無料ブログはココログ

« 2015年3月 | トップページ | 2015年5月 »

2015年4月

2015年4月30日 (木)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(11)

勇気に対する問題群は四つに分節されている。第一は勇気という徳そのものについて、第二は勇気の諸部分について、第三は勇気の賜物─特に即した行為を実行しやすくなるために神から与えられる助け─に関してであり、第四は勇気の掟についてである。勇気に関する問題群の四つの構成要素のどこにも、勇気の対立する悪徳について論じる部分かは含まれていない。悪徳という否定的なものに関する考察は、勇気についての問題群の構成原理にはなっておらず、徳という肯定的な原理に対して相対化されるような在り方で、各部分に散りばめられている。つまり、勇気に対立する悪徳に関する考察は、「勇気」についての考察から独立して遂行されているというよりは、むしろ、勇気に関する問題群のなかの部分的な構成要素として相対化されて含みこまれている。論述の順序自体の中に、悪徳という否定的要素に対する徳という肯定的要素の優位という肯定の哲学の基本的発想があらわれている。

「徳」とは、語源的に「力」を意味しているからも分かるように、単に社会規範に従うとか、悪事をしないことではなく、困難に立ち向かう「精神の強さ」だ。悪や危険に満ちた世界に直面して萎縮せずに、毅然として自己を持しながら、自他にとっての善を実現していく積極的・肯定的な力である。倫理学の目的は、このような力を形成していく手助けとなることであって、諸々の細かい禁止事項の網によって自己をがんじがらめにすることではない。

信者の魂に対する司牧的配慮という実践的な関心によって導かれたドミニコ会のマニュアルは、告解のマニュアルとして有効であったが、悪徳や罪の提示の仕方は、総じて無秩序でまとまりのないものであった。ある程度のまとまった秩序が提示される場合であっても、諸々の罪の必ずしも完全でないリストが提示されるのみであった。「罪」と見なされる個別的な事例が、諸々の徳についての包括的な教えとは切り離されて列挙されていたために、倫理的生活の総合的な説明のために、倫理的生活の総合的な説明のための枠組みとしては到底不充分であった。

トマスは司教牧的マニュアルの存在意義を全面的に否定したわけではない。それどころか、彼は、それらのマニュアルから多くの素材と洞察を援用してもいる。トマスは、司牧的配慮に基づいた諸々のマニュアルから多くを学びつつも、明確な哲学的洞察に依拠した体系性の欠如に満足せず、より明確な構成原理に基づいた体系的神学の構築を目指していくことになった。それは、「実践」をより豊かな「観想」という基盤の上に据えなおそうとした営みであったとも言える。『神学大全』では、様々な徳や包括的な体系化と徳への勧告は、別々の作業として行なわれているのではない。徳と悪徳を体系的に区別しつつ連関させて据える作業そのものが、「悪徳」の「徳」への依存という基本的な構造を開示し、人間本性の徳への自然本性的な方向付けを明らかにすることによって、自ずと徳への勧告になるように、二つの作業が密接不可分な作業として行なわれている。逆に言うと、同時代の告解マニュアルにおける、非体系的な悪徳や徳の列挙という問題点と、建徳的な側面の欠如という問題点とは、別々の問題ではなかった。告解のマニュアルにおいては、どのような行為がどこまで許され、どこからは許されないかという境界設定に焦点が置かれ、些細な行為を含めてとにかく罪を避けさせることに主眼が置かれていた。それは、禁止事項の列挙にはなっても、人間が成熟していくための全体的な方向性を体系的・肯定的に指し示すような積極的人間論にはなりえなかった。トマスの倫理学は、同時代に広く流布していた告解マニュアルにおけるこのような問題点を克服することを目指したものであった。トマスの倫理学は、「告解」のための「罪」を同定するものではなく、徳の確立へ向けての積極的な促しを与える視点から体系化された作品であり、人生全体を体系的な仕方で肯定的な方向へと導いていくことを意図した実践的な技法の提示だったのである。

2015年4月29日 (水)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(10)

第3章 肯定的な生への促しとしての倫理学

トマスは具体的かつ身近な感情を手がかりにすることによって、人間の生やこの世界を単に観念的に上から肯定するのではなく、心の自然な動きそれ自体のなかに肯定へ向けた可塑的な形成力を見出している。この世界における否定的な側面や、それに呼応した人間精神の否定的な動きに対して眼を閉ざすのではなく、そういったものに直面すること自体のなかに、それを克服していく肯定的な回復力が含みこまれているのだ。だが、だからといって、感情というものは、うまれてくるがままに放置していれば自ずと善い方向に向かうものでもない。自覚的にコントロールされる必要がるものだともトマスは述べている。本章では、人間精神の肯定的な回復力がどのように発現するのかを、大胆と怖れという二つの感情を制御する「勇気」という徳の検討を通じてより具体的に解明するとともに、トマスの知的いとなみにとって、人間存在を肯定的に捉えなおすという課題がいかにも中心的であったのかを、同時代の他のテクストとの対比を浮彫にしていく。

 

「感情」は、或る種の「受動」であるかぎり、人間による能動的なコントロールを超えて襲いかかってくる面があることは否定しえない。だが、だからといって、感情の運動は、人間によるコントロールを完全に超えているわけでもない。たしかに、感情の運動の個別的なケースはコントロールし尽せないにしても、或る人が、全体としてどういった感情をどのような場合にどの程度抱きやすいかということは、習慣づけを通じて、少しずつ方向付けテイクことが出来る。トマスの用語に基づいて言えば、それは「徳」の形成といういとなみであり、大胆と怖れという対極的な二つの感情の抱き方をふさわしく方向づけていく徳が、「勇気」という徳にほかならない。「勇気」とは、立ちはだかる困難に屈せず抵抗し立ち向かう精神の力強さのことだが、だからといって、直面する困難に対する「怖れ」という感情を抱くことと「勇気」という徳を有することが両立しないわけではない。すべての怖れが「勇気」と両立しないわけではなく、「秩序に反する怖れ」が、「勇気」によって克服される。それに対して、過剰に怖れを抱くことは、「臆病」という「悪徳」の特徴だ。怖れるべきものを、然るべき時に、然るべき程度に怖れるのが、理性的な節度に適った怖れ方であり、怖れの過剰のみではなく、その過小すなわち「怖れ知らず」も悪徳である。「怖れ知らず」という在り方が生じてくる原因には三つの場合がある。「然るべき愛の欠如」による場合と、「高慢」による場合と、「愚昧」による場合とである。

