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2015年2月 3日 (火)

ルディー和子「合理的なのに愚かな戦略」(4)

第3章 過去の成功がもたらした「しがらみ」がブランドをつぶす

トヨタ自動車は、「レクサス」と「トヨタ」とは別のブランドだと思ってもらいたいと考えている。しかし、トヨタ自動車はレクサス開発にあたって、ブランドはそもそもどういったものなのか、何もわかっていないまま突き進んだ。トヨタ自動車自身のコメントでは「1989年9月、米国で高級販売網『レクサス』の営業を開始した。(中略)新チャネル設立の背景には北米現地生産の本格化により自主規制下での輸出枠に余裕が生じるという事情や、トヨタ車のお客様が上級車に移行する際の受け皿となる高級車がなく、メルセデスやBMWに乗り換えてしまうということがあった。」、とまるで流通チャネルである販売店網が中心であるかのような書き方だ。競合他社の車に乗り換えられないための受け皿。それがレクサスのブランド・コンセプトであった。ドイツのラグジュリー・カーと競争できる車をつくり、それを、既存の流通チャネルとは異なるプレミア・チャネルづくりに大半の努力を傾けた。結果として、ラグジュリー・ブランドとは何であるかが分からないまま、新しいモデルや車種がつくられマーケティングがなされてきたというわけだ。

トヨタのような日本を代表する一流企業がブランディングの基本も知らない。

家電、化粧品、ビールといったメーカーにとって客は消費者ではなく特約店や系列販売店だった。これらのメーカーは、卸問屋の特約化や小売販売店の系列化を進めることで全国各地に進出を果たし、戦後の高度成長時代に繁栄を謳歌した。だから、地区ごとに販売代理権を与えられた特定卸売業者や系列化された販売店に、なるべく多くの商品を仕入れてもらうのがマーケティングだった。だから、大事なのは商品ブランドではなく企業ブランドだ。化粧品においては資生堂、ビールにおいてはキリンがトップの座にあり続けたのは、商品ブランドが良かったからというよりは、流通チャネルの系列化を競合他社よりも早く確保することに成功していたからだ。

同じように自動車業界では、1950年代に特約代理店構築にすばやく着手したトヨタや日産が市場の50%のシェアを占有した。60年代から高度経済成長に合わせて個人の乗用車需要が増大。それに対応して、米国の方式を参考にして、1県1ディーラーという単位で販売チャネルを構築した。そして、より幅広い顧客層に訴求するため、またシェアを拡大するためも1県1ディーラーの建前を守りながらも販売チャネル数を増やす方策として、次から次へと新しい車種を出していった。車種が異なれば、新しいチャネルをつくっても、既存チャネルからの苦情に対処することができる。あるいは、また、消費者の観点を考慮すれば、新しい車種を他の車種と差別化するために、同一のチャネルで販売せずに別のチャネルを構築したということもある。実際のところ、異なるチャネルで販売される車種間の違いはあまりなかった。極端な場合、メーカーは同一コンセプトの車種でネーミングを変更することで異なる車として異なるチャネルで販売するようなことまでした。つまり、消費者のために新しいブランドを発表したというよりは、新しい販売チャネルをつくるため、あるいは、既存チャネルのディーラーの不満をなくすために、異なる、でも類似したブランドをだしたということだ。ここに流通チャネルへの方針はあっても、ブランドに対するきちんとした考え方などなかった。また、一つのブランドを大切にするという発想もなかった。

ブランド力が弱いのは自動車メーカーに限ったことではない。戦後、流通チャネルの系列化を進めた家電メーカーや化粧品といった業種には、次から次へと新製品を出し、その結果として強いブラントを作れなかった企業が多い。こういった企業には、流通チャネルはあってもブランと戦略はなかった。

 

資生堂にとっては、長い間、顧客は消費者ではなく、チェーンストアと呼ばれた系列小売店だった。消費財メーカーとして消費市場の個人を相手にビジネスをしていたのではなく、系列小売店や系列販売会社を相手に、まるで産業材メーカーのような法人相手のビジネスをしていた。だから商品ブランドではなく企業ブランドを大切にした。これは世界の化粧品会社と蔵別非常に珍しい現象だ。

たとえば、米国に本社を置くエスティローダーという化粧品会社がある。日本デパートの化粧品売り場に行けば、エスティローダー傘下のブランドが六つか七つぐらいは別々のカウンターを構えている。が、海外でも日本でも、一般消費者はこういったブランドがエスティローダーの子会社だということは知らないはずだ。なぜならそういった情報を敢えて積極的に公開しないからだ。ブランドは個性である。競合ブランドと明確に差別できる個性がなくてはならない。だから、ブランドをどう扱うかはそれぞれのブランドのトップに判断させればよい。そうすることによって、多くのブランドを傘下に抱えていても、各ブランドの個性が生きる。ブランドの差別化を際立たせるために、同じグループに属していることを、消費者は知らないほうがよい。また、各ブランドを管理運営する経営者を親会社の長は干渉しないほうがよい。

