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2015年3月 4日 (水)

岡田暁生「音楽の聴き方」(11)

アドルノの言う音楽の「意味」は、それが生まれた共同体から時間的空間的に遠ざかるほど、次第にぼやけてくる─このことはおそらくそのまま、「音楽について語ること」にも当てはまるはずである。改めて言うまでもなく、それは音楽についての一つの解釈である。そして音楽を生み出した共同体/歴史/文化が遠く彼方に過ぎ去っていくにつれ、「意味の解釈」もまた困難になっていく。自分が寄りかかることの出来る、何らかの個人を超えた価値観が全く作動していないところで、いきなり一対一で作品に向き合おうとする。個々の作品に生きた意味を与えてくれる文化規範を知らずして、人は何を口にすればいいのだろう。背景について何の予備知識も持たない音楽をいきなり聴かされ、「これについて何か述べよ」と命じられたとする。言えるのはせいぜい、「…だった」と「…と感じた」だけではないか。前者は例えば「音が大きかった」と言った、それ自体ではまだ何の意味もない即物的な事実報告。そして後者は、音楽についての言説でしょっちゅうお目にかかる。「音が大きくて圧倒された」式の感覚批評だ。作品とは単なる原典楽譜(=紙)ではない。だから単に楽譜に書いてあることを杓子定規になぞればいいというものではない。しかし作品にはまた、楽譜に示せない部分まで含めた、作曲家の「意図」でもない。作品とは決して作曲家の頭に響いているものに留まるのではなく、したがって作品は作曲家の完全な個人的所有物ではない。かといって「作品」というものが単に唯物論的に存在している概念にすぎず、演奏家はそれをいわば「ネタ」として、自分の芸を披露するための自由な素材に使っていいのかと言えば、そうでもない。守らなくてはいけない「作品の客観的な実質」は確かに存在する…。おそらくアドルノが考えている「音楽作品」とは、簡単に言えば、人々の共有イメージのようなものだと思う。特定の社会の中で時間をかけて合意されてきたところの、「これってこういうものだよね」という作品像。現象学で言う「間主観的」という意味での、客観的な実質である。こうした社会の共有財産としての作品の記憶の集合のようなものを、アドルノは「作品」と思っているのではないか。アドルノの言う「音楽作品の客観的存立」を言い換えるならそれは、一つの音楽が社会の中である程度客観的な対象として了承されている─「これってこういうものだよね」の共通合意がある─ということだ。この客観的合意の部分なくしては、言葉の真の意味での「解釈」は成立するはずがない。演奏も批評も単なる主観の吐露か、さもなくば無味乾燥な事実再現に陥るのが関の山だ。「音楽的主観」とは作曲家や演奏家、場合によっては批評家や徴収と言った、「個人」のことだろう。そして「こういうものだ」の拘束=「形式の力」があればこそ、それを踏まえたうえで「私はこう考える」という解釈の真の自由も存在するのである。アドルノは次のように語る。「作曲家が徹頭徹尾自らの内側から語る場合であっても、彼は一人で語っているのではなく、聴きつけてもらうことが出来るのだ。聴きつけてもらうということが作品自体に形式要素として内在しているのであって、音楽のありようについて多くのことが主観に任されており、例えばバッハのように作品が完全に開いている場合ですら、形式に対するその緊張は十分にフレキシブルであって、戯れを許容し、形象を原像へと結びつける糸は決して切れることはなく、原像の姿がはっきりと感得されることが出来るのである」。音楽をめぐる言説が自分の主観印象を綴るのではなく、しかし単に無味乾燥な事実確認に終始するのでもなく、個人を超えた客観的な価値観に依拠しつつも、有意味な─つまり「私にとって何であったか」を決して放棄しない─議論を展開しようと思う限り、それは何らかの共同体の存在を前提とせざるを得ない。「これって私たちの中ではこんな風に位置づけるのが普通だよね。でもここはちょっと変わっているけれど、こんな風に考えればありかもしれないと私は思うよ」─とても平たく公式化するなら、私が考える音楽解釈の基本図式とはこのようなものだ。あくまで事実に基づき、かつ共同体規範を参照しつつ、その中に対象をしかるべく位置づけ、しかしそこから「私にとっての/私だけの」意味を取り出し、そして他者の判断と共鳴を仰ぐ。これこそが音楽解釈の真骨頂である。

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