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2015年2月19日 (木)

ボストン美術館ミレー展(6)~Ⅴ.ミレーの遺産

いわゆるバルビゾン派に属することになっている画家たちで、ミレーよりも若い世代で、ミレーの影響を受けたと考えられている人々の作品です。

Milletbostonbeturiヨーゼフ・イスラエルの「別離の前日」という作品です。1×1.25mという大型の画面で、母親が手に顔を埋めて、海で死んだ夫の喪に服している。その子供は裸足で座り込み、母親の足にもたれかかり、そばにろうそくの置かれた棺がかろうじて見える隣の部屋を凝視している、という作品ということです。ここには、前回見たミレーの「編物のお稽古」の暗さよりも深い暗さと光との強いコントラストが劇的な情景を作り出しています。まるでレンプラントのような光と影の対比は、観ている者にものがたりを想起させずはいられません。また、二人の人物の衣服の色褪せ、くたびれた写実的な描写はミレーにはなく、人物の表情は隠されていますが、母親のうつむいて顔を手に埋めるポーズはミレーの作品では見られないものです。光と影の強いコントラストや演劇的な作為も加わった迫真的な描写が、悲劇性とこの人々の生活の厳しさを強く印象付けるものになっています。

Caravaggioemaoミレーには、このような迫真性とか悲劇性は見られません。ミレーの場合には、その代わりに一種のメルヘンチックな感じ方が可能になったと考えることができます。それは都会の人は経験していないにもかかわらずノスタルジックな感傷を思い起こさせることを可能にするものです。さらに、それは遠くはなれたアメリカ東部の開拓者たちに対して、肯定感を付与するものとなったのではないかと思います。ヨーロッパの都会から遠く離れて、厳しい未開の自然の前で土にまみれて働く開拓民たちに、宗教的な敬虔さを含んで、あなたたちの姿は美しい、とミレーの作品は語りかけるように受け取られたのかもしれません。少なくとも、イスラエルの迫真的な作品では、都会人に農家の厳しい状況をアピールする力はあるでしょうが、ミレーのような受け取られ方は難しいと思います。

Milletbostonemaoレオン=オーギュスタン・レルミットの「謙虚な友(エマオの晩餐)」という作品です。キリストが磔にされた後、復活を遂げて弟子の前に現われた事績を描いています。私には、何年も前にカラヴァッジオの同じ題材を扱った劇的な作品の印象が強く印象に残っています。この作品は1.5×2mというサイズの大作で迫力のあるものですが、カラヴァッジオのような光と影の劇的なドラマというよりは、農村の宿屋の日常の風景に置き換え、登場人物を迫真的に描くことによって、人間ドラマとして迫ってくるものがあります。レミレットの作品には他にも「小麦畑(昼の休息)」という農作業の休憩を題材とした作品も展示されていました。金色の小麦は真昼の太陽の熱を強調しているようで、束ねられた麦の山の中で農夫と水筒を持ってきた少女が休息している場面でしょうか。素早い筆捌きと光の効果を強調する明るい画面は印象派の作風に似た印象を受けます。それだけに、巧みな画家ではあるのでしょうが、ミレーの鈍重とも言える画面に比べると洗練されすぎているような印象を受けます。レルミットの作品は巧みで分かりやすいものとなっていますが、ミレーのような雰囲気を醸し出すという感じはありません。ノスタルジーというよりは、風景を分かりやすく写生したスナップショットのような印象です。

Milletbostonmugi「謙虚な友」に視線を戻しましょう。画面左側の人物はパンを割り祝福したことで復活したキリストであることを示しています。相対している2人の男性はキリストの弟子たちということになります。中央の禿げ頭の男は恐怖の表情で右手を顔の前に防ぐようにあげるポーズで強調しています。また右の弟子は左手で椅子を握り締めています。それが、バルビゾン村の宿屋をモデルにした、当時の農家の簡素な室内がエマオの奇跡の舞台として違和感なく画面に納まっています。これは、ミレーの「晩鐘」のような作品が有していた宗教性を直接的なものにしていった作品ではないかと思います。これは、これで当時の人々に親しみやすいものだったし、十分にアッピールするものだったと思います。事実、この作品は発表当時高い評価を受け、レルミットは経済的にも成功した画家であったということです。