第一の場合は、人間である限り、自己の存在の保持へと向けられた自然な愛が完全に失われてしまうことはないとしも、基本的な愛・根源的な自己愛が何らかの仕方で希薄になってしまうことによって、自己愛に基づいた自己保持を脅かす秋に対する怖れが希薄になってしまうことがありうる。「然るべき愛の欠如」に基づいた怖れの欠如は、その人の人間としての存在の充実が根本において病み脅かされていることの現われとして、「悪徳」である。「怖れ知らず」という在り方が生じてくる第二と第三のケースは、どちらも、「愛している善に対立する悪が自己へとやってくることはありえないと見なすこと」に基づいて生じてくる。この場合には、第一のケースとは異なり、「死や他の現世的悪」を全く怖れない場合も起こりうる。それは、「自己を過信し他者を軽蔑する精神の高慢」または「理性の欠落」すなわち「愚昧」ゆえに生じてくる。自己を脅かす悪が自己を襲ってくることはありえないと、高慢または愚昧ゆえに思い込んでしまうがゆえの「怖れ知らず」だ。

「怖れ知らず」と類似したものとして、「向こう見ず」という悪徳も存在する。「怖れ知らず」と「向こう見ず」の違いを一言で言えば、「怖れ知らず」が怖れの過小であるのに対して、「向こう見ず」は「大胆」の過剰である。怖れと大胆が対立する心の在り方なのであれば、怖れの過小と大胆の過剰は、表現の仕方または自体を見る方向性が異なるのみであって、実質的には同じだと考える人がいるかもしれないが、そうではないところに、この議論のポイントがある。

しかし、対処困難な悪に直面したときの心的態度を表わす同一線上に、ゼロをまたいで、プラス側に大胆が存在し、マイナス側に怖れが存在するという在り方で、大胆と怖れはゼロサムゲームを繰り広げるように対立しているわけではない。トマスによると、「怖れの欠如」は「大胆の過剰」とは区別されうるが、「怖れの過剰」は「大胆の欠如」と切り離せない。すなわち、怖れが欠如していれば必然的に大胆が過剰になるとは限らないが、怖れが過剰であるときには必然的に大胆が欠如してくる。怖れを抱いて逃げるべき状況においても怖れを抱かずに逃げない人物が、必然的に、悪しき困難な状況においても大胆に立ち向かっていくとは限らない。単に何もせずに傍観している可能性も充分にある。だが、だが、逃げるべきではない状況においても過度に怖れて逃避的態度をとる人物は、必然的に、困難な状況に対して立ち向かっていくような心的態度(大胆)が欠如してくる。

怖れの過小としての「怖れ知らず」という態度と大胆の過剰としての「向こう見ず」という悪徳との区別は、一見些細にも見えるかもしれないが、そうではない。「怖れ(の欠如)」と「大胆(の過剰)」という二つの密接に絡んだ心の動きを絶妙に区別することによって、トマスは、人間の心に様々な感情を呼び起こしてくるこの世界と人間の心との関係に関して、次のようなことを導き出す。すなわち、大胆と怖れという対立する一対の感情双方の共通の対象であり原因であるのみではなく、大胆は和らげ、怖れは強めるという非対称的なはたらきを為しもする事実が指摘されている点にある。感情の適度なコントロールは、人間が自らの心の中の様々な動きを、主観的に調整することによって成し遂げられるのみではない。感情を生み出す状況それ自体の内に、生み出される感情がどのようなものであり、どの程度の強さを持ったものかを調整する機能が備わっている。危険という困難な悪へとあえて立ち向かう大胆という、状況打開のために必要な感情を生み出しつつも、大胆が過剰になりすぎて不必要なまでに危険に巻き込まれすぎいてしまうことを避けさせるはたらきを、危険な状況自体が人間の心に及ぼしてくる。危険な状況を危険な状況として的確に受けとめること自体の内に、大胆がほどよく生まれてくる要因が内在している。人間は、自らの心の動きをほどよく調整してくるような在り方で自らの心とかみ合うことの可能な秩序ある世界の中の住民として、存在している。個別的・短期的に見れば、我々の心の中には、肯定的な心の動きだけではなく、否定的な心の動きも生まれてこざるをえないが、総体的・長期的には、この世界との絶妙なつながりの中で調和を見出し、肯定的な仕方で情緒的に自己形成していける存在として、人間は存立せしめられている。

「徳」の形成という作業は、自然な心の在り方を強引に抑制してり抑圧したり、逆に無理に前向きにさせたりするようなものではない。そうではなく、自らを巻き込んでくる状況との持続的な共同作業の産物としての「徳」という好ましい在り方は生まれてくる。だからといって、状況自体が有する感情調整力にすべてを任せておけばよいのではない。なぜなら、怖れに関しては、人間がより能動的に関与しなければ、歯止めなく強まってしまう可能性が残されているからだ。そこでとりわけ必要になってくるのが、「勇気」という「徳」の形成である。この勇気は、状況自体が有する感情調整力のみによって形成されるのでもなければ、人間の精神力のみによって形成されるのでもなく、両者の絶妙な相互関係によってはじめて生じてくることができる。否定性を孕んだ状況自体が、人間の能動的で肯定的な事態対応能力を引き出し、育んでくる。勇気という徳は、単に社会や指導者によって義務として外から課されるものではない。怖れに翻弄されがちな自己自身の頼りなさを、徐々にではあるにしても着実に克服し、少しでも頼りになるものとして自身に希望を抱き、肯定的に自己を受けとめなおして困難に満ちたこの世界に対峙できるようになるための原動力として、困難に対処する勇気は存立している。

