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2015年2月11日 (水)

ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰(6)~Ⅴ.永劫回帰─アポリネールとジャン・コクトーの思い出

いよいよ展示も最後の章です。これまで、デ・キリコの作品を初期の形而上絵画から新古典主義、ネオ・バロックを経て、形而上絵画に回帰し、ここにきて形而上絵画を展開させたような作品を制作しました。

この章のタイトルが永劫回帰というのは大仰な気がしますが、このタイトルにあやかって、私もこの展覧会の感想のはじめのところに戻ろうと思います。はじめのところで、私はデ・キリコの作品の印象を“軽さ”と言いました。それは絵画の視覚的な表現が自立していないというのか、彼が頭で、言葉を使って考えたアイディアを形にするというものだったのではないか、という印象です。頭の中で言葉でこねくり回したアイディアは往々にして視覚的な必然性とは別の次元で発展させられるものであるために、画像として表現されるとチグハグとした印象は避けられません。頭で考えたアイディアで勝負ということになると、どうしてもアイディアの独自性ということになり、インパクトの強さを求められるようになります。それが視覚的な常識からは違和感を起こすような異化作用によるインパクトが作品に特徴として現われているといいました。それは、デ・キリコの作風の変遷をみても、形而上絵画から新古典主義、ネオ・バロックを経て再び形而上絵画に回帰するという作品だけを見ていると筋が通っていない、脈絡がないと思われることも、視覚的表現の軽視ということと、頭で目先のインパクトを追いかけるという姿勢から考えて見れば、とりたてて無理があるということにはならなくなると思います。こんなことを言うと、流行を無節操に追いかける軽薄な人間のように思われるかもしれませんが、デ・キリコという人は大衆消費社会の中で、自ら教養とか見識をもたず大勢に付和雷同するような、いわゆる大衆の性向にうまく見合うものとして広い支持を得たのではないかと思います。パット見の一見での違和感を生むほどのインパクトがあり、そして、もともと言葉で考えアイディアを視覚化してものであるため、言葉で説明しやすくなっています。それは、大衆に啓蒙する批評家という商売の人たちには、たいへん扱いやすいものです。一見難しそうなのが、深淵そうで、しかも教化するのに説明しやすい。形而上絵画で前衛的というレッテルを獲得し、その尖がったテイストを新古典主義やネオバロックの明快で大衆にも分かりやすい傾向に作風を変化させても、全面的に同調するのではなくて一部に破綻を含むことで尖がった味わいをスパイスのように残し、形而上絵画にもどったところでパターン化された作品を大量にばら撒くというマーケティングのお手本のような展開を結果的にした。何か、悪口に聞こえるかも知れませんが、そういうことが可能になる作品であった、ということなのではないかと思います。それが、私がデ・キリコの作品に感じる“軽さ”です。それはまた、ベンヤミンの言う現物のアウラをあまり感じさせない、実際の作品と複製、例えばパソコンの画面に映る画像との差異をあまり感じさせないことにもよるのかもしれません。しかし、だからこそ同じパターンのマンネリズムともいえる同系統の一連の作品については画面に含まれるパーツの組み合わせや配置を組み替えることで画面に差異を生み、その変化によって画面の表わすものが変わってくるというパズルの組み換えのような面白さを生み出すことを可能にしました。それは、もともとのデ・キリコの制作が頭で考えたアイディアを後追いで形にしていくというものだったのが、組み合わせという出来合いの結果が作品となるというつくることと考えることの順序が逆転していって、もともと“軽い”ものであったのが、考えという重し、つまり内容も重視されなくなるに至って、もっと“軽い”ものになっていったと思います。だから、こういうのも変かもしれませんが、美術館や展覧会場で、深刻にしかめっ面をして鑑賞する芸術なんぞではなくて、ウェブで検索して画像を眺めたり、街角のポスターへの引用とか挿絵などで見るとはなしに、視線の邪魔をすることなく視界に入ってくると、「あっ!」と気がつくという程度の関わり方が似つかわしいのではないか、と今回の一連の展示を見ていて思いました。

