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2015年3月

2015年3月31日 (火)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(16)

だいぶ中断がありましたが、ここからは、いつもの株主への手紙にはない別冊付録のような記載です。バフェットとチャーリー・マンガーがバークシャーについて、過去や将来への思いを語っています。

 

バークシャー─過去、現在と未来

始めに

1964年5月6日、バークシャー・ハサウェイはシーバリイ・スタントンという名の男性が運営していましたが、1株当たり11.375ドルで225,000株を購入したいと申し出た株主に手紙を送りました。私は、その手紙を予想しており、その価格に驚きました。

バークシャーには、その時、発行済み株式が1,583,680株ありました。これらのおよそ7%は、私がマネジメントし、実質的に自己資本のすべてを投資していたバフェット・パートナーシップ・リミテッド(「BPL」)が所有していました。間もなく、公開買い付けが郵送される前に、スタントンはBPLにどの程度の価格で持ち株を売るか、私に尋ねました。私は11.5ドルと答えました。かれは「素晴らしい。取引をしましょう」と言い、8分の1少ない提案をしました。私はスタントンの振舞いに怒り、入札しませんでした。

それは、途方もなく愚かな決心でした。

バークシャーは、その時、ひどい経営状態に陥った北部のテキスタイル・メーカーでした。比喩的にも実体的にも業界は南に向かっていました。そして、バークシャーは、様々な理由から、その進路を変えることはできませんでした。

その産業の問題はずっと広く理解された真実でした。1954年7月29日バークシャーの取締役会は次のような現前たる事実があることを議事録にしました。ニュー・インクランドのテキスタイル・メーカーは40年前から倒産が相次ぎ、戦時中はこの傾向が止まったが、需要と供給が釣り合うまで続くだろう。

取締役会の約1年後、バークシャー・ファイン・スピニング・アソシエイツとハサウェイ・マニュファクチャリングは、19世紀にルーツを遡る2社は、合併し、今日我々が名乗っている社名になりました。14のプラントと1万人の従業員を擁し、合併した会社はニュー・イングランドの巨大なテキスタイル・メーカーとなりました。しかし、2社の経営陣の合併の合意は、間もなく、心中の約束になってしまいました。統合して7年間、バークシャーは損失を続け、自己資本は37%も縮小しました。

一方、同社は9つの工場を閉鎖し、時にその際の償却益で株式を買い戻しました。この繰り返しは、私の注意をひきました。

私は1962年12月に、よりよい決算とさらなる自己株取得を予想して、初めてバークシャーの株式をBPLに購入させました。そのとき、この株式は7.5ドルで売られていました。1株あたりの運転資金10.25ドルと帳簿価格20.2ドルから大きくディスカウントでした。その価格でこの株式を買うということは、一服して火のついたまま捨てられた吸いかけの葉巻を拾うようなものでした。使い残りは汚くて、ずぶ濡れかもしれませんが、まだ吸うことはできます。しかし、その一瞬の喜びの後は、それ以上は何も期待できないものでした。

その後、バークシャーは台本に固執しました。それは、さらに2つの工場を閉鎖し、1964年5月にその償却益で株式の買い戻しをするというものです。スタントンが提示した価格は我々が最初に購入したコストの50%上回るものでした。他の場所で捨てられた他の吸いさしを見つけた後の、まさに私を待っている吸いさし、私の目の前にありました。

スタントンがきたない手を使っているのに苛々して、私は彼の申し出を無視して、攻撃的にバークシャーの株式を買い始めました。

1964年5月までに、BPLは(当時の発行済み株式1,017,547株のうち)392,633株を所有し、5月初旬の取締役会で正式に会社をコントロールし始めました。シーバリーと私の子供じみた行動により、彼は仕事を失い、私はほとんど分かっていない怖ろしいビジネスにBPLの資本の25%以上を投資していることに気付きました。「結局、8分の1は、どっちがものにしたのでしょうか」私は車に噛み付いた犬でした。

バークシャーの営業損失と株式買戻しのために、1964会計年度末の自己資本は、1955年の合併の時の5500万ドルから、2200万ドルに減少しました。この2200万ドルは、すべて、織物の事業運営に必要なものでした。同社に現金の余裕はなく、銀行から250万ドルの融資を受けていました。(バークシャーの1964年のアニュアル・レポートは130~142ページに再現されています)

しばらくの間は、私は良い思いをしました。バークシャーは2年間は好ましい経営環境にありました。それは以前の年の悲惨な結果から生じた損失の繰越があったので、この2年間の収益に所得税がかからなかったからでした。

それで、新婚旅行は終わりです。1966年から18年間、我々は絶え間なく織物事業と無益な格闘を続けました。しかし、その頑固さや愚かさにも限界はあります。1985年、私は、ついに降参し、事業を終わらせました。

 

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「在る」ということ雑感(2)

 “地”と“図”という区分がある。例えば、こうやって今、私は黒い線の字を入力しているけれど、それを識別できるのは白い下地があるからで、その対照によって黒い線が在るのが分かる。パソコンの画面とか、白い紙に線を引くときには、白い“地”があるのが分かる。しかし、普通はあって当然というので、ほとんど意識されない。何かを識別、つまり、認識するときには、何らかに地の上に立って現われている図を認識している。何かを考えるときもそうではないか。「“在る”というのは、どういうことか?」と問うことに、その問いの地があるのではないか。つまり、この問いを問う者は、“在る”という真っ只中にいれば問うということはできない。ということ。だから、“在る”ということにないところに、その者がいる。ということは、“在る”ということではない。つまり、“無い”ということがなければならない。

「在る」ということ雑感(1)

いつまで続けられるか分からず見切り発車のようになりますが、断片的なことを、何度か、アトランダムに、かといって緩く関連し合っていそうな、泥縄のようなことども、できるところまで、断続的に、ちょっと、やってみたいと思います。断片的に書き込むので、それほど長いものにはならないので、いつも投稿しているものとは別に、オマケのようなものとして、やってみたいと思います。

「存在とは何か」ということを考えるとき、存在と存在者とを混同してはいけないとハイデガーは言う。存在論的差異とは、教科書的に言えば、「存在とは何か?」という根源的な問いかけは、往々にして“存在する”と“存在者”を一緒くたにしてしまう。この二つのことは本来異質なのだ、その異質だということを言っている(何のこっちゃ?)。それでは、最初からチンプンカンプンではないか。取りあえず脱線して、存在論的差異をこう考えようか。仮に「存在とは何か?」という問いに答えるとしたら、この問いは「“在る”ということはどういうことか?」と言い換えることができるだろう。それに対して答える答え方は「“在る”ということは○○ということである」ということになるだろう。しかし、これでは答えになり得ない。この答えの文の中で“在る”ということを定義するなかで、実にその定義されている“ある”という言葉が使われている。かくして、定義するときに、その定義されている言葉をつかうということは同語反復の繰り返しになってしまう。自同律だ。だから、この答えがちゃんと定義として成り立つためには、ふたつの“在る”と“ある”が違うものでなくてはならない。だから違うことにしましょう、というのが存在論的差異ということになる。と私は思っている。そこで、「○○で“ある”」というのは定義をする、つまり、何であるかという根源的なことを考えるときの考えるパターンになっている。だから、存在を問うということは考えること自体を問うということとほとんどイコールということだから、ギリシャ以来の哲学はこのことだけを問うてきた根源的な問いだと、ハイデガーは言うのだ、と私は思っていた。

2015年3月30日 (月)

ジャズを聴く(25)~フィル・ウッズ「フィル・トーク・ウィズ・クィル」

フィル・ウッズというプレイヤーを、彼を知らない人に紹介するとしたら、ビリー・ジョエルのヒット曲のバックで哀愁のフレーズを吹いている人、ということを上で述べた。例えば、彼がヨーロッパ・リズム・マシーンとプレイした『ALIVE AND WELL IN PARIS』というアルバムの最初の曲「And When Are Young」を聴いてみると、情緒的な要素が露骨なメロディをあからさまに吹いている。ウッズの演奏の全部がそうだというわけではなく、むしろ、この演奏は特別な事情のもとで実現したものであるのだけれど、このような演奏をするような資質を元々彼が持っていた、ということを示している。ジャズ、とりわけモダン・ジャズの場合は、抽象度の高い音の存在感を重視する、記号のように音楽が感情とか風景とか音楽以外の何かを直接的に示すということから一番遠いところにあると言える。だから、ジャズの場合、言葉を音に乗せるボーカルよりは楽器によるインストルメンタルの曲が中心になっている。そんな楽器演奏で重視されるのは即興演奏とかフレーズの創出というように音楽の論理に従ったもので、感情が表現されているということではない。たとえ、メロディを歌われるということがあっても、あくまでも音楽としてであって、感情を表現するというのが第一ではない。そういう点で、ジャズという音楽は、抽象度の高い音楽、音楽としての純粋度は高い音楽と言える。そのような中で、ウッズの情緒をあからさまに出す演奏というのは特徴的に目立つ。ウッズという人はクレバーな音楽家であるのはあきらかだが、その彼が、ジャズの中で異質とも言える演奏をあえて録音したのは、そうせざるを得ない理由があったからだ。その理由こそ彼の本質的な音楽性ではないかと思う。

人生において、感情が最も瑞々しく、それゆえに感情によって動かされやすいのが、思春期の大人と子供の端境期にあたるいわゆる青春といわれる時期だ。過渡期にあって、大人でもなく、かといって、もはや子供ではないという宙ぶらりんの時期は精神的に不安定な状態になりやすく、感情に流されやすい危うさを秘めている。他方で、そうであるがゆえに、細かな感情の襞に分け入った繊細、あるいは鋭敏な感性が突出し、それが瑞々しい表現となって結実した芸術作品が突発的に生み出されることもある。

ウッズのプレイには、このような「青春」というイメージを彷彿とさせるところがある、と指摘する人もいる。「And When We Are Young」であからさまに情緒的なフレーズを吹いてしまったのも、青春の感情に流されてしまうのに通じるというのだろう。これは、ウッズと言う人が青春の不安定な精神状態を持ち続けていた人と言うのではないだろう。ただ、ウッズというプレイヤーの立ち位置がどっちつかずの中途半端なところにあって、常に落ち着かない不安定さを内包していたことが、演奏に表われていたのではないかと思う。それが青春の不安定さを想起させるようなプレイになっていったのではないか。

サックスという楽器を鳴らすことに関しては、ウッズという人は抜群の上手さを持っているのではないか。たしかに楽器の音色はプレイヤーの個性であり、単純に巧拙は問えないだろうけれど、録音で聴いていても、ウッズのサックスはいかにも鳴っているのがよく分かる。そして、どんなに速いフレーズでも、正確無比に鳴らしている。つまりはメカニカルに楽器を鳴らすことに関してはピカイチの技術をもっていて、何でもできてしまう、とても器用なプレイヤーに見える。そのようなウッズが若く影響を受け易い時期にチャーリー・パーカーというプレイヤーに出会ってしまったことが、ウッズにとって良いことだったのか、悪いことだったのか。いずれにせよ、ウッズの中途半端なところは、ここに起因しているのではないか。おそらく、ウッズの技量をもってすれば、パーカーのスタイルの完璧なコピーは可能だったのではないかと思う。むしろ、パーカーのプレイをより洗練させて再現することもできないことではなかった。しかし、それは単なるコピーでしかなく、そのことをウッズ自身が一番分っていたのではないか。それなりの質の高いプレイはできるのだけれど、何かが足りないというアイロニー。それをチャーリー・パーカーという憧れの存在が亡くなった時に痛切に感じさせられたのではないか。だからこそ、ハード・バップの人気が凋落していったという環境変化もあったのだろうけれど、ウッズ自身はフリー・ジャズに思いきり接近するようなスタイルを大きく変えていく。1955年の『Woodlore』のころは、未だそのことが強く自覚されていないで、ある面伸び伸びとしたプレイができた。ちょうど、自己に目覚め始めたころの過渡期特有の、未だ恐れを知らない瑞々しいさ、それが、このアルバムの大きな魅力となっていると思う。その後、ヨーロッパに活路を求めて、当地のミュージシャンとフリー・ジャズに接近するが、録音されたアルバムは難解よりも、ある種の大衆性や聴き易さがある。そこにも、ウッズの中途半端さというのか、徹しきれないどっちつかずの面が現れているように思う。これは、良い面として捉えればバランス感覚のよさということになるのだろう。多分、プレイしているウッズにも、やはり分っていてジレンマを感じていたのではないか。それは、アメリカに帰国したあとで、フリーのスタイルから転換していることにも現れている。1970年の『At The Frankfurt Jazz Festival』はウッズが、フリー・ジャズのスタイルを最も強く打ち出したアルバムであるけれど、不思議な聴き易さがある一方で、ウッズ自身が中途半端な自身に対するジレンマをぶつけるように突然過剰に激しい演奏になったりしている。

私は、ウッズのそういう中途半端さと、それゆえに彼のプレイが常に過渡期にあるようなスタイルがフラフラしているところが、大人と子供の間で揺れ動く思春期の不安定さを想わせられる演奏が好きだ。

 

Phil Talk With Quill    1957年9月11日、10月8日録音

Jazwoods_quillDoxie 1

A Night In Tunisia

Hymn For Kim

Dear Old Stockholm

Scrapple From The Apple

Doxie 2  

 

Phil Woodsas)

Gene Quillas)

Bob Corwin (p)

Sonny Dallas (b)

Nick Stabulas (ds)

 

フィル・ウッズというプレイヤーはメカニック(あまりジャズでは使われない言葉のようだけれど、クラシック音楽では指の達者なピアニストの形容等でよく使われる)の巧みな人であることがよく分かる。ジャズの世界ではクラシックと違って超絶技巧のヴィルトーゾ等と言うのは誉め言葉にはならないけれど、全体として、楽器の鳴りのよさ、超高速のプレイでの正確無比のフィンガリングや、タンギングの見事さ、そしてそれらが、いかにも苦労してやってますという感じはなく、スマートに当たり前のようにやっている。このような名義性を堪能するだけでも価値があると言うことができる作品。

編成は、フィル・ウッズとジーン・クイルの二人のアルト・サックスによる双頭コンボ。このような編成では、二人のアルト・サックスが火花を散らすようなバトルを期待するのが常套的のようだが、たしかに白熱しているようには聞こえることはあるが、バトルというよりはアンサンブルの掛け合いのフィーリングだ。それはテーマのアンサンブルが整然としていることやブロウの部分との配分のバランスが考えられていることなどから、たまたまジャム・セッションで二人のプレイが白熱したという偶然的要素に頼っていないことが明らかであることからだ。さらに、ここでの二人のプレイはよく似ていて、私は二人を聴き分けることがだきなかった。だから、表面的には激しい演奏が続くのだけれども、聴き終わった後で疲労を感じさせられることはなく、爽快感を味わうことができる。その一方で、繰り返し聴いても飽きることはない。一種のスポーツ的な快感、しかも裏で緻密に計算されたものという印象。

一曲目の「Doxie」はソニー・ロリンズの名曲。ロリンズはゆったりとした演奏で、彼独特のうたに溢れた演奏をするのに対して、こちらは速いテンポで、しかも二人のアルトのアンサンブルによるテーマの響きが精妙で、まったく印象が違う。スピード感溢れるプレイで、二人とも正確にリズムを刻み、フレーズを吹いていく。二曲目「A Night In Tunisia」は、さらに速くなって、高速かつハイ・テンションを二人が競争するようにどんどん高めていく。テーマをアンサンブルで吹いた後の絶妙なブレイクの後、肩透かしをするようにピアノがソロを始め、その後は二人の競争状態。そして、極めつけは五曲目の「Scrapple From The Apple」。チャーリー・パーカーの名曲をさらに高速で突っ走る。しかも、そんな高速でも、二人のプレイはフレーズが後から後から湧いてくるように繰り出される。そういうスポーツ的な爽快感に満ち溢れたプレイとなっている。ただし、他方では4曲目の「Dear Old Stockholm」では、しみじみとしたメロディを速めのテンポでエキサイティングにプレイしているが、メロディの吹き方自体は素っ気ない感じで、味わいとか、劇的な感動とか、そういうものを求める人物足りないし、即興の先が見えないスリリングな緊張を求めるひとにも、イマイチかもしれない。

2015年3月29日 (日)

ジャズを聴く(23)~フィル・ウッズ「アット・ザ・フランクフルト・ジャズ・フェスティバル」

ビ・バップの最も率直な支持者、多くのミュージシャンの間で賞賛を集めるアルト・サックス奏者、フィル・ウッズは、他のあらたなスタイルがビ・バップに疑問を呈し挑戦してきたときに、それをプレイしたこともあったけれども、50年以上にわたり戦ってきました。おそらく現役では最速のアルト・サックス奏者、ウッズのテクニックは、きらめくトーンからダイナミックな解釈能力やユーモラスな音楽的な引用をソロに挿入するセンスまで、ビ・バップの教科書と言える。彼はサウンドとアプローチに関してチャーリー・パーカーの行き方に最も近いものとしてフランク・モーガンに匹敵する。そして、おそらく他のモダン・ジャズのアルト・サックス奏者よりも正統的なプレイをする。彼をハード・バップと考えることもできるが、チャーリー・パーカーへの尊敬の念が強い余りに、パーカーの遺伝子をそのまま継承することを潔しとしなかった。彼は12歳でサックスを始め、その後ジュリアード音楽院に進んだ。そこで、短期間チャーリー・バーネットと演奏を共にした。それから、ジョージ・ウォリントン、ケニー・ドーハム、フリードリッヒ・グルだと演奏し、ジョージ・ラッセルとレコーディングを行い、50年代中盤にディジー・ガレスピーと中東と南米をツアーした。50年代後半、パティ・リッチのバンドに加入し、そこでリードをとるようになり、1959年と60年は彼自身がバンドの創立メンバーでもあったクインシー・ジョーンズのバンドでヨーロッパー・ツアーを行い、1962年にはベニー・グッドマンのバンドでソ連をツアーした。仲間のジーン・クイルとは50年代後半にはプレステッジで60年代前半にはカンデッドでセッションを行い、「Phil and Quill with Prestige」と「Phil Talks with Quill」はJJジョンソンとカイ・ウィンディングのコラボレーションをサックスで行ったのに並び立つアルバムとなった。1960年にカンデッドで録音した「Rights of Swing」は彼の作曲の力を広く知られるものとなった。60年代を通じてスタジオに籠ることが多くなり、公開の場での演奏は、コマーシャル、テレビ、フィルムで何度かだった。「The Hustler」と「Blow Up」のサウンド・トラックを担当し、1961年にベニー・カーターと「Further Definitions」をレコーディングした。1968年にはフランスに渡り、ストレートなジャズに再び取り組んだ。そこで、ピアノのジョルジュ・グルンツ、ベースのアンリ・テクスラー、ドラムスのダニエル・ユメールとヨーロッパ・リズム・マシーンというコンポを結成した。彼らは1972年までは批判に晒されることはなかった。ウッズはロサンゼルスに移り、電気楽器によるカルテットを結成したが、批評家と聴衆の批難に遭い、すぐに解散することになった。その後、東海岸に移り、1973年にピアノのマイク・メリロ、ベースのスティーブ・ギルモア、ドラムスのビル・グッドウィンとアコースティクのグループを始めた。このグループは称賛をうけ、「Images」と「Live from the Showboat」の二つのアルバムによって70年代中盤にグラミー賞を受賞した。彼は、ポップスとソウル・ミュージックのミュージシャンとの演奏も認められていた。彼は、ビリー・ジョエルやアレサ・フランクリン等の歌手のアルバムでソロを吹いている。その後、彼のグループはメンバーチェンジを行い、多くのレーベルにレコーディングし、ウッズはクラリネットやシンセサイザーにも挑戦した。ウッズの初期の録音は復刻され、彼はチャーリー・パーカーの影響を持ち続けていることには妥協していないことが分かる。彼は、また、その小さなグループで定期的にツァーを行っている。

 

At The Frankfurt Jazz Festival    1970年3月21日録音

Jazwoods_frankFreedom Jazz Dance

Ode A Jean-Louis

Josua

The Meeting  

 

Phil Woods(as)

Henri Texier (b)

Gordon Beck(p)

Daniel Humair(ds)

 

