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2015年2月25日 (水)

岡田暁生「音楽の聴き方」(6)

一般に専門的な音楽用語と思われている言葉の多くが、本来わざ言語的な機能を持っていると考えられる。例えば「スタッカート」は「はがす、ちぎる」という動詞に由来している。練った小麦粉をちぎってパスタにするイメージを重ねるのも面白いかもしれない。

たしかに一見したところ西洋音楽には、音楽を語る身体的ジャルゴンが目立って少ないようにも思える。長三度、減七の和音、提示部といった客観的な専門用語を大量に発展させてきた。それに対して身体比喩として流通している言い回しは、そう多くはない。これはおそらく、音楽を一種の数学的秩序と考える古代ギリシャ以来の西欧の伝統、そして身体を穢れたものとするキリスト教の思想に深く関わっているのであろう。舞踏と並んで音楽は、人間が動物だった頃の本能を鮮烈に喚起する芸術であるが、総じて西洋音楽は生々しい剥き出しの身体性を蒸留し、清澄な神の国の響きへ昇華しようとするのだ。

しかし、地元の人である西欧の人の口からは音楽を語る比喩を耳にする。彼らが頻繁に使う、「彼はきちんと音楽をしていた」/「あれは音楽じゃない」という表現である。例えば有名演奏家の、極めてブリリアントではあるものの、これみよがしで技術が空回りしているような演奏について、彼らはよく「あれは音楽じゃない」という言い方をする。逆に、非常に不器用だが、音を大事にして、何かを伝えようとするような弾き方に対しては、「彼はちゃんと音楽をしている」という賞賛が贈られる。

 

音楽の営為が「すること」/「聴くこと」/「語ること」のトライアングルから成ると考えるなら、輸入音楽の場合、異文化理解という点で最もハンディが生じやすいのが「語ること」であるのは、否定できまい。輸入音楽の場合、「語る」が抜け落ちて、どうしても「する」と「聴く」だけの二極構造になってしまいがちなのである。私たちの聴いている音楽の大半が、程度の差こそあれ、こうした輸入された音楽である以上、「音楽は語れない」という信仰が増幅される条件は、十分すぎるくらいに揃っていたわけである。

日本における西洋音楽の批評言説に固有の問題としてさらに、明治以来の洋楽受容に際してそれが、ほとんど専らドイツ古典音楽をモデルとして、極めて硬直した教養主義の文脈中で輸入されてきたことが挙げられるだろう。今でもクラシック音楽批評で散見される「精神性」とか「深い」とか「内面的」とか「崇高」といった、ドイツ観念論ばりの語彙は、この頃に日本へ持ち込まれたものなのだろう。身振り豊かな砕けたジャルゴンでもって、生き生きと音楽について語る可能性は、日本のクラシック音楽受容過程においては、最初から排除されていたのかもしれない。

 

再三繰り返すが、音楽文化は「すること」と「語ること」とがセットになって育まれる。しかし「音楽を語ること」は決して高級文化のステータス、つまり少数の選良の特権であってはならない。どんなに突拍子もない表現であってもいい。お気に入りの音楽に、思い思いの言葉を貼り付けてみよう。音楽はただ粛々と聴き入るためだけではなく、自分だけの言葉を添えてみるためにこそ、そこに在るのかもしれないのだ。理想的なのは、音楽の波長と共振することを可能にするような語彙、人々を共鳴の場へと引き込む誘いの語彙である。いずれにせよ、音楽に魅了されたとき、私たちは何かを口にせずにはいられまい。心ときめく経験を言葉にしようとするのは、私たちの本能ですらあるだろう。

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