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2015年2月16日 (月)

ボストン美術館ミレー展(3)~Ⅱ.フォンテーヌブローの森

Milletbostonmapミレーの作品に行く前に、ボストン美術館がコレクションしているバルビゾン派の画家による風景画の展示です。描いた場所はバルビゾン村に近いフォンテーヌ・ブローの森です。19世紀前半にパリの画壇にも風景画が普及していったといいます。鉄道網の拡大により、芸術家や旅行者が郊外の手つかずの自然が残る場所へ容易に出かけることができるようになり、このような移動手段の向上により郊外の風景に容易に触れることができるようになり、そのような風景を描いた絵画のニーズが生まれたといいます。現代であれば、旅行やハイキングで記念に写真を残すことができますが、写真のない当時は、その風景を描いた絵画を見ることによって、旅行を思い出したり、まだ行ったことのないところへの思いを馳せるということが生じてきた。そういう新しい風景画のニーズが生まれたと言えます。しかし、当時の既存の風景画は、歴史画の舞台としての古代の風景や物語の舞台背景として都合よく理想化された風景しかなかったと思われます。そんな絵画では新たに生まれたニーズに応えられない。そんなときに、バルビゾン派の画家たちがパリ郊外のフォンテーヌブローの森を写生した風景画は新たなニーズに応えるものであったと言えるのではないか。だからこそ、コローといった大家を含めた何人もの画家たちがバルビゾン村に居を構えたのではないかと思います。この章の展示では、このようなバルビゾン派の風景画を集めて、ミレーの同時代で、彼に近い環境の動きを概観するとともに、個々で展示されている画家たちと比べて、ミレーの独自性が見えてくるということを期待する展示になっていると思います。

Milletcorotまずは大家カミーユ・コローの作品を見て行きましょう。コローは若い頃にイタリアに留学し、古典的な絵画を現地で学んだといいます。古典的な手法で現代的な題材を対象として描いたというのがコローの特徴で、ルネサンスの著名な「モナ・リザ」と同じポーズの女性を描いた「真珠の女」という作品などは、その代表的な例と言えます。風景画についてもこの後で見てみる、他の画家たちに比べて明るい画面で、伝統的な古典の手法でくっきりと明確な輪郭で描かれています。これは、パリのような都会で生活している人々にとって郊外の風景を幾分か理想化し、都会人の抱く自然への憧れを、リアルな自然から乖離させることなく巧みに纏め上げているといえます。例えば、「ファンテーヌブローの森」という作品です。典型的なフォンテーヌブローの風景いう都会人イメージを古典的な構成の中で、個々の写実的な描写うまく当てはめていくという方向の作品ではないかと思います。前景、中景、後景の個々の要素により規則的に部活された構図は、中心から左に位置する大木と水を飲むために池に入っている牛が観る者の視線を左から右へと引きつけ、後退する背景へと導くように描かれています。観る者の目はジグザグとした動きの構図を見せる作品に導かれるように羊飼いの娘が水を飲ませるために3頭の牛を連れている道を見つけるに至ります。しかし、それははるかに眺めるに留まるもので、前景にある池を囲む雑草と大きな石が、この風景の中に入ろうとする視線を妨げるはたらきをしているように見えます。ここで詳細で鮮明なコローの描く画面に対して、観る者はコローが一時的につくり出した空間をのぞき込むように眺めるだけです。それは、都会から旅行で一時的なに風景を眺める視線です。いわば、絵葉書的な風景と言ってもいいかもしれません。

Milletbostonbrunoy_2「ブリュノワの牧草地の思い出」という作品です。ブリュノワとはパリとフォンテーヌブローの中ほどに位置する場所だそうです。この作品でのコローは「ファンテーヌブローの森」のような厳格に描き込んだ風景画から流れるような筆遣いに淡く薄い絵の具の塗りで幻想的な雰囲気の漂う優美な風景に変化してきています。明るい緑の風景の中で、白い花々が白色の軽いタッチで散りばめられ、木々の葉はサッと流れるように描かれています。それがうららかな場面の雰囲気をつくり出しています。二人女性と一人の子どもの三人組が森の中の、右手にいる牛の横を通り小道を奥に進んでいます。コローは、この作品を「思い出」というカテゴリーの一つとしているそうですが、どこか郷愁を誘うようなノスタルジックな幻想の風景のようです。

Milletbostonflower_2コローの三つ目の作品は「花輪を編む若い娘」という作品です。都会の着飾った淑女にはない、素朴で可憐な少女です。しかし、彼女の着ている衣装は、後のミレーの描く農民のくたびれ色褪せたものと異なり、演劇かオペラの舞台衣装のような感じでスタイルこそ農民風ですが、どこか華やかなところがあります。少女のうつむいた表情は見る者の関心に気づかず、花を編むことに没頭しているようで、それが都会の淑女のように摺れていない、可憐さを引き立てる効果をあげています。少女のちょうど後ろには花輪に使われる色とりどりの花が軽やかに描かれています。その他の草木はスケッチ風で、画面左には石造りの古代風の建物の一部が描かれています。これらはまるで演劇の舞台のようで、そう考えると少女のポーズやうつむいた表情も、どこか演劇くさい、ちょっとわざとらしい造ったような感じもしないわけでもありません。いずれにしても、これらの作品から観るコローの描いたものは、都会から田舎を眺める一時的な風景で、都会と田舎の間には越えられない境界があって、その境界を隔てて観る者は都会にいて珍しい風景をのぞくという視線が貫かれているように思えます。

