無料ブログはココログ

« 生誕100年小山田二郎展(2)~第1章 前衛からの出発 | トップページ | 生誕100年小山田二郎展(4)~第2章 人間に棲む悪魔(2) »

2015年3月24日 (火)

生誕100年小山田二郎展(3)~第2章 人間に棲む悪魔(1)

小山田二郎の作品の作品展示の核心部です。小山田の最も有名な作品で、彼が画壇で注目された時期の作品が集められています。ここで展示されている代表作が、小山田という画家の作品のイメージを形作っています。そのイメージは、最初に紹介した主催者のあいさつに集約されていると言ってよいでしょう。

Oyamadapieta_2「ピエタ」という作品です。死んだキリストをマリアが抱き悲嘆にくれるという宗教画の伝統的な画題です。1.3×1.6mという比較的大型の画面いっぱいに描かれた黒を基調とした色彩の作品からは強烈な印象を受ける人もいることと思います。例えば“『ピエタ』の死んだキリスト、これは、ドストエフスキーがハンス・ホルバインの描いたキリストを見て、てんかんを起こしたという、その画をはるかに凌ぐ迫力と絶望の力をもってぃる。キリストをかかえている、男とも女ともつかぬ黒衣の人物、その顔は、悲嘆、恐怖、憤怒、絶望、呪詛‥‥‥どの言葉をもってしてもいいつくすことのできない表情で描かれている。その眼は何を見ているのか。何かを見ているようで、何も見てはいない。天空に向けられたいわく言いがたい眼である。要するに『ピエタ』に明確に描かれた二人の人物(聖母とキリスト)は、それ(画)を見る者を決して見てはいない。だがこの画を見ていると背筋がぞっとするような、あやしげな薄気味の悪い迫力で見詰められるような触感を覚えるのだ。その秘密は、この画にぬりこめられた種々な面貌を持った人物の眼が、きッと、こちら側を見すえるからなのだ。しかし、この徹底してうすら寒い、不気味な画の中にも、愛はあったのだ。それは死んで硬直し白骨化したキリストに接吻する女性のふくよかな、正面図として見ると泣いているような女性によって表現されているのである。小山田二郎はこの『ピエタ』によって、人間の究極的な場面における運命そのものを描いている。そこには、愛、呪い、死、叫び、驚き、それらを全部包みこんで、そういった人間のどうすることもできない運命そのものを表出しているのである。”というような文章を読むとなるほどと思うところもあります。ただし、私はこの作品を観て、そのような感動を覚えることよりも、観る人にそうさせるのは、この作品のどのようなところなのかという点です。

Oyamadapieta2_3画面の真ん中に二等辺三角形のようなマリアと、その底辺に対して水平に横たわるかっこうになったキリストという構図は三角定規と定規の組み合わせのようで、マリアの顔も基本的には二等辺三角形の組み合わせで構成されています。口、鼻は正三角形を縦に並べられたもので、それは仰角で顔を上に向けている、つまり天を仰いでいるように見えます。これに対して、眼は頂点が下を向いた三角形を横に並べて視線を下に向けているように、つまり口と鼻が上を向いているのと反対に俯いて下に向いている様相になっています。そして、顔全体は頂点が下を向いた三角形に納まっていますが、これと反対に身体全体は頂点が上を向いた三角形です。このように、上下互い違いに三角形が入れ子のように階層化された構成で、中心の顔の中では、下向きの水平に並んだ二つの三角形と上向きの垂直に並んだ二つの三角形が対立するように配置されています。つまり、このマリアは二項対立を中心に持って、それを階層化するように対立が重層的に構成されているわけです。しかも、その対立をつくり出しているのは三角形という角張った図形です。それが二項対立をさらに尖鋭化させています。そしてまた、色彩においても、モノクロームで白と黒の二色利身を配して異なる系統の色を交えていないので、対立を煽るような効果をあげていると思います。三角形で構成された幾何学的な画面は全体としてスタティックでどっしりと安定したものですが、その中には対立を抱えた刺々しいまでの緊張感が張り詰めています。そこで改めて、マリアの顔にどのような表情が読み取れるかというと幾重にも対立を抱えた顔からは、強い緊張、具体的に言えば突出した強い感情とそれらの織り成す葛藤、あるいは混乱です。対立を抱えた強い緊張からは中間的な平静さとか慈しみといった感情の表現は生まれてきません。その強い緊張が観る者に迫ってくるのが、この作品ではないかと思います。そのように強い緊張を迫られて作品を観ると、細部の表現について、そのように意味づけられるように誘導されるといってよいのではないでしょうか。例えば、横たわるイエスの頭部が骸骨になっていることの象徴的意味について観る者の想像の方向を規制しているというわけです。