このアルバムは、ビ・バップ等のジャズばかりを聴いてきた人よりは、ロックやクラシック音楽など広く聴いてきた人には、むしろ聴きやすいかもしれない。ウッズがフリー・ジャズにもっとも近づいた演奏という声もあるようで、冒頭からウッズの猛烈とも言える音を歪ませて全開吹きまくりのアドリブからスタートすると、疾走するスピード感あふれるプレイが展開される。その熱気とハードなドライブ感が好きな人には拳を握って突き上げるような体力使いまくりの楽しみ方に最有力の録音といえる。しかし、そういうものであれば、普通であればアルバムを聴き通す前に疲れてしまって、もう沢山ということになりかねない。かりに、ジョン・コルトレーンがこのようにことをすれば、全編聴き通す気にもならないのではないか。そこに、実はフィル・ウッズという人の特徴が隠されていて、この録音こそ、いつもは隠されている、ウッズのその威力がいかんなく発揮されたものだと思うのだ。

最初の「Freedom Jazz Dance」はウッズのインパクトの強いアドリブで始まるが、そのメロディとはちょっと言い切れない短いフレーズが、実は隠れたテーマとして、この後の即興はこの変奏のように展開されている(あといくつか、とういうテーマがあって、その数個をとっかえひっかえ使っている)というように聴くと(この曲の最後に最初のフレーズが繰り返されることからも、それはウッズが意識的にやっているのが分かる)、実はこの曲はかなり構成を考えあったように思われる。ウッズとリズムの絡みやピアノやドラムとのソロの受け渡しなどもそうだ。だから、音量の高い、熱気あふれるようなプレイは、クラシック音楽のスペクタクルなオーケストラ作品(ショスタコーヴィチの交響曲とか)やヘヴィ・メタルのような大音量だけれど様式性の高い演奏に近い聴き方ができるのだ。もちろん、ジャズの本来持っているはずの即興性が損なわれてしまうことの無いように、ウッズは配慮を怠っていないだろうけれど。

ここでは、ウッズは自身の特徴である哀感漂うフレーズを抑えて、つとめてメロディアスにならないようにプレイしている。それは、ウッズという人が感覚的に末端のところでプレイして、哀感のフレーズを歌い回すことで勝負している人ではなく、演奏全体を鳥瞰的に見渡して、自分のプレイだけでなくアンサンブルとして曲全体を通して設計している人だということが分かる。だからこそ、このアルバムでの長尺の演奏においても、もたれず、かといって弛緩してしまわない仕上がりになっている。彼の哀感のあるフレーズとか、語り口というのは、実は構成力という強い土台に支えられていることが、かえって、このようなハードなプレイを聴くことで分かるといえる。

連続するように休むことなく突入する2曲目の「Ode A Jean-Louis」は静かに始まり、途中で出くる短いフレーズをくれ返していきながら、音を重ねて徐々にドラマティックに盛り上げていくあたりは、そして、曲想を変えた後で、また還ってくるときに盛り上げる(バックで雄叫びがあがる)のは、クラシック音楽の交響曲の手法に近いのではないかと思わせる。そして、ドラムやペースのリズム・セクションのリズムはストレートに近く、装飾的なプレイがロックやポップスの煽動的な手法をうまく使っていて、ポップスに親しんだひとには乗りやすくなっているのに、ウッズはストレートに乗って、リズムの揺らぎを極力抑えて、疾走感を高めている。

このような点で、このアルバムはジャズにあまり親しんでいない人にとってのウッズの裏入門盤ではないかと思っている。

2015年3月28日 (土)

ジャズを聴く(22)~フィル・ウッズ「ウッドロウ」

Jazwoodsフィル・ウッズというアルト・サックス奏者を、彼を全く知らない人に、すぐに分ってもらえるように紹介するとしたら、ビリー・ジョエルの「素顔のままで(Just The Way You Are)」。その曲で聴き手の感情に深いところから揺さぶるようなバッショネイトなサックスを吹いていた人だ、というのがジャズを聴かない人でも思い出してもらえるのではないだろうか。実際、ウッズの魅力は、ある意味であの一曲に凝縮されているといっても過言ではない。フィル・ウッズの魅力といえば切なくも情熱的かつエモーショナルなサックスの鳴り、「素顔のままで(Just The Way You Are)」におけるソロには、そうしたウッズの魅力が余すことところなく表現されている。あのこみ上げるような情感はウッズにしか描けないと言える。

白人ながら、チャーリー・パーカーに憧れ、未亡人の世話までしたというほどパーカーの影響を受けたウッズのプレイは、太くて輝きのある音色、ぐいぐいとドライブするリズムの乗り、まったくミスのないフィンガリングとタンギングの上手さで、名手と言える。しかし、これだけなら単なる上手なパーカーのフォロワーで終わってしまうところ。ウッズがウッズたる所以は、パーカーとは異なった個性を持っていることだ。ウッズは、パーカーのような天才的な即興演奏というよりは、クセ、味わい、ニュアンスといった要素で聴き手を引きつけるタイプに属する。クリアでメロディアスなサックスのサウンドや独特のフレーズの装飾、そして何よりも演奏のところどころに隠し味のようにまぶされた哀感のこもったフレーズなどが、彼の個性を形づくっている。

彼は、活動期間が長く、チャーリー・パーカーが活動していたビ・バップの盛んだった時代から、ハード・バップを経て、ファンキーやフリー・ジャズ、他のジャンルとのコラボレーションや以前のジャズのリバイバルと、様々なジャズの変遷によって様々なスタイルに挑戦している(ビリー・ジョエルのアルバムへの参加もそうだと言えるが、多分、ジャズそのものの人気が振るわず、ウッズのような人も生活のために迫られて演奏したという事情もあるのではないか)。その中には、ロックが好きな人やクラシックが好きな人でも聴きやすい(ジャズ独特の臭みの少ない)ものある。しかし、そこでも堅持されているのが、パーカー流の即興とウッズ独特の哀感漂うフレーズだ。

 

Woodlore    1955年11月25日録音

Jazwoods_woodloreWoodlore

Falling In Love All Over Again

Be My Love

On A Slow Boat To China

Get Happy

Strollin' With Pam

 

Phil Woods(as)

John Williams(p)

Teddy Kotick(b)

Nick Stabulas(ds)

 

まず、印象的なのは録音レベルの高さ。何言ってのと思われるかもしれないが、携帯プレーヤーにヘッドフォンで聴いていて、他の人のアルバムからチェンジすると急に音量が上がるのだ。それだけでなく、ウッズのアルト・サックスの音が伸びがあって、しかも何となく「気合」が入っている感じしで、ちょっとうるさいくらいに、よく聞こえてくる、ということもあるだろう。それだけ、この録音はウッズのアルト・サックスのサウンドが前面に出て、それが一つの魅力になっている。また、うるさく感じられるのは、ウッズのサックスのサウンドだけでなく、そのプレイにもそういうところがある。とにかく巧いのだ。音の流れは滑らかでよどみがなく、リズムは切れ味が鋭いほど、その一方で遊びがないというのか、タテノリに近いところがある。しかも、それを前面に出してくるものだから、「どうだ」と言わんばかりで、鼻につくと言う人もいるかもしれない。そつがないというところで、アート・ペッパーほど情感を絡ませず、かといってリー・コニッツのように高踏的で超俗的でもないアルトです。程よい情感と、程よい哀愁、程よいブルース・フィーリングと優れた楽器のコントロール、なんか優等生の模範解答、という出来栄え。

それは、一方で、ウッズの好きな人にとっては“青春の気負い”のように受け取られているようだ。いるんですよね。「青春」っていうのが好きな奴。気負いと感傷が表裏一体になって…、そういう視線がウッズに対して、ファンが持っているところがある。そう人たちが、よく取り上げるのが2曲目の「Falling In Love All Over Again」というバラード。冒頭の甘美なサウンドと歌い回しは、だからといって腹にもたれない爽やかさもあって、聴きようによっては「青春のセンチメンタル」を連想させる。その歌も、グリッサンドで音数が多いのを巧みな指捌きで滑らかに聞かせているところに気合も感じられる(人によっては鼻につく)。冒頭の下降するテーマの後で、アドリブに移ったとたんに逆の上昇音型をマイナーコードでさりげなく聞かせるところなど、甘酸っぱいような哀感を醸し出している。4分45秒という曲の長さも、もう少し聴きたいという余韻を残すようで、感傷をいやがおうにも高める。こ曲に続く「Be My Love」が溌剌した感じの曲で、しかも、冒頭のテーマが前の曲の「Falling In Love All Over Again」の最後のメロディにちょっと似ているので、何となく続いているような錯覚に陥る中で、こちらは軽快に歯切れがいい。しかも、プレイのところどころに哀感のスパイスをまぶしているのが印象的

そして、ソニー・ロリンズの名演が村上春樹の文章にもなった「Falling In Love All Over Again」。ロリンズは悠然とリズムに後ろから乗っていくのに対して、ウッズは前のめりに突っかかるように進める。アドリブにはいると疾り出すよう。最初と最後はウッズのオリジナル曲を配している。

ウッズは、後年ヨーロッパに渡り、当地の若いミュージャンとフリー・ジャズに接近したスタイルに移っていくが、そこでも表面的な激しさはあるけれど、本質的に難解で晦渋な音楽にはなっていない。多分、ウッズの音楽の底流にはサービス精神が強く流れていて、聴く人のことを忘れない姿勢が一貫していると思う。それが、独断にはしることへの歯止めとなり、決して難解にならない原因となっているのだろう。このアルバムでは、聴く者に情感を感じさせる味付けを適度にまぶして、あざとくなる愚は避けて、ジャズ的な抽象性をキープしている。そういうクレバーなところが、実はウッズの個性のベースにあるのではないか。だからこそ、彼がジャズに限定されないでビリー・ジョエルのレコーディングに参加するほどの柔軟性を持てたのだと思う。クラシック音楽史上の天才であるモーツァルトは、自身の大量の手紙の中で音楽については具体的な演奏効果を事細かく書き残していて、そこには精神とか感情が入り込む余地がないほどだ。しかし、実際にモーツァルトの作った音楽は聴く人の感情を揺さぶる。しかし、中心にいるモーツァルト自身は至って冷静に効果を計測している。ウッズの場合にも、モーツァルトほどではないが、中心に醒めた視線が存在していて、このアルバムでは情感という効果を効率的に与えることを冷静に観察している視線が存在しているように映る。それが、本質的なウッズというプレイヤーの魅力ではないかと思う。 

2015年3月27日 (金)

生誕100年小山田二郎展(6)~第4章 繭のなかの小宇宙

Oyamadabird3_2前章の展示で、小山田は絵画は絵画を学習していくというプロセスにおいて、まず器である形を習得し、その器にいれる魂が後追いで器に見合うようになってきた。形が充足してくるようになると、画家の自発性が、描く喜びが画面に表われるようになってきた、というように私は見た、と述べました。そうであれば、こんどは魂が形に逆に影響を与えることになるのではないか。つまり、頭で考えた他の画家との差別化ではなく、個性が表われてくるのではないか、と期待して臨みました。

しかし、ここの展示は、そのような煌きを見つけることは出来ませんでした。よく言えば、形と魂との均衡をそのまま進め充実させたということになるのでしょうか。造形の面で、あらたに創り出すということは、小山田という画家には、あまりなかったのかもしれません。ここで展示されている作品には、洗練が見られますが、逆に言うとスムーズになりすぎてしまって、この以前にあった作品を見ていて、どこかひっかかるような、観る者を作品の前に立ち止まらせるようなものが無くなってしまったように感じられます。

Oyamadabird2「鳥女」という作品で、1979年の制作だそうです。以前にも別の作品を観ましたが、小山田は「鳥女」という題材をシリーズのように折に触れて何点も描いています。その中で、この作品は、50年代のシンメトリーで図式的な構図とモノクロームな色遣いに戻ったような作品です。しかし、50年代の作品の息詰まるような緊張感がここでは感じられます。リラックスしているといえば、よく聞こえるかも知れません。画面全体は50年代の作品のモヤモヤしたものがなくなり、隅から隅まで整理されて明確になっているようです。モノクロームに色調といっても、白と黒のグラデーションは精緻で青や黄色、赤を目立たせずに、ほんの一部分に匂わせるように織り込んで隠し味のような効果をあげているのは、小山田の技法の洗練をうかがわせます。それだけに、安心して眺めていることが出来るものになっていると思います。

「墓の道」という水彩画です。イメージが整理された、たいへん見易い作品になっていると思います。相変わらず色調は暗いのですが、小山田の水彩画によく見られた、水彩絵具の滲みを活用してものの輪郭が曖昧になって形状がはっきりしなくて、形があるようで、ないようで、不定形といえそうな宙ぶらりんの不安を醸し出すような緊張感はなくなっています。ここでも「鳥女」のように描かれているものは明確で、それぞれの要素が何が描かれているのか(それを見る人がどう思うのか)までよく整理されています。それだけに、作品をみてあれこれ観る人が想像をふくらませるということがなくなっている作品になっていると思います。

Oyamadagraveこれらは、まるで小山田が自身の作品のイメージを反芻しているように見えます。好意的に受け取れば、小山田はこの時点で自身の絵画世界を原点に還るように、自己確認していたのかもしれません。その後で、さらなる展開を考えて準備しているうちに力尽きてしまったと言えるかもしれません。私自身、個人的には、そうであってほしいと思います。

 

2015年3月26日 (木)

生誕100年小山田二郎展(5)~第3章 多磨霊園で生まれた幻想

小山田は、1950年代半ばに注目され、度重なる展覧会への出展などにより作品が売れるようになり、この美術館と同じ市内である府中市の多磨霊園の近くに自宅兼アトリエを購入し、落ち着いた環境で制作するようになったそうです。このような環境変化に伴い、小山田の作風が変化していった、ということで、この時期の作品をまとめて展示したということです。

Oyamadaadam少し長くなりますが、解説を引用します。

“画面の出の大きな変化を端的に示す作品の一つは、1961年の「アダム(夜)」である。月の浮かぶ夜の闇の中、赤い鬼が横を向いて歩いている。下唇が膨らみ、背中を丸めて歩く、小山田自身と言うべき生物である。構図はそれまでの厳密な幾何学的構成ではなく、ゆらめくような曲線と、薄塗りの油絵の具の重なりによって渦を巻くように作られており、現実の墓地の風景と幻想の世界の狭間のような不思議な空間となっている。画面全てが原色の赤、青、黄色などで布つぶされるのも、それまでになかった特徴である。小山田自身はこの画風の変化について、それまでの水彩の描き方を油彩に適用した結果であると語っている。空間構成については、シンメトリーと垂直・水平による構成から、蝸牛状の求心と遠心のよじれあう、なだらかな曲線による構成へ。モノクロームの単色から、水彩絵具の色取りへ。そして下塗りを積み重ねて行く理知的な描き方から、無意識や偶然によって生まれる形やしみを使った、現在進行形における不協和音の表現への転換である。たしかに「アダム」に見られる薄く絵具を塗り重ねていく描き方は、水彩のそれと共通している。ハイライトの白い上から点状に重ねるのも、「晩餐」を始め、それまでの水彩に頻繁に使われた手法である。そして、60年代以降の作品のもう一つの重要な特徴は、自分自身、家族など身近な人々、多磨霊園といった現実の場所に対して持つ、個人的な感傷や叙情性を隠さずに表すようになった点である。50年代の作品は自画像的と評されはしても、キリストや鳥女の姿を緻密な描き込みによって客観的に捉えようとしていた。しかし60年代以降は、「アダム(夜)」など自画像であることを隠さず、明確な形態を持たぬまま、のたうちゆらめくような筆致の重なりによって率直に心情の揺れを表現する作品が増えた。”

Oyamadabird1長い引用となりましたが、これで語り切っていると思います。

「鳥女」という作品です。ただし、小山田は鳥女というタイトルで、シリーズもののように折に触れて何点もの作品を制作しています。鳥女という小山田自身が創り出したキャラクターに様々なものを寄託したようなものとして様々に作品を制作しているようです。ここで観るのは1965年の制作とされる油絵の作品です。そして、参考のために、前章の人間に棲む悪魔のところで展示されていた同じタイトルの1956年の油彩作品と比べながら観て行きたいと思います。同じ題材を扱ってシリーズのようなものであるため、シンプルに鳥女が左向きの横顔を見せて一人立っているという構成も共通しているので、比較しやすいと思います。上で引用した解説が当てはまると思いますが、まずはみていきましょう。まず、ふたつの「鳥女」の大きな違いとして一目で分かるのが色彩です。鮮やかで透き通るような青を背景に、暗めの赤い衣装が印象的に映える中で、白がアクセントとなっています。これに対して56年の作品は、モノクロといっていいクロと白の対比で構成されています。そこに部分的にアクセントのように配置された青がとても透明に映って印象的です。しかし、黒というのは強い色のはずです。だから、普通は画面で黒という色は他の色より主張が強くなってしまいます。しかし、この56年の作品は画面全体の3分の2が黒く塗られているにもかかわらず、全体として黒の強い色調が迫ってこないのです。これほど黒く塗られているのにもかかわらず、真っ黒の印象がない。そこにあるのは、スタティックで静謐さとでもいう雰囲気が感じられます。これに対して、65年の作品は全体として明るい色調で鮮やかな色遣いの画面ですが、全体として暗い感じがし、色彩の多彩さというよりは赤の暗さと強さが前面に出てきているように見えます。ここに漂う雰囲気は、エネルギッシュといった感じです。それは、65年の作品が曲線主体で、上記の説明あるような線がくねくね曲がってのたうつような感じになって動きを感じさせるような効果をもたらしていることや、背景の青が一様ではなく、水彩絵具が流れているような濃淡や滲みのようにみえるのが全体として渦巻いているように見えて、それが独特のダイナミックな動感を生み出しているのです。この渦巻くような感じは、ヴァン=ゴッホの晩年近くの作品をみるような画面での強い主張を持ったものに見えます。これに対して56年の作品は、直線によって構成されているため、65年の作品のようなダイナミックなものは、あまり感じられません。

Funadagohoこの二つの作品を見比べていると、同じ題材を扱っているだけに、その違いが鮮明に表われてきていると思います。とくに56年の作品に比べると、65年の作品には画面から溢れ出てくるような“何か”があるように見えてきます。それにたいして、私の個人的な想像、というか妄想をちょっと述べてみたいと思います。展覧会の作品を見ていて、小山田という人は、生まれながらの画家というひとではないように、私には思えるのです。天才というような才能に衝き動かされ振り回されるというのではなく、表現衝動が強いというような迫力は画面からは感じられません。むしろ、まじめに海外を努力して勉強して画家になったという人ではないか、と私は想像してしまいます。それは、自身の病気のせいで一般的な職業に就くことができないことから、狭い選択範囲のなかで職業を選ばざるを得なかったことも、生家が比較的余裕のある家だったということも、もしかしたらあるのかもしれません。この展覧会の感想の最初のところで、小山田が展示されているような写生でもない、これらのような形態の作品をそもそも描くようになったのは、どうしてなのか、という疑問を述べました。それは、端的にいってしまうと、学校で習ったからというのではなのか、と思われるのです。こんなことを言うと、画家にはたいへん失礼なことということになるでしょうか。ただ、私には、小山田の画家としての視野とでもいうべきものは、先天的に備わっていたというよりも、画家の修行を積み重ねて行く過程で後天的に作り上げられた割合がかなり多いのではないか、と思えるのです。美術学校で先進的な教授や周囲の意欲的な友人たちに囲まれ、彼らの影響を強く受けながら、小山田自身、そういうものかしら、くらいのあまり強い意識を持つこともなく、追随するようにシュルレアリスムの影響を受けた作品を制作していた。そのような方法論からまず入ったと思われます。たぶん、まじめな性格なのでしょう。小山田は習った絵画を愚直なまでに追求していった。最初は、ヨーロッパの最先端の流行を取り入れたのですから、真似です。そこにシュルレアリスムの運動を始めた人々のような自発性のようなものはなかったのではないかと思います。だから真似と言われても仕方がない借り物のようなものだった。初期の作品「顔」などを見るとたどたどしさがあり、まるでお手本を写そうとして慣れないことをしているように見えます。習作ということもあるのでしょうが、そこには煌きとか片鱗とかが全く見られない。当時は、借り物で魂ができていなかった、つまり小山田という「私」がない作品と私には見えました。だから、小山田の精進はその方法論を習得して形をつくることに費やされたのではないか。そして、方法とか技法とかを求めて様々な試みを繰り返していくことと併行して、魂の面、というのか方法がある程度できあがって、それでものの見方がその方法によって固まってきた、そういう視野が出来てきて、ようやくものを見ることができて、それを基に描くという魂が後追いで出来上がってきたのではないかと、私には思えるのです。

