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2015年2月10日 (火)

ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(5)~Ⅳ.再生─新形而上絵画

デ・キリコは形而上絵画に回帰します。

いろいろ試みて、紆余曲折ありましたが、結局、これが原点で戻ってきました、というのが回帰という考え方で、これが評価の基底になっているような気がします。

Benmond結論から先に言ってしまうと、私はこの新形而上絵画(というよりもデ・キリコの形而上絵画について、この時期の回帰した新形而上絵画においてデ・キリコは自覚的になったというべきなのでしょうが)は、ピート・モンドリアンの「コンポジション」名づけられた一連の作品と同じようなものではないかと思えるのです。モンドリアンの「コンポジション」は黒い水平と垂直の直線と、その直線で作られる方形に三原色を塗り分けたというだけの極限にまで単純化されたスタイリッシュな一連の抽象画です。そして、直線の位置どりによる方形の変化や色の組み合わせの変化によって、単純な構成の抽象画で様々なバリエーションを生み出しました。極限まで要素を削ったモンドリアンと様々な要素をごった煮のように画面にぶち込んだデ・キリコの形而上絵画を同じというには無理があるように思えるかもしれません。

ここで、そもそも形而上絵画とはどのような絵画かということを考えると、普通に考えると何の関係もない要素を画面に同列に並べることによって観る者に意外性を感じさせる異化の効果によって、何か意味ありげなものであるかのように見せるもの、というのが前にも述べた私の捉え方です。そうであれば、作品に描かれた個々の事物は、それ自体で存在感があるとか独自の意味とか存在を主張するものではなく、他の事物との関係で、たまたま作品の中に置かれているものに過ぎないということになります。違った面から言えば、意外性を感じさせるという組み合わせが大切なのであって、その個々の組み合わされる事物が単独で美しかったり実在感がある必要はないのです。むしろ、組み合わせが第一として、その組み合わせができるために融通無碍に使えることのほうが必要になってくるはずです。このとき、個々の事物の自立性は邪魔になるといっていいでしょう。以前にデ・キリコの描写とその対象との関係は言葉の恣意性に似ていると述べたことがありましたが、デ・キリコの作品の中の個々の事物は、その言葉のような位置づけに似ていると思います。例えば「火事だ!」という叫びについて、火事を観察していた新聞記者が記事の取材をしていた言葉を発したのであれば、客観的な事件として火事を指しているのでしょうが、実際に火事に焼かれて、間近に火が迫っている人が発したのであれば助けを求めていることを表わしているでしょうし、そこに出動してきた消防士の言葉であれば、周囲の人への避難の呼びかけになるわけです。つまり、「火事だ!」という言葉は、その言葉の置かれたテクスト、コンテクストとの関係によって意味が変わってくる、決められているのです。「火事だ!」という言葉そのものに意味はありますが、ここではコンテクストが第一なのです。デ・キリコの形而上絵画で描かれている古代風の建築とかマネキンのような人物とか様々な事物は、この言葉のような性格のものとして位置づけてよいと私は思います。そして、そのような性格の要素の組み合わせで画面を作っていくということを究極的にまで追求したのがモンドリアンの「コンポジション」だったと思うのです。デ・キリコの作品の事物はモンドリアンの作品の直線、方形、色彩といった突き詰めたものではありません。それは時代の制約か、デ・キリコという画家の中途半端さかもしれません。

一方、そうであれば、デ・キリコの形而上絵画は組み合わせと構成の妙が一番大切ということになります。そうであれば、組み合わされる個々の事物は独自の存在を主張しないほうがいいし、目立ってしまったら却って邪魔です。それならば、組み合わせを際立たせるために個々の事物は御馴染みのものを使いまわしたほうが下手に目立つことはなくなります。そこで、同じような事物をとっかえひっかえ様々な作品に流用して微妙に組み合わせの異なる作品を制作していくということになるわけです。

