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2015年2月24日 (火)

岡田暁生「音楽の聴き方」(5)

こうしてみてくると、音楽を宗教なき時代を救済する新たな宗教にしようとする勢力と、台頭してきた市民階級の聴衆を相手に音楽で持って商売をしようとする勢力との利害関係がピッタリ一致したところに生まれたのが、「音楽は言葉ではない」というレトリックだったことが分かる。ドイツ・ロマン派によって音楽が一種の宗教体験にまで高められていくとともに、音楽における「沈黙」がどんどん聖化されていく。批評もまた、言葉の無力を雄弁に言い立てるというレトリックでもって、沈黙する聴衆の形成に加担する。しかも世は分業の時代、音楽行為が「すること」と「享受すること」と「語ること」とに、どんどん分化していった。そして19世紀に生まれた音楽産業にとっては、聴衆があまり自己主張せず、黙っていてくれるほど好都合なことはなかった。「音楽は語れない」のレトリックには、多分に19世紀イデオロギー的な側面があったわけである。ことさらに「語ることの出来ない感動」を求めるとき、ひょっとすると私たちは前々世紀の思想にいまだに呪縛されているのかもしれないのである。

そもそも近代芸術は、ある種の公共性を持つ存在たらんとしてきた。だからこそ新聞雑誌といった公論において批評され、美術館やコンサートホールといった公共空間で展示されてきたわけである。音楽に対して「信者」たらんとするか、それとも「公衆」としてそれに接するか。後者の立場を選ぶ限り私たちは、「たとえ意識しなくても、判断してからうけいれる」ことをせざるをえない。そこでは「批判の機能が本質的な役割を演ずる」のである。だからこそ音楽を語ることの意味はある。公衆たらんとする限りにおいて、私たちは大いに音楽について語っていいし、語るべきなのである。

音楽の少なからぬ部分は語ることが可能である。それどころが、語らずして音楽は出来ない。そもそも音楽家からして、本当は批評言語を駆使しているはずなのだ。例えば、一流指揮者のリハーサルのDVD等を見れば、一目瞭然だ。チェリビダッケやクライバーの練習風景は、見る者に鮮烈な印象を与える。天衣無縫に音楽をやっていると見える彼らだが、リハーサルでは絶え間なしにオーケストラを止め、詳細極まりない指示を出している。流麗な音楽は、実は言葉によって吟味熟考され、修正され、方向付けられた結果なのだ。しかも彼らが音楽に貼り付ける言葉は、ただ説得力があるばかりか、どれもの本当に面白い。こういうものを見ていると、ひょっとすると「音楽を語ること」は「聴くこと」以上に楽しいのではないかとすら、思えてくるはずだ。「音楽は言葉に出来る/音楽は言葉で作られる」ということの意味の、これ以上に説得力ある証はあるまい。

 

面白いことに、恩かせく形が日常的な音楽の現場で用いる言葉は、少なくとも私の知る限り、総じて砕けていて端的であり、感覚的で生々しい。「精神性」とか「宗教的」といった観念的な表現を当の音楽家たちはまず使わない。それどころか彼らは、身体的実感が伴わない物言いを、何よりも軽蔑する。音楽家を納得させる語彙の第一条件は、形而上学的ではないこと、つまり身体的であることだという印象がある。この意味で興味深いのが、さきにあげたリハーサル映像で指揮者たちが使っている言葉の性質である。彼らが練習で用いる語彙は、明確に幾つかのカテゴリーに分類することが出来る。一つは「もっと大きく」とか「ここからクレッシェンドして」といった直接的指示。二つ目は「ワイン・グラスで乾杯する様子を思い描いて」といった詩的絵画的な比喩。そして三つ目が音楽の内部関連ならびに外部関連についての説明。どれも音楽を語る言葉としてポピュラーなものだ。だが私が何よりも注意を促したいのは四つ目の語彙、つまり身体感覚に関わる彼らの独特の比喩の使い方である。リハーサル映像を見ていて気付くのは、彼らが時としてそれを耳にした途端にこちらの身体の奥に特定の感覚が沸きあがってくるような、一風変わった喩えを口にすることである。それまで単なる抽象的な音構造としか見えなかったものが、その言葉がそこに重ねられるやいなや突如として受肉される。体温を帯びた生身の肉体の生きた身振りとなるのである。例えば、スメタナの『モルダウ』のリハーサルでフリチャイは、「狩りの音楽」について「ここではもっと喜びを爆発させて、ただし狩人ではなく猟犬の歓喜を」という指示をしている。ここで意図しているのは、静止した詩的な絵画イメージなどではなく、もっと生々しい臨場感─制止もできずはね回り、主人に抱きつこうとする犬たちの四方八方にこだまする吠え声、小刻みに震える尻尾など─だろう。これは、スメタナの音楽が狩人ではなく猟犬の歓喜を表現しているというのではない。そうではなくて、音楽の中に本来内在している強烈な運動感覚が、「猟犬の歓び」という言葉を与えられることで、まざまざと私たちの身体に喚起されてくるのである。フリチャイはこの箇所の前後で、四本のホルンがひとかたまりになって溶け合うことなく、それぞれが独立して四方から呼び交わし、こだまするような効果を再三求めている。おそらく「猟犬」という比喩も、こうした声部の独立性を詩的に表現したものであろう。ここでは、音楽が猟犬を表現しているのではなく、「猟犬」という言葉が音楽構造の比喩として機能しているわけである。

生田久美子は『「わざ」から知る』のなかで、特定の身体感覚を呼び覚ますことを目的とした特殊な比喩を、「わざ言語」と呼んでいる。そこで例示されているのは日本舞踊で、その伝承においては、「手をもっと上げて」といった、誤解の余地のない一義的な指示はあまり使われない。代わりに師匠たちは、「指先を目玉にしたら」とか「天から舞い降りる雪を受けるように」といった、一見突拍子もなく、あるいは曖昧な表現を使うのを好む。前者の表現はそれなりに正確かもしれないが、それでは単なる身体部位の一パーツの表面的な「形」の模写に終わってしまう。手を上げればそれでいいというわけではない。むしろ一つの動作の細部ではなく、どういう身体の構えと感覚─生田はそれを「形」に対比させ「型」と呼ぶ─でもってそれを行うかが、とても重要なのだ。私なりに言い換えるなら「わざ言語」とは、身体の共振を作り出す言葉である。それまでばらばらだった自分の気分(感情)/動作/身体感覚の間の関係。あるいは自分と他者との間の身体波長のようなものの関係。それが、一つの言葉を与えられた途端、生き生きと共鳴し始める。そういう作用を持つのが、「わざ言語」ではないか。ただ単に手を一定の角度だけ上げる事が問題なのではない。何も考えず、感じず、ひたすら外面的な動作を正確に真似すればいいのではない。重要なのは、例えばひらひらとゆっくり舞い落ちてくる動き、冷たい白さ、ごく軽く脆いものを慎重に、優しく受け止めるイメージなどを共有することなのだ。そう考えれば、指揮者の指示もまた、典型的な「わざ言語」である。

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