Milletbostondrinkそして、ジュリアン・デュプレの「牛に水を飲ませる娘」という作品です。ミレーのもっていたノスタルジックな性格をさらに推し進め、牧歌的な情景をリアリステックな手法で描いています。ミレーに比べて全体の色調は明るく、真昼の隅々まで光線が行き渡っているようです。ここでは、牧歌的な風景画、あたかも目前に再現されているかのように描かれています。例えば、都会のブルジョワの居間に伝統的な肖像画や歴史画とともに飾っても違和感のないような様式で描かれているともいえるので、ミレーよりも当時のブルジョワや画壇には受け容れやすかったのではないかと思います。「ガチョウに餌をやる子どもたち」という作品などは微笑を誘う一篇の情景となっています。しかも、描写はしっかりしています。そこには、燦燦と降り注ぐ陽光と、その下での健康的な生活、都会では失われつつある家族の絆が多少のユーモアを交えて描かれています。「干し草づくり」という作品では、農作業のたいへんさや厳しさの表現は後方に退き、牧歌的な風景が強調されているといえます。ミレーの場合には、ノスタルジックな要素もありながら、厳しい農作業により鈍重となった農民の姿がそれなりに描かれて、様々な要素が入り混じっていたのが、後の世代の人々はミレーの一面をそれぞれに特徴的に展開させていったということでしょうか。その反面、ミレーにあった様々な面が一面的になってしまった感があります。面白いのは、ここで見た画家たちに共通して言えるのは、方向性は異なっているのにもかかわらず、表現技法においては一様にリアリスティックな写実的表現を推し進めている点です。ミレーの写実には一歩距離をとっていた表現には、これらの画家たちは反対していたということでしょうか。

Milletbostongacyoそれゆえに、私にはミレーよりもこれらの画家たちの作品に方に、より親しみを覚えます。それは、当時の農村の実際を知らないからかもしれません。府中市美術館での展覧会と、このボストン美術館の名品を集めた展覧会と、立て続けにミレーの作品をまとめて観て来ました。ミレーの農民画家というイメージには、当初から眉唾と思っていましたが、それは半分当たっていて、そのことは実際の作品をみて分かりました。そういう先入見を捨てて観た、ミレーの作品は下手という印象が強く、下手な画家が下手なりに生き残っていくには、他の画家が手をつけていない領域で勝負するしかないとして、農村や農家を描かざるを得なかった。そのように思わせるところがありました。ミレー自身がノルマンディーの農家出身で苦労して絵を学んだというストーリーはとくに開拓時代のアメリカや明治維新で新興の機運のあった日本で宗教的な敬虔さとか勤労を肯定する雰囲気のなかで作品よりも先に評価されてしまったのではないか、という議論には説得力があり、作品はその後でストーリーを裏打ちするものとして評価されてきたという問題意識があったのは府中市美術館の展示で、それは納得できるものでした。そうであれば、ミレーの作品の魅力はストーリーと切り離したところで何なのか、作品自体に魅力はあるのかということには府中市美術館の展示は必ずしも説得力あるものを提示し切れていなかったと思います。また、ボストン美術館のコレクションは府中市美術館の議論以前のミレー観で展示されていたことが、却ってストーリーと作品の両方を並行して見つめることを期せずして可能したことが、私にとってミレーという画家の作品を見直すこととなりました。とはいっても、未だにミレーの作品の魅力はここにあると明確に述べるには至っていませんが。少なくとも、下手としか見えなかったミレーの作品については、事実としてミレーはこのようにしか描けなかったと思いますが、その下手な表現そのものに実は大きな意味があった、その下手でなければ表現できない世界があったと思うに至りました。しかし、そう考えられたとしても、私にはミレーという画家は常日頃から親しみたいという画家ではありません。残念ながら。そういうわけで、またいつかまとまって作品に触れる機会があれば、もやもやしてはっきりしない、この人の魅力について、私的にはっきりさせることがあるかもしれないと思います。Milletbostonhosikusa


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