2015年4月28日 (火)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(9)

トマスが列挙している11の基本的諸感情の最後は「怒り」である。怒りに関して第一に着目すべきことは、これまでの諸感情とは異なり、怒りには、対となる感情─対立する感情─が存在しないとされている点だ。怒りは既に降りかかっている困難な悪から引き起こされると、トマスは言う。

「困難な悪」を対象とする感情には、三種類ある。怖れ、大胆、怒りである。そして、怖れと大胆は未来の「困難な悪」、すなわち、差し迫っているにしても、いまだ現在のものとはなっていない「困難な悪」に関わっている。この二つの感情は、「接近と後退の対立性に基づいて」対立している。「困難な悪」へと接近していくのが大胆であり、「困難な悪」から「後退する」のが怖れなのである。他方、怒りは、既に現在のものとなってしまった「困難な悪」を対象とする。「現在の困難な悪」へと立ち向かっていく、すなわち、「接近」していくのが怒りの特徴だ。それに対して、「現在の困難な悪」から「後退」する運動は原理的にありえない。なぜなら、「後退」が不可能な仕方で既に「困難な悪」の真っ只中に取り囲まれているという事態こそ、「現在の困難な悪」の特徴であり、その点において、「差し迫った未来の困難な悪」との相違があるからだ。こうして、「現在の困難な悪」に対して生まれてくる感情の動きは怒りと悲しみのみになる。その際、悲しみは、既に現在のものとなってしまった悪に屈服した結果生まれてくる感情である。このとき、「困難」という要素は既に消滅している。なぜなら、「困難な悪」と言われる際の「困難」とは、回避することが困難という意味だからである。悲しみが生まれてくるのは、まさに、「困難な悪」を回避する数少ない可能性すら消滅し、悪に屈服するしかなくなることによってなのだから、もはや困難か否かという側面は問題にならなくなっている。何らかの悪が回避困難だといわれるのは、あくまでもそれが回避可能な段階においてのみだ。

トマスは続けて、善と悪の反対対立性に基づいて、怒りに対立する感情があるかどうかを吟味し、怒りが「現在の困難な悪」に接近していく心の動きである以上、「現在の困難な善」という対立する極に接近していく感情が存在すれば、それが善と悪の反対対立性に基づいた、怒りに反対対立する感情だといえるのではないかという問題提起だ。この問題に対するトマスの解答は二段重ねになっている。まず、トマスが試みているのは、そもそも、「現在の困難な善」などありえないという事実の指摘だ。「困難な善」の「困難」とは、獲得困難の意味だが、何らかの善が現在のものになっているというとは、困難が無事に克服されたことにほかならないのだから、「現在の困難な善」は、原理的にありえない。このような事実の指摘のみでも、既に、「善と悪の対立性」に基づいて怒りに対立する感情が存在しないことを示すには充分であろうが、トマスは更にもう一つの事実を指摘している。悪が現在のものとなったさいに、悪に屈服する─悲しみが生まれる─あるいは立ち向かうような二つの可能性があるかどうかを吟味し、その可能性を否定している。なぜなら、悪の場合には、困難な悪を回避できず、決定的に巻き込まれてしまったときに、諦めて屈服してしまう可能性もあれば、巻き込まれてしまったことを前提にしつつ、状況打開のためにあらためてその「困難な悪」に立ち向かっていくという可能性もある。だが、善の場合には、善が現在のものになれば、生まれてくる心の動きは、獲得された善のうちに休らい喜ぶという動きのみであって、あらためて「現在の善」へと向かっていくことはない。もう自らのものになっているからだ。

以上のように、怒りには対立する感情が存在しないのだが、その代わりに怒りという感情自体のうちに或る種の対立性・複合性が含みこまれている。トマスは、「怒りの対象は善であるか悪であるか」という問いを立てて、愛や憎しみと怒りの相違を指摘している。愛や憎しみは、或る種、単純な構造をしている。愛は、善き人に善きものを意志し、憎しみは、悪しき人に悪しきものを意志するからだ。それに対して、怒りは悪しき相手に、善という特質に基づいて意志するという、複合的な構造を有している。トマスは、さらに「怒りは憎しみよりも一層ひどいものか」という問いを立て、怒りと憎しみという他者に対する否定的・攻撃的な態度を含みこんでいる感情に関して、どちらがより問題含みで厄介であり悪しきものとなり得るかを考察している。憎むものは、敵の悪を悪である限りで欲求するのに対して、怒る者は怒る相手に対して、その者の悪を、何らかの善という特質を有する限りで正しいと見なしていることに基づいて欲求する、という。

