岡田暁生「音楽の聴き方」(9)
以上のような説明は、音楽美学において一般に、西洋近代に固有の「構造的聴取」と呼ばれているものである。そこでは個々の音は、それこそ言語と同じように、意味の担い手である。音楽による言語的/建築的構築物のパーツだと言ってもいい。周知のようにこうした聴き方は、ジョン・ケージ以降の音楽美学において、硬直した西洋クラシック・イデオロギーの権化のように批判されてきた。「意味」などから解放されて、もっと自由にサウンドの世界へ身を任せていい、傾聴するばかりが音楽の聴き方ではない、あたかも一つの環境のようにそれを聴いたっていいわけである。この主張は、次のようにまとめることができる。つまり西洋近代は専ら音楽の中で使われる音(楽音)ばかりを聴いてきた。だがこんな風に傾聴している時、実は私たちは音楽を聴いているのではない。音そのものの傍らを通り過ぎて、その背後の抽象的な意味─構造上の機能や記号内容─を探しているだけである。今ここで響いているサウンドの豊饒をやせ細らせる観念論はもうやめよう、心を無にして音そのものを聴こう、世界に満ちている魅惑的なノイズの世界に耳を開こう─東洋思想の影響を強く受けていたケージが夢見たのは、禅にも似た音楽聴取における「無我の境地」だったのだろう。
私はこうした考え方の中に、一定の妥当性を認めるにやぶさかではない。ただし、「意味を理解する」聴き方は西洋音楽の専売特許ではなく、高度に発達した音楽文化の中には常に認められるだろう。言語的性格、理論性、構築性、体系性、歴史性─こうしたものは、例えばインドの古典音楽だとかジャワのガムランだとか日本の雅楽やモード・ジャズなどにおいても、等しくその理解となっているに違いない。だが何より私がここで注意を喚起しておきたいのは、20世紀後半においてサウンド型聴取をかくも広く流通させた要因が、サティ=ケージ的な音楽思想への広い共感だけであったとは思えないということである。つまり、サティ=ケージ的な「音楽の再音楽化/脱意味化」が、本来それと相容れるはずのなかった現代の文化産業にとって、まことに好都合なものであったと考えられること。しかもそれが、これまた本来その仮想敵であったロマン派(とりわけその「音楽の宗教化」)と癒着し、一見しても分からないようなこんがらがった状況をつくり出していると思われることである。ここでまず問題になるのは、音楽における「する」と「聴く」の分業である。とくに1920年代からレコード及びラジオが普及し始めるとともに、家で音楽をする習慣は急激に衰退し始める。聴衆はもはや自分の身体を動かそうとはしない。家に居ながらにして、ソファに寝そべって、「第九」に感動することが可能になるのだ。能動的に意味を求めることをせず、うつらうつらしながら受身でサウンドに身を任せる。それがロマン派において聖化された擬似宗教体験としての「感動」をもたらす。かくして身体の萎えた愛好家相手の感動ビジネスとして、レコード産業が生まれてくる…。このレコード/ラジオの普及がもたらした音楽の聴き方の変化をさらに加速させたのが、おそらくそれに伴う音楽市場のグローバル化である。この音楽市場が市場として成立するのは、その音楽は世界中で売れなければならない。そこで、意味はローカルかもしれないが、サウンドはグローバルだ。文化産業が意味を捨象して、サウンドによる音楽販売を開始したのは当然のことだったろう。それに聴衆にとっても、音楽を意味から切り離して、ゴージャスなサウンドとしてただ受身に楽しむほうが、気楽だったはずだ。いわゆる「ハイファイ録音」が喧伝され始めた1950年代が、ケージの実験音楽と時代的に重なっていたことも、偶然とは思えない。そして意味がなくなったサウンドという容器に注入すべく、さまざまな物語ソフトが開発されていく。ありとあらゆる映像の類、マスコミを流れるスター神話、あるいは感動エピソードの類である。音楽がサウンドへ解体されていく背景には、個人の力ではどうにも抗し難い時代趨勢があったのである。
もちろんどういう音楽の聴き方をするかは自由だ。しかしあえて言わせてもらうなら、サウンド型聴取が孕んでいるある種の危うさに、私はどうしても強い危惧を覚えずにはおれない。それは、「音楽を聴く」という、人がおのれのすべてを賭けて行うに値する行為を、単純なハプロフ的「刺激と反応」に還元してしまうような気がしてならないのである。私にとって音楽とは、人が人に向けて発する何かである。それは他者、つまり私以外の誰かがこの世に存在している、つまり渡し一人ではないということの証ではないか。対するに眼を閉じてサウンドに聴き入るとき、外界は姿を消して何やら様々な音刺激で満たされた脳感覚だけが世界のすべてになってゆく─このことがどうにも私を不安にするのである。19世紀に民主化の夢とともに生まれた「考えないでいい音楽」が孕んでいた逆説がいよいよ白日のもとに明らかになったのが、20世紀だということである。
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