無料ブログはココログ

« ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(1) | トップページ | ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(3)~ Ⅱ.古典主義への回帰 »

2015年2月 7日 (土)

ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(2)~Ⅰ.序章:形而上絵画の発見 

デ・キリコは20代の若さでパリで形而上絵画が評価されたということで、展示についても最初から、そのような作品が展示されています。これらを観ていると、奇を衒っているような感じがします。あくまでも後世から見ればの話ですが、当時は、それが批評家たちに天才的なとど言われたのでしょう。先のことになりますが、この次の展示である古典主義への回帰が始まるまでのあいだ、ここで展示されているような、いわゆる形而上絵画は10年にも満たない期間で制作されたということになります。具体的にここが、あそこがというような指摘はできませんが、よい意味でも、悪い意味でも、ここで展示されている作品を見ているとアマチュアリズムという形容が思い浮かびます。ものがたりの捏造をしますが、若いデ・キリコが思いつくアイディアを忘れてしまわないうちに形に残していった。その際に多少の仕上げの粗さは気にせず、時には描きなぐるかのように急いで作品を制作して行ったという印象です。それが、アイディアが汲めども尽きず湧いてきたと思われる若い頃をすぎると、頭の柔軟さがなくなってきて、また、作品を受け容れる批評家や顧客たちもデ・キリコの奇想にだんだん慣れてきて当初の衝撃が薄れてくる。つまりは、作品が飽きられてくる、というようなことで形而上絵画の生命は、それほど長く続かず、もともと土台がなかったデ・キリコは古典に助けを求めた、というようなフィクションです。

ただ、ここで展示されている作品には、若さゆえでしょうか、あまり些事にこだわらず、一気に描きたいものだけを描きたいように描くというような、一種のキレのようなものが感じられます。そこにある種の清新さがあるのは否定できないと思います。

Chiricostill「福音書的な静物」という作品です。デ・キリコの形而上絵画のうちでも、とくに形而上的室内とよばれるものだそうです。“こうした作品は、ハイパー・リアリズムの表現で描かれることで、ふだん見慣れた事物の奇妙さを浮かび上がらせるものであった。謎めいたアトリエの中に共存するこうした事物は、古くからあるユダヤ人街の店先で目にする菓子類や定規とフレーム、何かの測定器具、小旗、おもちゃ箱、カラフルな大麦糖菓子、指標が書き込まれていない白地図、建物の斜面あるいは矛盾した遠近法、ひっそりとしたイオニア式円柱の影など。”と解説されています。たしかに、この作品が制作され発表された同時代であれば、ここで解説されたとおりだったかもしれません。しかし、およそ100年を経た目でみると、この作品から“ふだん見慣れた事物の奇妙さが浮かび上がる”というような衝撃は、はるかに薄くなってしまっていると思います。では、このような作品は時代の流行に乗った一過性の消費物のようなものだったのか、というと、私には、そういう側面は弱くないと思います。デ・キリコ本人はどうであったか分かりませんが、画商や周辺のデ・キリコを売り出した人々には、これで一発あててやろうというヤマッ気はあって、それがまんまと当たったというところではないかと思います。実際に、作品にそれに沿うような軽快さを備えていると思います。多分、その軽さという味が、100年後の2014年にデ・キリコの作品に見出した興味ではないかと私は思います。軽さというか、もっと具体的にいえば、キッチュさです。

この作品は題名からすると静物画ということになるのでしょうが、静物の置かれてある空間がはっきりしません。多分室内なのでしょうが、その室内のどこにそれぞれのものがあるのかという器の室内空間がはっきりしません。解説の意図に則して考えれば、そこに奇妙さがあるということになるのでしょう。しかし、それならば、もともとの空間を想定し、それを否定するような手続きを踏むはずです。しかし、この作品を見ると最初から、空間の感覚がないと言った方が適切なように思えるのです。つまり、事物を配置すべき空間という感覚が当初からなくて、たんに画面上に事物をぶち込むという印象なのです。その雑多な感じといいますか。そこに、室内にそぐわないようなものが、それぞれの関係を無視したように、なんの脈絡もなく詰め込まれている。喩えて言えば幼児のおもちゃ箱です。多分、デ・キリコは、これを描いているときは楽しかったのではなかったのか、そう思わせるものがあります。しかも例えば、右側中央の輪のようなものとその左の縦の長方形を見てください。解説から想像するに、ビスケットか何かではないかと思いますが、そう言われないと何だか分かりません。お菓子の質感とか、実在感とかがこの輪にはないのです。その上(後方ではないでしょう。画面上というしかないでしょう。)の定規についても、それらしい形状をしていますが、木製であれば厚みとか木の堅い感じとか重さとかスケール感とかがまったく感じられません。それは一種の抽象化された記号のような、“らしい”ものでいいのです。デ・キリコにはこれ以上リアルに描く技量は持ち合わせていなかったとであろうし、画面に“らしい”ものを入れ込むことで十分で、だからこそ観るものもリアルを感じ取ることなく画面の雑多な組み合わせを笑うことができることになるわけです。言葉遊びに駄洒落というのがありますが、この作品は言うなれば、視覚的な駄洒落というような事物の記号の組み合わせ遊びのようなものではないかと思います。それがキッチュさです。しかも、ごていねいに「福音書的な静物」などというものものしい題名がつけられているではありませんか。このような可笑しさが、この作品の魅力になっていると、私は、正直思います。