トマスによれば、人間の欲求の対象は常に善であり、たとえ人間が悪を意志していると言わざるを得ない時あってさえ、悪を悪として意志することは決してなく、あくまでも「善の観点のもとに」意志している。例えば、或る人が盗みという道徳的に悪しき行為を為している時、彼が意志しているのは、「悪を為す」ことではなく、道徳的に悪しき行為によって獲得される「有用的善」としての金銭や物品、または盗みの快楽という「快楽的善」こそが、彼の意志の真の対象となっている。そうだとするならば、憎む人は、他者にとっての悪を「悪の観点のもとに」意志するというトマスの言明と矛盾するように思われる。この一見矛盾とも思える事態を解決するための手がかりは、事柄の善悪を論じる議論の水準を一段高めて事態を見直すことにある。すなわち、憎しみにおいては、「他者にとっての悪を悪の観点のもとに意志することにある。すなわち、憎しみにおいては、「他者にとっての悪を悪のもとに意志すること」が自らにとって善と見なされており、怒りの場合は、「他者にとっての悪を善の観点のもとに意志すること」がみずからにとっての善と見なされている。つまり、究極的に言えば、憎しみの場合も怒りの場合も、「他者にとっての悪」が「自らにとっての善」と見なされている点で、両者は共通している。だが、その具体的な内実においては両者には大きな違いがある。憎しみにおいては、「他者にとっての悪」は、自らにとって無条件に善と見なされている。それに対して、怒りの場合は、「他者にとっての悪」は、条件付きで善とみなされている。怒りにおいては、「他者にとっての悪」が「善という特質に基づいて」意志されているとする見解は、そのことを表現した言明なのである。その場合の「善という特質に基づいて」という条件は、換言すれば、「正しいこと=正義という特質に基づいて」という意味である。だが、善に基づくと言う要素が、怒りの場合には、その不可分の構成要素として含みこまれているからといって、怒りは、常に倫理的に善いものになるわけではない。トマスによると、「怒りの無秩序」は、二つの観点に基づいて考察できる。一つは「不適切な欲求対象に基づいたもの」であり、もう一つは「不適切な怒りに基づいたもの」である。後者は、「内的にあまりにも激しく怒る場合、または、外的にあまりにも甚だしく怒りの徴を表現する場合」である。それに対して、前者は、「不当な報復」を欲求する場合だ。正しい報復とは、「相手を傷つけようとする意図によってではなく、害悪を取り除こうとする意図によって」為される報復のことだ。報復する人の意図が、報復の相手を傷つけること自体に向けられ、そこで静止するのであれば、報復は許されない。なぜならば、それは、他者が被る悪を喜びとする憎しみに他ならないからだ。また、他者の悪事に対して悪で応答することは、悪に負けることに他ならず、望ましい態度ではないからだ。

「愛の宗教」であるキリスト教の神学者であるトマスが「報復」を容認していることに意外感を覚える人がいるかもしれないが、トマスはすべての報復を是認しているわけではない。「罪を犯す者の矯正」や「正義の保全」「神の尊祟」といった「善」に対する愛が基盤になっている限りで、報復が不可避の手段として容認されている。

怒りが目指している「正しいこと」が実現する時、そこで達成されるのは、他者からの侵害が行なわれる前の状態への単なる原状回復ではない。それは、否定的な関係性をも包み込むような在り方における、自他の根源的な融和的態度への発展的回復であり、そのような仕方で、怒りという一見否定的な心の動き自体の中に、人間本性の根源的な肯定力が輝き出している。

2015年4月27日 (月)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(8)

前節で論述した「希望と絶望」と密接に連関した感情である「怖れ」と「大胆」という一対の感情の構造について吟味していきたい。この二組の感情は、幾つかの点で交錯した関係にある。まず、「希望」は、「絶望」と対立するのみではなく、「怖れ」とも対立する。全く同じ意味で対立するのではなく、対立の軸が異なっている。「困難な善」という同一の対象に対する「接近」と「後退」という観点から言うと、「希望」は「絶望」と対立する。だが、「困難な悪」と対立する「困難な善」を対象とするという意味では、「希望」は「困難な悪」を対象とする「怖れ」と対立する。同様に「困難な悪」に立ち向かう「大胆」は、「困難な善」から退避する「絶望」と対立する。

「大胆」と「絶望」という感情の対には、トマス人間論の基本的な枠組みを揺るがすように思われる驚くべき特徴がある。善には引き寄せられ、悪からは遠ざかろうとする人間本性の自然な在り方に反して、「大胆」には、「困難な悪」へとあえて近づいていく性質があるからだ。また同様に、絶望には、人間を引き寄せるはずの善から遠ざかるという不思議な特徴がある。

トマスは、「大胆は希望の後に続くものであるか」という問いを立て、これら四つの感情に関する分析を述べている。トマスは、諸々の感情は孤立しているのではなく連動した仕方で共振し共鳴しつつ発生してくる、ということを強調する。人間は、希望しつつ大胆に事態に対処し、また怖れつつ打開状況に絶望するのだ。「大胆は希望の後に続く」というのは単に時間的な意味で「希望」の後に「大胆」が生まれてくると指摘しているのではなく、「希望」が前提になって、それに支えられつつ、悪に立ち向かう「大胆」が生じてくるという事柄上の依存関係を意味している。同じように、絶望は怖れの後に続く、も同様に考えられる。差し迫った恐るべき悪を克服することという善に対する希望を抱くからこそ、人は、差し迫った恐るべき悪にたじろがずに、大胆に立ち向かっていく。また、希望されるべき善に関わる困難という悪に怖れを抱くからこそ、希望されるべき善からの後退と定義される絶望に陥る。このとき、人は、希望という感情に包み込まれるような仕方で絶望という感情に陥っている。希望を前提にしてはじめて大胆が生じ、恐れを前提にしてはじめて絶望が生じている。人間は、一度には一つの感情しか抱かないのではなく、同時に複数の感情が生まれてくることがありうる。いえ、むしろ複数の感情が共存しているのが人間の常態だとも言える。そして、複数の感情は、ごった煮のように一つの感情になってしまうのではなく、深く連動しつつも区別可能な仕方で関わり合う別々の感情として存続している。人間の心がそれ自体として追求するのは善のみであるが、その善を獲得する希望が大いに強まると、その強烈な希望の運動に促されながら、善の獲得を妨げる悪に対しても、心は大胆に向かっていく。大胆は、「困難な悪」が「困難な悪」であるがゆえに「困難な悪」に向かっていくのではなく、「付加された何らかの善」ゆえに「困難な悪」に向かっていく。

