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2015年2月20日 (金)

岡田暁生「音楽の聴き方」(1)

大多数の人にとって音楽を聴く最大の喜びは、他の人々と体験を共有し、心を通い合わせ合うことあるはずである。例えば素晴らしいコンサートを聴き終わった後、それについて誰かと語り合いたくてうずうずしているところに、ぱったりと知人と出会って、どちらからともなく「よかったよね!」の一言が口をついて出てきたときのこと。互いの気持ちがぴったりと合ったと確信させてくれる、コンサートの後のあの「一言」がもたらす喜びは、音楽を聴いている最中のそれに勝るとも劣らない感興を与えてくれると、私は信じている。聴く喜びはかなりの程度で、語り合える喜びに比例する。音楽の楽しみは聴くことだけではない。「聴くこと」と「語り合うこと」とが一体となってこそ音楽の喜びは生まれるのだ。

とはいえ、「よかったぁ…!」と感嘆の声をあげるだけで満足するのではなく、もっと彫り込まれた表現で自らの音楽体験についての言葉を紡ぐのは、もとよりそう容易なことではない。「音楽を語る言葉を磨く」ことは、十分努力によって可能になる類の事柄であり、つまり音楽の「語り方=聴き方」には確かに方法論が存在するのだ。

美術史家のゴンブリッチは名著『美術の歩み』の中で、興味深いことを書いている。例えば人からある絵画をなぜ傑作だと感じたのかは、「普通、言葉では正確に説明することはできない。しかし、このことは、この作品もあの作品も、同じようによいものだとか、好き嫌いの問題は議論することができないとかいう意味ではない」。こうした問題について議論することを通して、「以前には見逃していた点に私たちは気付くようになる。私たちは気付くようになる。私たちは、各時代の芸術家たちが成し遂げようと努力した調和ということに関して、感覚を高めるようになる。これらの調和に対する私たちの感覚が豊かになればなるほど、私たちは、それらの作品をもっと楽しむようになる」。ゴンブリッチいわく、「紅茶を楽しむ習慣を持たない人々にとっては、一つの銘柄は、他のものと、どう見ても似たりよったりの味に見える」が、「その人たちがもし、洗練された味を探すだけの暇と意志と機会を持てば、どのタイプとのミックスが好ましいかについて一家言をもつ本当の「鑑定家」となり得る」。つまり、「好みというものは洗練し得るという事実を隠せるものではない」というのである。私の文脈で言えば、「趣味を語る言葉」の問題だ。例えばワインのテイスティングにおいては、特定の味覚に対応するさまざまな語彙を覚えていくことを通し、微妙な感覚の差異や関連や同一性や連想に徐々に気づくことが出来るようになっていくのであろう。だが「重い/軽い」「辛い/甘い」くらいしかワインの味覚を語る語彙をしらない私などは、いつまで経っても「趣味を洗練する」に至らない。個々の経験がいつまで経ってもばらばらな印象にとどまったままで、互いに明瞭に関連付けられ、知の体系となっていくことがない。芸術(音楽)体験においても、感覚的印象と言葉との関係についての事情は、これとよく似ているに違いない。

端的に言って、「聴き方」とは「聴く型」のことだと、私は考えている。「こういう音楽が来たら、こういうパターンとして聴く」という暗黙の約束事が、一見「どう聴こうが自由」と思える音楽鑑賞の世界にも、無数に存在している。具体的な例を一つ挙げよう。例えばシューマンの「子供の情景」の一曲目。夢見るような二小節の旋律が、ここでは絶え間なしに変奏され、繰り返される。正確に言えば、このABAの三部形式の曲では、Aでは二小節動機が四回、Bでは三回繰り返される。だが西洋音楽の語法に通じている人は、これを「二小節の動機が十一回繰り返される」とは聴かない。「八小節が三回繰り返される」、そして「一回目と三回目は長調であり、しかも内容的に同じであるのに対して、二回目は短調であって、両端の部分とコントラストを成している」、つまり「これはABAの三部形式である」という具合に聴く。ソナタ形式とかロンド形式といったものもすべて、作曲の型であると同時に聴く型でもあるのだ。構造面についてだけでなく、音楽が惹き起こす情動的な反応についても、私たちはいろいろな型を刷り込まれている。その典型が「感動」であろう。クライマックスの熱狂へ向けて盛り上がる音楽を聴いたときは、我を忘れて喝采を送り、他の人たちと熱い思いを分かち合い、時に涙する─こういった反応の仕方もまた、特定の音楽が暗黙の前提としている、「聴く型」なのだ。仮にそれを知らなかったとして、一体ベートーヴェンの「運命」をどう聴いたらいいのだろう。なぜあのように煽りたてるのか、全く理解不能なのではないだろうか。すべての音楽には、いい具合にそれを味わうための暗黙の反応モードというものがあるし、それを知らないと著しく感興を削がれることにもなるのである。

こうした問題を考えるうえで示唆に富んでいるのは、ゴンブリッチの見解である。『芸術と幻影』の中で彼は、心理学から借りてきた「メンタル・セット」という概念を持ってくる。芸術作品と向き合うに際しての、「メンタルな構えについての一連のモデル」くらいの意味として理解しておけばいいだろう。これは「知覚/認識のための枠組」のようなもの、つまり美学でいう「図式」とほぼ同義だと思われる。受容された知覚情報を整理し、選別し、切り取ってパターン化し、それに意味を与える枠組みのことだ。ゴンブリッチによれば私たちは、芸術観賞において「すでに波長を合わせ済みの受信機をもって彼らの作品に臨む」という。この受信機が「メンタル・セット」であり、つまり型なのである。受信機という比喩はとても分かりやすい。その自覚があろうがなかろうが、音楽を聴くときはいつも、私たちは自分の手持ちのありとあらゆる「聴く型」を総動員し、そのスイッチをオンにして、どれかが反応してくれることを願って臨んでいるのではあるまいか。

音楽受容には、ありとあらゆる次元における、隠れた「型」がある。音楽形式とか、音楽に対する反応モードだけではない。音楽を上演する場についての型もあれば、音楽を語るロジックもあるだろう。音楽の文化的背景もまた、後に見るように、「聴く型」をいろいろと規定してくる。私たちが音楽を聴いてあれこれ言うときに、何気なくスイッチを入れている様々な「聴く型」。それらを一度意識化し、整理してみることが、本書の目的である。

音楽は決してそれ自体で存在しているわけではなく、常に特定の歴史/社会から生み出され、そして特定の歴史/社会の中で聴かれる。どんなに自由に音楽を聴いているつもりでも、私たちは必ず何らかの文化文脈によって規定された聴き方をしている。そして「ある音楽が分からない」というケースの大半は、対象となる音楽とこちら側の「聴く枠」との食い違いに起因しているように思う。私たちは皆、特定の歴史/社会の中で生きている以上、音楽の聴き方もまた、それからバイアスをかけられるのはいかんともしがたい。自由に音楽を聴くことなど、誰にも出来ない。ただし、自分自身の聴き方の偏差について幾分自覚的になることによって、もっと楽しく音楽とつきあう事が出来るのではないか─これが本書において最も私が言いたいことである。

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