Chiricomisterry「謎めいた憂愁」という作品。憂愁という題名にあるような憂いの色彩もなく、画面全体は鮮やかな色彩を対照させて、明確な印象を観る者に与えます。“魅惑と魔術の神であるヘルメスの胸像が、床の向こう側という謎めいた構図の中に登場する。床板の後ろに置かれたヘルメス像は、ビスケットが入った箱と色のついた積み木の間に引っ込んでいるように見えるが、こうした作品は、「機械仕掛けの幾何学的な亡霊のいる無限の奇妙さを」、「常軌を逸した我々の生活が過ぎ去る、まるでその場所の中に」起き上がらせるものであった。”このような解説を作品のたびに引用するのかというと、そうでないと画面に何が描かれているか分からないからです。敢えて言えば、デ・キリコは“へたうま”なのです。ただ、このような作品では、それで十分で、うまく写実的に描写されてしまったら、キッチュさは失せてしまいます。多分、この作品は、デ・キリコも参加しているような思いっ切りスノッブな人々の集まりのなかで、制作当初から意図だの内容だのが散々話題にされた挙句に発表されたのではないかと思います。だから、画面上方の人物なのか胸像なのかはヘルメスであることは、たんに作品を見ただけでは分かりません。伝統的な神話を題材にした歴史画であれば、ヘルメスを暗示する杖かなにかが添えられているのですが、そのようなものも描かれていない。ということは、デ・キリコには、意図とか何かをちゃんと画面を通じて伝えるというようなことは、あまり重視していなかったのか、不特定多数の人々を想定していなかったのか、です。多分、デ・キリコとしては後者の方ではなかったのかと思います。このような作品に解説にあるような評価をするためには、この画面に描かれているものについて予備知識やデ・キリコの傾向について知悉していることが前提になるからです。言ってみれば、スノッブな人々の自尊心をうまくくすぐり、もっともらしい高尚に響く議論を誘発するツールとてしてのニーズに応えるものとして重宝されたものであったのだろうと思います。今の日本で言えば、ちょっとアートっぽいマンガのようなものでしょうか。しかし、現代の日本で、美術館でこの作品を見る私はヘルメスをよく知りませんし、画面を見るだけでヘルメスとは分かりません。このヘルメスと現代の「テルマエ・ロマエ」で描かれたローマのパロディとどちらが上手かといえば、私は躊躇なくヤマザキ・マリに軍配を上げますが、この両者を較べるために持ち出したのは、一種のパロディとしてこの作品を見ることができると思うからです。言ってみれば、現代の私から見れば、この画面の中では、ビスケットも積み木も立て掛けられた棒もヘルメスも、もともと備えている価値とか意味を剥奪されて同列に並べられていると言えます。そこにあるごった煮の感覚というのか、キッチュさですね。権威を笑い飛ばすような結果になっている。そんなキッチュさがありながら、画面全体は静けさがあるので、ちょっと不思議な可笑しさがあるのです。

Chiricomisterrytelこれは、私の想像ですが、パリとかローマのスノッブな人々に受け容れられ、サロンなどの集まりで談笑に加わりながら、制作する作品が、その人々にウケたので気をよくして、この方向でいいのだと作品を制作していたのが、いわゆる形而上絵画であったと思います。しかし、それも長く続くはずはなく、次第に飽きられてくる。そうすると、もともとアマチュアリズムでやっていたデ・キリコには技術的な土台がしっかりしていないため苦境に陥ってしまうことになる。そのときにすがったのが絵画の古典だったのではないか。それが。次の展示となると思います。

« ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(1) | トップページ | ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(3)~ Ⅱ.古典主義への回帰 »

美術展」カテゴリの記事

コメント

酷評ですね。私は好きですけれど。

OKCHANさん。コメントありがとうございます。私もキリコの作品は好きです。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/564097/61100670

この記事へのトラックバック一覧です: ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(2)~Ⅰ.序章:形而上絵画の発見  :

« ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(1) | トップページ | ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(3)~ Ⅱ.古典主義への回帰 »