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2015年3月30日 (月)

ジャズを聴く(25)~フィル・ウッズ「フィル・トーク・ウィズ・クィル」

フィル・ウッズというプレイヤーを、彼を知らない人に紹介するとしたら、ビリー・ジョエルのヒット曲のバックで哀愁のフレーズを吹いている人、ということを上で述べた。例えば、彼がヨーロッパ・リズム・マシーンとプレイした『ALIVE AND WELL IN PARIS』というアルバムの最初の曲「And When Are Young」を聴いてみると、情緒的な要素が露骨なメロディをあからさまに吹いている。ウッズの演奏の全部がそうだというわけではなく、むしろ、この演奏は特別な事情のもとで実現したものであるのだけれど、このような演奏をするような資質を元々彼が持っていた、ということを示している。ジャズ、とりわけモダン・ジャズの場合は、抽象度の高い音の存在感を重視する、記号のように音楽が感情とか風景とか音楽以外の何かを直接的に示すということから一番遠いところにあると言える。だから、ジャズの場合、言葉を音に乗せるボーカルよりは楽器によるインストルメンタルの曲が中心になっている。そんな楽器演奏で重視されるのは即興演奏とかフレーズの創出というように音楽の論理に従ったもので、感情が表現されているということではない。たとえ、メロディを歌われるということがあっても、あくまでも音楽としてであって、感情を表現するというのが第一ではない。そういう点で、ジャズという音楽は、抽象度の高い音楽、音楽としての純粋度は高い音楽と言える。そのような中で、ウッズの情緒をあからさまに出す演奏というのは特徴的に目立つ。ウッズという人はクレバーな音楽家であるのはあきらかだが、その彼が、ジャズの中で異質とも言える演奏をあえて録音したのは、そうせざるを得ない理由があったからだ。その理由こそ彼の本質的な音楽性ではないかと思う。

人生において、感情が最も瑞々しく、それゆえに感情によって動かされやすいのが、思春期の大人と子供の端境期にあたるいわゆる青春といわれる時期だ。過渡期にあって、大人でもなく、かといって、もはや子供ではないという宙ぶらりんの時期は精神的に不安定な状態になりやすく、感情に流されやすい危うさを秘めている。他方で、そうであるがゆえに、細かな感情の襞に分け入った繊細、あるいは鋭敏な感性が突出し、それが瑞々しい表現となって結実した芸術作品が突発的に生み出されることもある。

ウッズのプレイには、このような「青春」というイメージを彷彿とさせるところがある、と指摘する人もいる。「And When We Are Young」であからさまに情緒的なフレーズを吹いてしまったのも、青春の感情に流されてしまうのに通じるというのだろう。これは、ウッズと言う人が青春の不安定な精神状態を持ち続けていた人と言うのではないだろう。ただ、ウッズというプレイヤーの立ち位置がどっちつかずの中途半端なところにあって、常に落ち着かない不安定さを内包していたことが、演奏に表われていたのではないかと思う。それが青春の不安定さを想起させるようなプレイになっていったのではないか。

サックスという楽器を鳴らすことに関しては、ウッズという人は抜群の上手さを持っているのではないか。たしかに楽器の音色はプレイヤーの個性であり、単純に巧拙は問えないだろうけれど、録音で聴いていても、ウッズのサックスはいかにも鳴っているのがよく分かる。そして、どんなに速いフレーズでも、正確無比に鳴らしている。つまりはメカニカルに楽器を鳴らすことに関してはピカイチの技術をもっていて、何でもできてしまう、とても器用なプレイヤーに見える。そのようなウッズが若く影響を受け易い時期にチャーリー・パーカーというプレイヤーに出会ってしまったことが、ウッズにとって良いことだったのか、悪いことだったのか。いずれにせよ、ウッズの中途半端なところは、ここに起因しているのではないか。おそらく、ウッズの技量をもってすれば、パーカーのスタイルの完璧なコピーは可能だったのではないかと思う。むしろ、パーカーのプレイをより洗練させて再現することもできないことではなかった。しかし、それは単なるコピーでしかなく、そのことをウッズ自身が一番分っていたのではないか。それなりの質の高いプレイはできるのだけれど、何かが足りないというアイロニー。それをチャーリー・パーカーという憧れの存在が亡くなった時に痛切に感じさせられたのではないか。だからこそ、ハード・バップの人気が凋落していったという環境変化もあったのだろうけれど、ウッズ自身はフリー・ジャズに思いきり接近するようなスタイルを大きく変えていく。1955年の『Woodlore』のころは、未だそのことが強く自覚されていないで、ある面伸び伸びとしたプレイができた。ちょうど、自己に目覚め始めたころの過渡期特有の、未だ恐れを知らない瑞々しいさ、それが、このアルバムの大きな魅力となっていると思う。その後、ヨーロッパに活路を求めて、当地のミュージシャンとフリー・ジャズに接近するが、録音されたアルバムは難解よりも、ある種の大衆性や聴き易さがある。そこにも、ウッズの中途半端さというのか、徹しきれないどっちつかずの面が現れているように思う。これは、良い面として捉えればバランス感覚のよさということになるのだろう。多分、プレイしているウッズにも、やはり分っていてジレンマを感じていたのではないか。それは、アメリカに帰国したあとで、フリーのスタイルから転換していることにも現れている。1970年の『At The Frankfurt Jazz Festival』はウッズが、フリー・ジャズのスタイルを最も強く打ち出したアルバムであるけれど、不思議な聴き易さがある一方で、ウッズ自身が中途半端な自身に対するジレンマをぶつけるように突然過剰に激しい演奏になったりしている。

