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2015年2月15日 (日)

ボストン美術館ミレー展(2)~Ⅰ.巨匠ミレー序論

ボストン美術館のミレーのコレクションはバルビゾン派の代表的な画家として農民や農村の情景を描いた画家としてミレーを評価しているでしょう。ここでは、ミレーがバルビゾン村に移る前にパリで修行をし、故郷にちかいシェルブールの町で肖像画家として、最初の妻であるポーリーフ・オノや周辺の人たちを中心に肖像を描いていた頃の作品を、「序論」として展示しています。点数も少なく3点しかありません。正直にいえば、ミレーの展覧会で展示されているから見ますが、これらの作品を画家の名を伏せて、他の画家の作品と一緒に並べて展示されていて、この作品に目を留めるかは、甚だ疑問です。素通りしてしまうのではないかと思います。

Milletbostonself「自画像」は、ミレーが4点しか描かなかった自画像のうちの1点で、画家の27歳の肖像だそうです。後年の農民画では、人の顔や表情を描き込むことを敢えて避けて、丸型の輪郭にまとめてしまっているのですが、ここでは肖像画というせいもあり、顔の造作をきちんと描き込んでいます。その意味で、後年の作風とは異なるミレーがここにいます。画面を見ていると、背景は省略されて塗り込められていて人物が浮かび上がるようになっています。描かれた人物の肌は大胆な色調のコントラストがほどこされ、鼻筋のほぼ白色のハイライトによる線から、頬のピンクやクリーム色へと向かった部分です。これに対して、人物の頭部を強調するためでしょうか赤褐色の背景に黒っぽい衣装を着せて、波打つ茶色い髪の毛は黒いコートの襟に溶け込んでいるように見えます。これによって顔に視線が集まるように工夫されています。このような細かな工夫はミレーの一般的なイメージとは異質です。肖像画家として生きていこうとするならば、このような効果をあげるためのテクニックは必要なものだったのでしょう。しかし、顔がクローズアップされるような工夫がほどこされている、その顔の表情が物足りないというのでしょうか、眼は表情を語っているのでしょうが、口や下あごは陰になってしまって表情を語るまでに至っていません。せっかくクローズアップしても顔自身が弱いので、画面全体の印象が薄いのです。若い画家の自画像であれば、決意とか自負のようなものが強く伝わってきそうなものであってもいいのに、そういう主張はなされていないのです。これであれば、肖像が魅力あるものになったのか。地味という印象は避けられません。ミレーという画家の生来のものであろう地味に作風というのが、ここに表われていると思いますが、それが果たして肖像画というジャンルに適したものであったのか、甚だ疑問です。

Milletbostonwife「JFミレー夫人(ポーリーヌ=ヴィルジニー・オノ)」という最初の妻を描いた作品。府中市美術館の「生誕200年ミレー展 親しきものたちへのまなざし」では、彼女を描いた肖像が3点ありましたが、それらとは趣向の異なる作品。雰囲気は暗く、上目遣いにこちらを見つめているようなポーズです。府中で見た3点とは違って頭巾を被っているため、黒髪は一部しか見えません。しかし、そのため農家の女房のような印象になって、繊細ではかなげな府中の3点とは違いたくましさを感じさせるものになっています。これはこれで、まとまった作品ではあるのですが、この作品だけを取り出して魅力あるものとピックアップできるかというと、地味であるといわざるを得ません。

これはミレーの対象との距離感によるところが大きいのかもしれません。それが肖像画を描くときには中途半端になってしまうということになってしまう。対象に近づくのであれば思い入れとか愛情が込められた濃厚な表現がなされるのでしょうし、逆に対象から離れるのであれば客観的な視線から特徴を際立たせたり効果をあげるための装飾的な操作を施すこともできるでしょう。しかし、ここでのミレーの描いた肖像は、そのどちらでもなく、淡々と描かれているように見えます。装飾を施すにはてらいがあり、かといって愛情を前面に出すには恥ずかしいというのでしょうか、どちらかに徹することができず、結果として訴えるところの少ない結果となったものと思います。

Milletbostonhouse「グリュシーのミレーの生家」という作品。ミレーが19歳まで過ごした生家を描いた作品だということです。生家というタイトル(おそらくタイトルはミレー自身がつけたのではなく、後年に画家以外の人物が他の作品と区別するために便宜的につけたもののような感じですが)をつけている割には、故郷の懐かしい家というような家に対する思い入れが溢れているものになっているとは思えません。石造りの家の建物が正面から描かれているわけではなく、しかも緑に覆われた生垣と木々によって隠されたようになってしまっています。画面では木々・生垣や石造りの塀を描く筆遣いが細かくて、それ以外は、背景として大雑把に描かれています。つまり、風景を淡々と描いていると言った方がいいのではないかと思うのです。それは、郷愁とか思い出を喚起させるという象徴的な小道具や細部が見出せるような距離の近さではなく、かと言って、それ以前の伝統的な大家の人たち、プッサンとかヴァトーといった人々が歴史画の題材として一場面の風景を描いたような遠景の距離感とか空間構成に比べれば、風景を見せるという距離には近すぎます。つまり、中途半端なのです。そのような淡々と描かれた風景は、タイトルである家の建物が後ろに引っ込んでしまっているし、一人だけいる人物についても焦点が当たっているようには見えず、だいたい何をやっているのか定かでない、この作品は何を見ればいいのか、見ていて掴めないのです。

府中市美術館のミレー展では、肖像画の注文を受けるには、そのための技量に欠けるということを思いましたが、ここでの展示をみていて、その原因として、距離感が合わないということを思いました。そして、この距離感こそが、ミレーの特徴であり、後年の農村を描く際にはプラスに転じたのではないか、と思われるのです。それは、次の展示でフォンテーヌブローの森を描いた様々な画家たちの作品を見ると、違いが分かってくると思います。

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