Oyamadabird2私の個人的な感想ですが、方法に視野が追いついてきたのが50年代の作品なのではないかと思えます。そこで初めて、方法に個性的なものが出てきた。それが、モノトーンな色彩であり、幾何学的な画面構成です。しかし、言ってみれば、対立的性格がつよく刺々しいほど画面になっていいはずなのに、50年代の作品には個性は感じられますが、そこにはむしろ静けさとか、抑えられた感じがするのです。これは、抑えられたというのではなくて、なかったということではないのか。この50年代の作品では「はりつけ」とか「ピエタ」というような宗教的な題材を取り上げています。これは、小山田自身が魂が追いついていないことをある程度自覚していて、題材の中に、そういう魂が入ってくるようなものを意識的に選択したのではないか、と私には思えるのです。

だから、小山田という画家のユニークな点は、手先が器用で技術的には達者でありながら個性のない人であれば、その達者な技術を駆使して、派手で受けのいい迎合的な作品を量産できるのに、そのようなことをしないで、じっくりと先行した技術に魂が追いついてくるのを待っていたというところにあるのではないか思います。

「鳥女」に話題を戻しますが、65年の作品の画面から“何か”が溢れてくるよう私に見えたのは、そういう魂が技術に追いつき、そして追い越してきた、その表れではないか、と私には思えるのです。50年代の幾何学的構成から曲線主体になったのは、表現衝動が形式という殻を突破したからではないのか、そこにあらかじめ作られた形式に収まりきれない即興性が、初めて加わってきた表われのような私には思えます。そのような視点で、上で引用した説明を読み直してみると、同じ説明が違った画家像として意味が変わってくることになるのです。

Oyamadadoll前のところで、私には小山田という画家は色彩の画家ではないかということを述べました。例えば、第2章の「はりつけ」や「ピエタ」という作品は、色彩が最初にあったのではないか、その色彩に次に幾何学的な構図が出てきて、その後で、宗教的な題材という順序で作品が出来上がって行ったのではないか、という作品がつくられるプライオリティを想像してみたのです。そう考えると、第2章の展示のモノクロームのような作品に対して、ここで展示されている60年代の作品のような色彩が氾濫しているかのような変化は、小山田の抑えられていた色彩感覚が溢れ出したといえるかもしれません。例えば「人形の家」(左下図)という作品を見てみましょう。中央に画面いっぱいに黒い三角形があり、その左右の背景は赤く塗られているという単純な画面構成になっています。単純な画面構成は50年代の作品と共通していますが、50年代にあったシンメトリーとか定規で引いたような直線で図形という緊密さはなく、ゆるい、どこか崩れたものになっています。そこに、小山田の筆の流れの迸りというのか、制作のプロセスで思わず表われてしまったものを即興的に取り込んでいく、そこに画家の自発性がストレートに表われているように見えます。その代わり、いや、それに加えて、例えば左右の背景の赤く塗られた部分が水彩画の滲んだようなグラデーションが画面全体にダイナミックな動きを与えて、画面全体を生き生きとした活気あるものにしています。よく見れば、中央の三角形の黒く塗られた部分も赤い部分と同じようなグラデーションがほどこされています。そのグラデーションの中から人物と思われる形状のものが浮かび上がってくる。それ以外に円状のものが、まるで人だまのように見えなくもない。しかも、背景左側の風船のような円状のものにつながっているように見えなくもない。それらが関連しているかいないのか、それらが、黒い中から、まるで生まれてくるように見えなくもない。ある種アニミズム的といういいすぎでしょうが、多分題材としては、家と家族を描いたという物なのでしょうけれど、そこに無意識のうちに小山田の生命に対する捉え方が表われ出てしまったように見えなくもないのです。

Oyamadafire「野火」という作品は、第1章で見たキュビスム的な感じの幾何学的な構図の作品です。私には、「野火」という題名と画面が結び付かないのですが、ヘンテコリンな物体を無造作に並べて、小山田には珍しい黄色を基調として、真ん中の赤い円状のものとの色の対比とグラデーションを楽しむような作品と言った方が合っているような気がします。ここに、緊密な構成感はなくて、むしろ動きがあるような感じです。

生誕100年小山田二郎展(4)~第2章 人間に棲む悪魔(2)

Oyamadaancent「はりつけ」と似たような構図の「昔の聖者」という作品は、四角形によって構成されて、配色も赤が黒と青に加えて赤が印象的に加わっています。磔にされた跡が手のひらと足先に穴をあけられており、椅子に座っていますが、両手を左右に広げたポーズは十字架にかかっている姿を思い起こさせます。この作品は、「はりつけ」以上に直接的に迫ってくる迫力というより、じっくりと眺めてイマジネーションを触発させるようなものとなっていると思います。

これらの作品からは、三角形や四角形といったシンプルな要素を組み合わせて、これまた、数少ない色彩をつかって、イマジネイティブな世界の造形に喜々として没頭している画家の姿が彷彿されてくるのです。これらの作品が制作されたのは1950年代中ごろで、展覧会の説明では第二次世界大戦による焦土から日本が回復軌道に乗り、絵画の世界では戦火の記憶や敗戦後の混乱の記憶が残る中で、小山田の作品には、その影響で社会や人間に対する視線が根底にあったといいます。それはそうなのでしょうが、それだけにとどまるのであれば、同時代の同じ空気を吸って共感できる人たちの間だけで共有されるような観る者を限定する作品にとどまっていたはずです。しかし、そうでない私のような戦災や敗戦後の社会や人々を全く知らない者の目を惹いてしまうのは、小山田の作品が普遍性を持っていたからではないかと思います。それは、造形と色彩という点から小山田の作品を観ていくと、山田の作品のユニークなところが見えてくるように思えるのです。この展覧会で作品を通観するようにみていくと、変遷を伴いつつも、一本の筋が通っているように見えてくるのです。

Oyamadadinner小山田の作品のユニークさを支えているのは、油絵以上に多数の作品が制作された水彩画ではないかと思います。油絵作品の色彩の透明感は水彩画での経験を活かしているのではないか、水彩画の技法を油絵に用いているのではないかと、思われるのです。「晩餐」という作品を観てみましょう。怪奇趣味の幻想絵画のような作品です。手前のテーブルに向かっているように奇妙な動物が食事をしているように見えます。手前の水平なテーブルを基準にして、水平の列をつくるように奇妙な動物が規則正しく並んでいる構成は図式化されているように見えます。それらもさることながら、背景に塗られている赤の彩色についてです。赤の色むらが滲んでいるように見えます。しかし、よく見ると、赤一色というわけではなく、白や青がところどころで混ざって、グラデーションをつくるような、混じるようで混じらない、しかも全体として色が鈍くならずに、透明感を湛えています。これは、画家の工夫した特別な技法ではないかと思います。そのような赤く塗られたバックであるにもかかわらず、赤というインパクトのある色が後ろに控えるようになって、奇妙な動物たちの存在の邪魔をすることなく、しかし、不思議な雰囲気を作り出しています。

Oyamadaweg「蛙の国」という作品では、薄い色を振り重ねて、重ねる色を使い分けることによって、原色の鮮やかさを残しつつも、透明感を湛えた色合いは、画面に軽妙さを与えています。そして、輪郭と少しずれたような色の置き方が構成にあそびをつくりだし、遠目には輪郭を明確に描かれているように見えながら、近くでよく見ると色がずれた遊びがあることで、画面に余裕を与えています。その際に、怪奇趣味ともいえる食卓に向かっている奇妙な動物が親近感をもてるユーモラスなキャラクターのように見えてきます。これらは、前に見た幾何学的で厳しい造形のモノクロームな油絵作品とは同じ画家とは思えない作品です。しかし、油絵作品のモノクロームな色調には、このような水彩画のカラフルな感覚が隠されていると思うと、モノクロームの色彩に対しても一筋縄ではいかないという気がしてくると思います。様々な絵の具を混ぜていくと最後には黒になってしまうといいますから、実は黒という色には多くの色が含まれているはずです。小山田の黒には、そういう色彩のバリエーションが隠されていると言えるかもしれません。そして、黒を基調していながらも画面全体が重苦しくなっていないのは、「晩餐」の赤色の背景が控えめに存在しているのと同じで、小山田の作品に通底している性質ではないかと思います。おそらく、小山田は水彩画で様々な試行錯誤を繰り返し、そこで確立した手法を油絵の制作に活用していたのではないかと思います。

Oyamadanight水彩画でも黒を基調とした作品を制作しています。「夜(姉妹)」という作品です。描かれた題材が、前に見た油絵作品とは異なるものであるからかもしれませんが、全く雰囲気の異なる作品になっています。しかし、黒という色の透明感は油絵作品と変わりません。

2015年3月24日 (火)

生誕100年小山田二郎展(3)~第2章 人間に棲む悪魔(1)

小山田二郎の作品の作品展示の核心部です。小山田の最も有名な作品で、彼が画壇で注目された時期の作品が集められています。ここで展示されている代表作が、小山田という画家の作品のイメージを形作っています。そのイメージは、最初に紹介した主催者のあいさつに集約されていると言ってよいでしょう。

Oyamadapieta_2「ピエタ」という作品です。死んだキリストをマリアが抱き悲嘆にくれるという宗教画の伝統的な画題です。1.3×1.6mという比較的大型の画面いっぱいに描かれた黒を基調とした色彩の作品からは強烈な印象を受ける人もいることと思います。例えば“『ピエタ』の死んだキリスト、これは、ドストエフスキーがハンス・ホルバインの描いたキリストを見て、てんかんを起こしたという、その画をはるかに凌ぐ迫力と絶望の力をもってぃる。キリストをかかえている、男とも女ともつかぬ黒衣の人物、その顔は、悲嘆、恐怖、憤怒、絶望、呪詛‥‥‥どの言葉をもってしてもいいつくすことのできない表情で描かれている。その眼は何を見ているのか。何かを見ているようで、何も見てはいない。天空に向けられたいわく言いがたい眼である。要するに『ピエタ』に明確に描かれた二人の人物(聖母とキリスト)は、それ(画)を見る者を決して見てはいない。だがこの画を見ていると背筋がぞっとするような、あやしげな薄気味の悪い迫力で見詰められるような触感を覚えるのだ。その秘密は、この画にぬりこめられた種々な面貌を持った人物の眼が、きッと、こちら側を見すえるからなのだ。しかし、この徹底してうすら寒い、不気味な画の中にも、愛はあったのだ。それは死んで硬直し白骨化したキリストに接吻する女性のふくよかな、正面図として見ると泣いているような女性によって表現されているのである。小山田二郎はこの『ピエタ』によって、人間の究極的な場面における運命そのものを描いている。そこには、愛、呪い、死、叫び、驚き、それらを全部包みこんで、そういった人間のどうすることもできない運命そのものを表出しているのである。”というような文章を読むとなるほどと思うところもあります。ただし、私はこの作品を観て、そのような感動を覚えることよりも、観る人にそうさせるのは、この作品のどのようなところなのかという点です。

Oyamadapieta2_3画面の真ん中に二等辺三角形のようなマリアと、その底辺に対して水平に横たわるかっこうになったキリストという構図は三角定規と定規の組み合わせのようで、マリアの顔も基本的には二等辺三角形の組み合わせで構成されています。口、鼻は正三角形を縦に並べられたもので、それは仰角で顔を上に向けている、つまり天を仰いでいるように見えます。これに対して、眼は頂点が下を向いた三角形を横に並べて視線を下に向けているように、つまり口と鼻が上を向いているのと反対に俯いて下に向いている様相になっています。そして、顔全体は頂点が下を向いた三角形に納まっていますが、これと反対に身体全体は頂点が上を向いた三角形です。このように、上下互い違いに三角形が入れ子のように階層化された構成で、中心の顔の中では、下向きの水平に並んだ二つの三角形と上向きの垂直に並んだ二つの三角形が対立するように配置されています。つまり、このマリアは二項対立を中心に持って、それを階層化するように対立が重層的に構成されているわけです。しかも、その対立をつくり出しているのは三角形という角張った図形です。それが二項対立をさらに尖鋭化させています。そしてまた、色彩においても、モノクロームで白と黒の二色利身を配して異なる系統の色を交えていないので、対立を煽るような効果をあげていると思います。三角形で構成された幾何学的な画面は全体としてスタティックでどっしりと安定したものですが、その中には対立を抱えた刺々しいまでの緊張感が張り詰めています。そこで改めて、マリアの顔にどのような表情が読み取れるかというと幾重にも対立を抱えた顔からは、強い緊張、具体的に言えば突出した強い感情とそれらの織り成す葛藤、あるいは混乱です。対立を抱えた強い緊張からは中間的な平静さとか慈しみといった感情の表現は生まれてきません。その強い緊張が観る者に迫ってくるのが、この作品ではないかと思います。そのように強い緊張を迫られて作品を観ると、細部の表現について、そのように意味づけられるように誘導されるといってよいのではないでしょうか。例えば、横たわるイエスの頭部が骸骨になっていることの象徴的意味について観る者の想像の方向を規制しているというわけです。

Oyamadaharituke展覧会の受付を通り、会場に入った正面に、チラシやポスターにも使われている「はりつけ」が展示されています。展覧会に来場した人は、この作品により強いファーストインプレッションを与えられるのではないでしょうか。タイトルやこの時期キリスト教の宗教にちなむようなタイトルの作品を何点も制作していることから、ここで描かれているのは、直接的には磔にされているキリストでしょう。黒を基調に暗い画面のなかで磔にされた人物の身体が青色がかっているのは、この前に見た「ピエタ」で抱きかかえられたキリストと同じ色遣いです。このことから、この作品は「ピエタ」に連なる作品であると思います。展示されていた作品を観た限りでは、これらの作品以外にも「愛」とか「母」といった宗教的な題材をと扱った作品は、同じような色遣いで描かれているようです。展覧会での説明や解説では当時の社会状況や戦争という極限状況を体験しての人間に対する視線といったことが説明されていますが、そのようなことを同時代のこととしてリアルに共感を持つことがない私にとっては、色遣いという共通性で見て行くほうが、身近にこれらの作品を見ることができると思います。つまり、黒を基調としてキャンバスの地の色とのモノクロームの色彩世界に、一部で青とかの色を入れてあげるという作品を制作する際に、その配色の効果を効果的な題材として、宗教的なもの、人間の深部を掘り下げるかのように見える題材を取り上げたと考えることもできるのではないかということです。例えば、前に引用したピエタの感想のようにキリストの死体をはりつけという虐待をうけて、その行為が人間の苦しみとか原罪とかを一身に背負った宗教的な苦しみをにじませた姿として、眼を覆いたくなるほど生々しく描いたホルバインの「墓の中の死せるキリスト」のように迫真の写実で死体を描くことは、小山田はしていません。つまり、直接的な描写をしているわけではないのです。他方で、はりつけにされ虐待されたキリストを題材として、しかもキリストの身体を黒を基調としているにもかかわらず、死体が腐乱して黒ずんださまも考えられなくはないのに、この作品での色遣い、とくに死体の黒が透明なのです。それは青を絶妙に配合して青みがかった様相になっているのと、背後の十字架の黒と濃さのメリハリをつけているためだと思います。この絶妙な色調を活かすために、幾何学的に図案化されたような構図をとり、しかも、その構図をところどころで部分的に崩すことによって緊張感を保ちつつ機械的な冷たさが生じないようにしているように見えます。だからこそ、観る者が長時間でも、眼を背けることなく画面に見入り、イマジネーションを働かせて好き勝手な意味づけを施すことを可能にしているのではないかと思います。私は、この作品については、何よりも透明感のある青みがかった色ではないかと思います。

Oyamadaholbain

2015年3月23日 (月)

生誕100年小山田二郎展(2)~第1章 前衛からの出発

習作期を含めた初期の作品は戦災でほとんど消失してしまったということで、小品が数点あるだけで、とくに学生時代にどのような試行錯誤を繰り返したのか、今となっては作品で検証することができなくなっているのは残念です。そこに、小山田の方向性の萌芽があったのではないか、と思えるからです。というのも、1950年代からの作品展示は多いのですが、この時点ではすでに小山田の方向性は定まっていたと言えるからです。

Nambatafusyou美術学校時代から戦争中のいわば習作期の数少ない作品を見ている限りでは、眼で外形を見たまま写実的に描くという方向性は、学生時代か早い時点で放棄してしまって、見えないものを描くということを早くから志向していたように思えます。それは、小山田が美術学校時代に輸入されたシュルレアリスムという流行の影響かもしれません。しかし、シュルレアリスムといっても、ダリとかマグリットのようにひとつひとつの描写はリアリスティックで、それらを組み合わせた構成でだまし絵のような異化の効果を与える画家もいます。小山田の、この時期の作品を見ていると、そういうものとは異なる志向があったと思います。むしろ、シュルレアリスムは無意識への志向があり、通常の意識の下に潜む何ものかを追求しようとするというような理念に惹かれたのではないかと想像します。それゆえに、ことさらに眼で見えるものからは異質な、心理学のロールシャッハテストのような、まるでカオスのような形態を描こうとした水彩画を制作したり、まるでキュビスムに則ったような作品を制作していたようです。この時期、外形的な形を持たないモヤモヤしたものを描くことができるということをシュルレアリスムの方法論を通じて知り得たことと、ものの外形を成り立たせていることの土台への興味があって、その両方の間で揺れ動いていたという想像をしています。例えば、前者の外形を持たないモヤモヤしたものを描くというのは、シュルレアリスムのオートマティスムの手法を用いて思春期のモヤモヤした想いを画面にぶつけるように表現して見せた難波田史男の初期の不定形な水彩画(右上図)に似ている印象を覚えたのでした。ただし、色彩感覚でいえば、明るい色を並べる難波田に対して、小山田は暗く鈍い色を重ねる傾向があるので見た目の印象は異なります。他方で、定規やコンパスを用いた図形のような、まるでブラックの分析的キュビスムのような形体を描いても見せています。かといって、抽象絵画のような形そのものを放棄してしまうところまでは行きません。それらの狭間で、小山田は、目に見える感覚的なものではない何ものかを描きたいが、それは何かという試行錯誤を、この時期繰り返していたというように見えます。

Oyamadadance「舞踏」というタイトルで小山田は水彩画を何点も制作していますが、ここではその一点を見てみましょう。この一連の作品の制作は1950年代で、画壇で注目された時期にあたり、もはや初期とは言えないかも知れませんが、この展示の章立てのタイトルである“前衛”の要素がかたちに残されている作品として展示さていたのではないかと思います。小山田が見たとは思いませんが、私がこの作品をみていて似ていると思ったのが、カンディンスキーのミュンヘン時代の初期の作品で「クリノリン・スカート」(右下図)という作品です。カンディンスキーはガーデンパーティーの風景を単純化し図式化して、自由に色遣いで絵の具を塗りたくるような作品を作り出しました。そのようなカンディンスキー作品と似ているのではないかという視点で、小山田の作品を観てみると、視覚を構成している要素を分解して、その様々な要素の中から、自身の絵画制作に必要な要素を取捨選択しているのが分かります。私には、小山田はカンディンスキーと同じように、しかし、その意味内容はことなるのでしょうが、その要素の仲で色彩を第一に選択しているように思えます。「舞踏」つまりダンスという絵画では、ドガのように躍動する肉体の美しさや力感、あるいは筋肉の動きにともなう陰影といった魅力的な要素はすべて捨て去られ、舞踏による動きを様式化して、図案のようなものにして、そこに自由に色彩を乗せることができるようになっていると思います。多分、小山田の視覚は、学生時代のからの修行を通して、色彩を第一に、次に色彩を乗せるために形態をというような形に形成していったのではないかと思います。この「舞踏」での形態は三角形によって構成されるという幾何学的に単純化され、構図は安定している上に自由に色が塗られています。その色彩の効果において、小山田は様々な実験を試みているように見えます。カンディンスキーはこのような実験から、やがて形態をものかたちに捉われない抽象的な絵画を展開していきましたが、小山田は形態を残しながら色彩が観る者に与える影響を効果的に活用する方向に進んだのではないか、と私には思われます。

Kandinskycrinolinここで展示されている作品の流れは、小山田が自身の色彩を第一にみていく傾向を自覚し、絵画制作において技法化しているプロセスと見ることができるのではないか、と思います。

2015年3月22日 (日)

生誕100年小山田二郎展(1)

