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2015年3月26日 (木)

生誕100年小山田二郎展(5)~第3章 多磨霊園で生まれた幻想

小山田は、1950年代半ばに注目され、度重なる展覧会への出展などにより作品が売れるようになり、この美術館と同じ市内である府中市の多磨霊園の近くに自宅兼アトリエを購入し、落ち着いた環境で制作するようになったそうです。このような環境変化に伴い、小山田の作風が変化していった、ということで、この時期の作品をまとめて展示したということです。

Oyamadaadam少し長くなりますが、解説を引用します。

“画面の出の大きな変化を端的に示す作品の一つは、1961年の「アダム(夜)」である。月の浮かぶ夜の闇の中、赤い鬼が横を向いて歩いている。下唇が膨らみ、背中を丸めて歩く、小山田自身と言うべき生物である。構図はそれまでの厳密な幾何学的構成ではなく、ゆらめくような曲線と、薄塗りの油絵の具の重なりによって渦を巻くように作られており、現実の墓地の風景と幻想の世界の狭間のような不思議な空間となっている。画面全てが原色の赤、青、黄色などで布つぶされるのも、それまでになかった特徴である。小山田自身はこの画風の変化について、それまでの水彩の描き方を油彩に適用した結果であると語っている。空間構成については、シンメトリーと垂直・水平による構成から、蝸牛状の求心と遠心のよじれあう、なだらかな曲線による構成へ。モノクロームの単色から、水彩絵具の色取りへ。そして下塗りを積み重ねて行く理知的な描き方から、無意識や偶然によって生まれる形やしみを使った、現在進行形における不協和音の表現への転換である。たしかに「アダム」に見られる薄く絵具を塗り重ねていく描き方は、水彩のそれと共通している。ハイライトの白い上から点状に重ねるのも、「晩餐」を始め、それまでの水彩に頻繁に使われた手法である。そして、60年代以降の作品のもう一つの重要な特徴は、自分自身、家族など身近な人々、多磨霊園といった現実の場所に対して持つ、個人的な感傷や叙情性を隠さずに表すようになった点である。50年代の作品は自画像的と評されはしても、キリストや鳥女の姿を緻密な描き込みによって客観的に捉えようとしていた。しかし60年代以降は、「アダム(夜)」など自画像であることを隠さず、明確な形態を持たぬまま、のたうちゆらめくような筆致の重なりによって率直に心情の揺れを表現する作品が増えた。”

Oyamadabird1長い引用となりましたが、これで語り切っていると思います。

「鳥女」という作品です。ただし、小山田は鳥女というタイトルで、シリーズもののように折に触れて何点もの作品を制作しています。鳥女という小山田自身が創り出したキャラクターに様々なものを寄託したようなものとして様々に作品を制作しているようです。ここで観るのは1965年の制作とされる油絵の作品です。そして、参考のために、前章の人間に棲む悪魔のところで展示されていた同じタイトルの1956年の油彩作品と比べながら観て行きたいと思います。同じ題材を扱ってシリーズのようなものであるため、シンプルに鳥女が左向きの横顔を見せて一人立っているという構成も共通しているので、比較しやすいと思います。上で引用した解説が当てはまると思いますが、まずはみていきましょう。まず、ふたつの「鳥女」の大きな違いとして一目で分かるのが色彩です。鮮やかで透き通るような青を背景に、暗めの赤い衣装が印象的に映える中で、白がアクセントとなっています。これに対して56年の作品は、モノクロといっていいクロと白の対比で構成されています。そこに部分的にアクセントのように配置された青がとても透明に映って印象的です。しかし、黒というのは強い色のはずです。だから、普通は画面で黒という色は他の色より主張が強くなってしまいます。しかし、この56年の作品は画面全体の3分の2が黒く塗られているにもかかわらず、全体として黒の強い色調が迫ってこないのです。これほど黒く塗られているのにもかかわらず、真っ黒の印象がない。そこにあるのは、スタティックで静謐さとでもいう雰囲気が感じられます。これに対して、65年の作品は全体として明るい色調で鮮やかな色遣いの画面ですが、全体として暗い感じがし、色彩の多彩さというよりは赤の暗さと強さが前面に出てきているように見えます。ここに漂う雰囲気は、エネルギッシュといった感じです。それは、65年の作品が曲線主体で、上記の説明あるような線がくねくね曲がってのたうつような感じになって動きを感じさせるような効果をもたらしていることや、背景の青が一様ではなく、水彩絵具が流れているような濃淡や滲みのようにみえるのが全体として渦巻いているように見えて、それが独特のダイナミックな動感を生み出しているのです。この渦巻くような感じは、ヴァン=ゴッホの晩年近くの作品をみるような画面での強い主張を持ったものに見えます。これに対して56年の作品は、直線によって構成されているため、65年の作品のようなダイナミックなものは、あまり感じられません。

