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2015年3月31日 (火)

「在る」ということ雑感(1)

いつまで続けられるか分からず見切り発車のようになりますが、断片的なことを、何度か、アトランダムに、かといって緩く関連し合っていそうな、泥縄のようなことども、できるところまで、断続的に、ちょっと、やってみたいと思います。断片的に書き込むので、それほど長いものにはならないので、いつも投稿しているものとは別に、オマケのようなものとして、やってみたいと思います。

「存在とは何か」ということを考えるとき、存在と存在者とを混同してはいけないとハイデガーは言う。存在論的差異とは、教科書的に言えば、「存在とは何か?」という根源的な問いかけは、往々にして“存在する”と“存在者”を一緒くたにしてしまう。この二つのことは本来異質なのだ、その異質だということを言っている(何のこっちゃ?)。それでは、最初からチンプンカンプンではないか。取りあえず脱線して、存在論的差異をこう考えようか。仮に「存在とは何か?」という問いに答えるとしたら、この問いは「“在る”ということはどういうことか?」と言い換えることができるだろう。それに対して答える答え方は「“在る”ということは○○ということである」ということになるだろう。しかし、これでは答えになり得ない。この答えの文の中で“在る”ということを定義するなかで、実にその定義されている“ある”という言葉が使われている。かくして、定義するときに、その定義されている言葉をつかうということは同語反復の繰り返しになってしまう。自同律だ。だから、この答えがちゃんと定義として成り立つためには、ふたつの“在る”と“ある”が違うものでなくてはならない。だから違うことにしましょう、というのが存在論的差異ということになる。と私は思っている。そこで、「○○で“ある”」というのは定義をする、つまり、何であるかという根源的なことを考えるときの考えるパターンになっている。だから、存在を問うということは考えること自体を問うということとほとんどイコールということだから、ギリシャ以来の哲学はこのことだけを問うてきた根源的な問いだと、ハイデガーは言うのだ、と私は思っていた。

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