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2015年2月23日 (月)

岡田暁生「音楽の聴き方」(4)

第2章 音楽を語る言葉を探す─神学修辞から「わざ言語」へ

音楽は、文学や美術と比べて言葉にしにくい芸術である。聴覚が嗅覚や味覚と同じように一種の触覚であるとすれば、よく言われるように「触れる」とは「触れられる」ことであって、聴体験における「私」は響きに織り込まれ、どこまでが自分で、どこからが対象なのか区別すらつかなくなってしまう。対象を客観的に記述することが出来なくなってしまうのである。さらに、嗅覚や味覚と比べたときの、音楽体験の際立った特徴がある。それは単に言葉にすることが難しいというだけではなく、言語化すること自体に対して、しばしば私たちが禁忌の意識を感じてしまう点にある。おそらくこの意識は、音楽がかつての呪術の痕跡を色濃く残す芸術であることと、無関係ではないだろう。今日なお音楽は、多くの人にとって神秘であり、魔術である。魔法にかかるために人は、まずは合理的な思考をいったん停止しなければならない。魔術は言語を宙吊りにしたところで初めて成立する。言葉では到達できない何かがそこにあると信じるからこそ、私たちはかくも深く音楽の魔力に魅了されるのだろう。

しかしながら、「音楽を言葉にするのは難しい」/「言葉にすることがためらわれる」ということとある程度切り離して考えなくてはならないのは、「音楽を前にした沈黙をことさらに人々が聖化するようになったのは比較的近代になってからのことだ」という事実である。つまり、「音楽は言葉にできない…」という発想自体はそんなに古いものではなく、これを言い出したのは19世紀のドイツ・ロマン派の詩人たちなのだが、それが今日に至るまでの私たちの音楽の聴き方/語り方に強い縛りをかけているのである。そもそも18世紀までの西洋の美学体系において音楽は、詩や絵画と比べて格落ちの二流芸術と見なされていた。それはなぜかといえば、音楽は明晰な概念や形を欠いていて、心地よいけれども曖昧だからである。それが、ロマン派の詩人たちは「言葉がないから、音楽は深さに欠ける」という従来の論法を、「言葉がないが故に、音楽は言葉を超越する」という方向へ180度裏返してしまった。ロマン派の芸術創造の生命は無限の憧れであって、彼らは遠い彼方へ祈るような切ない眼差しを向ける。そして造形芸術や言語芸術と違って形がないからこそ、音楽はロマン派詩人のファンタジーを隈なくかきたててくれる。このことが意味するのはつまり、音楽がかつての宗教にも比すべき祈りに、そして超越的世界の啓示の場になったということにほかならない。こうした19世紀における音楽の神聖化と不可分の関係にあったのが、ロマン派の時代に生まれた音楽批評である。音楽について語るものは芸術の神殿に仕える司祭であって、神の代理人たる彼らの言葉は一種の神託なのだ。だから詩的神秘化とも言うべき、一種独特のレトリックをしばしば用いた。音楽そのものについて即物的に語るというより、音楽との摩訶不思議な交感が詩的アラベスクでもって綴られている。批評言説は音楽と一心同体になって恍惚の表情を浮かべてみせるのである。こうしたロマン派の音楽批評は、まるで神を名指すことを憚るかのように、ことさらに言葉の無力を言い立てる。言葉を用いながら、言葉の無力を嘆いてみせる。ここにロマン派的な音楽批評が本質的に孕んでいる自己撞着がある。一方で音芸術を「言葉を超えたもの」として神聖化しながら、他方でそれについて語らざるを得ないという矛盾を、いかにして繕うか。それが近代の芸術批評の直面した課題だったとすら言えるかもしれない。

他方で音楽批評という職業が、どういう経緯で生まれてきたかといえば、それは近代における芸術マーケットの成立と密接に関わっている。封建時代の芸術創作は顧客による芸術家の丸抱えであったのに対して、18世紀の後半になると新興市民が鑑賞者/購買者として台頭してきた。ただしかれらはお抱え芸術家など持てないし、そもそも成り上がり進行ブルジョワには審美眼などあまりなく、何を買えばいいか分からないことも多かっただろう。そこで生まれてきたのが芸術のマーケットとジャーナリズムである。つまり創作側からすれば、丸抱えしてもらえないのなら、出来るだけ多くの買い手を獲得すべく、少しでも自分の作品を宣伝してほしい。そして買い手から見れば、マーケットに氾濫している多数の作品のうち、どれが「いい」のか教えてくれるアドバイザーがほしい。こうして双方の利害が一致したところに。芸術ジャーナリズムは生まれた。

産業革命以後の社会システムの最大の特徴である「分業」が、音楽の世界でも生じ始めたという言い方も出来るかもしれない。つまり音楽における「する」/「聴く」/「評する」の分離である。「する」権利の譲渡により、自ら実践する「自分で弾く」楽しみから、「本職の演奏を恭しく拝聴させていただく」ことへ移動し始めた。そして、近代の聴衆が放棄したのは、「すること」だけではない。かつての王侯貴族が作曲家に向かって自分の意見や要求を堂々と口にしていたのとは対照的に、18世紀の後半から生まれてきた市民階級の音楽愛好家、最初から自分の意見を直接音楽家に伝える手立てを持っていなかった。自分の目や耳や判断し、自分の言葉でそれを評する手間と権利を、聴衆はジャーナリズムに外注せざるをえなかったのだ。かくして一種の隙間産業として、「いいもの」と「悪いもの」の区別を教えてくれる仲介者が登場してくる。それが芸術批評家である。よかったのか悪かったのかの判断を、近代の聴衆はジャーナリズムに委ねた。だが黙ってきているだけの聴衆ほど与しやすいものはない。往々にして評価は音楽と関係ないところで決められるようになる。一方に音楽の神格化、他方に音楽の詐欺商売化という両極端が同時進行し始めたのが、近代の音楽界であった。

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