2014年11月 府中市美術館

Oyamadapos休日にわざわざ美術館に出向くなんて久しぶりのこと。たいていは、仕事で出かけたついでに近くの美術館に立ち寄るというパターンがほとんどのこと。とりたてて理由があったわけではないが、はるか以前美術館まわりをはじめたころ、今はもうない小田急美術館というバブル経済の名残りのようなデパートの美術館での回顧展で、透明なブルーの印象が思い出として残っていたからかもしれない。休日の午後、東府中の駅から散歩するように公園をそぞろ歩いて美術館に着いたところ、ちょうど学芸員による作品紹介のイベントがあるというので、20分あまりのスライドによる説明を受けた。はじめての体験で興味深かったけれど、これが作品を観るうえでプラスになるのか、私はあってもなくてもいいような。このイベントの参加者は10名足らず、展示室内も人は少なく、ゆっくりと作品を観ることができたのはよかった。最近、いくつかの美術展に行ったけれど、一番落ち着いた美術展だった。

さて、この小山田二郎という人は、身体上のハンデを抱えていたり、家族を残して失踪したりと小説のネタになるような物語が多く纏わりついた画家で、そういう物語を前提に語られがちです。作品自体も、そういう物語から受けるイメージに沿っているようなところがあります。そのような説明は、この展覧会チラシにあるので引用します。“戦後の日本美術を代表する異才・小山田二郎(1914~1991)は、幼いころ親戚の日本画家・小堀鞆音に水彩を学び、帝国美術学校在学中にはシュルレアリスムに傾倒しました。戦後1952年には滝口修造の推薦によりタケミヤ画廊で古典を開催して注目を浴び、社会風刺や攻撃的なまでの人間洞察を含むその絵画が画壇に鮮烈な印象を与えました。1960年から府中市のアトリエ兼自宅に暮らしましたが、1971年に妻子を残し失踪、以降社会から距離を置いた隠遁生活を送ります。その衝撃的な境遇と生き様、そして、後に遺された作品群は、今なお独自の光彩を放っています。闇の中からこちらを凝視する異形の生き物。あるいは瑞々しい色彩の中に浮かび上がる幻想の世界。小山田の描く世界は、おどろおどろしい迫力の中にも、時にユーモアや優しさをも垣間見せて観る者を惹き付けます。”

ただ、私の絵画の見方は、ここで何度も述べているように、そういう物語をいったん切り捨てたいと思っているので、ここでは、そういう視点で作品の印象を述べてみたいと思います。小山田二郎という画家の紹介を主催者あいさつを引用します。

Oyamadabird1“1950年代の日本美術界の寵児であり、きわめて特異な感覚と才能の持ち主であった小山田は、今見てもなお新鮮なおどろきを与える仕事を多く残しています。彼自身の分身でもあり、すべての人間の意識に棲まう悪魔でもある《鳥女》の肖像たち。復活の兆しを見せることの無い、無惨に傷つけられた《はりつけ》などのキリスト像。あるいは、高い技術に裏打ちされた、水彩の澄みわたる幻想と怪奇の世界。いずれも戦後美術史の中に類例の無い、まさに小山田二郎という特異な「眼」を通じて表わされた、人間と世界の姿そのものです。小山田二郎は生来の病による容貌、絶頂期の失踪と社会からの隠遁といった境遇が、その一見恐ろしい画風とも重ねられて、孤独と絶望のなか生きた伝説の画家というイメージが語られてきました。しかし家族を始め身近な人に聞く彼の姿は、生真面目な一面もあり、温かくユーモアを持った魅力的な人物であったようです。本展では彼と出会った人々の心に残る記憶や証言に耳を傾けつつ、小山田二郎の生涯の画業を改めて紹介します。自身が生み出した闇の世界に生きる異形の者達に、時に優しさやユーモアさえも与えて息吹を吹き込んでいく、創造主とも言える小山田の魅力を伝える機会ともなれば幸いです。”

Oyamadagrune展覧会のチラシに使われているのは小山田の代表作とされている「はりつけ」という作品です。キリストの磔刑を題材に、一説には彼自身を描いたと言われてもいるということですが、痛めつけられた無惨な姿でかつ、何か背負っている姿を象徴的に表現したというように説明されています。ここで、突飛な比較かもしれませんが、磔刑のキリストの無惨な、それこそ目を覆いたくなるような姿を描いた、中世からルネサンスの頃のドイツの画家グリューネバルトのイーゼルハイムの祭壇画の部分を見ていただきたいと思います。そのなかで、とくにキリストの部分だけを取り出したものをさらに見ることができます。これを観ると、キリスト教の信仰というのが、当時いたに峻烈なものであったのかを想像することができますが、小山田二郎のキリストはグリューネバルトに比べてあからさまな無惨さにはなっていなくて、象徴的にそれらしいイメージを掻き立てるように巧みに雰囲気を造っているというこが分かります。具体的なことは、別のところで作品を実際に観て行くところで述べていきたいと思います。主催者あいさつで“特異”というように述べられていますが、グリューネバルトのような細工も何も無くただ直向に、本質を無意識のうちに直撃するような作品を創り出してしまったというよりは、常識との距離を冷静に測って、観る人への効果を計算した上で作品を制作していたというように思えてくるのです。だからこそ、小山だという人が、このような作品を描こうとしたのは何故かということが、私には問いかけたくなります。それは、小山田はこうする以外になかったという人ではなく、他の可能な選択肢がありながら、敢えてこのような選択肢を選んだというように、作品を観ていて思えてくるのです。私が、そのように問いかけることに明確な根拠があるわけではありません。すべては、私が作品を観て感じた主観的な思いです。その点は誤解なきように。その点では、展覧会の主催者とは、異なっているところもあり、重なっているところもありというところです。それでは、実際の作品を観ていくことにしたいと思います。なお、展示は次のような章立てでしたので、それに順じて観て行きたいと思います。

Oyamadagrune2_2第1章 前衛からの出発

第2章 人間に棲む悪魔

第3章 多磨霊園で生まれた幻想

第4章 繭のなかの小宇宙

2015年3月21日 (土)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(15)

我々は、皆さんに楽しんでいただきたいと思う何千ものオマハの人々や企業から会議の時間に多大な援助を受けています。今年、記録的な出席者数が予想されるので、我々はホテルの部屋が不足してしまうのではないかと心配していました。そのような可能性のある問題に対してエア・アンド・ビー(現地の人が提供する宿泊のオンライン予約)は会議の期間中のための特別なリストを作り、今範囲で多数の宿泊施設の紹介を行ないます。エア・アンド・ビーのサービスは、特にオマハで一泊するのに幾つかのホテルが最低3泊分の料金請求をしたことに気付いた株主にとっては、たいへんありがたいことです。それは高くつくでしょう。だから、エア・アンド・ビーのウェブサイトをチェックすることをお勧めします。

 

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マネージャーたちを私がほめたたえるのは正当なことです。彼らこそ、本当のオールスターです。あたかもそれらがそれらの家族によって所有されたただ一つの長所かのように、彼らはそれらの事業を営みます。私は、それらの考え方が大きな公営企業の宇宙で見つけることができるのと同じくらい株主指向であると考えます。実際に働く際には金融的なことは必要ありません。ビジネスでホームランを打つ喜びはかれらには給料を受け取る以上なのです。

しかし、同じように重要なのは、我々のオフィスで私と働く24人の男女です。このグループは、効率的にSECに対応し、21500ページの連邦法人税申告や州や外国への申請、無数の株主およびマスコミの調査に応答する、外に出る、年次報告、国の最大の年次会議の準備をしています。

彼らは陽気に信じがたいほど効率的に、これらのビジネス作業すべてを取り扱います。そして、私の人生を安楽で楽しくします。彼らの努力は厳密でバークシャーの関連範囲を上回ります。昨年、200の申し込みから選ばれた40の大学から来た大学生のQ&Aの対処をしてくれました。彼らはまた、私が受け取るありとあらゆる提案書を取扱い、旅行の手配をし、私の昼食のためのハンバーガーとフライドポテト(もちろん、ハインツ・ケチャップをたっぷりとつけて)の用意もしてくれます。これほど恵まれたCEOはほかにいないでしょう。私は毎日タップダンスを踊りたい気分で働いています。

昨年のアニュアル・レポートでは、我々は48年続けた「写真を使わない」方針を打ち切りました。そして、クリスマスのランチに集う本社スタッフの写真を載せました。私が広く露出することについて断っていなかったので、彼らは晴れ着を着ていませんでした。今年は違います。見開きのページで私たちのグループはね彼らが誰かが気付いていると思う時にどのように見えるかを確認します。彼らがどんな服を着ても、そのパフォーマンスは驚くほどです。

この本社のメンバーに対して、マネージャーに加えて、私は最も深い感謝を持っており、同様にあなたのものに相当します。では5月2日、資本主義の揺り籠、オマハで会いましょう。

いつもですと、ここで終わりということになりますが、今年はバークシャーが50年ということなのか、今後のバークシャーのことが話題で取り上げられることが多いからなのか、50年のバークシャーについて、別にバフェットがまとまった文章を書き、チャーリー・マンガーも書いています。これを続けて載せようと思っていますが、未だ訳が終わっていないので、少し間をおいてから、になります。

2015年3月20日 (金)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(14)

会議と他のイベントに入場するために必要とする証明書をどのように取得するかについて、レポートに同封した会議の招集通知が説明しています。航空会社は、バークシャの週末の間に、料金を値上げします。もし、遠くから来られるのなら、カンザスシティーとオマハに飛ぶ場合のコストを比較して見て下さい。ドライブは、それぞれ、21.5時間と2時間です。そして、特に、オマハで自動車をレンタルすることを考えているならば、目覚ましくお金を節約することができるでしょう。一組のカップルで1,000ドル以上の節約ができることでしょう。我々と一緒に、その分のお金を使いましょう。

ネブラスカ・ファニチャー・マート(NFM)は、ドッジ・ストリートとパシフィック・ストリートの間の72番街に77エーカーの敷地にありますが、「バークシャーの週末」特別割引を再びやっています。昨年、この店は、年次総会のセールで40,481,817ドルを売上ました。(NFSのオマハ店では週平均の売上は900万ドルです)

NFMでバークシャー割引を受けるためには、4月30日の火曜日から5月4日の月曜日の間に買い物をし、さらに、その時に年次総会の証明書を提示しなければなりません。この期間の割引は、通常なら値引きに応じないような名門メーカーの製品に対しても、我々の株主のための週末の趣旨により、特別な例外を行ないます。我々は彼の協力に感謝しています。NFMは月曜から金曜の午前10時から午後9時、土曜日の午前10時から午後9時30分、日曜日は午前10時から午後8時まで営業しています。今年は土曜日の午後5時30分から午後8時に皆さん全員を招待してピクニックを行います。

Borsheimsで株主のみを対象とした2つのイベントを再び開催します。最初は、5月1日金曜日の午後6時から9時のカクテル・レセプションです。第2の、メイン・ガラは、5月3日の日曜日に開催され、土曜日の午前9時から午後4時まで、近年、我々は日曜日の6時まで開いています。近年、この3日間の売上が、宝石商にとって最高の月である12月の売上を上回りました。

週末を通してBorsheimsには巨大な群衆が集まるでしょう。従って、ご参考までに、株主価格は4月27日月曜日から5月9日土曜日まで可能です。その期間中、バークシャーの株主であることを会議の招集通知が仲介証明書を提示して、証明してください。

日曜日にBorsheims外側のモールで、ダラス出身の注目すべき魔術師ノーマン・ベックは見る人は驚かせます。さらに、我々は世界最高のブリッジのプレイヤーであるボブ・アマンとシャロン・オスバーグの日曜の午後に二人が株主の皆様とブリッジができるのです。お金は賭けないように。

私の友人、アリエル・シンが日曜日にモールにきて、卓球の挑戦者を募ります。彼女が9歳の時に、私は相対しましたが、1点も取ることができませんでした。現在、彼女はプリンストンの2年生で、オリンピックのアメリカ代表です。恥をかくことを気にしないのであれば、ご自身の技術を彼女に試してみましょう。ビル・ゲイツと私は午後1時に始めます。

ゴラットとピッコロは再び、5月3日日曜日はバークシャーの株主のために空席を設けています。両店とも午後10時まで確保しています。ゴラットは午後1時の開店から、ピッコロは午後4時の開店からです。これらのレストランは私のお気に入りで、私は日曜の夕方はどちらの店にも寄ります。次のことを忘れないでください。ゴラットの予約は4月1日(それ以前は駄目です)に…に電話してください。ピッコロの電話は…です。ピッコロでは巨大なルートビア・フロートをデザートに注文するのをお勧めします。小さいのを注文するのは弱虫です。

我々は同じ3人の財政的ジャーナリストに再び会議で質疑応答期間を導かせます。そして、チャーリーと私に株主が電子メールで彼らを受け入れたという質問をします。 ジャーナリストと彼らの電子メール・アドレスは、以下の通りです:フォーチュンを60歳で昨年引退しましたが、ビジネスと財政問題の専門家であり続けるキャロル・ルーミス; ニューヨークタイムズのアンドリュー・ロス・ソーキン;CNBCのベッキー・クイック。

寄せられた質問から、各ジャーナリストが面白い、重要だと決めた6つを選びます。皆さんの質問は簡潔で、時間ぎりぎりの提出にならないようにして、バークシャーに関係していて、1通のメールに2つ以上の質問が入っていなければ、選ばれる可能性があるとジャーナリストは、私に話してくれました。(電子メールには、質問が選ばれた時に質問者である皆さんの氏名を明かしてよいかどうかを書き添えて下さい。)

バークシャーに従う3人のアナリストによる委員会もあります。今年の保険の専門家はダウリング・アンド・パートナーのゲイリー・ランサムです。非保険事業に質問には、ルアネ・クニフ・アンド・ゴールドファーブのジョナサン・プラントとモーニングスターのグレッグ・オーレン、があたります。我々の望みは、アナリストとジャーナリストが、我々のオーナーの投資に対する理解と知識を増すような質問をしてくれることです。

チャーリーも私も質問へのてがかりも表題もありません。我々はいくつかがタフであることをしっており、それを我々は望んでいます。我々は少なくとも全部で54の質問があると思っています。それぞれのアナリストとジャーナリストから6個ずつ、会場から18個を考慮に入れてです。(昨年は全体で62になりました)若干の延長時間があれば、会場から追加を受けます。会場の質問者はアリーナと主なオーバーフロアにある11本のマイクロフォンに8時15分に待機してください。

チャーリーと私は、株主がみな新しいバークシャー情報に同時にアクセスするべきでありさらにそれを分析する適切な時間を持っているべきである、と信じます。それは、我々が金曜日の市場終了近くに財務情報を出し、土曜日に年次総会を行う理由です。我々は、機関投資家やアナリストとの1対1のミーティングを行いません。我々の望みはジャーナリストとアナリストが投資について株主の皆さんを教育するような質問をしてくれることです。

2015年3月19日 (木)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(13)

年次総会

年次総会は5月2日土曜日にセンチュリー・リンクセンターで行われます。昨年は39,000人が出席して新記録となりました、今年は50周年を祝って、さらに増えることを期待しています。開場は午前7時です。

今年もバークシャーのキャリー・ソバが担当します。

(新しい名前ですが、昨年と同じ素晴らしいキャリーです。キャリーは秘書として6年前24歳で入社しました。4年前、私は彼女に総会を担当してもらいました。これは多数の技術を必要とする大きな仕事ですが、彼女はこの機会に挑戦しました。キャリーは落ち着いていて、独創的で、一緒に働く人から何百もの長所を引き出してくれるエクスパートです。彼女は終末を、我々株主のために楽しみや情報提供の場にするために、すべての本社従業員の助けを引き出しています。

そして、彼らがここにいる間、私も来ていただいた株主の皆さんに我々の製品の売り子となります。今年は、売店の営業時間を大幅に増やします。5月1日の金曜日はセンチュリー・リンクセンターで正午から午後5時まで、総会の日は午前7時から午後4時までです。チャーリーに微笑みと買い物をお願いします。

土曜日の朝は早起きしましょう。2匹の1トンのテキサス・ロングホーン牛、ノーマンとジェイクが10番街をセンチュリーリンクまで行進します。それらに乗ってジャスティンブーツの経営陣の二人がカウボーイの義務を果たします。肉牛に続いてウェルスファーゴ駅馬車を引っ張る4頭の馬です。バークシャーは既に飛行機、鉄道、そして自動車を市場に供給しています。我々のポートフォリオに肉牛と駅馬車を追加し、アメリカの万能の運送会社という評判を封印してしましょう。

土曜の午前7時30分頃、我々は4回目の「インターナショナル紙の投函に挑戦」を行ないます。私たちの的は今度もまた、クライトン・ホーム・ホーチで、正確にスローイング線から35フィート離れています。私も十代のころに、短い間でしたが正直な労働者で、当時50万の新聞紙を投函しました。それはいいことだったと思います。私に挑戦しましょう。私をギャフンと言わせましょう。私を叩きのめしましょう。私よりドアステップに近いところに投げられた人には、デイリー・バーのアイスクリームを買ってあげましょう。新聞は36から42ページあり自分で折らなければなりません。ただし、ゴムバンドを留めるのは許しません。12位以上の最高の投函をした人には特別な賞を贈ります。ダブ・ボサニックが審判です。

8時30分からバークシャーの新しい映画をお見せします。1時間後に質疑応答を始めます。センチュリー・リンクでの昼食の中断をふくめ3時30分まで行います。短い休憩の後、チャーリーと私は3時45分から年次総会を招集する予定です。日中の質問の時間に退席するようなら、チャーリーが話している間にしてください。

皆さんのショッピングには会場に隣接する194,300平方フィートのホールで何十ものバークシャーの子会社の製品が揃えられています。ショッピングを金曜日にできなかった方は、土曜日にはチャーリーが話している間に、会場を抜け出してたくさん買い物をしましょう。そこには、素晴らしいBNSF鉄道のレイアウト・ジオラマもあります。84歳の私も、ワクワクしてしまうものです。

昨年、皆さんには本分を尽くしていただきました。おかげで大部分の場所で記録的な売上を達成しました。9時間の間に、1,685本のジャスティン・ブーツ(23秒で1組)、13,440ポンドのシーズ・キャンディ、7,276組のウェズラモント作業手袋、そして10,000本のハインツ・ケチャップを、我々は売りました。ハインツには新しいマスタード製品があるので、今年はマスタードもケチャップも入手可能です。(両方とも買って下さい)金曜日も同じように開いていますから、我々は新記録を期待しています。

ブルックス(ランニング・シューズの会社)は、会議のために特別に提供する記念のシューズを今年も販売します。一足購入して、翌日の8時にセンチュリーリンクでスタートする第3回の“バークシャー5キロ”レースにそれを履きましょう。参加のための詳細については、会議の参加証明書に添付して皆さんにお送りするビジターズガイドに書かれています。レースに参加すれば、バークシャーのマネジャーや取締役や仲間と一緒に走ることができます。(しかし、私とチャーリーは、その時間は朝寝坊することでしょぅ)

ガイコは、国中から何人かの最高のカウンセラーの職員をショッピング・エリアのブースに置いているようにします。ぜひ立ち寄ってみて下さい。ほとんどの場合、ガイコは、皆さんに通常の8%の株主割引をすることができます。この特価提供は55の管区のうち44で許されています。今ご利用の保険の詳細を持ってきてくだされば、我々が保険金を節約できるか否かにかかわらず、チェックします。少なくとも、半分の方には、保険金を節約することができると思います。

ブックワームを必ず訪問してください。何冊かの新刊を含め35冊以上の本とDVDをお届けします。昨年、株主の皆さんの多くは、マックス・オルソンの編集による1965年まで遡るバークシャーの手紙を購入していただきましたが、彼は今年の会議のために新版を製作しました。我々も当社の50年を祝った本を安価で販売したいと思っています。今のところ製作中ですが、その本は19世紀からの文書を含む多種多様な歴史の材料となるものと思います。

キャロル・ルーミス(1977年以降、この手紙を編集する際に非常によくやってくれました)は最近、タップダンスの入門書を刊行しました。ウォーレン・バフェットについては、彼女と私の連著でミーティングで使用する500部を作りました。

 

2015年3月18日 (水)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(12)

我々の投資成績は素晴らしい追い風に助けられたものです。1964~2014年の間、S&P500は84から2,059まで上昇し、配当による再投資も含めて2ページに示されているように、総計1,196%のリターンとなりました。これと同時に、ドルの購買力は、驚くべきことに87%も下がりました。この低下は、1965年に13セントで買えたものが今なら1ドル出さないと買えないことを意味します。これは消費者物価指数の変化に従ったものですが。

このような株価とドルのパフォーマンスの乖離は、投資家にとっては重要なメッセージです。2011年の我々の年次報告を思い起こしていただくと、我々は投資を次のように定義しました“将来に大きな購買力受け取る論理的な予測によって、現在の購買力を他に移転すること”。