Funadagohoこの二つの作品を見比べていると、同じ題材を扱っているだけに、その違いが鮮明に表われてきていると思います。とくに56年の作品に比べると、65年の作品には画面から溢れ出てくるような“何か”があるように見えてきます。それにたいして、私の個人的な想像、というか妄想をちょっと述べてみたいと思います。展覧会の作品を見ていて、小山田という人は、生まれながらの画家というひとではないように、私には思えるのです。天才というような才能に衝き動かされ振り回されるというのではなく、表現衝動が強いというような迫力は画面からは感じられません。むしろ、まじめに海外を努力して勉強して画家になったという人ではないか、と私は想像してしまいます。それは、自身の病気のせいで一般的な職業に就くことができないことから、狭い選択範囲のなかで職業を選ばざるを得なかったことも、生家が比較的余裕のある家だったということも、もしかしたらあるのかもしれません。この展覧会の感想の最初のところで、小山田が展示されているような写生でもない、これらのような形態の作品をそもそも描くようになったのは、どうしてなのか、という疑問を述べました。それは、端的にいってしまうと、学校で習ったからというのではなのか、と思われるのです。こんなことを言うと、画家にはたいへん失礼なことということになるでしょうか。ただ、私には、小山田の画家としての視野とでもいうべきものは、先天的に備わっていたというよりも、画家の修行を積み重ねて行く過程で後天的に作り上げられた割合がかなり多いのではないか、と思えるのです。美術学校で先進的な教授や周囲の意欲的な友人たちに囲まれ、彼らの影響を強く受けながら、小山田自身、そういうものかしら、くらいのあまり強い意識を持つこともなく、追随するようにシュルレアリスムの影響を受けた作品を制作していた。そのような方法論からまず入ったと思われます。たぶん、まじめな性格なのでしょう。小山田は習った絵画を愚直なまでに追求していった。最初は、ヨーロッパの最先端の流行を取り入れたのですから、真似です。そこにシュルレアリスムの運動を始めた人々のような自発性のようなものはなかったのではないかと思います。だから真似と言われても仕方がない借り物のようなものだった。初期の作品「顔」などを見るとたどたどしさがあり、まるでお手本を写そうとして慣れないことをしているように見えます。習作ということもあるのでしょうが、そこには煌きとか片鱗とかが全く見られない。当時は、借り物で魂ができていなかった、つまり小山田という「私」がない作品と私には見えました。だから、小山田の精進はその方法論を習得して形をつくることに費やされたのではないか。そして、方法とか技法とかを求めて様々な試みを繰り返していくことと併行して、魂の面、というのか方法がある程度できあがって、それでものの見方がその方法によって固まってきた、そういう視野が出来てきて、ようやくものを見ることができて、それを基に描くという魂が後追いで出来上がってきたのではないかと、私には思えるのです。

