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2015年2月22日 (日)

岡田暁生「音楽の聴き方」(3)

「内なる図書館」とは、私と周囲環境との関わりの歴史にほかならない─このことが示唆するように、嗜好や相性は必ずしも個人的なものではない。変人は純粋に自分の自発的な好みだと信じていても、それは物心ついて以来の、周囲環境からの絶え間ない刷り込みによって形成されてきたもの、その意味で社会的なものである可能性は高い。相性が純粋に個人的なものであることは、一般に思われているほど多くはない。生理的かつ個人的な相性や嗜好と見えるものの多くは、実はその人の履歴であり、しかも集団的に規定されている。そして集団が違えば、価値体系は全く異なってくる。「よかった」や「悪かった」は常に、「彼ら/彼女らにとってはよかった悪かった」なのである。

とはいえ、音楽に対する反応がすべて「相性」のみに還元されてしまうのだとすれば、それではいかにも寂しい。「その人がいい/よくないと思ったから、それでいいじゃない?」─その程度のものしかこの世に存在しないのだとしたら、私たちは一体何のために音楽を聴いているのだろう?私が言いたいのはつまり、相性だの嗜好だの集団的な価値観の違いだのといったことを突き抜けた、有無を言わさぬ絶対的な価値の啓示というのも、確かに存在するということだ。「彼ら/彼女らにとっては」などといった但し書き必要としない、超越的な体験と言ってもいい。そんなときの音楽はもはや快適な娯楽などではない。三島由紀夫は『小説家の休暇』の中で次のように書いている。「音楽というものは、人間精神の暗黒な深淵のふちのところで、戯れているもののように私には思われる。こういう怖ろしい戯れを生活の愉楽にかぞえ、音楽堂や美しい客間で、音楽に耳を傾けている人たちを見ると、私はそういう人たちの豪胆さにおどろかずにはいられない。こんな危険なものは、生活に接触させてはならないのだ。音という形のないものを、厳格な規律のもとに統制したこの音楽なるものは、何か人間に捕えられ檻に入れられた幽霊と謂った、ものすごい印象を私に惹き起こす。音楽愛好家たちが、こうした形のない暗黒に対する作曲家の精神の勝利を簡明に信じ、安心してその勝利に身を委ね、喝采している点では、檻の中の野獣の演技に拍手を送るサーカスの観客とかわりが。ないしかしもし檻が破れたらどうするのだ。その瞬間に音楽は有毒な怖ろしいものになり、毒ガスのような致死の効果をもたらす。音はあふれ出し、聴衆の精神を、形のない闇で、十重二十重にかこんでしまう。聴衆は自らそれと知らずに、深淵に突き落とされる。…」音楽に対する三島のこの恐怖/畏怖は、誇張とは思えない。音楽体験とは本来、そんなに生やさしいものではない。それは文明化された世の中に最後まで残った、古代の呪術の名残かもしれないのである。「よかった」とか「よくなかった」などと、安全地帯にとどまりながら品定めするお気楽な「芸術鑑賞」とは、次元を異にするものなのだ。こうした法外な体験を言葉にするのは本当に難しい。なぜなら芸術がもたらす戦慄は、あらゆるエクスタシー経験の常として、本質において極めて身体的なものだから。それを自分と共有している人との間では、言葉一つでコミュニケーションが成り立つ。しかし身体の記憶の中に「打ち震えた」経験を持たない人に対して、言葉はほとんど用をなさない。

もちろん私たちは幸か不幸か、この種の途方もない音楽に頻繁に遭遇するわけではない。むしろそれは、とりわけ現代の管理社会において、一生の間に数回居合わせることができたら幸運というくらいの、極めて稀な出会いなのかもしれない。自分自身のことを振り返ってみても、音楽を聴くようになって30年以上が経つが、人生が変わるようなこの種の体験にライブで出会ったことは、10回にも満たないように思う。それらは単なる「いい演奏」というのとは少し違う。技術的にかなり傷があったり、録音状態があまりよくないものも多い。にもかかわらずこれらの録音は、いつ耳にしても得体の知れない力で私を呪縛する。私にはこれらが一種破滅の記録であり、その中には魔物が閉じ込められているような気がしてならない。だから私はこれらを滅多に聴かないようにしているし、たまに禁忌を破って耳にすると、聴いてはいけないものを耳にしたような畏れの感情に襲われる。さきの三島の言葉決して大げさではない。「よかった」という言葉が暗黙の内に前提としているような、自分の掌中に対象がきちんと収まっているようなお気楽な感覚は、そこに存在しない。既に引用したように、パウル・ベッカーは「結局人は自分の中にあらかじめ存在しているものにしか反応しないのだ」という、読みようによってはかなり醒めた見解を述べていた。私もおおむねこれには賛成である。だが今あげたような体験を想起するたびに私は、究極の芸術体験とはひょっとすると「未知なるものとの遭遇」であるかもしれないという思いに捉われる。