慣例にとらわれず、しかし、目を背けることのできない、過去50年の経験から導き出される結論は、有価証券、例えばその価値が米国通貨に縛られている財務省証券、に投資するよりも多様なアメリカ企業に投資するほうが安全だということです。このことは、この前の半世紀の時代、大恐慌と二つの世界大戦が起こった時代においても当てはまることだした。投資家は、このような歴史を忘れてはいけません。次の世紀になっても同じことが繰り返されるのは、ほとんど確実です。

株価は現金や預金で貯蓄するものに比べると、はるかに不安定です。しかし、それが長期にわたるものは時間の経過とともに売買され手数料だけ支払って保有される多様な株式ポートフォリオに比べて、リスクの高い投資、いや遥かにリスクの高いに投資となります。

こんな授業はビジネス・スクールでは慣習的にされてきませんでした。そこでは、逆に株価の不安定性が一般的にリスクにあたるとして教えられていました。このような教育上の仮定は教え易いものですが、それは致命的な誤りです。不安定性はリスクとは決して同じではありません。この二つの用語を同じものとして一般的な手法は、学生、投資家そしてCEOを謝った道に導くものです。

もちろん、1日、1月あるいは1年の単位で普通株を所有することは、額面と購買力から考えれば、現金や預金で保有することよりもリスクが高いということは真実です。このことは、投資銀行のような特定の投資家に当てはまることです。そのような投資家は、可能性が資産価格の低下に脅かされ、低迷した市場で証券を売却することを強制されるのです。その上、有意義な目先の資金ニーズのある人々であれば、財務省証券や保証された銀行預金に適切な残高を残しているでしょう。

しかし、数十年の視野で投資することのできる、あるいはそうすべき大多数の投資家にとって、この低下はそれほど重要なことではありません。彼らの焦点は、生きて投資をしている間を通じて購買力において目覚しいもうけを達成することに向けられています。彼らには、時間をかけて購入した多様な資産ポートフォリオはドルベースの有価証券にくらべて、はるかにリスクが少ないものなのです。

もし、その代わりに、投資家が価格の不安定性をおそれ、誤って大きなリスクと見てしまったら、その投資家は、皮肉なことに本当のリスクに直面してしまうかもしれません。できれば、思い出して欲しいのですが、6年前専門家は株価の下落を嘆き、“安全な”政府短期証券や銀行の譲渡性預金に投資することを勧めたことを。この説教を心に留めた人は、今、以前に快適な老後の生活に向けて期待した額からほんの少ししか稼いでいません。(その6年前のS&Pは700以下でしたが、今は約2,100です)もし、意味なく価格の安定性を怖れなかったなら、これらの投資家は、配当が年々増加し、同じように価格が徐々に上昇していく(たしかに多くの浮き沈みはありますが)低コストのインデックス・ファンドを購入するだけで、終身にわたるよい収入の口を得ることができたと思います。

投資家は、自身の行動によって所有している株式を高いリスクに曝してしまう事があります。そして、多くの人がそうしてしまうのです。活発な取引、“時間”に連動した相場の試み、不十分な多様化、高価なマネージャーやアドバイザーへの無駄な手数料の支払い、借りた資金での運用は生涯にわたって株式を保有することで違った形で楽しむという収益を破壊してしまいます。本当に、借りた資金というのは投資家の道具箱の中に居場所はないはずです。いつ何時、市場では何が起こるか分からないのです。アドバイザーも経済学者も、テレビ解説者も、そしてチャーリーも私も、混乱がいつ起こるか教えてくれる人はいないのです。市場の予想者は皆さんの耳に情報を満たしてくれますが、皆さんの財布を満たしてはくれません。

今まで述べてきた投資の過失を誰かに委ねてしまうことは“小口投資家”に限ったことではありません。グループとして見られる巨大な機関投資家は、単にじっとしているだけの素朴なインデックス・ファンド投資のパフォーマンスを長い間上回ることができません。その大きな理由は手数料です。多くの機関投資家は次から次へと高い手数料のマネージャーを推薦するコンサルタントに相当なお金を払っています。そんなものは愚か者のゲームとしか言えません。

短期的には素晴らしい結果が幸運か才能のどちらかによるものか判断するのは難しいですが、もちろん、わずかですが、非常に優秀なマネージャーもいます。しかし、ほとんどのアドバイザーは高いリターンを上げることよりもはるかに高い手数料を生み出すほうが得意です。実のところ、かれらの主要な能力は自分を売り込む力です。彼らの誘惑に耳を貸すくらいなら、ジャック・ボーグルの『インデックス・ファンドの時代 アメリカにおける資産運用の新潮流』でも読んだほうがいいです。

何十年も前、ビル・グラハムはシュークスピアを引用して、投資の失敗の責任を正しく指摘しています。“だから、ブルータス、おれたちが人の風下に立つのは運勢の星が悪いのではない、罪はおれたち自身にある”(『ジュリアス・シーザー』の第1幕第2場において、キャシアスがブルータスに言った台詞)

2015年3月17日 (火)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(11)

投資

バークシャーには表には含まれない一つの大きな投資資産があります。我々は2021年9月までの間のいつでも50億ドルでバンク・オブ・アメリカの7億株を購入することができます。年末時点で、これらの株式は125億ドルの価値がありました。我々は、このオプションの失効の直前に株式を購入することになりそうです。結果として、バンク・オブ・アメリカが我々の4番目に大きな投資で我々にとって価値の高いものであることを理解することは、みなさんにとって重要なことです。

 

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注意深い読者であれば、昨年の我々の一般の株式投資リストに最も大きく記載されていたテスコ社が消えてしまったことに気づいたことでしょう。私は報告するのが恥ずかしいのですが、思慮深い投資家であれば、もっと早くテスコ株を売ってしまったでしょう。私は時間を浪費してしまって大きなミスを犯しました。

2012年末に、4億1500万株のテスコ株を所有していました。それから、現在、イギリスの主要な食品小売業者と他の国の重要な食料雑貨商を同じように所有しています。この投資のために、我々は23億ドル費やし、市場価格はほぼ同じような額でした。

2013年に、私は当時の会社のマネジメントが幾分嫌になり、1億1400万株を売却し、4300万ドルのもうけを出しました。このような売却ののんびりした私のペースが、この場合には、高くつきました。チャーリーは、この種の振舞いを“親指を咥えている”と言います。(私の遅れが我々にもたらした損失を考えれば、彼の言い方は優しいと思います。)

2014年になるとテスコの問題は、月を追うごとに悪化していきました。会社の市場占有率は低下し、マージンは収縮しました、そして会計上の問題が浮かび上がってきました。ビジネスの世界では、厄介な問題は、多くの場合、連続して表われてきます。たとえば、台所とゴキブリを目にすると、数日後、その家族も見ることになるわけです。

我々は年間を通してテスコ株を売却し、今は所有していません。(この会社は新しい経営者を雇うべきだと言いたい。我々は会社が良好な状態に戻ることを願っています)この投資による税引き後の損害は4億4400万ドルで、バークシャーの約0.2%に当たります。過去50年で、我々は売却の時点で自己資本の2%の損を出した投資損失を一度、1%の損失を二度経験しました。この3件の損失は、すべて1974~1975年の期間で起こったことです。それは我々が、他のもっと安いと考えていた株を購入しようと安い株を売却した時です。

 

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2015年3月16日 (月)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(10)

金融と金融商品

今年から、我々はこの部門にマーモンの非常に規模の大きいリース事業、鉄道車両、コンテナやクレーン等を扱う、を含めます。我々はまた、この変化を反映させるために、過去2年間について修正再表示しています。なぜ、そんなことをするのでしょうか。一時は、マーモンに大きな少数者持分としていました。そして、私は、会社のすべての活動を一ヶ所に集めることのほうが理解しやすいと思いました。現在、我々はほぼ100%マーモンを所有しています。そして、我々が、この表題にマーモンのリース事業を含めることにすれば、皆さんが我々の様々な企業にたいしてより多くの洞察を得ることができると考えました。(マーモンのほかの多数の事業の数字は前のところにあります)

我々のこのほかのリース及びレンタル事業には、コート(家具)とエクストラ(トレーラー)が担っています。これらの会社は業界のリーダー的存在で、アメリカの経済が強さを取り戻してくるにつれて、収入を大幅に増やしました。両社とも競合会社よりも多額の投資を新たな器材に向けて行い、それが好結果に結び付きました。

ケビン・クライトンは、アメリカで最大の個人住宅の建築会社クレイトン・ホームズ社に業界随一の業績をもたらしました。昨年、クレイトン社は30,871軒の住宅を販売し、これは実にアメリカで販売された建設住宅の約45%にあたります。我々が2013年にクレイトン社を購入した時には、そのシェアは14%しかありませんでした。

クレイトン社の収入の鍵は、130億ドルのモーゲージ・ポートフォリオです。2008年及び2009年の金融恐慌の際、事業の資金が枯渇したときに、クレイトンはバークシャーの支援によって、貸し出しを続けることができました。実際には、我々は、我々の小売店と同じように競合会社の小売販売にまで融資を続けました。

クレイトンの借り手の多くは低い収入と平凡なフィコ・スコア(クレジットの履歴に点数をつけたもの)な人々です。しかし、会社の分別ある融資手続きのおかげで、そのポートフォリオは不況の間でもうまく機能しました。このことは我々の借り手が自身の家を手放さなざすできた確率が高いということを意味します。我々のブルーカラーの借り手は、多くの場合、より高い収入の同胞よもずっと良好な信用リスクであることを証明しました。

マーモンの鉄道車両事業では、リースのレートがここ数年の間に大幅に改善されました。しかし、この事業の性質として毎年我々のリースのたった20%ほどが期限切れを迎えるということです。したがって、価格設定をいくら改善しても、全体としての収益へは徐々にしか影響しないのです。しかし、傾向は強気です。我々の105,000台の自動車部隊は主にタンク車で、そのうちたった8%が原油を輸送します。

我々の鉄道事業について、もうひとつ皆さんにとって重要な事実をお話しします。他の多くの貸主と違って、我々は自身のタンク車を年間で約6000台製造しています。製造部門からリース部門に自動車を移す時には、我々は利益を計上しません。したがって、我々の部隊は“バーゲン”価格で帳簿に計上されます。その価格と“小売”価格の差は、我々が少ない年間減価償却費を自動車の30年を超える寿命で計算するため、徐々に収入に反映されます。そのような事実その他のために、マーモンの鉄道部隊は帳簿に計上される50億ドルという数値よりはるかに価値の高いものなのです。

2015年3月15日 (日)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(9)

製造、サービスと小売活動

バークシャーのこの我々の事業は水際までカバーしています。グループ全体の要約貸借対照表と損益計算書から見ていきましょう。(貸借対照表と損益計算書は省略)

一般会計原則(GAAP)に従った、我々の収入と費用のデータは49ページにあります。対照的に上の営業費用GAAPに則っていません。特に、そこでは若干の購入会計アイテム(主に特定の無形固定資産の償却)を除外しています。調整された数値が集計され、企業の本当の費用と利益をより正確に反映していると、私もチャーリーも考えているので、このようにデータを提示しています。

私は、全ての調整をここで説明するわけではなく、いくつか些少で分かりにくいものもあります。しかし、真剣な投資家は無形固定資産の異種の性格を理解しておくべきです。他のものが価値を失わない一方で、いくつかは時間とともに価値を減少させていきます。例えば、ソフトウェアで償還費は実際の費用です。しかしながら顧客関係の償還のような他の無形固定資産に対する費用は購入会計規則によって発生するもので、明らかに本当の費用とは言えません。GAAP会計は費用の2つの違いを考慮しません。収益を計算する時には、両方とも費用として計算されます。たとえ投資家の視点においても、それにはもっと違っているとは思えません。

我々が49ページで提示しているGAAPに則った数値ではこのセクションに含まれた会社のための11億5000万ドルの償還料金は費用として差し引かれます。我々は、このうちの20%は実際にあったものと考えています。そして、本当にそれらは上の表に含めた部分です。そして残りはありません。かつてのバークシャーでは存在しなかった「非-実際」の経費は、我々が為した多くの買収の結果、重要なものとなりました。我々が多くの会社を買収してきたので、「非-実際」の償却費は間違いなく将来には上昇することになるでしょう。

67ページのGAAPに準拠した表には、我々の無形資産の現在の状態が表されています。現在、我々には未償却の残りが74億ドルあり、今後5年間では41億ドル償却される予定です。もちろん、最終的に「非-実際」の償却費はすべて損失として差し引かれます。その時、本当の収入とは別に会計上の収入が増加することになります。

減価償却費は違います、そう我々は強くいいたい。我々が報告する減価償却費は真実のコストです。そして、同じように、他の会社でも真実です。CEOが評価の基準としてEBITDAを持ち出したときには、財布のひもをしっかりと締めたほうがいいですよ。

もちろん、我々の公的な報告は、GAAPに則ってきています。しかし、現実を受け入れるために、我々の報告した償却費の大部分が戻るのを追加することを忘れないでください。

 

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我々の多くの製造、サービスと小売の会社に戻りましょう。このグループの会社は、アイスキャンディーから飛行機までわたる製品を販売します。このビジネスの中には、レバレッジをかけない正味固定資産に対する収益によって測定された(つまりROE)、税引き後利益で25%から100%以上の素晴らしい経済的成果をあげているも会社が数社あります。他の会社は12~20%という範囲の好成績をあげています。しかしながら、わずかな会社は、私が主な仕事である資本の分配で重大な間違いを犯した結果、非常に貧しいリターンしか上げられませんでした。私は、そんなことに惑わされません。私は、実際に動いている会社や産業の経済力に対する評価において誤りを犯していました。

幸いなことに、私の間違いは、通常、比較的小規模な買収にありました。大規模な買収は、普通はうまくいき、ほんの少しだけ非常にうまくいきました。しかしも私は企業や株式を購入するさいの最終的なミスは犯していません。計画通りに全てうまくいくとは限らないのです。

単独の実体としてみると、グループのそれぞれの会社はすぐれたビジネスです。これらの会社は2014年には平均で240億ドルを有形固定資産に使い、僅かなレバレッジと大量の余剰資金と税引き後で18.7%の利益を得ています。

もちろん、支払いが度を越していれば、いくら素晴らしい経済学を備えた経営であっても、悪い投資となるのです。我々のビジネスの大部分は固定資産に相当なプレミアムを支払っています。それは、我々が“のれん”に対して示す大きな数値を反映したコストです。しかし、全体として、我々はこのセクターで展開させた資本上の相当なリターンを得ています。さらに、ビジネスの本質的価値は、総計においてマージンを加えることで帳簿価格を上回るものとなります。それでも、保険と規制された産業のセクションの本質的価値は帳簿価格より、はるかに大きいです。巨大な勝利者がそこにいます。

 

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このグループには、ここで我々が個々にコメントするのに追いつかないほど、あまりにも多くの会社があります。その上、現在あるいは潜在的な競争者がこの報告書を読むことでしょう。もし、彼らが具体的数値を知ってしまったら、幾つかの分野で我々は不利な立場になってしまうかもしれません。それで、バークシャーの評価のサイズに満たない事業では、必要とされることを報告するだけにします。皆さんは97~100ページで我々の事業の多くについて詳細を見ることができます。

2015年3月13日 (金)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(8)

規制された、資本集約的な事業

我々にはBNSFとバークシャ・ハサウェイ・エネルギー(「BHE」)という我々の他のビジネスと区別される共通の特徴をもった2つの非常に大きなビジネスがあります。したがって、我々はこの手紙でこの2社を自身のセクターに割り当てて。我々のGAAP貸借対照表と損益計算書にこの2社の統合財政統計を振り分けます。

この2社の主要な特性は、バークシャーによって保証されない大量の長期国債によって部分的に資金を供給されるという規制された資産と非常に長期の投資を有していることです。この2社には我々の信用は必要ではありません。この2社には恐ろしい景気状況においても、十分に利益をえる収益力があります。昨年において、たとえば、BNSFのインタレスト・カバレッジは8.1以上でした。(我々のカバレッジの定義は、利子に対する税引き前利益であって、EBITDAではありません。それは深い損失に対する一般的な見方です)

一方、BHEでは2つのファクターはあらゆる状況でもサービスを確実に供給することを可能にしています。第1点はすべての公共事業に共通のもので、不況耐性所得です。これは不可欠なサービスを独占的に提供している会社にだけあるものです。第2点は他の公共事業にはないもので、単一の規制機関から受ける深刻な障害から我々を守るための利益獲得の経路の多様性です。最近、我々はアルバータ州の人口の85%にサービスを提供する電力送電システムをもつアルタリンク社を30億カナダドルで買収したことにより、収益基盤を拡大させました。BHEとその公共事業を営む子会社は、この特定の強みを生かして、強力な親会社に所有されることで、負債のコストを大幅に削減することができました。この利点は、我々や顧客に大きく貢献することになります。

毎日、我々の2つの子会社は主要な方向でアメリカ経済の原動力となっています。

1件を除き、今年は主要な点でバークシャーにとってよいことばかりでした。以下で、重要な点を説明していきましょう。

 トラック、鉄道、水上、航空全てを含めたアメリカにおける都市間の貨物輸送のマイル当たりのトン数でいうと約15%がBNSFによって担われていると、皆さんに言うことができます。事実我々は他のどれよりもマイルあたりの多くのトン数で運搬します。そのことがBNSFを我々の経済の大動脈としています。

鉄道というのはそういうものですが、BNSFはとても燃料効率がとてもよく自然に優しく貨物を移動させます。ディーゼル燃料1ガロンで1トンの貨物を500マイル運ぶことができるのです。同じ仕事をトラックが引き受ければ、その4倍の燃料を浪費してします。

 BHEの電気事業は10の州で個人消費者に規制を受けて提供しています。これほど多くの州にサービスを提供している会社は他にありません。その上、我々は再生可能エネルギーの分野でリーダーに位置にあります。最初に10年前のスタート時点から我々は我が国の風力発電の9%、太陽光発電の7%のシェアを占めてきました。これらの事業以外に、BHEは国全体の天然ガス消費量の8%を供給する2本の巨大なパイプライン(最近買収したカナダの送電会社と英国及びフィリピンの主要な電力会社)を所有しています。これら以外の領域もあります。我々は、今後数十年にわたって、この分野の企業を買収し、体制の構築を進め続けます。

ここからの利益のすべてを自身で持てるので、BHEはこれらの投資をすることができます。昨年、同社は、他の国内の電力会社よりも断然多くの利益をドルで持ちました。我々と業務監査委員会は、このことを重要な利点と見なしています。これからずっと、BHEは他の分野から区別されるひとは確かです。

我々の現在のプロジェクトが完成すれば、BHEの再生可能ポートフォリオは150億ドルを要しました。その上、に数十億ドルの従来からの事業もあります。われわれは、それらのプロジェクトが相応のリターンを見込めれば、そのような参加を喜んで行います。我々は将来これらが規格化されるということを信じています。

我々の過去の経験と知識によって社会が流通とエネルギーに多大な投資を永遠に必要としているという我々の確信は正当化されます。重要なプロジェクトに継続して資金を提供する流れを確保することで主要な提供者をどうするかということは政府の関心によっています。監査機関や人々の代表から承認を得ることで事業を行うことは、我々の関心によっているのです。

我々が毎年このようなオーナーシップとしの考えを明らかにしていることを、昨年、BHEにおいて完全な形で実現に向かうことになりました。

しかし、以前にも述べましたが、BNSFにとって2014年はよい年ではありませんでした。それは鉄道というものが顧客の多くを失望させた1年だったからです。この問題はBNSFが、我々の主要な競合相手であるユニオン・パシフィックによる経費をはるかに超えていたことにより、ここ数年資本的支出を計上していたにもかかわらず起こりました。

我々の方が貨車1両分の貨物、あるいはマイル当たりのトン重量でより多くの貨物輸送を行なっていたけれど、2本の鉄道は収益規模ではほとんど同じ程度の規模です。しかし、我々のサービスの問題は、昨年はユニオン・パシフィックを越えるもので、その結果市場シェアを失うことになりました。その上、ユニオン・パシフィックの収益は記録的なものとなって、我々に大打撃を与えました。明らかに、我々には、やらなくてはならない課題を多く抱えています。

我々には時間の余裕がありません。以前にも述べたとおり、我々は鉄道事業を改善させるために2015年には60億ドルの金をかけます。その金額は、業界の基準として計算された歳入予算の約26%に当たります。個穂ほど多額の費用は、鉄道会社では前代未聞の規模です。我々にとって、この比率は2009~2013年の18%とユニオン・パシフィックの将来に向けた16~17%に匹敵するものです。我々の大きな投資はより大きな能力とよりよいサービスのシステムを間もなくつながることになります。利益の改善がこの後に続くはずです。