Oyamadabird2私の個人的な感想ですが、方法に視野が追いついてきたのが50年代の作品なのではないかと思えます。そこで初めて、方法に個性的なものが出てきた。それが、モノトーンな色彩であり、幾何学的な画面構成です。しかし、言ってみれば、対立的性格がつよく刺々しいほど画面になっていいはずなのに、50年代の作品には個性は感じられますが、そこにはむしろ静けさとか、抑えられた感じがするのです。これは、抑えられたというのではなくて、なかったということではないのか。この50年代の作品では「はりつけ」とか「ピエタ」というような宗教的な題材を取り上げています。これは、小山田自身が魂が追いついていないことをある程度自覚していて、題材の中に、そういう魂が入ってくるようなものを意識的に選択したのではないか、と私には思えるのです。

だから、小山田という画家のユニークな点は、手先が器用で技術的には達者でありながら個性のない人であれば、その達者な技術を駆使して、派手で受けのいい迎合的な作品を量産できるのに、そのようなことをしないで、じっくりと先行した技術に魂が追いついてくるのを待っていたというところにあるのではないか思います。

「鳥女」に話題を戻しますが、65年の作品の画面から“何か”が溢れてくるよう私に見えたのは、そういう魂が技術に追いつき、そして追い越してきた、その表れではないか、と私には思えるのです。50年代の幾何学的構成から曲線主体になったのは、表現衝動が形式という殻を突破したからではないのか、そこにあらかじめ作られた形式に収まりきれない即興性が、初めて加わってきた表われのような私には思えます。そのような視点で、上で引用した説明を読み直してみると、同じ説明が違った画家像として意味が変わってくることになるのです。

Oyamadadoll前のところで、私には小山田という画家は色彩の画家ではないかということを述べました。例えば、第2章の「はりつけ」や「ピエタ」という作品は、色彩が最初にあったのではないか、その色彩に次に幾何学的な構図が出てきて、その後で、宗教的な題材という順序で作品が出来上がって行ったのではないか、という作品がつくられるプライオリティを想像してみたのです。そう考えると、第2章の展示のモノクロームのような作品に対して、ここで展示されている60年代の作品のような色彩が氾濫しているかのような変化は、小山田の抑えられていた色彩感覚が溢れ出したといえるかもしれません。例えば「人形の家」(左下図)という作品を見てみましょう。中央に画面いっぱいに黒い三角形があり、その左右の背景は赤く塗られているという単純な画面構成になっています。単純な画面構成は50年代の作品と共通していますが、50年代にあったシンメトリーとか定規で引いたような直線で図形という緊密さはなく、ゆるい、どこか崩れたものになっています。そこに、小山田の筆の流れの迸りというのか、制作のプロセスで思わず表われてしまったものを即興的に取り込んでいく、そこに画家の自発性がストレートに表われているように見えます。その代わり、いや、それに加えて、例えば左右の背景の赤く塗られた部分が水彩画の滲んだようなグラデーションが画面全体にダイナミックな動きを与えて、画面全体を生き生きとした活気あるものにしています。よく見れば、中央の三角形の黒く塗られた部分も赤い部分と同じようなグラデーションがほどこされています。そのグラデーションの中から人物と思われる形状のものが浮かび上がってくる。それ以外に円状のものが、まるで人だまのように見えなくもない。しかも、背景左側の風船のような円状のものにつながっているように見えなくもない。それらが関連しているかいないのか、それらが、黒い中から、まるで生まれてくるように見えなくもない。ある種アニミズム的といういいすぎでしょうが、多分題材としては、家と家族を描いたという物なのでしょうけれど、そこに無意識のうちに小山田の生命に対する捉え方が表われ出てしまったように見えなくもないのです。

Oyamadafire「野火」という作品は、第1章で見たキュビスム的な感じの幾何学的な構図の作品です。私には、「野火」という題名と画面が結び付かないのですが、ヘンテコリンな物体を無造作に並べて、小山田には珍しい黄色を基調として、真ん中の赤い円状のものとの色の対比とグラデーションを楽しむような作品と言った方が合っているような気がします。ここに、緊密な構成感はなくて、むしろ動きがあるような感じです。

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