私は、ウッズのそういう中途半端さと、それゆえに彼のプレイが常に過渡期にあるようなスタイルがフラフラしているところが、大人と子供の間で揺れ動く思春期の不安定さを想わせられる演奏が好きだ。

 

Phil Talk With Quill    1957年9月11日、10月8日録音

Jazwoods_quillDoxie 1

A Night In Tunisia

Hymn For Kim

Dear Old Stockholm

Scrapple From The Apple

Doxie 2  

 

Phil Woodsas)

Gene Quillas)

Bob Corwin (p)

Sonny Dallas (b)

Nick Stabulas (ds)

 

フィル・ウッズというプレイヤーはメカニック(あまりジャズでは使われない言葉のようだけれど、クラシック音楽では指の達者なピアニストの形容等でよく使われる)の巧みな人であることがよく分かる。ジャズの世界ではクラシックと違って超絶技巧のヴィルトーゾ等と言うのは誉め言葉にはならないけれど、全体として、楽器の鳴りのよさ、超高速のプレイでの正確無比のフィンガリングや、タンギングの見事さ、そしてそれらが、いかにも苦労してやってますという感じはなく、スマートに当たり前のようにやっている。このような名義性を堪能するだけでも価値があると言うことができる作品。

編成は、フィル・ウッズとジーン・クイルの二人のアルト・サックスによる双頭コンボ。このような編成では、二人のアルト・サックスが火花を散らすようなバトルを期待するのが常套的のようだが、たしかに白熱しているようには聞こえることはあるが、バトルというよりはアンサンブルの掛け合いのフィーリングだ。それはテーマのアンサンブルが整然としていることやブロウの部分との配分のバランスが考えられていることなどから、たまたまジャム・セッションで二人のプレイが白熱したという偶然的要素に頼っていないことが明らかであることからだ。さらに、ここでの二人のプレイはよく似ていて、私は二人を聴き分けることがだきなかった。だから、表面的には激しい演奏が続くのだけれども、聴き終わった後で疲労を感じさせられることはなく、爽快感を味わうことができる。その一方で、繰り返し聴いても飽きることはない。一種のスポーツ的な快感、しかも裏で緻密に計算されたものという印象。

一曲目の「Doxie」はソニー・ロリンズの名曲。ロリンズはゆったりとした演奏で、彼独特のうたに溢れた演奏をするのに対して、こちらは速いテンポで、しかも二人のアルトのアンサンブルによるテーマの響きが精妙で、まったく印象が違う。スピード感溢れるプレイで、二人とも正確にリズムを刻み、フレーズを吹いていく。二曲目「A Night In Tunisia」は、さらに速くなって、高速かつハイ・テンションを二人が競争するようにどんどん高めていく。テーマをアンサンブルで吹いた後の絶妙なブレイクの後、肩透かしをするようにピアノがソロを始め、その後は二人の競争状態。そして、極めつけは五曲目の「Scrapple From The Apple」。チャーリー・パーカーの名曲をさらに高速で突っ走る。しかも、そんな高速でも、二人のプレイはフレーズが後から後から湧いてくるように繰り出される。そういうスポーツ的な爽快感に満ち溢れたプレイとなっている。ただし、他方では4曲目の「Dear Old Stockholm」では、しみじみとしたメロディを速めのテンポでエキサイティングにプレイしているが、メロディの吹き方自体は素っ気ない感じで、味わいとか、劇的な感動とか、そういうものを求める人物足りないし、即興の先が見えないスリリングな緊張を求めるひとにも、イマイチかもしれない。

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