2015年3月12日 (木)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(7)

我々には、コピー困難なビジネスモデルをもち、ビジネスを規律正しく実行する保険マネージャーがいるため、バークシャーの魅力的な保険ビジネスが成り立っているのです。皆さんには、主要なユニットを説明しましょう。

フロートのサイズでみると第一は、アジット・ジェインによって運営されているバークシャー再保険グループです。アジットは他の誰もがやろうとせず、資金をかけようとしないリスクに対して保険をかけます。彼の活動は、保険ビジネスの中ではユニークな方法で、能力、スピード、決断力と最も重要な頭脳を組み込んだものです。彼はバークシャーを我々の資源に関して、不適当な危険に決して晒しません。

本当に、我々は大部分の保険業者に比べて、そのようにリスクを避けるという点ではるかに保守的です。例えば、保険業界がいくつかの大規模な大災害の被害で、これまでに直面したもののおよそ3倍の損害となるような2500億ドルの損害を経験したとしても、これまでの利益の連続により、その年には穏健な額の利益を計上するでしょう。これに比べて、他のすべての主要な保険業者と再保険業者は大幅な赤字となり、そのいくつかは債務超過に直面するでしょう。

アジットが保険業務を運営する技術は驚異的です。アジットのマインドは現在の各種の品揃えに追加できるビジネスの新たなラインアップを常に探している、さながらアイディア工場のようです。昨年、私はみなさんにバークシャ・ハサウェイ専門保険(BHSI)を彼が設立したことをお話ししました。そこで、我々はアメリカ中のメジャーな保険ブローカーと企業のリスクマネージャーたちに、直ちに受け容れられることになりました。以前、我々は商業保険についてほんの少しだけ書いたことがあります。

BHSIは、ピーター・イーストウッドが率います。彼は、保険業界で広く尊敬を集める経験豊かな引受人です。2014年に、ピーターは保険の国際的な取引と新たな分野に移ることによって優秀なグループを成長させました。我々は、BHSIは数年以内に数十億を生み出すバークシャーの主要な資産となると昨年言ったことを、ここでもう一回繰り返します。

 

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最後に、私が64年前に最初の経験を積んだ保険業者であるGEICOがあります。GEICOは、18歳で入社し2014年までに53年にわたって勤め続けているトニー・ナイスリーによって運営されています。トニーは1993年にCEOとなり、会社を飛躍させました。トニー以上のマネージャーはいません。

1951年1月に初めてGEICOに引き合わされたとき、私はGEICOが業界の巨人が負担する経費に比べて、莫大なコスト面での有利さを謳歌していることに衝撃をうけました。この事業効率のよさは今日まで維持しており、非常に大切な資産となっています。自動車保険にお金を払いたいと思う人はいません。しかし、ほとんどの人は自動車を運転するのは好きです。必要とされる保険は、ほとんどが家族のために加入するというものです。家族の事故に対する備えは、低コストで、実現しようとするのです。本当のところ、この手紙を読んでいる方々の少なくとも40%はGEICOで保険をかけることによって、無駄なお金を節約することができます。だから、こんなものを読むのをやめて、GEICOのウェブページが電話にアクセスしましょう。

GEICOのコスト面での有利さは、同社が年々マーケット・シェアを貪り食うように高めるのを可能にした要因です(バークシャーがGEICOの経営権を買収した1995年の2.5%に比べて、我々は2014年には10.8%に引き上げました)。このようなコストの低さは競争者との間に越えられない堀をつくり、それは永続的なものになっています。一方、我々のゲッコ(?)が、アメリカ中の人々にGEICOが如何に重要なお金を節約するかを話し伝え続けています。ゲッコにはひとつのとくに愛らしい特質があることを付け加えなければなりません。彼は無報酬で働いてくれます。人間のスポークスマンと違って、彼は名声からうぬぼれることもなく、常に彼がどれほど貴重かをいつも思い出させてくれるのです。私は、この小さな存在を愛しています。

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我々は3つの主要な保険会社の他により小さな会社のグループを所有しています。そして、それらのほとんどは保険世界の特殊な片隅で取引を営んでいます。全体として、それらは一貫して利益をもたらしてきました。これらの会社は、過去10年間でフロートを17億ドルから8億ドルにのばして、引き受け業務から29億5000万ドル稼いでくれました。チャーリーも私も、これらの会社やマネージャーを大切にしています。

 

 

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手短に言えば、保険は約束を売るようなものです。顧客は、今、お金を払い、保険会社は、将来、ある特定のことが起きたら、お金を払います。そういう約束です。

 時には、その約束は何十年も検証されないこともあります。20代に加入した生命保険など、考えればそうです。したがって、保険会社の支払い能力と意志は、支払時期が到来したときに経済情勢が混乱していたとしても、非常に重要なことです。

 バークシャーの約束は、特にアスベストにかかわる保険請求を含む莫大で例外的に永続的な負債を放棄したいと望んでいるという世界最大かつ最も洗練された保険会社の行動によって最近確信された事実と同じではありません。これは、保険会社は再保険業者に負債を譲ることを望んだことを示しています。しかしながら、財政的に困っていたり悪質だっりといったのが明らかな悪い再保険業者を選べば、もとの保険を負債を足もとに引き戻す危険にさらすことになってしまいます。

 昨年、再保険の分野での我々のトップの地位は30億ドルのプレミアムをもたらす保険証書を作成することで再確認されました。私は、この保険証書の規模が2007年の我々とロイズとの間で交わされ、71億ドルのプレミアムをもたらした保険証書より規模が大きくなると思っています。

 実際のところ、これまでの歴史ののなかで10億ドルを超えるプレミアムがついた資産事故保険証書は、私の知る限り8件しかありません。そして、その8件すべてはバークシャーで作成されたものです。主要な保険会社が、このようなタイプで支払いに疑う余地のないものを必要とした時に、バークシャーが、それ以外はなく、指名されるのでした。

  

 

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 バークシャーの偉大なマネージャーたち、最高の財務力、そして広い濠をもった多様なビジネスモデルは保険の世界においてユニークなものを作り出しています。これらのコンビネーションは時とともに価値を高めるので、バークシャーの株主にとって大きな資産となっています。

 

2015年3月11日 (水)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(6)

保険業

最初に、バークシャーの事業の核心である、保険事業から見ていきましょう。1967年のこのレポートを公にして以来、一貫してバークシャーの拡大成長のエンジンとなり中核を担ってきた事業です。我々が1967年にナショナル・インデミニティとその姉妹会社ナシャナル・ファイエ・アンド・マリーンを860万ドルで買収して以来、この分野は我々の拡大成長を牽引したエンジンでした。この取得はバークシャーにとっては記念碑的な意味を持つものとなりましたが、その行為そのものは単純なものでした。

2社の支配株主で、私の友人でもあるジャック・リングウェルトが売りたいと、私の事務所に来たのでした。15分後、我々の取引が成立しました。ジャックの二つの会社は公認会計士の監査を受けたことがなく、私はそのことを要求しませんでした。私が思うに、(1)ジャックは正直で(2)少しばかり気まぐれなところもあって、取引が面倒になるのなら、逃げ出してしまいそうでした。

128~129ページで1ページ半をつかって取得を完了させた購入契約書が再現されています。この契約書は自家製のものでした。我々のどちらも弁護士に頼みませんでした。1ページあたりで、これがバークシャーにとって最良の取引でなければなりません。ナショナル・インデミニティは、今日、GAAP(一般会計原則)による自己資本が1110億ドルになり、これは世界中のあらゆる保険会社を上回るものです。

我々が資産事故保険ビジネスに引き付けられた理由のひとつは財政的な特徴からでした。資産事故損害保険業者は前払いのプレミアムを受け取り、後で請求に対する支払いを行います。極端な場合、特定の労災補償事故のような場合は、支払いが数十年間延びることがあります。このような、今現金を受け取り、支払いは後になるモデルでは、我々の手元に多額の「フロート」と呼ばれる現金が据え置かれることになります。最終的には、そのお金は我々の手元を離れることになるのですが。一方、我々がこのフロートを投資に振り向けることで、バークシャーは利益を得ることができます。ここの方針や主張は行ったり来たりしますが、我々が抱えるフロートの総額はプレミアムボリュームに関して安定しています。その結果、我々のビジネスは、フロートに応じて成長しました。我々がいかに成長したかは、下に表しています。

今後、フロートをさらに増加させていくのは難しいと考えられます。プラス面としては、ガイコや我々の新しい商業保険は急速に成長していくことでしょう。しかしながら、ナショナル・インデミニティの再保険部門では、たくさんのランオフ契約を保持しており、これらのフロートが不安定で落ち込む可能性があります。我々が将来のフロートの低下を経験するとしても、それは非常に段階的で、数年で3パーセントを以上にはならないでしょう。我々の保険契約の性質は、我々の持っている現金資源に比べて、それを上回るような金額を即時に支払わなければならないような要求を受けることはあり得ない、というものです。この強さはバークシャーの経営の砦のカギとなる柱です。

プレミアムが我々の費用と最終的な損失の合計を上回っていれば、フロートが産み出す投資収益を加え、我々は引受業務利益を計上します。このような利益が産み出されるとき、我々は自由なお金の運用を喜びます。さらにこれを増やしながら、後の支払いを待ちます。

残念なことに、このような幸福な結果を成し遂げたといいう保険業者の願望は、激しい競争を引き起こします。ほとんどの年に競争は活発であるため、損害保険業界全体に大きな引受業務損失を起こすほどです。この損失は、事実上、業界がフロートを保持するために支払うようなものなのです。競争のダイナミズムは、保険会社に対し、すべての会社がフロート収入を持っているにもかかわらず、アメリカの企業と比べて水準を下回る収益しか得られないという惨憺たる記録を続けることを強いています。我が国の低金利の長期化は、フロートによる利益の減少を引き起こし、それによって業界の収益環境を悪化させています。

この報告書の最初のセクションに見られるように、バークシャーは12年連続で引受業務利益を上げてきて、この期間の税引き前利益の合計は240億ドルにも達しました。我々は、これからも、ほとんどの年に収益の高い引受けを続けるだろうと信じています。そうすることは、貴重なフロートがひどい引受け結果によって台無しになってしまう危険をよく知っている保険マネージャーたちの毎日の注意点なのです。このメッセージは保険業者の間ではお世辞として受け取るものですが、バークシャーにおいては宗教的心情になっています。

それで、我々のフロートはどのような我々の本質価値の計算に影響するのか?我々のフロートはバークシャーの帳簿価格を計算する際には負債として完全に差し引かれます。ちょうどそれは、我々が明日払わなければならなくって、それを補充するものがない時のように。しかし、それはフロートを表示するには誤った方法で、回転資金として置き換えて見られるべきです。毎日のように、我々は古い請求への支払いを行い、2014年には600万人以上の請求者に対し合計で227億ドルになり、フロートを減らしました。同じようにたしかに、我々は毎日のように新たな保険契約を結び、それによってフロートを加えるあらたな請求を引き起こします。

もし、我々のフロートの回転にコストがかからなくて、それが永続するのであれば、私はそれはありえると思いますが、この責任の本当の価値は会計責任に比べ劇的に少ないものになるでしょう。

新規事業は代替品を届けることは確かなため、建物の外に出ることのない1ドルを借りることは、明日ドアを開けて出て行って帰ってこない1ドルを借りることとは違います。しかしながら、このような負債の二つのタイプはGAAP(一般会計原則)では同じものと見なされます。

この誇張された負債を部分的に相殺するのは、資産として帳簿価格に含まれる保険会社に対するのれんに起因する155億ドルです。しかしながら、のれんのコストは本質的価値とは関係がありません。例えば、もし、保険ビジネスが大規模で持続的な引受業務損失を生み出してしまうのならば、それに起因する好意資産は、当初の導入コストがどれだけかかっていても、意味がないと考えざるを得ません。

幸いにも、バークシャーはそうではありません。チャーリーも私も、我々の保険業務ののれんの本当の経済的価値を信じています。だから、継続的な運用価値の超過額が大きくなるかぎりで、我々の持つフロートとよく似た性質のフロートを持つ保険業務を購入するのに喜んで支払います。現在の会計原則では、この超過価値は帳簿には計上されず、このことに我々は賛成です。しかし、私は、みなさんに、それが現実に存在していることを保証することができます。それは、我々がバークシャー固有の本質的なビジネス価値が帳簿価格を大幅に上回っていると考えている理由、つかも大きな理由です。

 

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2015年3月10日 (火)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(5)

本質的なビジネスの価値

チャーリーと私が本質的なビジネスの価値についてお話しするのと同じほど、我々はみなさんに正確にその数値がバークシャー株式の数に対してどの程度かを話すことはできません。しかし、我々は2010年の年次報告に、3つの要素を載せました。その1つは質的で、我々がバークシャーの本質的な価値を見ることができるキーポイントと信じているものです。その議論は123ページから124ページに再現されています。

ここに、2つの量的要素の最新版があります。2014年に、我々の1株当たりの投資額は8.4%増えて140,123ドルになりました。また、保険と投資以外の企業からの我々の税引き前利益も、19%増えて10,847ドルとなりました。

1970年以降、我々の1株当たりの投資を毎年複利で19%のレートで増やしてきました。そして、我々の1株当たりの利益は20.6%の速さで増えました。我々の、この2つの価値の尺度と非常に近い割合で44年間という期間にわたるバークシャーの株価が増加したことは、偶然の一致ではありません。チャーリーも私も、この2つの尺度の両方が増加してほしいと思っていますが、我々は常に業務による収益の構築をより強く求めています。そういうことから、我々は昨年、事業推進のために我々のフィリッピス66とグレアム・ホールディングスの株式を交換し、2015年末にP&Gとデュラセルの取得を同様の株式交換で行なう契約をしました。

 

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さて、我々の事業の4つの主要なセクターを見ていきましょう。そのセクターそれぞれには他のセクターとはかなり異なる貸借対照表と収入の特徴があります。したがって、それらを一緒くたにしてしまうと分析できなくなります。(これらのビジネスを一つの屋根の下で持つことは、重要で永続的な利点があるのですが)そこで、我々は、これらを4つの別々のビジネスとして説明します。我々のゴールは、皆さんが報告するマネージャーで、我々がその場にいない株主であるという逆の立場あったときに、当然望むであろう情報を皆さんに提供することです。

2015年3月 9日 (月)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(4)

 かつて、私はビジネスでの経験は投資家としての私を助け、投資での経験は私をよりよいビジネスマンにした、と言ったことがあります。それぞれの立場で極めようとすることは、もう一方の方面にも適用できる教訓を教えることになります。そして、いくつかの当たり前のことが、このような経験を通すと十分にその意味まで学ぶことができました。(フレッシ・シュエッドの素晴らしい著作『顧客のヨットはどこにある?』の中で、ピーター・アルノーの挿絵は熱心なイブを困惑して見ているアダムを描いて、キャプションでこう言います。「文章や絵では処女に十分に説明することのできない特別のことがある」。皆さんの中で、シュエッドの本を読んだことの無い人がいるなら、こんどの株主総会で買いましょう。その知恵とユーモアは本当に貴重です。)

アルノーのキャプションの「特別のこと」の中に、私は二つの別々のスキルとして投資の評価と事業の経営を含めます。それゆえ、私はトッド・コームズとテッド・ウェッシュラーという二人の投資マネージャーに、各々、我々のビジネスの一つを監視させることに意味があると思います。数ヶ月前、我々がいつも取得するより小さいけれど、優れた経営の特徴を持った2社を取得することにしたときに、彼らはそのチャンスを開くことができたのです。2社は組み合わせることによって、1億2500万ドルの有形資産で年間1億ドル稼ぎます。

私はトッドとテッドに我々のもっと規模の大きな子会社でとられている非常に限られた方法で機能する会長を引き受けるように頼みました。この取り決めは、私の仕事の割り振りを少なくすることができ、もっと重要なことは彼ら二人が、これまで以上により投資家になるだろうということです。

 

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2009年の後半、大不況の暗がりの中で、我々はバークシャーの歴史の中で最大の規模となったBNSFの買収に合意しました。このとき、私はこの買収を「アメリカ経済の将来に対する全部込みの賭け」と呼びました。

このようなことは、我々にとって目新しいものではありませんでした。バッフェット・パートナーシップ株式会社が1965年にバークシャーの支配権を握ってからずっと、同じような賭けをしてきました。正当な理由で。チャーリーと私は、常に、アメリカの反映がさらに進むことが確かになるかどうかの「賭け」を考えてきました。

たしかに、誰が過去238年の間アメリカについて逆の方に賭けることで利益を得たでしょうか。皆さんが我が国の現在の状態を1776年当時のものと比較したならば、きっと驚きのあまり目を瞬かせることでしょう。私が生きて見た範囲でも、アメリカの一人当たりの生産力は6倍に増えました。私の両親は1930年に、彼らの息子がその後見ることになる世界を想像することもできませんでした。悲観主義の説教者はアメリカの問題などと果てのない無駄口を叩きますが、私はアメリカから逃げ出そうと考えている人に会ったことはありません(首尾よく片道切符を手に入れた数人の人が思い浮かびますが)。

そして、我々の市場経済に埋め込まれたダイナミズムは、その魔力を働かせ続けています。成長はスムーズでも連続的でもありませんが、成長してきたのです。そして、我々は政府に定期的に不平をこぼすのです。しかし、疑いなく、これから先に、アメリカの全盛時代が待ち受けているのです。

この追い風が我々のために働くことで、チャーリーと私はバークシャーの一株当たりの価値を構築することを期待して、次のようなことを行います。(1)我々の多くの子会社の基礎的な収益力を不断に向上させること、(2)ボルトオン買収により、さらに利益を向上させて行くこと、(3)投資先の会社の成長により収益をえること、(4)価格が本来固有の価値からかなり割安になっている時にバークシャーの自己株式を買い戻すこと、そして(5)時折、大規模な買収を行うこと。皆さんにとって成果を最大化させるために、バークシャーの株式を割り当てることはないでしょう。

これらを形作る建築ブロックは岩のように堅固な基礎の上に築かれています。1世紀後にも、BNSFとバークシャ・ハサウェイ・エネルギーは我々の経済の舞台で主役を演じているでしょう。家と自動車は、大部分の家族の命にとって主要なままです。保険は企業と個人の両方にとって不可欠な存在であり続けているでしょう。そして、バークシャー以上にビジネスに対して豊かな人材と財政的資源を持っている会社はないでしょう。

さらに、我々は、常に、最高の財務能力を維持しています。少なくとも200億ドルの現預金をもって、短期的な負債を借り入れることはありません。チャーリーと私は、これらの事とその他の強みを見ているので、皆さんの会社の見通しを立てることができるのです。私は、この会社の経営を任されていることを、たいへん幸運に思っています。

2015年3月 8日 (日)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(3)

 2年前からの友人、ジョージ・パウロ・レマンは、ハインツの買収の際に、彼の運営する3Gキャピタルに参加しないか誘われました。これに対する私の肯定の返答は、ほとんど考える必要もないものでした。私には、このパートナーシップが個人的かつ財政的な点からうまくいくことは、すぐに分かりました。それは、ほとんど間違いないことでした。

ハインツについては私が直接経営に関わっているよりも、CEOであるハーナード・ヒースと会長のアレックス・ベーリングの下でのほうがはるかに高いパフォーマンスを上げていることを認めるにやぶさかではありません。彼らは競合会社をはるかに上回る成果を出しても満足することなく、とても高いパフォーマンスの水準を保っています。

我々は、さらに多くの分野で3Gとの提携に期待しています。最近のバーガーキングによるティムホートンズの買収のように我々の提携は、時には、資金面でのものに限られます。しかしながら、我々の協定は永続的な資産パートナーとして、場合によっては取引の際の資金調達に貢献するような、連携していくことになっています。形式的な方法がどうであれ、私はジョージ・パウロと仕事をしたいと思っています。

バークシャーはまた、マルスとルーケディアともパートナーシップを結びました。我々は彼らや他のパートナーとで新たな事業を始めるかもしれません。共同事業に我々が参加することは金融でも資産パートナーでもあるかにかかわらず、その対象は馴染み深いものに限られています。

 我々は、10月に、非常に良好な78のディーラーで構成されたヴァン・チュル自動車を購入する契約をしました。オーナーのラリー・ヴァン・チュルと私は数年前に出会いました。それ以来、彼は、もし会社を売却することになるのから、バークシャーのもとでなければならない、と決めていました。我々の購入手続きは、つい最近終わったばかりで、我々はいまや「自動車仲間」です。

