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2015年3月 7日 (土)

岡田暁生「音楽の聴き方」(14)

ハインリッヒ・ベッセラーはベッカーの提起した音楽と社会をめぐる諸問題を、1920年代に入ってさらに展開させた。それが『音楽聴の根本問題』である。この論文がユニークなのは、音楽を「人(社会)との関わり」という点から考察しようとする点である。彼が提示するのは、「聴く音楽」と「する音楽」という二分法である。コンサートホールのために作られた近代西洋音楽は、対象として傾聴する音楽であった。それに固有なのは、自分の身体を動かさず、眼を閉じて音楽に耳を傾ける聴衆である。それに対してダンス音楽のように、一緒にする音楽がある。それらにおいて、注意深く耳を傾ける湖とは、そんなに大切ではない。この種の音楽は、それをともに体験することによって、人と人との交わりが生まれることを目的にしている。つまり「身体を動かして一緒にする」のである。そもそも本来の音楽とは「する」音楽であって、近代芸術音楽のように身体も動かさず粛々と傾聴する音楽の方がよほど特殊なのだというのが、ベッセラーの主張の眼目である。彼もまた近代西洋音楽には極めて批判的である。ベッセラーいわく、近代音楽に固有なのは、「完全に原子化された、互いに無関係な群集」だ。彼らが音楽に求めるのは娯楽ないし感動だけであり、プロが提供してくれる「完璧を理想とする音楽」、つまり商品としての音楽に受身で浸り、満足度合いを拍手で表明することしかしない。ベッセラーに言わせれば、ベッカーの理想とは裏腹に、「交響曲が持つ共同体を形成する力など実現されなかった」。「本来のベートーヴェン的な理念に従えば人類全体の代表であるべき演奏会の聴衆は、ブラームスやリヒャルト・シュトラウスくらいの世代になると、教養市民階級に限定されてしまった」。全人類を交響曲でもって統合するなど絵に描いた餅であって、それは結局のところ金持ちのステータスシンボルになるのが関の山だった。こうした19世紀のコンサートホールに集まったブルジョワたちに特有なのは、「気分に浸る連想的な聴き方」である。つまり自分で身体を動かしもせず、うつらうつら夢想にふけるハイソでロマンティックな聴き方ということだろう。ベッセラーによれば本来音楽は、もっと自覚的な聴かれるべきもの、聴き手も自ら積極的に参加すべきものである。「響きにはりついた気分に浸ったり、音楽の動きを文学的描写に絵解きしたりすることは、本来の意味における音楽とはいったい何であるかを、ほとんど私たちに忘れさせかねない」。人は自分も身体を動かして音楽を体験しなければならない。それによって初めて音楽は、人と人とを結びつけコミュニティを作ることが出来るのである。

ベッカーやベッセラーが考えるような、「する」ことを通した音楽共同体の蘇生という問題は、アマチュアリズムの復権ということと深く関わっている。近代においては、音楽における「する」と「聴く」と「語る」の分業/分裂が加速度的に進行してきた。本来「愛する人(アマール)」を意味したアマチュアの概念は、近代においては「下手な素人」の代名詞になってしまった。この言葉の没落の中にこそ、近代の音楽状況の病が端的に表われているのかもしれないのである。

そもそも音楽とは本来、ベッセラーが強調するように、他人の行為を傍観者として聴くようなものではなく、自分で「して」楽しむものであった。皆が楽しく音楽している最中、ただ一人ポカンとそれを見ているだけなど、愚の骨頂だろう。民俗/民族音楽に限らずとも、近代の西洋音楽の中にすら、アマチュアが「して」楽しむために作られた音楽がたくさんある。いわゆる家庭音楽と呼ばれる、連弾やリートがそれである。例えばシューベルトの即興曲などをコンサートホールでプロのピアニストが非の打ち所のない響きでもって弾くのを聴くとも私は強い違和感を覚えてしまう。こうした「素人がする」ために作られた音楽にあっては、箱型ピアノの古ぼけた響きとかアマチュアの不器用な指使いといったものが、作品の不可欠の一部となっているのではないか。たとえミスタッチだらけであったとしても、弾いている本人にとっては楽しくて仕方がない、そういう音楽があるはずだ。

