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2015年3月28日 (土)

ジャズを聴く(22)~フィル・ウッズ「ウッドロウ」

Jazwoodsフィル・ウッズというアルト・サックス奏者を、彼を全く知らない人に、すぐに分ってもらえるように紹介するとしたら、ビリー・ジョエルの「素顔のままで(Just The Way You Are)」。その曲で聴き手の感情に深いところから揺さぶるようなバッショネイトなサックスを吹いていた人だ、というのがジャズを聴かない人でも思い出してもらえるのではないだろうか。実際、ウッズの魅力は、ある意味であの一曲に凝縮されているといっても過言ではない。フィル・ウッズの魅力といえば切なくも情熱的かつエモーショナルなサックスの鳴り、「素顔のままで(Just The Way You Are)」におけるソロには、そうしたウッズの魅力が余すことところなく表現されている。あのこみ上げるような情感はウッズにしか描けないと言える。

白人ながら、チャーリー・パーカーに憧れ、未亡人の世話までしたというほどパーカーの影響を受けたウッズのプレイは、太くて輝きのある音色、ぐいぐいとドライブするリズムの乗り、まったくミスのないフィンガリングとタンギングの上手さで、名手と言える。しかし、これだけなら単なる上手なパーカーのフォロワーで終わってしまうところ。ウッズがウッズたる所以は、パーカーとは異なった個性を持っていることだ。ウッズは、パーカーのような天才的な即興演奏というよりは、クセ、味わい、ニュアンスといった要素で聴き手を引きつけるタイプに属する。クリアでメロディアスなサックスのサウンドや独特のフレーズの装飾、そして何よりも演奏のところどころに隠し味のようにまぶされた哀感のこもったフレーズなどが、彼の個性を形づくっている。

彼は、活動期間が長く、チャーリー・パーカーが活動していたビ・バップの盛んだった時代から、ハード・バップを経て、ファンキーやフリー・ジャズ、他のジャンルとのコラボレーションや以前のジャズのリバイバルと、様々なジャズの変遷によって様々なスタイルに挑戦している(ビリー・ジョエルのアルバムへの参加もそうだと言えるが、多分、ジャズそのものの人気が振るわず、ウッズのような人も生活のために迫られて演奏したという事情もあるのではないか)。その中には、ロックが好きな人やクラシックが好きな人でも聴きやすい(ジャズ独特の臭みの少ない)ものある。しかし、そこでも堅持されているのが、パーカー流の即興とウッズ独特の哀感漂うフレーズだ。

 

Woodlore    1955年11月25日録音

Jazwoods_woodloreWoodlore

Falling In Love All Over Again

Be My Love

On A Slow Boat To China

Get Happy

Strollin' With Pam

 

Phil Woods(as)

John Williams(p)

Teddy Kotick(b)

Nick Stabulas(ds)

 

まず、印象的なのは録音レベルの高さ。何言ってのと思われるかもしれないが、携帯プレーヤーにヘッドフォンで聴いていて、他の人のアルバムからチェンジすると急に音量が上がるのだ。それだけでなく、ウッズのアルト・サックスの音が伸びがあって、しかも何となく「気合」が入っている感じしで、ちょっとうるさいくらいに、よく聞こえてくる、ということもあるだろう。それだけ、この録音はウッズのアルト・サックスのサウンドが前面に出て、それが一つの魅力になっている。また、うるさく感じられるのは、ウッズのサックスのサウンドだけでなく、そのプレイにもそういうところがある。とにかく巧いのだ。音の流れは滑らかでよどみがなく、リズムは切れ味が鋭いほど、その一方で遊びがないというのか、タテノリに近いところがある。しかも、それを前面に出してくるものだから、「どうだ」と言わんばかりで、鼻につくと言う人もいるかもしれない。そつがないというところで、アート・ペッパーほど情感を絡ませず、かといってリー・コニッツのように高踏的で超俗的でもないアルトです。程よい情感と、程よい哀愁、程よいブルース・フィーリングと優れた楽器のコントロール、なんか優等生の模範解答、という出来栄え。

それは、一方で、ウッズの好きな人にとっては“青春の気負い”のように受け取られているようだ。いるんですよね。「青春」っていうのが好きな奴。気負いと感傷が表裏一体になって…、そういう視線がウッズに対して、ファンが持っているところがある。そう人たちが、よく取り上げるのが2曲目の「Falling In Love All Over Again」というバラード。冒頭の甘美なサウンドと歌い回しは、だからといって腹にもたれない爽やかさもあって、聴きようによっては「青春のセンチメンタル」を連想させる。その歌も、グリッサンドで音数が多いのを巧みな指捌きで滑らかに聞かせているところに気合も感じられる(人によっては鼻につく)。冒頭の下降するテーマの後で、アドリブに移ったとたんに逆の上昇音型をマイナーコードでさりげなく聞かせるところなど、甘酸っぱいような哀感を醸し出している。4分45秒という曲の長さも、もう少し聴きたいという余韻を残すようで、感傷をいやがおうにも高める。こ曲に続く「Be My Love」が溌剌した感じの曲で、しかも、冒頭のテーマが前の曲の「Falling In Love All Over Again」の最後のメロディにちょっと似ているので、何となく続いているような錯覚に陥る中で、こちらは軽快に歯切れがいい。しかも、プレイのところどころに哀感のスパイスをまぶしているのが印象的

そして、ソニー・ロリンズの名演が村上春樹の文章にもなった「Falling In Love All Over Again」。ロリンズは悠然とリズムに後ろから乗っていくのに対して、ウッズは前のめりに突っかかるように進める。アドリブにはいると疾り出すよう。最初と最後はウッズのオリジナル曲を配している。

ウッズは、後年ヨーロッパに渡り、当地の若いミュージャンとフリー・ジャズに接近したスタイルに移っていくが、そこでも表面的な激しさはあるけれど、本質的に難解で晦渋な音楽にはなっていない。多分、ウッズの音楽の底流にはサービス精神が強く流れていて、聴く人のことを忘れない姿勢が一貫していると思う。それが、独断にはしることへの歯止めとなり、決して難解にならない原因となっているのだろう。このアルバムでは、聴く者に情感を感じさせる味付けを適度にまぶして、あざとくなる愚は避けて、ジャズ的な抽象性をキープしている。そういうクレバーなところが、実はウッズの個性のベースにあるのではないか。だからこそ、彼がジャズに限定されないでビリー・ジョエルのレコーディングに参加するほどの柔軟性を持てたのだと思う。クラシック音楽史上の天才であるモーツァルトは、自身の大量の手紙の中で音楽については具体的な演奏効果を事細かく書き残していて、そこには精神とか感情が入り込む余地がないほどだ。しかし、実際にモーツァルトの作った音楽は聴く人の感情を揺さぶる。しかし、中心にいるモーツァルト自身は至って冷静に効果を計測している。ウッズの場合にも、モーツァルトほどではないが、中心に醒めた視線が存在していて、このアルバムでは情感という効果を効率的に与えることを冷静に観察している視線が存在しているように映る。それが、本質的なウッズというプレイヤーの魅力ではないかと思う。 

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