ラリーと父親のセシルは62年間を費やしてグループを築き、地元のマネージャーすべてをオーナー・パートナーにする戦略を追求してきました。このような利益の相互関係を確立することは、何度も勝者になることを証明しています。ヴァン・チュルは、現在、ディーラーあたり売上高が傑出している、国内で5番目に大きな自動車ディーラーのグループです。

近年、ジェフ・ラチャーはラリーと並んで、この利益の相互関係をうまく続けてきました。国内に、およそ17,000人のディーラーがおり、そのオーナーシップの異動は常に関係している自動車メーカーの承認を必要とします。バークシャーの業務は、メーカーが歓迎するような自動車の仕入れ方法を実行することです。我々が、これをうまくやり、賢明な価格でディーラーを手に入れていくことができるなら、我々は間もなくヴァン・チュルの90億の売上規模のチェーン店による事業を構築することができるでしょう。

ヴァン・チュルの取得によって、バークシャーは、現在、フォーチュン500社にリストアップされた独立系の企業の9.5社を所有することになりました(0.5はハインツです)。海に490.5匹の魚を残す。我々のライン出ている。((注)多分、何かのジョークなのでしょうか、意味不明です)

 我々の子会社は2014年には150億ドルという記録的な設備投資を行いました。これは減価償却費の2倍に相当します。そこで支払われた金額の約90%はアメリカ国内に対する投資でした。我々は、海外に対しても同じように投資しますが、その主要なものはアメリカにあるものに対して行います。今まで発見された宝物はまだ十分に活用されていないので、小さく映ります。チャーリーも私も、アメリカで誕生したのはまぐれかもしれません。そして私たちは、このアメリカで生まれという偶然が驚異的なほどの利点であることに、永遠に感謝しなければなりません。

 ハインツを加えたバークシャーの年末時の従業員数は、昨年より9,754人増えて340,499人となりました。増加にはオマハ本社(25人が働いている)の増加が無かったことを、私は誇らしく言います。おかしくなっていない証拠です。

 バークシャーは、アメリカン・エキスプレス、コカ・コーラ、IBMそしてウェルズ・ファーゴという“ビッグ・フォー”に対して、昨年、投資を増やしました。我々はIBM(2013年末の6.3%から7.8%に増やすことになります)の株式を追加購入しました。一方、コカ・コーラ、アメリカン・エキスプレスとウェルズ・ファーゴは自社株買いを行ったので、我々の所有比率は相対的に上昇しました。コカ・コーラの我々の資産は9.1%から9.2%に上昇し、アメリカン・エキスプレスでは14.2%から14.8%に、ウェルズ・ファーゴでは9.2%から9.4%になりました。そして、皆さんが小数点以下のパーセンテージは重要でないと思うなら、この数字を考えてみてください。全体の中で、この4社では我々の資産シェアが0.1%上昇すれば、バークシャーの年間利益の分け前が5,000万ドル増えることになります。

この4つの会社は、優れたビジネスを持ち、才能に恵まれた、株主指向の経営者によって経営されています。バークシャーでは、我々は、まあまあのビジネスを100%所有することよりも素晴らしい会社の相当な部分を非コントロールで所有する方を好んでいます。水晶のすべてを所有するよりは、希望の持てるダイヤモンドの一部でも持っているほうがいいのです。

バークシャーの年末の保有高がマーカーとして使われるのなら、“ビッグ・フォー”2014年の経常利益の我々の持ち分は(ほんの3年前の33億ドルに比べて)47億ドルに達しました。しかしながら、我々が皆さんに報告している収益には、昨年は約16億ドルだった受け取った配当しか含めていません(3年前の配当は8億6200万ドルでした)。しかし、それはあやまりではありません。我々が報告していない31億ドルの収益は、バークシャーが計上する分と同じように大切なものです。

これらの会社は保有している収益で、しばしば自己株式を取得します。自己株式の取得は、我々に10セントの現金も使わせることなく、これらの会社の将来の収益に対するバークシャーの持ち分を強化する動きです。彼らは利益剰余金を、普通、有利と判断されるビジネスに投資します。これらのことから、この4社の一株あたりの利益は、時とともに、かなり増加するだろうことを予想させます。(2015年は、強いドルのためにグループにとっては厳しい年になるでしょうが)期待している利益が実現すれば、バークシャーの受け取る配当は増えるでしょう。さらに重要なことは未実現のキャピタル・ゲインの同じように増えていることです。(この4社の未実現のキャピタル・ゲインについては、年末で420億ドルとなりました)

我々の資本配分は柔軟性があり、我々が経営を見ない事業に多額の投資をして分け前を受け取ることもできます。それは、自分でできるビジネスしか取得しない会社よりも有利になることができます。この両方の企業に我々が投資しようとすることはバークシャーの無尽蔵のキャッシュの源泉の懸命な使い道を見つけるチャンスを2倍にするものです。

2015年3月 7日 (土)

岡田暁生「音楽の聴き方」(14)

ハインリッヒ・ベッセラーはベッカーの提起した音楽と社会をめぐる諸問題を、1920年代に入ってさらに展開させた。それが『音楽聴の根本問題』である。この論文がユニークなのは、音楽を「人(社会)との関わり」という点から考察しようとする点である。彼が提示するのは、「聴く音楽」と「する音楽」という二分法である。コンサートホールのために作られた近代西洋音楽は、対象として傾聴する音楽であった。それに固有なのは、自分の身体を動かさず、眼を閉じて音楽に耳を傾ける聴衆である。それに対してダンス音楽のように、一緒にする音楽がある。それらにおいて、注意深く耳を傾ける湖とは、そんなに大切ではない。この種の音楽は、それをともに体験することによって、人と人との交わりが生まれることを目的にしている。つまり「身体を動かして一緒にする」のである。そもそも本来の音楽とは「する」音楽であって、近代芸術音楽のように身体も動かさず粛々と傾聴する音楽の方がよほど特殊なのだというのが、ベッセラーの主張の眼目である。彼もまた近代西洋音楽には極めて批判的である。ベッセラーいわく、近代音楽に固有なのは、「完全に原子化された、互いに無関係な群集」だ。彼らが音楽に求めるのは娯楽ないし感動だけであり、プロが提供してくれる「完璧を理想とする音楽」、つまり商品としての音楽に受身で浸り、満足度合いを拍手で表明することしかしない。ベッセラーに言わせれば、ベッカーの理想とは裏腹に、「交響曲が持つ共同体を形成する力など実現されなかった」。「本来のベートーヴェン的な理念に従えば人類全体の代表であるべき演奏会の聴衆は、ブラームスやリヒャルト・シュトラウスくらいの世代になると、教養市民階級に限定されてしまった」。全人類を交響曲でもって統合するなど絵に描いた餅であって、それは結局のところ金持ちのステータスシンボルになるのが関の山だった。こうした19世紀のコンサートホールに集まったブルジョワたちに特有なのは、「気分に浸る連想的な聴き方」である。つまり自分で身体を動かしもせず、うつらうつら夢想にふけるハイソでロマンティックな聴き方ということだろう。ベッセラーによれば本来音楽は、もっと自覚的な聴かれるべきもの、聴き手も自ら積極的に参加すべきものである。「響きにはりついた気分に浸ったり、音楽の動きを文学的描写に絵解きしたりすることは、本来の意味における音楽とはいったい何であるかを、ほとんど私たちに忘れさせかねない」。人は自分も身体を動かして音楽を体験しなければならない。それによって初めて音楽は、人と人とを結びつけコミュニティを作ることが出来るのである。

ベッカーやベッセラーが考えるような、「する」ことを通した音楽共同体の蘇生という問題は、アマチュアリズムの復権ということと深く関わっている。近代においては、音楽における「する」と「聴く」と「語る」の分業/分裂が加速度的に進行してきた。本来「愛する人(アマール)」を意味したアマチュアの概念は、近代においては「下手な素人」の代名詞になってしまった。この言葉の没落の中にこそ、近代の音楽状況の病が端的に表われているのかもしれないのである。

そもそも音楽とは本来、ベッセラーが強調するように、他人の行為を傍観者として聴くようなものではなく、自分で「して」楽しむものであった。皆が楽しく音楽している最中、ただ一人ポカンとそれを見ているだけなど、愚の骨頂だろう。民俗/民族音楽に限らずとも、近代の西洋音楽の中にすら、アマチュアが「して」楽しむために作られた音楽がたくさんある。いわゆる家庭音楽と呼ばれる、連弾やリートがそれである。例えばシューベルトの即興曲などをコンサートホールでプロのピアニストが非の打ち所のない響きでもって弾くのを聴くとも私は強い違和感を覚えてしまう。こうした「素人がする」ために作られた音楽にあっては、箱型ピアノの古ぼけた響きとかアマチュアの不器用な指使いといったものが、作品の不可欠の一部となっているのではないか。たとえミスタッチだらけであったとしても、弾いている本人にとっては楽しくて仕方がない、そういう音楽があるはずだ。

素人を排除した音楽の末路を端的に示しているのは、20世紀の前衛音楽であろう。グールドの弾くシェーンベルクの無調作品などを聴いていると、これがどうやら途轍もなく艶めかしい音楽であることは何となく分かる。しかし本当にそれを味わうためには、たとえアマチュアであれ、それを自分でもピアノで爪弾いたり、何度も歌ってみたりする必要があるに違いない。それはロマン派音楽のように、安楽椅子に腰掛けて受身で聴くだけでも、それなりに楽しめる音楽ではない。そして前衛音楽の逆説は、それが本当はどんな音楽にも増して、「自分でやってみる」という参加を聴衆に強く求めていながら、アマチュアの参与を絶対的に拒絶している点にあるように思う。聴衆に対する前衛音楽のスタンスを標語にすれば、「素人は聴くな!」ということになるかもしれない。アマチュアは、プロが作り、プロが演奏する音楽を、作曲家自身が書いた解説を拝読しながら、黙々と拝聴するしかなくなる。それについてあれこれ話すことも、聴きながら一緒に音楽に合わせて身体を動かすことも出来ないのだ。クラシック音楽のかなりの部分、そして前衛音楽のほぼすべてが多くの人にとって退屈な理由は、この「参加できない」ということに尽きるように思う。

結局のところ人は、自分でしたことがないものについては、よく分からない。本書では、「音楽の聴き方」とは「音楽の語り方」を知ることに他ならないと述べてきたが、おそらく自分で音楽を「して」みれば、いくらでも語ることは出てくるはずである。私が考えているのは、少々古めかしい表現になるが、それは習い事の復権とでも言うべきものだ。ある音楽文化の様々な約束事を、身をもって知るためのイニシエーションとしての、「学び」である。ただし、「してみなければわからない」とは、誤解を招きやすい表現である。「しなければ分からない」は、「出来ないやつには分からない」と混同されがちだ。だが自分で出来なければ音楽は理解できない等と言い出したら、「ヴァイオリニスト以外はヴァイオリン音楽について語る資格はない」という話になる。音楽生活というものが「する」/「聴く」/「語る」のトライアングルから成る公的空間だとするなら、「語る」権利を「する」側が独占してしまえば、その公共性の前提自体が崩れてしまう。音楽を語るに当たっては実戦経験は大いに役立つであろうが、必ずしも完璧に「出来る」必要はない、する能力と味わい楽しむ能力とは、必ずしも同じではない。「する」「聴く」と「語る」が一体になった親密な音楽共同体を作り出すために何より大切なのは、「よりよく味わうために自分でもそれをしてみる」ということであるように思う。どんなジャンルでもいい。もう少しその音楽について知りたいと思ったが吉日で、すぐにレッスンに通い始めてみることだ。「もっと聴いてみたいから学ぶ」というアマチュアにとって何より必要なのは、一方的ではない学び、つまり巧みに弾くことだけを至上目的としない学習であるはずだ。おそらく邦楽の世界などでは、アマチュアのための格好の学習の場が提供される空間が今でも存在しているに違いない。お弟子たちの大半は、音楽で身を立てるために、それを習っているわけではない。下手でも芸事を心から愛している彼らは、しばしば油断ならない目利きでもあるだろう。自分自身はひどい謡しか出来ないにもかかわらず、師匠の舞台のちょっとした好不調もすぐに見抜く旦那衆こそ、理想の聴衆ではないか。このように能動的に参与する聴衆を育てるためにこそ、音楽を教え学ぶ場は存在する意味があるかもしれないのだ。

2015年3月 6日 (金)

岡田暁生「音楽の聴き方」(13)

第5章 アマチュアの権利─してみなければ分からない 

パウル・ベッカーの『ドイツの音楽生活』という本がある。この中でベッカーは、「音楽は社会が作る」ということを繰り返す。ベッカーにとって音楽と社会の媒介となるキーワードが「形式」である。この場合の形式は、ソナタ形式のような音楽の様式だけではなく、認識枠のようなものをさす。ベッカーは言う。「形式とは素材それ自体ではない、知覚される素材である。知覚は周囲世界によって行われる。素材が形式になるためには、周囲世界がなければならない。素材は周囲世界によって知覚され、周囲世界と素材が関連付けられることによって、形式が生じる。形式は素材と周囲世界の産物である」。ベッカーの言う周囲世界とは、「人」の同義に他ならない。音楽はそれ自体ではただの音(=知覚される素材)に過ぎない。それを音楽として知覚する人々(=周囲世界)、そして枠組(=形式)があって初めて、音は音楽になる。例えば作曲家にとって、音響という材料を音楽に組み立てるには、形式が要る。ドレミファの音階、いろいろな和音、ピアノやヴァイオリンの音は、それだけではまだ材料だ。それだけではまだ材料だ。ソナタやフーガや変奏、あるいは弦楽四重奏やピアノ連弾などの形式があるからこそ、手持ちの音を音楽にすることが出来るのである。聴き手にとっても事情は同じだろう。半ば無意識であったとしても、他楽章形式の意味だとか、「成立は八小節でひとまとまりになることが多い」といった知覚枠を持っているから、交響曲はただ滔々と流れる響きではなく、音楽として聴こえてくる。知覚枠が分からなければ、音楽は音楽に聴こえない。また、音楽を上演する場も、ひとつの形式である。バロック時代からモーツァルトあたりまでの器楽合奏用の多くは、貴族の祝賀会の類で鳴り響くことを想定して作られた。それと入れ替わるようにして、18世紀末の市民社会の成立とともに生まれたのが、コンサートホールである。それは新しく生まれた近代市民に、音楽を通して一体感を与える制度であった。対するに連弾や弦楽四重奏やリートは教養市民の家庭で演奏されるものであったし、ショパンやリストに代表されるサロン音楽は裕福なブルジョワジーのパーティーで弾かれることが多かった。音楽はそれ自体として孤立して存在しているのではない。それはまさに「音楽」として体験するにはさまざまな枠があり、それは社会によって生み出されるといのがベッカーの考え方である。

ベッカーの論考をユニークなものにしているのは、それが「音楽には時代と社会が映し出される」といった単なる社会反映論に留まっていない点にある。つまり、ベッカーは音楽をただ社会を反映するだけでなく、自ら社会に働きかけ、社会を批判し、場合によっては新たに社会を作り出す機能を持っているものとして、考えているのである。ベッカーによれば、新しい社会を作るという音楽の力が全面的に解放されたのが、フランス革命以後の近代である。今や音楽は「群集に呼びかけ、新しい生の価値それ自体を自らのうちに吸収し、前代未聞の規模でもって社会を形成し、教化する力を持ち始めた」。近代社会における音楽の使命とは、「この絶えず膨張し、みたところまったく有機性を欠いていると見える群集に、一体感を喚起すること」である。無秩序の群集のカオスを、音楽が持つ人々を鼓舞する力によって、有機的な共同体へと統合するのである。こうした意味での近代音楽の金字塔は、いうまでもなくベートーヴェンの交響曲である。コンサートホールで鳴り響く交響曲とは、教会のミサと貴族のサロン、そして大学におけるコレギウム・ムジクスを総合した社会全体が集う空間、教会と貴族とアカデミーの境界を取り去って一つの巨大な社会を作り上げる場だったというのである。ベートーヴェンが創り出したのは、「公衆という混沌とした群集を公共性へ向けて再創造する統一の意識」であった。

しかしながら新興ブルジョワの19世紀は、ベッカーの考えによれば、音楽を通したこのユートピア創出の夢が、次第にただの娯楽へと萎えていく没落のプロセスに他ならなかった。何よりベッカーが問題視するのは、19世紀に入って生まれてきた音楽産業である。彼は「仲介者」という言葉を使うのだが、要するに聴衆の娯楽ニーズに応じた音楽商品を出来るだけ効率的に供給するのが、音楽出版社だったりマネージメント業であったりすると、ベッカーは言う。音楽の「形式」をともに創出すべき音楽家と社会とが、19世紀においてはこの仲介者により分断されてしまった。それだけではない。音楽はベートーヴェンのように社会全体に向けて呼びかけることを停止し、人々を統合する代わりに、小さな集団びとにそのニーズにあった音楽を提供することでもって、それを分断してしまった。

近代は効率的な音楽享受のシステムを飛躍的に発展させてきた。プロによる演奏会が制度化されるに従って、アマチュアは自分で楽器を嗜まずとも、手軽に音楽を聴くことが出来るようになった。レコードの発明とともに、自分で演奏会場に足を運ぶ必要すらなくなる。自宅にいながらにして、音楽が聴けるようになったのである。最近では音楽体験の結果としてもたらされるところの、「感動」とか「癒し」とか呼ばれる心的状態を得ることが出来ると称する、ヒーリング・ミュージックなるものが大流行だ。しかし今日何より求められているのは、実は逆に、音楽をいつでもどこでも手軽に聴けると思わないこと、音楽を聴くための手間を厭わないことではないかと、私は考えている。1920年代になると、多くの芸術ジャンルにおいて参加型の芸術創造が強く希求されるようになる。これは19世紀の上流ブルジョワが、芸術を金で購入できる高価なステータスシンボルとしてしか扱ってこなかったこと、そして芸術を「する」権利が一握りのプロに独占されてしまったことに対する、下からの反動だったと考えられる。

2015年3月 5日 (木)

岡田暁生「音楽の聴き方」(12)

いずれにせよ私たちは、音楽についての生産的な対話をしようと思う限り、常に何らかの歴史的文化的審級を参照せざるをえない。別に「本来の」文脈を金科玉条のように守る必要はない。だが人は歴史的文脈なしで音楽を聴くことは出来ない。「音楽を聴く/語る」とは、音楽を歴史の中でデコードする営みである。それはどういう歴史的潮流の中からやってきて、どういう方向へ向かおうとしているのだろう?こちらからはこう見えるものを、向こう側から眺めればどんな風に見方が変化するだろう?一体どの歴史的立ち位置から眺めれば、最も意味深くその音楽を聴くことが出来るだろう?─音楽を聴くもう一つの楽しみは、こんな風に歴史と文化の遠近法の中でそれを考えることにある。

歴史的文化的に音楽を聴くというのは、実はそんなに難しい話ではない。詳しい知識はなくとも、音楽を聴くとき私たちは常に、何らかの歴史/文化文脈の中で聴いている。逆に言えば、背景についてまったく知らない音楽は、よく分からないことのほうが多い。例えば多くの人にとってポピュラー音楽が「分かりやすい」のは、その文脈が人々にとって身近なものだからだろうし、逆にクラシック音楽や雅楽が「難しい」のは、歴史や文化の背景がかなり遠いところにあるからだろう。