Chiricobisketそのような意味で、私には、デ・キリコは形而上絵画を推し進めた結果として、回帰とか再生というのではなくて、もともとそういうものを純化させていったのではないか、と思えるのです。観る側としては、モンドリアンの「コンポジション」を観るのと同じように、構成の微妙な変化をそれぞれ吟味して楽しむというものになっていると思います。それは、他方で、大量消費の大衆社会において意図的にマンネリのパターンとすることで、分かりやすいブランド化を図ることもできることになります。水戸黄門の印籠がでてくると視聴者は安心して楽しめるのと同じパターンです。このデ・キリコはこれだという単純なパターンが他の画家との差別化を生むことによってブランド化し、人々に広く受け容れられやすくなるわけです。

そのような視点で、作品を見ていくことにしましょう。「ビスケットのある形而上学的室内」という作品です。最初に見た「福音書的な静物」と同じようなパーツが使われています。それらの組み合わせや大きさのバランス等といった構成を変えて、シリーズ物として様々な作品を提供するということを可能にしていると思います。私には、「福音書的な静物」が描かれた1916年には物珍しさもあって衝撃的に受け取る人々がいて形而上学的とかいうレッテルでわけがわからないことをもっともらしく評していたのが、50年の時間を経て当時の衝撃はなくなり、このような作品以上にわけのわからない作品が数多現れた後では、物珍しさも失せてしまった。その時に、わけのわからなさを糊塗するような形而上学的などという形容は、昔日の栄光のような思い出の中にあると言う状態になって、作品をただ観るということが可能になったのではないかと思います。形而上学的などとレッテルを貼ってしまうと、往々にして画面そのものを見ているようで、描かれていないものを意識的に見ようとしてしまうことが多くなります。しかし、それは実は作品を観ていない。デ・キリコの作品といのは、本人も含めて、そのような目に遭っていたのではないか、と思わせるものがあると思います。これは、私の偏見かもしれませんが。さて、二つの作品を比べるように観てみると、単に同じシリーズの作品として同列に並べていいように見えるのが、大きな驚きです。「ビスケットのある形而上学的室内」は「福音書的な静物」よりも50年も後に制作され、その間、画家は様々な試みに挑戦し、画家として成長したのではないかと普通なら考えるのではないかと思いますが、その考えるときに期待する成熟とか表現の進歩とか、そのような痕跡が全く見られないのです。例えば、双方にあるビスケットの描き方を観ていても、相変わらずそれと知らされていなければビスケットであるとにわかに判別できないような下手さなのです。この50年間というのはデ・キリコにとって何であったのかというものが全く見えてこないのです。あれは、ある意味すごいことなのではないかと思うこともあります。

Chiricokodai「古代的な純愛の詩」という作品。デ・キリコという私が真っ先にイメージする少女の影が走るのは、たしかこのような建物のある広場だったと思います。この作品の空間構成のめちゃくちゃさや前景の配されている物の描き方は、新古典主義やネオバロックの時期を経たとは思えない、パターン化したようなへたうまの図案です。これらのような作品を見ていると、デ・キリコはこの時期には何かを描くとか、何かを表現するとか伝えるといったことを、自覚して排そうとしていたのではないか、と私には思えます。それは、かつては形而上学とかいった思想を作品を描くことによってそこに表現していようとしていたのかもしれませんが、この時期のコピーのような作品を見ていると、出来合いのパーツを並べて画面に描いていて結果として出来上がったものが、なんらかの作品となっている。ある意味での即興性のような方法というのでしょうか。そういうものを極端にまで推し進めたのがモンドリアンのスタイリッシュな抽象絵画だったりするのでしょうが、デ・キリコはそこまで突き詰めて考える人ではなかったのかもしれず、そのかわりに遊びのような感覚がモンドリアンにはない魅力としてあるように思います。そのような遊びの感覚が強く感じられるのが、デ・キリコ独特のキャラクターと思うマネキンを用いた一連の作品ではないかと思います。例えば、「慰めのアンティゴネ」という作品は、まるでまんがのキャラのようです。

Chiricoantigone

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