素人を排除した音楽の末路を端的に示しているのは、20世紀の前衛音楽であろう。グールドの弾くシェーンベルクの無調作品などを聴いていると、これがどうやら途轍もなく艶めかしい音楽であることは何となく分かる。しかし本当にそれを味わうためには、たとえアマチュアであれ、それを自分でもピアノで爪弾いたり、何度も歌ってみたりする必要があるに違いない。それはロマン派音楽のように、安楽椅子に腰掛けて受身で聴くだけでも、それなりに楽しめる音楽ではない。そして前衛音楽の逆説は、それが本当はどんな音楽にも増して、「自分でやってみる」という参加を聴衆に強く求めていながら、アマチュアの参与を絶対的に拒絶している点にあるように思う。聴衆に対する前衛音楽のスタンスを標語にすれば、「素人は聴くな!」ということになるかもしれない。アマチュアは、プロが作り、プロが演奏する音楽を、作曲家自身が書いた解説を拝読しながら、黙々と拝聴するしかなくなる。それについてあれこれ話すことも、聴きながら一緒に音楽に合わせて身体を動かすことも出来ないのだ。クラシック音楽のかなりの部分、そして前衛音楽のほぼすべてが多くの人にとって退屈な理由は、この「参加できない」ということに尽きるように思う。

結局のところ人は、自分でしたことがないものについては、よく分からない。本書では、「音楽の聴き方」とは「音楽の語り方」を知ることに他ならないと述べてきたが、おそらく自分で音楽を「して」みれば、いくらでも語ることは出てくるはずである。私が考えているのは、少々古めかしい表現になるが、それは習い事の復権とでも言うべきものだ。ある音楽文化の様々な約束事を、身をもって知るためのイニシエーションとしての、「学び」である。ただし、「してみなければわからない」とは、誤解を招きやすい表現である。「しなければ分からない」は、「出来ないやつには分からない」と混同されがちだ。だが自分で出来なければ音楽は理解できない等と言い出したら、「ヴァイオリニスト以外はヴァイオリン音楽について語る資格はない」という話になる。音楽生活というものが「する」/「聴く」/「語る」のトライアングルから成る公的空間だとするなら、「語る」権利を「する」側が独占してしまえば、その公共性の前提自体が崩れてしまう。音楽を語るに当たっては実戦経験は大いに役立つであろうが、必ずしも完璧に「出来る」必要はない、する能力と味わい楽しむ能力とは、必ずしも同じではない。「する」「聴く」と「語る」が一体になった親密な音楽共同体を作り出すために何より大切なのは、「よりよく味わうために自分でもそれをしてみる」ということであるように思う。どんなジャンルでもいい。もう少しその音楽について知りたいと思ったが吉日で、すぐにレッスンに通い始めてみることだ。「もっと聴いてみたいから学ぶ」というアマチュアにとって何より必要なのは、一方的ではない学び、つまり巧みに弾くことだけを至上目的としない学習であるはずだ。おそらく邦楽の世界などでは、アマチュアのための格好の学習の場が提供される空間が今でも存在しているに違いない。お弟子たちの大半は、音楽で身を立てるために、それを習っているわけではない。下手でも芸事を心から愛している彼らは、しばしば油断ならない目利きでもあるだろう。自分自身はひどい謡しか出来ないにもかかわらず、師匠の舞台のちょっとした好不調もすぐに見抜く旦那衆こそ、理想の聴衆ではないか。このように能動的に参与する聴衆を育てるためにこそ、音楽を教え学ぶ場は存在する意味があるかもしれないのだ。

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