アドルノはシェーンベルクの無調音楽を、いつの日かひょっとしたら誰かがそれを読んでくれるかもしれないという一縷の希望とともに、ガラス瓶に入れて大海原に流されたメッセージに喩えた。無調作品だけではない。おそらく私たちにとって多くの音楽は「未知の世界からのメッセージ」であり、それを聴くことは「ガラス瓶の中の手紙を開封すること」なのだ。「どこから来たのだろう?/誰が書いたのだろう?」─歴史的文化的な文脈で音楽を聴くとは、この問いの延長線上にある行為にほかならない。実際のところ音楽は、たとえばどれだけポータブル化されようとも、それが生まれた歴史/文化の文脈から決して完全に切り離すことはできない。音楽とは特定の文化の中で時間をかけて形成されてきたもの、そこでしか生まれえないものであり、つまり常に「どこかから来た音楽」なのだ。もちろん「場」を完全な形で保存することは不可能だし、そんなことを試みるのは無意味でもある。時代が変われば、そして別の文化へ輸送されれば、歴史/文化の文脈は否応なしに変化する。にもかかわらず、たとえ本来の文脈から切断されて別の時空に移動されたとしても、またしても音楽はそこで新たな別の文化文脈に嵌め込まれる。私たちは、音楽だけを真空状態で聴くことは出来ない。音楽は必ず文脈の中で鳴り響き、私たちは文脈の中でそれを聴く。歴史/文化とは音楽作品を包み込み、その中で音楽が振動するところの、空気のようなものである。確かに現代の音楽状況をひどく複雑なものにしている、特殊な事情というものもある。それは今日、ある音楽(音楽作品/演奏/ジャンル等々)が時空横断的に、複数の文化文脈に属しているという事実である。例えばポリーニのショパン演奏にしても、長い受容史の中で形成されてきた楽譜の背後の意味を重視する人もいれば、意味を切り捨てた機能主義的な演奏に熱狂する人もいるし、前衛音楽かコンピューター・グラフィックのようにショパンが弾かれるのを聴きたいと思う人もいよう。それぞれが時代上の異なった地点で涵養された、異なる名作/名演の記憶のアーカイブを持ち、違った作法や制度や技法を信奉する、目に見えない共同体を形成している。バイヤールのいう「内なる図書館」を持っているのだ。第一章で触れたセメニアス・モンクの演奏に対する、ジャズ・ファンとクラシック・ファンの正反対の反応と同じことが、いたるところでバベルの塔のような意思疎通の不能を惹き起こしているわけである。こんなことはおそらく、もっと音楽文化の共同体が小さく、同じ音楽を後の時代に演奏するなどということもなく、聴衆の趣味/様式感も統一されていただろう前近代には、ありえなかった事態だろう。であればこそ、今の時代にあって何より大切なのは、自分が一体どの歴史/文化の文脈に接続しながら聴いているのかをはっきり自覚すること、そして絶えずそれとは別の文脈で聴く可能性を意識してみることだと、私は考えている。言い換えるなら、「無自覚なままに自分だけの文脈で聴かない」ということになるだろう。自分が快適ならば、面白ければそれでいいという聴き方は、やはりつまらない。こうしたことをしている限り、極めて限定された音楽しか楽しむことは出来ない。時空を超えたコミュニケーションとしての音楽の楽しみがなくなってしまう。むしろ音楽を、「最初はそれが分からなくて当然」という前提から聴き始めてみる。それは未知の世界からのメッセージだ。すぐには分からなくて当然ではないか。快適な気分にしてもらうことではなく、「これは何をいいたいんだろう?」と問うことの中に意味を見出す、そういう聴き方を考えてみる。「音楽を聴く」とは、初めのうち分からなかったものが、徐々に身近になってくるところに妙味があると、考えてみるのだ。こうしてみても初めのうちは退屈かもしれない。音楽など自分と波長の合うものだけをピックアップして、それだけを聴いていればいい─それも一つの考え方だろう。だが「徐々に分かってくる」という楽しみを知れば、自分と波長が合うものだけを聴いていることに、そのうち物足りなくなってくるはずである。これはつまり自分がそれまで知らなかった音楽文化をしり、それに参入するということに他ならない。

2015年3月 4日 (水)

岡田暁生「音楽の聴き方」(11)

アドルノの言う音楽の「意味」は、それが生まれた共同体から時間的空間的に遠ざかるほど、次第にぼやけてくる─このことはおそらくそのまま、「音楽について語ること」にも当てはまるはずである。改めて言うまでもなく、それは音楽についての一つの解釈である。そして音楽を生み出した共同体/歴史/文化が遠く彼方に過ぎ去っていくにつれ、「意味の解釈」もまた困難になっていく。自分が寄りかかることの出来る、何らかの個人を超えた価値観が全く作動していないところで、いきなり一対一で作品に向き合おうとする。個々の作品に生きた意味を与えてくれる文化規範を知らずして、人は何を口にすればいいのだろう。背景について何の予備知識も持たない音楽をいきなり聴かされ、「これについて何か述べよ」と命じられたとする。言えるのはせいぜい、「…だった」と「…と感じた」だけではないか。前者は例えば「音が大きかった」と言った、それ自体ではまだ何の意味もない即物的な事実報告。そして後者は、音楽についての言説でしょっちゅうお目にかかる。「音が大きくて圧倒された」式の感覚批評だ。作品とは単なる原典楽譜(=紙)ではない。だから単に楽譜に書いてあることを杓子定規になぞればいいというものではない。しかし作品にはまた、楽譜に示せない部分まで含めた、作曲家の「意図」でもない。作品とは決して作曲家の頭に響いているものに留まるのではなく、したがって作品は作曲家の完全な個人的所有物ではない。かといって「作品」というものが単に唯物論的に存在している概念にすぎず、演奏家はそれをいわば「ネタ」として、自分の芸を披露するための自由な素材に使っていいのかと言えば、そうでもない。守らなくてはいけない「作品の客観的な実質」は確かに存在する…。おそらくアドルノが考えている「音楽作品」とは、簡単に言えば、人々の共有イメージのようなものだと思う。特定の社会の中で時間をかけて合意されてきたところの、「これってこういうものだよね」という作品像。現象学で言う「間主観的」という意味での、客観的な実質である。こうした社会の共有財産としての作品の記憶の集合のようなものを、アドルノは「作品」と思っているのではないか。アドルノの言う「音楽作品の客観的存立」を言い換えるならそれは、一つの音楽が社会の中である程度客観的な対象として了承されている─「これってこういうものだよね」の共通合意がある─ということだ。この客観的合意の部分なくしては、言葉の真の意味での「解釈」は成立するはずがない。演奏も批評も単なる主観の吐露か、さもなくば無味乾燥な事実再現に陥るのが関の山だ。「音楽的主観」とは作曲家や演奏家、場合によっては批評家や徴収と言った、「個人」のことだろう。そして「こういうものだ」の拘束=「形式の力」があればこそ、それを踏まえたうえで「私はこう考える」という解釈の真の自由も存在するのである。アドルノは次のように語る。「作曲家が徹頭徹尾自らの内側から語る場合であっても、彼は一人で語っているのではなく、聴きつけてもらうことが出来るのだ。聴きつけてもらうということが作品自体に形式要素として内在しているのであって、音楽のありようについて多くのことが主観に任されており、例えばバッハのように作品が完全に開いている場合ですら、形式に対するその緊張は十分にフレキシブルであって、戯れを許容し、形象を原像へと結びつける糸は決して切れることはなく、原像の姿がはっきりと感得されることが出来るのである」。音楽をめぐる言説が自分の主観印象を綴るのではなく、しかし単に無味乾燥な事実確認に終始するのでもなく、個人を超えた客観的な価値観に依拠しつつも、有意味な─つまり「私にとって何であったか」を決して放棄しない─議論を展開しようと思う限り、それは何らかの共同体の存在を前提とせざるを得ない。「これって私たちの中ではこんな風に位置づけるのが普通だよね。でもここはちょっと変わっているけれど、こんな風に考えればありかもしれないと私は思うよ」─とても平たく公式化するなら、私が考える音楽解釈の基本図式とはこのようなものだ。あくまで事実に基づき、かつ共同体規範を参照しつつ、その中に対象をしかるべく位置づけ、しかしそこから「私にとっての/私だけの」意味を取り出し、そして他者の判断と共鳴を仰ぐ。これこそが音楽解釈の真骨頂である。

2015年3月 3日 (火)

岡田暁生「音楽の聴き方」(10)

第4章 音楽はポータブルか?─複文化の中で音楽を聴く

世界の他のどんな文化にも見られない西洋音楽の特質の一つに、それが「再生技術」の開発に全力を傾注し、それをモーターとして1000年以上にわたって発展してきたという点が挙げられる。このことはグレゴリオ聖歌以来の西洋音楽とキリスト教の密接な結び付きと、深く関わっていたのだろう。聖なる歌はいつでもどこでも同じように歌われねばならない。勝手な歌い方をして、土着の異教徒の歌と混ざり合ってはいけない。神の声は世界の津々浦々まで、「正しい形で」伝承されなくてはならない。生まれた瞬間に消えていく音楽というはかない芸術を、固定し複製可能なものにしようとしてきた点で、西洋の音楽は極めて特異な性格を持っていた。

おそらく「再生技術開発史」としての西洋音楽の歴史は三つの段階に分けて考えることが出来よう。その第一段階が、中世からルネサンスにかけての、五線譜の開発の歴史である。これは音響の数値化の歴史であったとも言える。音高/音価をそれぞれ縦軸/横軸とする、音空間の設計図の開発史である。周知のように五線譜においては、まるで方眼紙のように、縦線と横線とが等間隔で整然と引かれている。そして西洋の音楽では専ら、その目盛上に正確に記すことが出来る音楽のみが用いられ、それ以外のノイズは排除される。また、2:1といった具合に、数比年で示すことが出来る音価の関係のみが使用され、いわく言いがたい「こぶし」のような揺れは、楽譜から原則として取り除かれる。音楽をいわば身体から引き剥がし、客観化するわけである。リズムが身体にへばりついている限り、それはあくまで個人の「芸」という時間的/空間的制約を超えることは出来ない。西洋音楽がこれほどまでに世界中で広まりえたのは、この客観化によるところが大きかった。

五線譜として合理化された部分は他人でも再生できるが、それ以外の部分は生身の人間身体から決して分離させることが出来ない。このような部分まで含め、音楽をほとんどそのまま伝承する確実なやり方は、日本の伝統芸能のような厳格な徒弟制度を通して、身体コピーを作る方法だろう。楽譜に記せない部分まで含めて、曲の弾き方を完全に身体で理解していく人間を育てるのである。

19世紀に入って「永遠の名作」という概念が音楽において広まり始め、作曲家の地位も向上して、彼らが「作者の意図」について強く主張するようになるとともに、「作品を後世にいかに正しい形で残すか」と言う問題が切実になってくる。そこで重要な役割を果たすようになるのが、19世紀に入って生まれた近代の音楽院である。それは過去の偉大な音楽を、その精神まで含めて正しく継承し、再現することが出来る身体を複製する機関だったとも言える。自分の意図を託する他者の身体を作曲家自ら作り上げることもあった。例えば、晩年耳が聞こえずピアノも弾けなくなっていたベートーヴェンは、自作の演奏を他人に委ねた最初の作曲家の一人である。こうした学校に制度化が19世紀が西洋音楽における「再生技術史」の第二段階と考えられるだろう。

再生技術史の第三段階は、20世紀におけるレコードの隆盛である。音だけを身体から切り離して抽出再生することを可能にしたレコードの登場を、多くの作曲家は福音と受け止めた。身体にへばりついて、どうにも客観化/ポータブル化が難しい部分まで含め、音楽をそっくりそのまま人の死後まで残せるのだ。楽譜に記せない部分の伝承、これによって飛躍的に容易になった。それは、ストラヴィンスキーやシェーンベルクといった「現代音楽の祖」と言うべき作曲家に顕著に見ら、正確な再現への尋常でない情熱が共通している。その裏には実存の不安のようなものが潜んでいたかもしれないと考えられる。それは「音楽の意味合い」とでも形容すべきものに対する、ニヒリズム的な不信感である。自分の意図が自ずとあうんの呼吸で通じると信じることの出来る特定の共同体が存在している限り、ある程度までのことは演奏家に任せておけばいい。また演奏家がたえ多少間違った音を出したとしても、聴衆は作曲家のやりたかったことを察してくれるだろう。しかしストラヴィンスキーやシェーンベルクは、こうした共同体の前提が崩れていると感じていたからこそ、「絶対の再現」にあれだけ固執したのではなかったか。彼らは自分の作品を安心して解釈者に委ねられない。すべてを自分が意図したとおりの形でいつでもどこでも再生できるようにしない気がすまない

音楽のサウンド面というものは、時として完全なポータブル化が可能になる。音楽における「意味の壊死」を言うのがアドルノである。「三人の指揮者」と論文において言う。大作曲家の時代は遠くに去り、作品に意味を与えていた彼らの存在は、次第に人々の記憶から薄らぎつつある。時代が遠くなることでむしろ明瞭に見えてくる意図もあろうが、それを従前の確信をもって示す演奏家は少なくなりつつある。作曲家が生きていた時代の記憶がまだ鮮明であった頃には、いろいろな演奏伝統が有無を言わぬ「生きた型」として機能していたのだろう。例えば「楽譜にこそ書いていないが、確かに作曲家自身がこう弾いていた」とかいうような口頭伝承の類である。だが今やこうした記憶は人々の間にほとんど残っていない。その枠内でこそ最大限に自由が発揮できるような「型」は、もう存在しない。そこでは、もはや生きた熱い内包=意味を失い、ただの音響の殻となってしまった作品を前にして出来るのは、意味も分からないままに曲の輪郭を忠実になぞって見せることだけである。

2015年3月 2日 (月)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(2)

今期のバークシャー

事業面においては、昨年は、1件を除いて主要な分では順調でした。主な進展は次の通りです。

 我々の「五つの原動力」、つまり、バークシャーにおける保険以外の主要な事業は、2013年よりも16億ドル増加し、2014年には税引き前で124億ドルの利益を得ました。この五つの会社は、バークシャ・ハサウェイ・エネルギー(以前のミッド・アメリカン・エナジー)、BNSF、IMC(私は以前にはイスカと呼んでいました)、ルーブゾールとマルモンです。

五つのうち、バークシャ・ハサウェイ・エネルギーだけでも、10年前に取得してから3億9300万ドル稼いでいます。その後、我々はすべて現金ベースで5社のうちのもう3社を取得しました。5番目の会社であるBNSFを買収する際には、現金でコストの約70%を支払い、残りを発行済み株式増加分の未決済分の6.1%をあてました。言い換えると、10年のスパンを通して5社によって120億ドルの年間利益の増加が届けられたのは希釈分だけを伴っているということです。我々を満たすゴールというものは、単純な(収益)成長のみでなく、むしろ一株当たり収益成果の増加だということです。

2015年もアメリカ経済が引き続き改善していくなら、我々の「五つの原動力」の収益も同様に改善されていくでしょう。一つには、グループによるすでに終わったか契約中のボルト・オン買収(買収企業の既存業務の拡大・強化を目的とした買収)によって、その額は10億ドルに達しました。

 2014年の悪いニュースは、同じように我々の5社からのものですが、収益には関係していません。この1年、BNSF(鉄道会社)は多くの顧客を失望させてしまいました。顧客つまり荷主は我々を頼りにしており、サービスに障害が起こると彼らの事業に大きな損失を与えることになってしまいます。

BNSFはバークシャーの保険以外の事業のなかで最も重要な子会社です。そして、その業績を向上させるために2015年には60億ドルの設備投資を実施しました。この額は他の鉄道会社が単年度の投資額に比べて、およそ50%も多く、売上、利益、減価償却との比較を考慮しているとは考えられない驚異的な額です。

天候は、昨年はとくに異常な状態が続きましたが、鉄道の運営に様々な影響を及ぼしますけれど、我々の責任は何が起ころうと業界をリードするレベルでのサービスの復旧に努めることです。それは一朝一夜でできることではありません。あまりに広範な業務は、時に進行中の業務を中断させてしまわないよう、システム容量の増量を求めています。しかしながら、近年では、我々の特大の支出は結果に表われはじめています。この3ヶ月間BNSFのパフォーマンス測定水準は、昨年の数値に比べて著しく改善されました。

 我々のこれより規模の小さい非保険事業の会社の多くは、昨年、2013年の47億ドルから増加させて、51億ドルの利益をあげました。このグループにおいても、われわれは「五つの原動力」と同じように、2015年も、さらなる増益を期待しています。このグループには、昨年、2社が4億ドルから6億ドルの間の利益で、6社が2億5000万ドルから4億ドルの間の利益、7社が1億ドルから2億5000万ドルの間の利益でした。このグループは会社の数も1社あたりの利益も増加します。我々の意欲には終わりがありません。

 バークシャーの広範な保険事業は、12年にわたり引受業務利益を営み、2014年にはまたフロート(顧客から保険料として預る現金(一応、負債))を増やしました。このフロートとは、我々が所有しているのではないけれど、我々がバークシャーの利益のために投資に回すことができる資金のことで、12年間で410億ドルから840億ドルに増加しました。我々のフロートの増加や総量は直接バークシャーの利益となるわけではないけれど、我々がそのフロートの保有を許されることで莫大な投資収入をもたらすのです。これに並行して、我々の引受業務利益は、2014年に実現した30億ドルを含めて、12年間で240億ドルとなりました。そして、これらのすべては1967年の860万ドルでナショナル・インデミニティを買収したところから始まったのです。

 チャーリーと私は象のような大型の買収先を探しているあいだ、我々の多くの子会社は定期的にボルトオン買収を行っています。昨年はとくに多くの成果が出ました。我々はこのような契約を31件締結し、全体で78億ドルかかる予定でした。これらの業務は規模においては40万ドルから29億ドルまで広範囲にわたるものとなりました。しかし、最大の取得案件であるデュラセル社の取得は今年の後半までかかります。同社はマルモンの管轄下に置かれることになる予定です。

チャーリーも私も、それらが適切な価格で提供される限り(しかし、我々に提供される大部分はそうではありません)、これらの取引を奨励しています。それらは、我々の既存のビジネスに適合し、我々の経営の専門部隊によってマネジメントされる活動において資本を展開します。これは、我々の仕事を増やすのではなく、より多くの収益や魅力的な事業のコラボレーションに結び付くのです。このようなボルトオン買収は今後はもっと多くなっていくでしょう。

2015年3月 1日 (日)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(1)

先日、バークシャ・ハサウェイのホームページに、ウェーレン・バフェットの「株主への手紙」の2014年版が掲載されました。

これから、その全文を日本語にして、ここで掲載していきたいと思います。ただし、下手な訳、というよりも直訳に近いだろうから、読みにくいと思われた人は、原文を当たってみてください。

下のURLにあります。

http://www.berkshirehathaway.com/letters/2014ltr.pdf

 

それでは、少しずつ訳していきたいと思います。このような拙い翻訳を始めて6年目となりますが、以前は全部終わったところでまとめてアップしていましたが、去年から、ある程度進んだところで、その都度アップするようにしました。そのため、仕事の都合や翻訳のペースによってアップの時期が一定しませんが、我慢してお付き合いください。それでは、始めて行きたいと思います。

 

 

 

バークシャ・ハサウェイの株主の皆様

 

2013年バークシャーは株主価値をトータルで183億ドル増やすことができました。我が社のクラスAとクラスBの株式の1株あたり帳簿価格は両方とも8.3%増加しました。現在の経営陣が経営を引き継いでから50年の間に、帳簿価格は19ドルから146,186ドルに成長させました。これは年間複利で19.4%に当たります。

 

我々がバークシャーの経営権を持っている間、我々はS&P500の年間パフォーマンスとバークシャーの毎年の株価の変化を一貫して比較してきました。計算しているは一株当たりの本質的な価値です。しかし、帳簿価格は大まかな追跡のための指標として有効であるにすぎません。

 

当初の数十年間では、現在ほど帳簿価格と本質的な価値の両者は乖離していませんでした。バークシャーの資産は主として、その現在の市場価格に連動して継続的に再計算される有価証券だったからです。帳簿価格の計算に関係する大部分の資産は、ウォール街の言葉でいう「マーケット・トゥ・マーケット*」であったのです。

*各種金融商品の取引において、現在保有している資産(ポジション)を実際の市場価格(市場レート)で計算し、時価で評価し直す(現在価値に引き直す)ことをいう。

 

今日、我々の置く重点は、主として大きな企業を所有し運営することに変わってきました。これらの多くは、それぞれのコスト・ベースの帳簿価格よりも、はるかに多くの価値があります。しかし、これらの会社の価値がどれほど増加しても、その合計額が上方に再評価されることはありません。したがって、バークシャーの本質的な価値と帳簿価格とのギャップは実質的に拡大してきたのです。

 

このことを念頭において、我々は見開きページのパフォーマンス・テーブルに、バークシャーの株価の歴史的な記録を、新しいデータとして追加しました。このことを私は強調したいのですが、市場価格は短期的には限界に縛られます。年毎や月ごとの株価の動きは、しばしば不安定で本質的な価値の変化を表わしていません。しかし、時間が経つにつれて、株価と本質的な価値は、ほとんど常に収斂するのです。バークシャーの副社長であり、私の長年のパートナーであるチャーリー・マンガーも私も、それがバークシャーの真実であると信じています。我々の見解では、バークシャーの一株あたりの本質的価値の増加は株価の1,826,163%の増加にほぼ等しいということになります。

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