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2015年2月 1日 (日)

ルディー和子「合理的なのに愚かな戦略」(2)

第1章 「顧客志向」と「売上」との相関関係は低い

第1章では、顧客志向という考え方そのものが正しいのかどうかを考えてみる。どの企業も「顧客志向」をスローガンとしている。が、「顧客志向」は、誰もが口をそろえて言うように、本当に、ビジネスの成功をもたらす最大要因なのか?「顧客第一主義」の考え方は誰もが否定することができない大前提なのだろう。

顧客志向という考えで「企業の目的の正しい定義はただ一つ、顧客を創造することだ」と主張したピーター・ドラッカーは、近代的マーケティングの先駆として1673年創業の越後屋呉服店を評価している。「現金、安売り、掛け値なし」という方針が革新的で大いに業績を伸ばしたといわれている。その越後屋の接客心得に、「そもそも御客本位というは、御客様大門神のことなり、御客様一大事なり、御客様の御無理を御道理とするにあり」と明記されていた。これが、日本の接客精神の基本だ。これが日本の接客業でよく使われる言葉「おもてなし」精神の基本である。店内にいる間は、すべての不快感を忘れて(不快感を小僧にぶつけることで忘れて)、さっぱりした快の気分で外に出て行っていただく。ここにおいて、売り手企業と顧客との間は、大人と子供の関係となる。だから、客も、企業に思いっきり甘えてよい、子供みたいに駄々をこねてもよい。それを企業(店員)は逆らわずに上手にあしらう。これは、その反面、「客」の立場にある者は、子供のようなふるまいをして無理難題をふっかけてもよしとする風潮が、いまだに残っている。

これは1970年代に土居健郎の主張した「甘え」に通じる。「甘え」は、どんなに自己中心的でわがままな言動をとっても相手は許してくれると、相手の好意を当然のように思うことである。「甘え」の原型は、親子や同胞な特定の近しい特定の人間関係に見られる特徴である。日本の接客業においては、企業と客との間に束の間の親子のような親しい身内の関係を構築していることになる。

アメリカのノードストロームという高級デパートは「客にノーと言わない」という顧客サービスの素晴らしさで有名だった。その評判やイメージで売上を伸ばしていたが、90年代に利益が減速してしまった。理由は、ノードストロームが顧客ニーズの変化についていけず、マーチャンダイジングで遅れをとったからだと専門家は分析した。例えば、中核商品だった婦人服ではカジュアル化の傾向が進んでいたことに、デパートは気づかず保守的な路線をとり続けたために、若い顧客が離れていった。この実例は、顧客はいくらサービスがよくても、肝心販売商品が気に入らなければ離れていくという現実を教えてくれる。また、どの客にも差別なく手厚いサービスを提供することが顧客について知ることにはつながらないことも教えてくれる。

越後屋の接客心得に、高価な服装を身にまとった人も粗末な身なりをしている人も、いったん、店内に入れば同じお客様。差別なく丁寧に待遇しなくてはいけないと書かれている。公平平等で素晴らしいことのように聞こえるが、言葉を換えれば、客について何も知らなくてもよいということでもある。「おもてなし」精神は受動的だ。相手が要求する無理難題を道理とすることは、ある意味簡単だ。相手を怒らせないように、気分を害さないようにすればよい。だが、相手が口に出して要求しないことを探り出すことは、ノードストロームの例でも明らかなように、受動的な態度だけでは達成できない。

 

クレイトン・クリステンセンの『イノベーションのジレンマ』では「優良企業が成功するのは、顧客の声に耳を傾け、顧客の次世代の要望に応えるよう積極的に技術、製品、生産整備に投資するためだ。しかし、逆説的だが、その後優良企業が失敗するのも同じ理由だからだ…」と優良な大企業が新興企業の前に力なく倒れていく理由は、まさにその優秀さにあると指摘していた。顧客の声に耳を傾けて既存製品の性能を高める「持続的技術」に積極的に投資する優良企業は、(最初の頃は)どちらかと言えば性能が低く、収益率も低い「破壊的技術」を開発し採用する新規参入企業に取って代わられる運命にある。

さらにクリステンセンはこうも言う。「すぐれたマネージャーは顧客と緊密な関係を保つという原則に盲目的に従っていると、致命的な誤りを犯すことがある。」実績の在る優秀な企業は、新しいイノベーションの存在に気づいても、既存市場の顧客の要求に応え既存製品の改善を続けたほうが、財務的に魅力があるという理由から、イノベーションを無視してしまう。新しい技術に投資をしても、十分なだけの結果が出ないと判断して投資しない。顧客(既存の市場)の要求に従うことがチャンスを逃すことになるというわけだ。顧客の欲求について深く考えることは、何が欲しいかと尋ねることとは異なる。消費者が言えることは、いまある既存製品のここが良いここが悪いというコメントであり、消費者の声に耳を傾けていれば、既存商品の改善を進めるだけで終わってしまう。

リスクをとりたがらないのは、その企業に実績があるからだ。実績ある大企業は、新しいイノベーションの技術を自ら開発したとしても、それに投資することを避ける傾向があると、クリステンセンは書いている。なぜなら、小さい市場で失敗することが、既存市場に悪影響を与えることもある。そのうえ、新しいイノベーションがもたらしてくれる新市場は小さすぎることが多い。反対に、小さな新興企業は失うものは何もない。だから、リスクをとることを躊躇しない。

 

1950年代にドラッカーが顧客第一主義を唱えたことは確かだが、高度経済成長時代にはほとんど注目されなかった。70年代半ばごろから、市場の成長が停滞し、類似製品が並ぶようになり、差別化が難しくなり、売上が上がるより下がることのほうが多くなった。そのころからだ、「顧客志向」という言葉が使われるようになったのは。新製品を次から次へとヒットしない状況の中、企業が自分たちの判断に対する自信をなくした結果として、顧客の声に耳を傾けることが重要だと考えるようになった。あるいは、また、同じような製品を販売していても、顧客と感情的に結び付くことによりロイヤリティを高め、競合他社との差別化が実現できるのではないかと考えるようになった。しかし「顧客志向」を実現するためには顧客と接触する機会の多い従業員が、その考え方に賛同し、自発的かつ積極的に行動してくれる必要がある。そういった意味で、「従業員第一」を企業理念として掲げることは、「顧客志向」をスローガンだけに終わらせないためのベストな方法なのだ。同じ企業理念を通じて一体化した従業員なら、顧客と感情的に結び付くことができる。また、顧客の声に真摯に耳を傾けることができる。ドラッカーが唱えた顧客第一主義を実行に移すためには従業員第一主義が必要なのだ。ただし、従業員を通じて入ってくる顧客情報から期待できるのは、持続的イノベーションだけだということを忘れてはいけない。既存製品の改善・改良に役立つだけだ。だからといって、顧客の声を聞いても仕方がないというのは、もちろん、極論だ。消費者調査も必要だし、顧客の苦情や質問に耳を傾けることは、当然のことながら大切だ。だが、それが破壊的イノベーションをもたらしてくれるチャンスは低いことを忘れてはいけない。「お客様は神様」だとしても、顧客の声がいつも天(神)の声だというわけではない。神様といっても死神もいるし貧乏神もいる。結局、破壊的イノベーションを生み出すためには、自分の心の声(直感)に耳を傾けるしかない。神頼みはダメなのだ。

 

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