だが、資生堂は、ブランドの考え方が根本的に違っていた。資生堂にとっては、販売店との交渉に当たって、一流の会社で信頼できると感じてもらうために、企業のイメージや知名度が重要だった。企業ブランドさえしっかりしていれば、そこから発売された商品ブランドの名前とかコンセプトとかいったものはそれほど大切な問題ではなかった。

資生堂は1930年代後半に自社製品は系列小売店だけが取り扱うことができ、全国統一価格とするメーカー/系列販社/系列小売店/消費者までをつなぐ垂直的流通システムを構築した。これにより競合他社は自社製品を販売するスペースが少なくなり、その分市場からの競争排除となった。しかも、定価を守ることで消費者が安い価格で買い機会もゼロにした。この流通システムは戦後の資生堂の高度成長を支える強力な基盤となり、戦後生まれの団塊の世代の女性が成長するにつれて新製品を発売しマス広告を出せば飛ぶように売れ、70年代はじめまで毎年2桁の成長を続けることが出来た。

しかし、70年代半ばになるとメーカーである資生堂と系列販売店との共存共栄の関係のなかで互いに甘えが発生し、高度成長にブレーキがかかるとともにビジネスへの弊害となっていった。販売店は販売技術を磨いたり、新規客を獲得する努力を怠るようになる。既存客を相手にするならば、目新しい新製品があれば売りやすい。また、競合メーカー製品が売れていると話題になれば、同じような製品を対抗上ほしくなる。だから、新ブランドや新製品を出してマス広告を打てば、売上は一時的に上がるため、メーカーである資生堂に要望する。その結果が、流通チャネル内に在庫が残っていく。他との差別化も出来ない個性のない弱いブランド商品が在庫としてつみ残っていく。メーカーの資生堂にしても、営業担当者は、自分のノルマが達成できないときに販売店に在庫があることが分かっていても、お願い販売を強要してきた経緯から要望を断れない。店頭での売上でなく、仕入れ時点で売上として計上してしまう仕組みが弊害となっていた。販売店側も仕入額に応じてリベートが支払われるから、店頭で売れる見込みがなくても仕入れてしまう。つまり、消費者がどれだけ買ってくれたかではなく、小売店がどれだけ買ってくれたかが、メーカーの売上になっていった。共存共栄の関係は、いつの間にか、不都合な真実を互いに押し付けあう関係へと変化していった。こうして、かつて資生堂に栄光をもたらしてくれた完璧な垂直型流通チャネルシステムは、重い足枷となって資生堂の足を引っ張るようになる。

資生堂の経営陣は、自分たちのブランド政策やチャネル政策が現状に合わなくなってきていることに早くから気がついていたが、思い切った改革が出来なかった。なぜなら、戦後ずっと50年以上にわたり、系列の販売店とは運命共同体としてやってきて、改革の邪魔になるからと断ち切る決断が出来なかった。それは、社長も平社員だった頃から関係をもち恩義を受けたものを裏切ること似るからだ。みずから構築して自らが絡めとられてしまった、系列販売店との複雑な関係。断ち切ろうとしても断ち切れない関係の中で、資生堂は改革が必要とわかっていても実行できないまま、中途半端なかたちで事業を続けざるを得なかった。

自分がある行動をすると、それに応じて他の人たちがどう行動するかだいたい決まっている。だから、そういった予測が上手な人、仕組みが直接的に理解できる人は、自分が望んでいるような行動を他人にとってもらうために(インセンティブ)必要な行動をとることができる。それはまた、他者が望んでいるであろうと予測できる行動をじぶんもとらなくてはいけないということも意味する。つまり、まわりに相手にされなくなったり悪く思われたりしないような行動を自分もする。みんながそう思うことによって秩序が保たれる。長い歴史、成功の歴史を抱えた企業には、このような「しがらみ」が生まれ、それが経営者の意思決定まで拘束するようになる。このようなしがらみは外だけでなく内にもある。新入社員のときから世話になった先輩、とくに自分に目をかけて昇進へと導いてくれた先輩たちの意見を、社長になったからと言って否定できなくなる。

また、一般社員においても、ずっと一つの会社にいて、入社してから10年、20年…、ずっと同じブランドに接していると人間は飽きてくる。愛社精神と同じように愛自社製品はあっても、それはファンであるのと違う。会社に出勤すれば、同じ商品が溢れ、それについて考え議論を繰り返す。熱心な社員であればあるほど、仕事をしていないときでも普通の消費者とは感覚が離れてしまう。そこで「飽き」がどうしても生じてしまう。自分は自社商品に飽きているとは意識しなくても、脳は飽きてしまっている。新鮮な目で見られなくなる。そこかに硬直が生まれ、若い社員の邪魔をする存在になってしまう。

 

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コメント

ルートセールスの世界にいましたので、今回の話は実感としてわかります。時代が変わったことが理解出来ず、いままでと同じ戦略や商品展開では拡販が望めないのに、新しい発想やユニークな商品を提案しても、リスクを構えることを「冒険主義」だとして抵抗する人たちがたくさんいました。

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