Milletbostonresso1次に、コローと同世代のテオドール・ルソーの作品を見てみることにしましょう。ルソーの風景画へのアプローチは、コローとは違って古典的な設定や構成に制限されることは少なかったといいます。他方で、精密な空間構成と日常の様子に溢れ、深みのある茶系統の暖かみのある色調のオランダ風景画からの影響を受けていたと言います。形態と構図を理想化し、一場面として装飾されているかのような古典的な風景画ではなく、目の前の情景に素直に反応するような写実的な風景を描いたといいます。

「森の中の池」という作品は、コローの描くような明快で整った庭園のような風景ではなく、鬱蒼とした森です。その森が観る者の目前に広がっているかのようです。前景中央を取り囲む木々は精緻に描写され、池の表面のハイライトや野原の草の軽やかな筆致が、森の奥へと観る者の視線を誘うようです。とくに樹木の精緻で力の入った描写が焦点といえると思います。しかし、その一方で、池のほとりにいる赤いマントの農民と牛はまるで補足のようで、これほどまでに小さく描かれていることから、オマケのようなものであると思います。

Milletbostonresso2また「フォンテーヌブローの薪拾い」という作品は、画面の中央に、二人の女性が奥の森から続く小道をゆっくりとこちらのほうに進んでくる風景です。茶色く色づいた森や草原の深い緑の秋の気配が漂う風景の広がりに対して、人物は点景のように小さく描かれています。ルソーは森の風景を精緻に描写し、観る者に森へ誘うような迫真の画面を提示しました。コローは森をスケッチした後、アトリエで作品にまとめたのに対して、ルソーは屋外でキャンバスを立てて写生をして作品を制作したといいます。その違いがリアルさとなって表われているのかもしれません。しかし、距離感はコローと、それほど変わりません。ルソーの作品を観る都会の人々は都会とは違う郊外の風景を物珍しさとして見たのではないかと思います。描写が精緻か形式的かの違いはあるにしても、現在の我々で言えばツァーの観光客のような物見遊山の視線のニーズに応えるものであったと思います。

Milletbostonpenyaナルシス・ヴィルジル・ディアズ・ド・ラ・ペーニャという画家は、当時のフォンテーヌブローの森を描いた売れっ子画家だったとのことで「森の奥地」という作品は、ルソーの精緻な描写に色彩や明暗のコントラストをつけ、この作品では木の間を差し込んでくる陽光と影の織り成すコントラストが後の印象派のように強調されています。この作品など、あざとさまではいかないけれど、効果をあげる演出が施されて風景をいっそう印象深くしているといえます。これらに描かれるフォンテーヌブローの森は眺める対象として、離れて在るということで共通しています。これらは共通して映画で言えばロングショットの遠景なのです。

Milletbostonsheepここで、ミレーの作品が他の作品に紛れるようにひっそりと展示されていました。展示されていた作品はフォンテーヌブローの森を対象とした風景画というよりは、付近の農民の姿を描いた風俗画といえると思います。それだから、というわけではないでしょうが、他の画家たちの作品と比べる対象との距離感が異なっているのです。「木陰に座る羊飼いの娘」という作品です。先ほど見たコローの「花輪を編む若い娘」と比べて見てほしいと思います。ふたつとも若い娘を中心にした作品ですが、「花輪を編む若い娘」のほうは立ち姿全身を描き背景には左手にはるか遠景の石造り建物の一部がのぞめます。これに対して「木陰に座る羊飼いの娘」は座った姿を描き背後は大きな木の幹に隠されて僅かに左手に森の木々がのぞいています。二つの作品を比べると、「木陰に座る羊飼いの娘」の方が女性に近寄った視点で、「花輪を編む若い娘」は引き気味の視線で、遠景も入れていることから尚更、その感じが強くなります。そのため、「花輪を編む若い娘」は距離をおいて若い娘を見るという客観性の強い視線になっています。この作品が、どこか舞台装置めいた演劇の一場面のような様相を呈しているように見えるのもそのためでしょうか。これに対して、「木陰に座る羊飼いの娘」は、羊飼いの娘に寄った視線になり、背景はせいぜい森の木々という中景の範囲にとどめて視線の近しい距離にして描いています。しかし、そこまでして、視線を近しいものにして、親近感を抱くことのできるような距離感にしているにもかかわらず、この羊飼いの娘の表情は、ぼんやりとしか描かれていないのです。せっかく近しい距離にして、羊飼いの娘にクローズアップしているにもかかわらず、肝心の娘の顔がぼんやりとしているのです。それはわざわざ観る者の視線を近しいものにしたところで、最後のその視線を突き放すようなことになっているのです。観る者が勝手に想像してくれと言わんばかりです。娘の顔は背景の筆を流しているような草葉と同じような程度の描き込みになっています。これに対して、「花輪を編む若い娘」のほうは可憐な表情まで描かれているのと対照的です。私には、このような視線の距離感が他の画家にない独特のところ、ここでいえば人物画といってもおかしくない作品が風景画のように描かれている、そこにミレーの特徴があって、その不思議な距離感で農民の風景を描くと、客観的に観るというのとは違う印象を観る者に与えることになっているのではないか、そう思わせるところがあるのではないかと思います。 

ここの章は、解説から大部分をパクりました。

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