価値ある善を達成する希望に心躍らせながら、自らの進路を妨害する悪に大胆に立ち向かう。そのとき、そうした大胆な在り方は、たしかに希望の強烈さに基づいて生まれてきているのだが、だからといって希望という感情と区別できないものではない。希望しつつ大胆に事態に対処するという仕方で、二つの感情の連動が生じている。悪に向かって前進する大胆という感情の奇妙な在り方は、その前提となっている希望とのつながりにおいてはじめて十全に理解できる。「追求」がそれ自体としては善に関わる以上、「悪の追求」と規定される大胆は、それ自体では存在できず、「善の追求」と規定される希望を前提にして、はじめて存在できる。善を対象とする希望という感情が強まると、「困難な悪」に立ち向かい克服することの善が強く自覚され、大胆という心の動きが活性化されてくる。「獲得困難な善」へと進んでいく希望が強くなると、善と切り離し難く結び付いた悪へ立ち向かう姿勢も強くなり、大胆という感情が醸成されてくるのだ。同様に、忌避がそれ自体としては悪に関わる以上、「善の忌避」である絶望は、「悪の忌避」である怖れを前提にして、はじめて存在できる。「差し迫った困難な悪」を対象とする怖れが活性化してくると、心の中で悪がクローズアップされてくるから、「獲得困難な善」の獲得を妨げている悪が強く自覚され、絶望につながる。悪を回避しようとする怖れが強くなると、悪と切り離しがたく結び付いた善をも回避するようになり、絶望が生まれてくる。このように、「差し迫った困難な悪」を対象とする一対の感情と連動しつつ、人間存在を、肯定的な方向へも否定的な方向へも、非常に大きな振れ幅をもってダイナミックに動かしていく。ほんの少し些細な感情の動きがどちらかの方向に動き始めると、最終的には非常に大きな揺れ幅を持ち、対極的な終着地点へと導いていく。そうだからこそ、我々は、一つ一つの感情の発露に、充分に自覚的である必要がある。否定的な感情は否定的な感情を連鎖的に呼び込み、逆に、肯定的な感情は肯定的な感情を連鎖的に呼び込んでいく可能性があるからだ。こうした諸感情の連鎖構造と相乗効果は、人間存在が肯定的な方向にも否定的な方向にも向かいうる巨大なエネルギーを潜在させている事実を示唆している。一回ごとの感情の発露は、些細なことのようにも見えて、実は爆発的に人間を一定の方向へと導いていく潜在力を有している。感情に関して哲学的考察を加える意義の一つは、ここに見出せる。感情の本質や発生経緯を認識することによって、一つ一つの感情について自覚的になり、心の動きの全体を、肯定的な方向へと連鎖的に導いていくための手がかりを得ることができるのだ。

 

2015年4月26日 (日)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(7)

トマスは「希望」と「絶望」を対立する感情として分類しているが、両者の内実を分析することによって、単純な意味で反対とは言えないことを明らかにしている。

まず希望の対象となる四つの条件から、他の諸感情と希望との区別を明確化する。希望の第一の条件は、「善であること」だ。この場合の善とは、単に狭義の道徳的善のみではなく、快楽的善や有益的善をも含む広い意味での善であり、魅力的なもの全般を意味する概念として、価値と言い換えてもかまわないような言葉だ。このような意味における善のみが希望の対象となりうるのであって、誰も、悪しきものすなわち価値のないものや価値を破壊するものを希望する人はいない。この第一の条件によって、希望は怖れと区別される。なぜなら、よいこと、価値のあることを怖れることはなく、悪しきこと、価値を破壊するものこそが怖れという感情の対象となるのだからだ。

希望の第二の条件は、「未来のものであること」だ。なぜならば、既に所有されている現在のものには希望は関わらないからだ。この点において、希望は喜びと異なっている。というのも、喜びは「現在の善」に関わっているからだ。換言すれば、欲求されていた価値のあるものが既に獲得されて、いま現在自らの手元にあるからこそ、喜びが生まれてくる。反対に、希望の対象は、いまだ獲得されていないからこそ、希望の対象なのであって、既に実現していることや既に獲得されているものは、当然ながら希望の対象とはならない。

希望の第三の条件は、「獲得困難なこと」である。すぐに獲得できる力を自らが有している些細な対象に関しては、「希望する」という言葉遣いはせずに、単に、「欲しがる」とか「欲望する」と表現するのが通常だからである。

以上、何かが希望の対象となるための四つの条件のうち三つの条件までの分析を、トマスの論述に即しながら進めてきた。これまでの論述で注意すべき点は、新たな条件の付加によって、それまでの条件だけでは区別できなかった諸感情のあいだに新たな区別が確立されていく構造になっている事実だ。第一の条件「善であること」のみでは区別されなかった希望と喜びが、第二の条件「未来のものであること」の付加によって区別される。そして、第一と第二の条件を合わせた「未来の善であること」のみでは区別されなかった希望と欲望が、第三の条件「獲得困難なこと」の付加によって区別される。このような構造を前提を、最後に第四の条件を検討してみたい。

希望の対象の第四の条件は、「獲得可能なこと」である。なぜなら、人は、どうしても獲得できないものを希望することはないからだ。そして、この「獲得可能」という第四の条件によって、希望と絶望が区別されてくる。ここで注目すべきことは、第四の条件の付加によってはじめて希望と絶望が区別されてくるということ、換言すれば、「獲得困難な未来の善」に関わるという第一から第三の条件だけでは希望と絶望を区別できないという事実だ。そうすると、希望と絶望とは、単純な意味で正反対の感情なのではなく、四条件のうちの三条件までもが共有されていることが判明する。希望という肯定的な響きのある感情が善に関わるのであれば、絶望という否定的な響きのある感情は悪に関わるのではないかと我々は考えがちだが、そうではないとトマスは述べている。たしかに、同じく否定的な響きのある感情である怖れの場合は悪を怖れるのだが、人は、悪について絶望するのではなく、望んでいる善が困難すぎて、自分には到達できないことに絶望する。

