕は」となって初めて意味の単位となる。そして音楽でも実は、まったく同じことが当てはまるのである。例えばベートーヴェンの「運命」冒頭の「ダダダダーン」は、意味ある一つのまとまりとして感じられる。つまり文節である。しかし単なる「ダ」では何のことか意味不明だろう。それが偶然切り取られた音楽の一部なのか、それとも単にコントラバス奏者が誤って音を出しただけなのか、区別はつくまい。「ダ」は意味を持たない単なる音節なのであって、このように音節と文節の区別があると言う意味でもまた、音楽は言語なのだ。

「音楽を正しく読む」など問えばいかにも難しげに聞こえるかも知れない。しかし実のところそれは、ジャンルを問わず、音楽を聴くとき私たちが無意識のうちに行っていることにほかならない。例えばベートーヴェンの「運命」の冒頭を「ダダ・ダダーン」と区切って聴く人など、まずないだろう。こんな聴き方をしたのではややこしくて仕方がない。このように普段から馴染んでいる音楽について私たちは正しい文節が何となく分かる。文法の教科書など読まずとも、その土地で暮らしていればいつの間にか、言葉の分節規則について察しがつくようになってくるのと同じである。とはいえ、日常的に馴染んでいない音楽の場合、誰でもすぐ分かるというわけにはいかない。それが異文化音楽の理解の難しさである。すべての音楽には暗黙のルールというものがあり、人はそれを学習しなければならない。こうした音楽の分節規則と密接に関わっているのは、やはり「言葉」である。どんな言葉をふだん話しているかが、自ずと音楽の分節規則をも規定してくるわけである。

音楽はまた、複数の文章が集まって段落となり、段落が集まって節になり、複数の節から章がつくられるといった多層的な建築構造の点でも、一つの言語である。建築が凍った音楽だとはよく言われることだが、聴き手に対して集中力を要求する音楽ほど、この建築構造が複雑だ。つまり音楽を聴きながらそれをきちんと言語として把握し、そして言語性があるが故に可能になる音の建物を、しかるべき形で眼前に表象する能力が必要になってくるのである。それを理解する近道の一つが、音楽のロジックのパターンを知ることである。音楽のセンテンス(例えばメロディー)が、どういう論法でもって互いに関連付けられ、大きな建物へと組み上げられているか。それについて意識的になれば、ずいぶん音楽の聴き方が変わると思うのだ。

曲における文と文、段落と段落の関係が、同じセリフの反復変奏によって作られているか、それとも「そして」でつないで物語的になっているか、あるいはセミコロンをいれて気分転換を図っているか、または否定の「しかし」を音楽のロジックの中に持ち込むか。19世紀における交響曲や弦楽四重奏やピアノソナタなどは、こうした論理的性格を持つ音楽ジャンルの代表であって、それは西洋的音楽の金字塔であると同時に、理解するのが極めて難しい。それらは「聞き流す」ことが出来ない。論理学のテーゼを組み立てていくように作られているせいで、気を抜いてどこかを聞き落とすと、直ぐ二前後の脈絡が全く分からなくなってしまうのである。

このように音楽を言語的な建築物として理解する必要は、いわゆる多楽章形式の音楽になるとさらに不可欠なものとなってくる。多楽章とは要するに、交響曲やピアノソナタのように複数の楽章がセットになって一つの作品となっているタイプの音楽である。普通に考えれば、四楽章の交響曲と言っても、そこには四つの別々の曲があるだけである。なのにどうしてそれらが一つになって、もっと大きな一つの曲になるのか。四つの別の曲をどうしてその順番で聴いていかなければいけないのか。ベートーヴェン以降の音楽。それを構成する楽章は、特に交響曲や弦楽四重奏やピアノソナタといった厳格な形式の場合、絶対にその順番で演奏されなくてはならない。そして三つないし四つの楽章の背後には、一つの大きな物語を読まなくてはならない。これが聴き手にとっても演奏者にとっても、これらの音楽が理解できるかどうかの差代の試練となるのである。「運命」交響曲のフィナーレにしても、第一楽章の闇、第二楽章の休息、第三楽章における光と闇の葛藤を経由してからそこに到達するからこそ、あれだけ輝かしく雄弁に鳴り渡るのだ。それを単独で取り出して繰り返し聴いてみても、何故にかくもハイテンションで雄叫びを上げ続けるのか、さっぱり分かるまい。こうしたタイプの音楽は、聴き手に音楽という「時間」を音の建物という「空間」の中で視ることを、暗黙の内に求めてくる。時間の中で熟してくるものを瞬間の中に聴き取る能力と言ってもよかろう。ベートーヴェンの第9交響曲の歓喜の唄のメロディーの中に、それがたち現れてくるまでに要した長いプロセスという、深さの次元を聴き取る力である。そしてこうしたこと全ての基礎となるのが、音楽を一種の言語構造として把握する習慣なのである。

これまで見てきたのは、主として音楽の文法的側面である。音楽をどう分節し、どう抑揚をつけ、どんなロジックで組み立てていくか─こういった主として形式面に関わってくる問題と言っていい。しかしながら音楽は、意味論的な次元でもまた、しばしば一つの「言語」である。つまり特定の楽器や調性や音型などが、ある具体的な意味内容を指示する記号として機能するのである。私たちは長調の曲は明るく、短調の曲は暗く聴く。いわゆるカッコウの音型が出てくれば鳥のさえずりの模倣だと思うし、上昇する半音音階を聴くと、何となく切ない気分になる。記号として音楽を読み取っているわけである。聴き手はこれらの意味合いを区別しながら曲を聴金場ならない。こうした記号を全く知らなければ、これらの音楽を理解することは不可能だろう。半ば無意識であれ、いろいろな記号の意味が何となく理解できているからこそ、これらの曲が分かるのである。

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