おそらくこのことと関係しているのだろう、人生観が変わってしまうような音楽体験はしばしば、人がそのジャンルに夢中になり始めたばかりのころに集中する傾向があるように思う。思うにそのような鮮烈な印象は、結局のところ「言葉」の問題と関わっているように思えてならない。つまり音楽に言葉という網をかけるのがうまくなるほど、人は体験の衝撃をまともに喰らうことなく、自分と音楽との間に言語のクッションを介在させてショックを和らげるようになるのではないか。やがてルーティン化が恒常的になってくると、何を聴いても「これって要するにこういうことだよね」と、すぐに概念でもって納得してしまうようになる。そして逆に言えば、それを前にして、どういう言葉を口にすればいいか途方にくれてしまう音楽、手垢がついた既成の言葉を一度無効にしてしまって、ゼロから「音楽を語る言葉」を鍛え直すことを求めてくる種類の音楽だったのだろう。おそらくこういう体験だけが、音楽に反応する感受性の表面積を根底から拡張してくれるのだと思う。

これは、世間一般に言われるところの「感動」とは、かなり性質が違う。周知のように今や感動は巨大なマーケットであって、スポーツや映画と同じように音楽においても、心震わせ涙するためのパッケージ商品が世間に溢れかえっている。そして私たちは音楽についてのあらゆる情報を雑誌や新聞やテレビによって刷り込まれ、場合によってはいかにもそれらしい映像を見せられてコンサートに臨む。「世界一の○○フィルの芳醇な弦楽器の響き」などと言った決まり文句は、それでも一応音楽に関わるものだから、まだいい。私が何より問題だと思うのは、近年増加の一途を辿っているところの、音楽家の人生を感動物語に仕立てて商売にするやり方である。それはもはや音楽体験ではない。音楽は、あらかじめ脳髄に植えつけられた物語を大写しにする、音響スクリーンとして機能しているだけだ。何に対してどんな風に感動するか、どんなお話をそこに投影するか、すべて前もってセットされているのである。まさに「感動の仕方」が他者によって誘導されるという点で、この刷り込み型の感動は、私が先に「未知なるものとの遭遇」と形容したような体験と、決定的に違っている。前者の予定調和性に対して、後者を特徴づけるのは、いきなり雷に撃たれるような不意打ちの感覚なのだ。

この章では、言葉による媒介をまだほとんど経ていない音楽との出会いについて、いろいろシュミレーションしてみた。言葉でもって自分の印象を整理したり、修正して納得したり、様々な事実を関連付けて理解を深めたりする以前の、いわば感性しかないような状態である。だが結局のところ、すべての音楽体験の原点となってくれるのは、まだどんな言葉も湧き上がってこないような、純粋に感覚的な「第一印象」以外にありえないだろう。一体自分はその音楽にどう反応しているのか。まったく何の印象も感じていないか、何とはなしに居心地が悪いか、それとも気にはなっているのだが、まだうまくそれを言葉に出来ないでいるのか。音楽体験において一番大切なのは、他人の言葉や世評等に惑わされず、まずは自分の内なる声に耳を澄ませてみることではないかと、私は考えている。自分が音楽にどう反応しているかをきちんと聴きとってあげる─実はこれはそんなに簡単なことではない。マスメディアの時代に生きる私たちは、音楽を聴く以前に既に大量の情報にさらされているし、知らないうちに「音楽の聴き方」についていろいろなことを刷り込まれている。それに他人の意見や反応だって気になる。そして私自身が音楽を聴くときの目安にしているのは何かといえば、それは最終的にただ一つ、「音楽を細切れにすることへのためらいの気持ちが働くか否か」ということである。細切れとはつまり、演奏会の途中で席を外したり、CDなら勝手に中断したりすることだ。何かしら立ち去りがたいように感覚と言えばいいだろうか。音楽という不可逆にして不可分の一つの時間を、音楽とともに最後まで共体験しようという気持ちになれるかどうか。自分にとってそれが意味/意義のある音楽体験であったかどうかを測るサインは、最終的にこれ以外ないと思うのである。これは「分かる」とか「ぐっと来る」とか、そういうこととは必ずしも関係ない。すぐにはピンと来ないかもしれない。だが、たとえ一般的な意味で「よかった!」と言う感想を持つわけではなかったとしても、「これは最後まで聴いてあげなくてはいけないものだ」という感情がどこかに湧いてきたとすれば、それこそが「縁」というものだ。それは音楽を通して一つの時間を自分とともに体験する隣人への敬いの気持ちであり、音楽を何かしら命あるものとして感じている証なのだと思う。

いずれにせよ私たちは、今の自分にとって「縁」のある音楽から始めるしかない。不可分/不可逆な時間を共有できるパートナーとしての音楽を少しずつ増やすことを通して、自分だけの図書館を、つまり自分自身を作り上げていくのだ。

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