トマスは希望と絶望の善し悪しについては、常に善いか悪いかという次元で善し悪しを問題にはできず、個別的な事例を吟味する必要があると考えているようだ。この問題を考察するための手がかりは、「若者と酔っぱらいには希望があるか」と題された考察のうちにある。トマスは、この問いに対して肯定的に答えているが、若者が希望に満ちている理由は、希望の対象である「未来のもの」「険しいもの」「可能なもの」という条件に基づいて捉えられている。第一に、若者は未来に富み過去に乏しいがゆえに、過去に関わる記憶はさほど有さず、未来に関わる希望のうちに生きている側面が強い。第二に、若者の有する身体的な活力が、困難に立ち向かう原動力となるとされている。第三に、挫折や障害に対して未経験な若者は、物事が自分にとって可能だと見なしやすいがゆえに、希望を抱きやすい。これは具体的で理解しやすいが、トマスは別のところで経験は絶望よりは希望の原因と述べている。それは、若者は未経験であるがゆえに希望に満ちているというここでのトマスの論述と矛盾しているようにも思われる。トマスによると、経験が希望の原因であるのは、次のような構造に基づいている。希望の対象は、困難だが獲得可能な未来の善だから、何かが希望の原因となり得るのは、それが何かを人間に可能にしてくれるからか、または、何かが可能だと評定させてくれるからだ。前者は、人間の力・行為遂行能力を実際に増加させるものであり、後者は、自己の行為遂行能力に対する評価を増大させるものだ。前者の具体例としてトマスが挙げているのは、富と力強さ、そしてとりわけ経験である。経験によって、人間は物事を容易に為しうる能力を獲得できる。経験の積み重ねによって、以前はできなかったことを為せるように次第に成長していき、その結果、困難なことも達成可能になっていく。後者の意味では、何かが自分には可能だと評定させてくれるものはすべて希望の原因となる。例えば他者による教育や説得は、独りよがりな思い込みに基づいて絶望している人が、自らの卓越した状況打開能力に自信を持つように説得されることによって希望を抱き始めるというように、希望の原因たちトマスは述べている。そして、この意味では、経験は、希望の原因となる場合もあれば、希望が欠落する原因となる場合もある。なぜならば、経験によって、それまで不可能だとみなしていた事柄が自分にとって可能なのだという評定が生まれてくることがありうるが、反対に、それまで可能だと見なしていたことが自分には可能ではないのだという評定が生まれてくる可能性もあるからだ。こうして、結局、経験は、二通りの意味で希望の原因隣、希望の欠落の原因となるのは一通りにしかすぎないから、どちらかといえば希望の原因と言える。これはしかし、相反する立場が無理に統合されているように見える。

若者が無経験だという事実から帰結するのは、若者には希望の根拠となる経験と絶望の根拠となる経験の双方が欠落しているという点だ。人間は、経験を積み重ねることによって、希望の根拠となる成功体験と絶望の根拠となる失敗体験の双方を積み重ねて行く。自分は、自らの能力や置かれた環境に基づいて、何をどこまで希望でき、何は希望できないのかが、成功体験と失敗体験双方の積み重ねを通じて、次第に分節化されてくる。逆に言えば、多くの経験を積み重ねていない若者にとっては、自分の未来は、いまだ分節化されざれる渾然とした可能性の束となっている。そして、身体的な活力と未来の豊富さにも支えられつつ、未分化で曖昧ではあるが気宇壮大な希望に満ちた若者は、経験を積むことによって、次第に、成功体験を通じた具体的な希望の範囲と失敗体験を通じた絶望の範囲を分節的に確定していくようになる。このような在り方を、筆者は、「経験の希望的構造」と名づけたい。人間が具体的な経験を積み重ねて行くことは、数々の失敗や挫折を通じて自らの能力の限界を思い知らせていくとともに、自らの能力のうちにある「可能なこと」の範囲の輪郭を次第に浮き彫りにさせていく。そして、その限られた範囲における自らの有する可能性を次第に開花させ、限界はあるが手堅い仕方で、自らの能力に対する、また自らの能力が切り拓いていく未来に対する希望を自ずと照らし出していくような構造を、経験というものそれ自体が有している。その意味で、絶望という感情にも、積極的な役割がある。然るべき時に然るべき程度に然るべき事柄に対して絶望するのであれば、それは善き絶望といえる。

たとえば、プロ野球選手になるという希望を持ちつつ日々練習に励んできた野球少年が野球チームのレギュラーにすらなれず、プロ野球選手になることに絶望する時、彼は、たしかに、一時的に落ち込み、悲嘆にくれるかもしれない。だが、そのような絶望を通して彼は新たな自己認識を獲得し、プロ野球選手になる夢を諦め、これまでは得意ではあったがそれほど打ち込んではいなかった数学の勉強に心を向け始め、数学の研究者になる希望を抱き始めるかもしれない。この場合、彼は絶望を通じて、それまで比較的未分化であった自らの有する潜在的な可能性を、新たな仕方で分節化することに成功している。その意味で、絶望という感情が善きはたらきを為していると言える。あまりに楽天的な希望を抱くことは、倫理的に悪しきこととまでは言えないにしても、当人自身の適切な人生行路の選択を誤らせる可能性があるという意味で、不適切だとは言えよう。それに対して、然るべき時に然るべき程度に絶望に陥ることを通じて、人生行路を微修正していく原点に改めて立ち返れるのだ。だが、その場合、「善い」のは飽くまでも、絶望という否定的な感情に陥った後に取ったふさわしい善後策─新たに希望を見出す─であって、あくまでも、絶望という感情自体は、悪しきものであるのではないだろうか。もしも、このように絶望が善きはたらきを為していると言えるのであれば、常に悪しきものとトマスによって規定されている嫉妬であっても、善きものだとせざるをえない場面が出てきてしまうのではないだろうか。成功した人を嫉妬し、それをバネに自らも奮起し、そのおかげで自分もある程度の成功をおさめたという場合のように。

