無料ブログはココログ

« ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(3)~ Ⅱ.古典主義への回帰 | トップページ | ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(5)~Ⅳ.再生─新形而上絵画 »

2015年2月 9日 (月)

ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(4)~Ⅲ.ネオバロックの時代「最良の画家」としてのデ・キリコ

バロックは古典的で安定した画面に比べて空間を歪めて劇的な要素を強調したのが特徴で、古典主義と区別できるというのが私の見方です。この展覧会で“古典主義への回帰”と“ネオ・バロック”とを、特徴をどのように分けているか、よく分かりませんが、展示の説明ではルーベンスの作風の勉強した結果のようなことが述べられていたと思います。デ・キリコの作品では、平面的でごちゃごちゃにパーツを詰め込んだ画面では古典的な空間構成がもともとできていないので、この期に及んで空間を歪めるなどというまでもないことです。デ・キリコの場合には、古典主義とかバロックと形容することに意味はあるのか、むしろデ・キリコのトレード・マークといえる形而上絵画のパターンを取っていない作品と言った方が適当ではないかと、私は思います。

Chiricoautumn「秋」という作品。最愛の奥さんをモデルにしたという裸婦像です。堂々と大画面にドーンとヌードです。下世話な話かもしれませんが愛する妻をモデルにして作品を制作することはあるでしょうけれど、ヌードを、しかも大作で堂々と公表するなどと言う事が、男性としてどうなのでしょうか。普通に考えれば、奥さんの写真を年賀状やフェイスブックに貼ったりすることはあっても、ヌード画像を出すということはしないでしょう。デ・キリコは芸術家だから別ということでしょうか。私の勝手な想像ですが、デ・キリコには奥さんをモデルにして描いたという作品で、奥さんの裸と描かれた裸像を結び付けて考えなかったのではないか、と思うのです。つまり、描かれた作品が描かれたものを表わすということを信じていないからではないか。さらに言うと、描写とか表現の真実性を素直に信じていなかったからではないか。だからこそ、描かれた作品に対して感情的な態度を取ることがなかった。だから、奥さんの裸像を作品としても、その作品を公にすることに羞恥の感情を起こすこともなかった、と私は考えます。これは、デ・キリコの父親の世代に属するフェルディナンド・ド・ソシュールの言葉に対する考え方に似ていると言えます。ソシュールは言葉の恣意性といいましたが、「うさぎ」という言葉と動物のうさぎとの間には何の関係もないのです。私たちは何の疑いもなくうさぎという動物を「うさぎ」と呼んでいますが、それはたまたま、そのように決めているからにすぎません。だから恣意性というのです。仮に、日本人とある狩猟民族がお互いに言葉がつうじないまま茂みの前に並んで座っていたところに、茂みから突然うさぎが出てきました。その時、とっさに日本人は「うさぎ」と叫び、狩猟民族は「gavagay」と叫んだとしましょう。日本人は動物を見て「gavagay」という言葉は「うさぎ」のことを指していると考えるでしょうか。でも、日本人は動物の名前の言葉を言いましたが、狩猟民族はうさぎを獲物と見たかもしれません。だから、彼が叫んだのは日本語にすれば「夕飯」だったかもしれません。だから、言葉はものの関係は一様ではなく、たまたま集団の中でそのように決めているだけにすぎないのです。一見不条理に思えるかもしれませんが、だからこそ、人は言葉を使って現実から離れた想像をすることができるのです。さらに駄洒落のような言葉遊びは、言葉がものと必ずしも結び付いていないからこそ可能になるといえます。駄洒落というのは現実のものの関係では結び付かないような意外なものを、言葉の響きの類似性で現実の脈絡に関係なく結び付けてしまうという異化作用によって笑いを起こすというものです。このような言葉のあり方は、現実には関係として結び付かないものを絵画の画面の中に配置を考慮せずごちゃごちゃに並べる。まるで画像による駄洒落です。言葉の抽象性と、それによる融通無碍になっているという性格を絵画に取り入れてキッチュな作品世界をつくった、それがこの作品にも表れていると思います。

Chiricorubens「秋」は尻をこちらに向けた裸の女性の全身像です。画面の中の人物のスケールがバランスを欠いて大きく描かれています。この女性の足元には、まるで彼女に踏み潰されそうなほど小さな風景が描かれていて、それに比べると特撮映画の怪獣のサイズに見えます。それは女性だけに留まらず、観る側から見る手前の果物も女性に合わせたサイズになっているので、背景からは巨大な物体になってしまっています。これは、意図的にバランスを崩して異化効果を狙ったものなのでしょうか。それにしては、背景の小さな風景の描き方が目立たなくて、注意して観ていない気がつかないものとなっています。それ以上に、被写体として魅力あるものを前にして、それをストレートに描くということをしないで、このように、いってみれば小細工を施してしまっている、というところにデ・キリコという画家の特徴が表われているのではないか、と私は思います。デ・キリコがこの時期にお勉強したと説明されているルーベンスの作品の女性像は、その豊満な肉体の迫力や艶やかさで、観る者に迫るような圧倒的な存在感があります。それが画面からはみ出さんばかりの迫力で観る者を魅了してしまうものです。これに比べて、ここでデ・キリコの描く女性には存在感とか観る者を魅了する要素は感じられません。生気がないというのか、豊満な肉体の形態は描かれているのですが、そのかたちの人形のようなものと見えてしまうのです。参考としてルーベンスの「三美神」という作品を観ていただくと、ここに描かれている女性の身体のラインの崩れまで描いているものの、生気に満ち溢れています。観る人によっては辟易させられるほど圧倒的です。ここにデ・キリコという人の画家としての特性でしょうか、さきにも述べましたように対象をうつすという絵の真実性を信頼していない、というのかそれを追求していないのか、忠実に写すことのできる技量がないのか分かりませんが、それだからこそ、画面に細工を施してしまうのではないか、と勘繰ってしまうわけです。

Chiricostill3「田園風景の中の静物」という作品です。この作品も背景の田園風景と手前の果物との大きさのバランスが遠近法のバランス以上に果物が大きくて、巨大な果物のオブジェが屋外に設置されているようにしか見えない景色です。バロック絵画では、ボデコンとよばれる静物そのものを描いただけの作品が瞑想を誘うような崇高な静物画がありますが、そういう物のなかにも神は宿るというように事物を描くというのではなくて、ここでの果物は、“らしく”描かれている、何かのかたちで、何かに組み合わせるパーツのようにしか見えません。もしかしたら、デ・キリコという画家は形而上絵画とかシュルレアリスムの先駆とか言われているようですが、このように描くことしかできない不器用な画家で、それを活かすための唯一の道が、このような細工であったのかもしれない、とこれらの作品を観ていて思いました。もしかしたら、デ・キリコ自身も古典主義とかネオバロックとか、王道をいく正統的な絵画制作を試み、自分にはそれができないことを思い知らされたではないかとよからぬ想像の誘惑にかられてしまいます。 

« ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(3)~ Ⅱ.古典主義への回帰 | トップページ | ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(5)~Ⅳ.再生─新形而上絵画 »

美術展」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/564097/61111388

この記事へのトラックバック一覧です: ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(4)~Ⅲ.ネオバロックの時代「最良の画家」としてのデ・キリコ:

« ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(3)~ Ⅱ.古典主義への回帰 | トップページ | ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(5)~Ⅳ.再生─新形而上絵画 »