Oyamadaharituke展覧会の受付を通り、会場に入った正面に、チラシやポスターにも使われている「はりつけ」が展示されています。展覧会に来場した人は、この作品により強いファーストインプレッションを与えられるのではないでしょうか。タイトルやこの時期キリスト教の宗教にちなむようなタイトルの作品を何点も制作していることから、ここで描かれているのは、直接的には磔にされているキリストでしょう。黒を基調に暗い画面のなかで磔にされた人物の身体が青色がかっているのは、この前に見た「ピエタ」で抱きかかえられたキリストと同じ色遣いです。このことから、この作品は「ピエタ」に連なる作品であると思います。展示されていた作品を観た限りでは、これらの作品以外にも「愛」とか「母」といった宗教的な題材をと扱った作品は、同じような色遣いで描かれているようです。展覧会での説明や解説では当時の社会状況や戦争という極限状況を体験しての人間に対する視線といったことが説明されていますが、そのようなことを同時代のこととしてリアルに共感を持つことがない私にとっては、色遣いという共通性で見て行くほうが、身近にこれらの作品を見ることができると思います。つまり、黒を基調としてキャンバスの地の色とのモノクロームの色彩世界に、一部で青とかの色を入れてあげるという作品を制作する際に、その配色の効果を効果的な題材として、宗教的なもの、人間の深部を掘り下げるかのように見える題材を取り上げたと考えることもできるのではないかということです。例えば、前に引用したピエタの感想のようにキリストの死体をはりつけという虐待をうけて、その行為が人間の苦しみとか原罪とかを一身に背負った宗教的な苦しみをにじませた姿として、眼を覆いたくなるほど生々しく描いたホルバインの「墓の中の死せるキリスト」のように迫真の写実で死体を描くことは、小山田はしていません。つまり、直接的な描写をしているわけではないのです。他方で、はりつけにされ虐待されたキリストを題材として、しかもキリストの身体を黒を基調としているにもかかわらず、死体が腐乱して黒ずんださまも考えられなくはないのに、この作品での色遣い、とくに死体の黒が透明なのです。それは青を絶妙に配合して青みがかった様相になっているのと、背後の十字架の黒と濃さのメリハリをつけているためだと思います。この絶妙な色調を活かすために、幾何学的に図案化されたような構図をとり、しかも、その構図をところどころで部分的に崩すことによって緊張感を保ちつつ機械的な冷たさが生じないようにしているように見えます。だからこそ、観る者が長時間でも、眼を背けることなく画面に見入り、イマジネーションを働かせて好き勝手な意味づけを施すことを可能にしているのではないかと思います。私は、この作品については、何よりも透明感のある青みがかった色ではないかと思います。

Oyamadaholbain

« 生誕100年小山田二郎展(2)~第1章 前衛からの出発 | トップページ | 生誕100年小山田二郎展(4)~第2章 人間に棲む悪魔(2) »

美術展」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/564097/61332956

この記事へのトラックバック一覧です: 生誕100年小山田二郎展(3)~第2章 人間に棲む悪魔(1):

« 生誕100年小山田二郎展(2)~第1章 前衛からの出発 | トップページ | 生誕100年小山田二郎展(4)~第2章 人間に棲む悪魔(2) »