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2015年3月 5日 (木)

岡田暁生「音楽の聴き方」(12)

いずれにせよ私たちは、音楽についての生産的な対話をしようと思う限り、常に何らかの歴史的文化的審級を参照せざるをえない。別に「本来の」文脈を金科玉条のように守る必要はない。だが人は歴史的文脈なしで音楽を聴くことは出来ない。「音楽を聴く/語る」とは、音楽を歴史の中でデコードする営みである。それはどういう歴史的潮流の中からやってきて、どういう方向へ向かおうとしているのだろう?こちらからはこう見えるものを、向こう側から眺めればどんな風に見方が変化するだろう?一体どの歴史的立ち位置から眺めれば、最も意味深くその音楽を聴くことが出来るだろう?─音楽を聴くもう一つの楽しみは、こんな風に歴史と文化の遠近法の中でそれを考えることにある。

歴史的文化的に音楽を聴くというのは、実はそんなに難しい話ではない。詳しい知識はなくとも、音楽を聴くとき私たちは常に、何らかの歴史/文化文脈の中で聴いている。逆に言えば、背景についてまったく知らない音楽は、よく分からないことのほうが多い。例えば多くの人にとってポピュラー音楽が「分かりやすい」のは、その文脈が人々にとって身近なものだからだろうし、逆にクラシック音楽や雅楽が「難しい」のは、歴史や文化の背景がかなり遠いところにあるからだろう。

アドルノはシェーンベルクの無調音楽を、いつの日かひょっとしたら誰かがそれを読んでくれるかもしれないという一縷の希望とともに、ガラス瓶に入れて大海原に流されたメッセージに喩えた。無調作品だけではない。おそらく私たちにとって多くの音楽は「未知の世界からのメッセージ」であり、それを聴くことは「ガラス瓶の中の手紙を開封すること」なのだ。「どこから来たのだろう?/誰が書いたのだろう?」─歴史的文化的な文脈で音楽を聴くとは、この問いの延長線上にある行為にほかならない。実際のところ音楽は、たとえばどれだけポータブル化されようとも、それが生まれた歴史/文化の文脈から決して完全に切り離すことはできない。音楽とは特定の文化の中で時間をかけて形成されてきたもの、そこでしか生まれえないものであり、つまり常に「どこかから来た音楽」なのだ。もちろん「場」を完全な形で保存することは不可能だし、そんなことを試みるのは無意味でもある。時代が変われば、そして別の文化へ輸送されれば、歴史/文化の文脈は否応なしに変化する。にもかかわらず、たとえ本来の文脈から切断されて別の時空に移動されたとしても、またしても音楽はそこで新たな別の文化文脈に嵌め込まれる。私たちは、音楽だけを真空状態で聴くことは出来ない。音楽は必ず文脈の中で鳴り響き、私たちは文脈の中でそれを聴く。歴史/文化とは音楽作品を包み込み、その中で音楽が振動するところの、空気のようなものである。確かに現代の音楽状況をひどく複雑なものにしている、特殊な事情というものもある。それは今日、ある音楽(音楽作品/演奏/ジャンル等々)が時空横断的に、複数の文化文脈に属しているという事実である。例えばポリーニのショパン演奏にしても、長い受容史の中で形成されてきた楽譜の背後の意味を重視する人もいれば、意味を切り捨てた機能主義的な演奏に熱狂する人もいるし、前衛音楽かコンピューター・グラフィックのようにショパンが弾かれるのを聴きたいと思う人もいよう。それぞれが時代上の異なった地点で涵養された、異なる名作/名演の記憶のアーカイブを持ち、違った作法や制度や技法を信奉する、目に見えない共同体を形成している。バイヤールのいう「内なる図書館」を持っているのだ。第一章で触れたセメニアス・モンクの演奏に対する、ジャズ・ファンとクラシック・ファンの正反対の反応と同じことが、いたるところでバベルの塔のような意思疎通の不能を惹き起こしているわけである。こんなことはおそらく、もっと音楽文化の共同体が小さく、同じ音楽を後の時代に演奏するなどということもなく、聴衆の趣味/様式感も統一されていただろう前近代には、ありえなかった事態だろう。であればこそ、今の時代にあって何より大切なのは、自分が一体どの歴史/文化の文脈に接続しながら聴いているのかをはっきり自覚すること、そして絶えずそれとは別の文脈で聴く可能性を意識してみることだと、私は考えている。言い換えるなら、「無自覚なままに自分だけの文脈で聴かない」ということになるだろう。自分が快適ならば、面白ければそれでいいという聴き方は、やはりつまらない。こうしたことをしている限り、極めて限定された音楽しか楽しむことは出来ない。時空を超えたコミュニケーションとしての音楽の楽しみがなくなってしまう。むしろ音楽を、「最初はそれが分からなくて当然」という前提から聴き始めてみる。それは未知の世界からのメッセージだ。すぐには分からなくて当然ではないか。快適な気分にしてもらうことではなく、「これは何をいいたいんだろう?」と問うことの中に意味を見出す、そういう聴き方を考えてみる。「音楽を聴く」とは、初めのうち分からなかったものが、徐々に身近になってくるところに妙味があると、考えてみるのだ。こうしてみても初めのうちは退屈かもしれない。音楽など自分と波長の合うものだけをピックアップして、それだけを聴いていればいい─それも一つの考え方だろう。だが「徐々に分かってくる」という楽しみを知れば、自分と波長が合うものだけを聴いていることに、そのうち物足りなくなってくるはずである。これはつまり自分がそれまで知らなかった音楽文化をしり、それに参入するということに他ならない。

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