絶望と嫉妬に類似性を見出す捉え方は、もっともに見えるかもしれない。だが、この二つの感情には決定的な違いがある。というのも、友人の成功を嫉妬する場合には、その背景・前提条件として、友人の成功を素直に喜ぶどころか悲しんでしまう人柄の歪みを想定せざるを得ない。たとえ大多数の人が友人への嫉妬といった感情を経験するのであっても、それは、大多数の人間に共通の性格上の歪みであり弱さだと考えざるを得ない。それに対して、絶望の場合には、まだまだ前向きに希望を持って頑張れる状況であるにもかかわらず簡単に絶望に陥ってしまう人の場合には、何らかの性格上の弱さや歪みを想定せざるを得ないとしても、野球少年の例のように、何ら性格上の歪みや弱さの表現ではなく、むしろ、自己認識が適切に行なわれていることが感情の次元で表現されている場合もある。嫉妬の場合には、嫉妬を抱いた後に、嫉妬を抱いている相手を引きずりおろしたりする選択肢を選ぶのではなく、嫉妬をきっかけにして奮起し、自己が更に向上していくためのきっかけにすることもたしかにできる。だが、後者の場合であっても、あくまでも、嫉妬という善からぬ感情を善用したと記述すべきであって、嫉妬自体が好ましい感情だということが帰結するわけではない。それに対して絶望の場合には、それを善用して自己の新たな人生行路を見出していくきっかけにできるのみではなく、絶望を抱くこと自体が、自己の陥った否定的な状況に対する的確な自己認識を伴った対応として、「困難な善」に対する適切な距離のとり方である限りで、辛いことではあるにしても、適切な心の持ち方すなわち善き感情だと言える。希望と絶望は、正反対の方向性を有するとはいえ、双方とも、人間本性の根源的な善性を表現しつつ、それを具体化していく状況打開的な方向性を有する人間精神のしなやかな強さのあらわれと言えるのだ。

2015年4月25日 (土)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(6)

第2章 困難に対する直面と克服

本章では、気概的な感情─「希望と絶望」「大胆と怖れ」「怒り」─について、「困難に対する直面と克服」という観点から分析していきたい。

「気概的な感情」の第一の対は「希望」と「絶望」である。何かが希望の対象になるための条件は、次の四つだ。第一条件は「善であること」、第二条件は「未来のものであること」、第三条件は「獲得困難なこと」、第四条件は「獲得可能なこと」である。何かが絶望の対象になるための条件は、第三条件までは希望と全く同一であり、第四条件が「獲得不可能なこと」である点のみが異なっている。すなわち、希望は「獲得困難ではあるが獲得可能な未来に対する接近」であり、絶望は「獲得困難な度合いが高すぎて獲得不可能な未来の善からの退避」である。希望と絶望という心の動きには、一見そう思われるよりも多くの共通点があるのであり、その含意は、次に述べる絶望と怖れの区別によって、より明らかになる。

「気概的な感情」の第二の対は、「怖れ」と「大胆」である。怖れは「抵抗困難な未来の悪からの退避」を意味しており、それに対して、大胆は「困難な未来の悪への接近」を意味している。怖れに関して着目すべき点は、同じく否定的な感情でありつつも、絶望が善を対象にしているのに対して、怖れは悪を対象にしているという興味深い対比が為されていることだ。絶望は、誰もが陥りたくない否定的な感情だが、人間は悪に絶望するわけではない。善を獲得できないことに絶望するのであり、絶望の対象はあくまで善なのだ。それは同じく否定的な感情である怖れが、悪を怖れるのとは決定的に異なっている。我々が通常、曖昧な仕方で「否定的な感情」として一緒くたに分類しがちな複数の感情について、トマスは独自の区別の駆使によって、明確に分類することに成功している。このような区別は、単なる概念的・抽象的な区別に留まるのではなく、我々が自らの心の動きをふさわしく理解して適切な方向にコントロールしていく際に極めて有効な生の技法を提示している。

最後に「怒り」であるが、怖れと大胆という対と、怒りの相違は、時間軸のなかに位置づけることによって明らかになる。というのも、怖れと大胆は、「未来の悪」に関わるという点では共通しており、そこから「退避」するか「接近」するかという方向の違いがこの二つの感情を区分けする。それに対して怒りは、既に現在のものとなってしまった悪と思われる感情なのである。怒りに関するトマスの議論において着目すべき点は、前述のほかの諸感情とは異なり、怒りは対立する感情がないとされている点だ。愛に関しては、愛しているか愛していないかという対立のみではなく、愛しているか憎んでいるかという対立が存在する。喜びに関しても、喜んでいるか喜んでいないかという対立のみではなく、喜んでいるか悲しんでいるかという対立が存在する。それに対して怒りの場合には、怒っているか怒っていないかという対立のみが存在しており、怒りの正反対の感情は存在しない。逃れようのない仕方で悪が既に現在のものとなっているため、悪に対して「怒り」を抱いて立ち向かっていくか諦めるかという選択肢しかなく、諦める際には、「悲しみ」という「欲望的な感情」が生まれてくるのみだから、「怒り」と対になる「気概的な感情」は存在しないのである。

2015年4月24日 (金)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(5)

肯定的な感情の運動の系列である「愛」「欲望」「喜び」と、否定的な感情の運動の系列である「憎しみ」「忌避」「悲しみ」という二つ三つ組の対比は、トマス感情論の中核的な骨組みを成している。ここでは、「愛」「欲望」「喜び」という肯定的な感情の連鎖の構造を、「欲望」を軸に考究したい。