デ・キリコという人も、典型的な画家というタイプの人ではなかったのではないか、と私は想像します。私が考える典型的な画家とは、例えば有り余る才能に翻弄されてしまうような天才的な人でカラバッジォのように才能に振り回されるように作品を生んでしまう人、あるいは何よりも描くことが好きで、努力の末に作品を成熟させていったシャルダンのような人です。そして多くの画家は彼ら二人のような極端ではないものの程度の差こそあれ二人を結ぶ直線の上にどちらの傾向によっているかの程度の差によって並んでいるのではないかと思います。しかし、デ・キリコはその直線には乗ってこない人だったのではないか、と私には思えるのです。それは、先の二人に共通している「描く」という行為を重視する姿勢がデ・キリコには感じられないからです。そういう精魂を込めて描くというような重さがないということから、デ・キリコの作品に対しては、芸術を鑑賞させていただく、という格式ばった姿勢ではなく、リラックスした消費の対象のような向かい方ができる、と思います。

Chiricosunこの展示会の感想においても、いつもなら個々の作品を取り上げて、それらを個別にああだこうだと感想をかたるのですが、このデ・キリコの展示作品については、個々の作品にはそのような存在感とか表現の強さのようなものがないので、個別の作品として区分がしにくいものになっていると思います。だから、このように全体として作品を語るという方が適していると思うので、大雑把で抽象的なもの言いになってしまっていますが、あえて逆らわずに、こうやって書いています。

「燃え尽きた太陽のあるイタリア広場、神秘的な広場」という作品です。デ・キリコは広場を題材にしたシリーズ物のような作品を描いていますが、そのひとつと言っていいのではないかと思います。それが、展示の章立てで前の章と別立てにして、あえてここに展示している意味が私には分かりませんでした。“永劫回帰”という物々しいタイトルの展示の中にありますが、はっきり言って、前の章で展示されていた作品のパターンに見えました。ここで展示されている作品は、そういう点で、それぞれの作品の個性というのは、とりたてて感じられない、パターン化されたシリーズのひとつ、一種のパーツのようなもののように思えます。

Chiricoyuri「オデュッセウスの帰還」という作品です。このような室内に船を浮かべているパターンもデ・キリコはいくつか描いているようですが、舞台を室内にするとか、古代ギリシャ風の物とか並べられている小物類をみていると、デ・キリコ風のパーツを盛り込んで、いかにもデ・キリコ風という作品になっていると思います。そういう意味では、デ・キリコ風として出回っているイメージを焼きなおして再生産するということは繰り返しを続けることに他ならず、格好いい言葉にすると“永劫回帰”というのが当てはまるのかもしれません。

色々と辛らつなことを書いてきましたが、デ・キリコの作品については形而上絵画とかシュルレアリスムの先駆とか、あまり祀り上げるようなことをしないで、軽いイラストのポスターのような、鑑賞するではなく、インテリアの一部くらいにリラックスしてなんとはなしに眺めるくらいが丁度よいのではないかと思います。これは、貶しているつもりはありません。

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コメント

おはようございます。この記事にはあまり出てきませんが私はジャン・コクトー、好きですよ。キリコとも交流があったのでしょうか。シュールな絵画作品には現実を忘れさせてくれる遊びといいますか、不思議さがあるので好きですね。アートに最近浸っていなので飢えてますね(笑)CZTさんのブログで我慢しときます。

poemさん、コメントありがとうございます。シュルレアリスムの詩人は、あまり肌が合わないんです。ブルトンもピンとこないし、コクトーは「恐るべき子供たち」は読んだというだけでした。このブログは絵画の感想を綴っていますが、アーティスティックではないので、あんまり代わりにならないかもしれません。

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