トマスはこれらの概念を明確に区別しているが、「欲求能力」と「欲望」は一見紛らわしい概念となっている。しかし両者は根本的に異なった概念であり、はっきりと区別する必要がある。簡潔にまとめると、「欲求」とは人間の心が有している「能力・可能態」の一つであり、それに対して、「欲望」とは、その「欲求能力」が外界の刺激によって現実化して生まれてくる心の動き(感情)の一つである。そして、欲望と喜びについては、欲望はいまだ実現していないからこそ欲望なのであって、自らを引きつけている魅力ある善がいまだ手に入っていないからこそ、すなわち「不在」だからこそ、欲望という心の動きが持続している。他方、喜びは、魅力的なものが既に「現前」しているからこそ、つまり自分のものとして手元にあるからこそ、生じてくる感情なのだ。こうして、欲望と喜びとの区別は、「不在の善」と「現前している善」との区別、または、「未来の善」と「現在の善」との区別に対応している。

トマスは言う、「感覚に基づいて喜ばしいものものそのものは、欲求能力を自らに何らかの仕方で適合させ合致させる限りにおいて、愛を引き起こす」。それでは、「喜ばしいもの」と「欲求能力」が既に「合致」しているのであれば、すなわち、「喜ばしいもの」が既に現前しているのであれば、そこに生まれているのは喜びであるはずだから、喜びと愛の区別が不明確になってしまうようにも思われる。しかしそうではない。そこでトマスが「一致」の概念を二つに分けていることに注目しなければならない。トマスは「愛する者」と「愛されるもの」との関係において、二種類の「一致」が存在している。一つは「実在的な一致」であり、もう一つは「心の適合性に基づいた一致」である。前者は、「愛されているものが愛する者に対して現在的な仕方で現存している」場合である。トマスによると、これは、「愛の結果」としての「一致」であり、愛する者が愛されるものについて追い求めているところの「一致」である。このような「一致」の実現によって、喜びが生まれてくる。他方、「心の適合性に基づいた一致」の方は、より微妙な「一致」である。それは、「本質的に愛そのものである一致」とも言われる。誰かが何かに心を打たれてそれを好きになってしまうと、その「誰か」は「愛する者」となり、「何か」は「愛されるもの」となる。そのとき、その「何か」は、深く気になる存在として、「愛する者」の心の中に住み始める。「愛する者」は、何をしていても、その「何か」が気になってしまい、その「何」を抜きにしては自分のことを考えなくなるほどまでに、その「何か」を「愛する者」のアイデンティティの不可分な構成要素となる。誰かが或る人の魅力に打たれ、心を強く揺り動かされるとき、まだその相手との親しい関係が成立していない時点であっても、その相手は、その人の心に適う存在として、その人の心と気の話せない在り方で、心の中に深く住み始めるようになる。こうした事態を、トマスは「心の適合性に基づいた一致」と呼んでいる。

「心の適合性に基づいた一致」など、単なる主観的な思い込みにすぎず、「実在的な一致」と比べればほとんど価値がないと思われるかもしれないが、それは誤解だ。たとえば、或る男性が、長らく片想いをしていた女性と、ようやく親しくなり、その後、段階を踏んで結婚までこぎつけ共同生活を始める「実在的な一致」が実現したとしよう。だが、もしもそのとき、何らかの理由で、既にその男性がその女性に対してそれまで抱いていた強い思いを失っていたとしたならば、たとえ外見的には両者のあいだに「実在的な一致」が実現していても、そのような「実在的な一致」は、気の抜けたビールのようなものであって、実質的な意義は極めて希薄だと言えよう。その男性がその女性に対して「心の適合性に基づいた一致」を抱き続けているからこそ、「実在的な一致」にも意味と価値が生じてくる。その意味で、「愛そのもの」である「心の適合性に基づいた一致」とは、「実在的な一致」が実現する前の単なる主観的な準備状態に過ぎないのではない。それは、「実在的な一致」にその真の意義を与える持続的で中核的な原理なのだ。

以上の記述によって、愛と欲望と喜びの区別を明確化する手がかりが獲得された。愛は「心の適合性に基づいた一致」を意味し、喜びは、「実在的な一致」の実現によって生まれてくる。そして、「実在的な一致」が実現する時、「心の適合性に基づいた一致」は消滅してしまうどころか、「実在的な一致」によって生まれてくる喜びの重要な構成要素・前提条件として留まり続けている。このように、それぞれ別の意味ではあるが、愛と喜びは、どちらも「一致」を含意している。それに対して、欲望は、「心の適合性に基づいた一致」は既に実現しているものの、「実在的な一致」はいまだ実現していない段階だと規定できる。欲望とは、「心の適合性に基づいた一致」と「実在的な一致」という二つの一致のあいだの不一致に基づいた運動なのだ。自らがどのような対象と「実在的な一致」を果たしたいのかは「心の適合性に基づいた一致」によって自覚しつつも、現実的にその対象との「実在的な一致」をいまだに果たしていない緊張感が、人を、対象へと接近すべく強く促すのであり、それこそが欲望にほかならない。人が、自己のあるべき在り方、自己によって望ましい在り方、それこそが真の自己だといえるような本来的な自己、そのようなものに対するイメージが心の中でありありと描きつつも、いまだ現実的にはそこまで届いていないという否定性・欠如性、そしてそういった欠如を埋めてくれる善き対象への止めえない衝動、これが欲望なのだ。

欠如しているから、自分の中に不一致を抱えているから、だからこそ、欲望が生まれてくる。だが、それは事柄の一面に過ぎない。欲望という「不一致」は、愛という「一致」と喜びという「一致」とのあいだに架けられた橋のようなものだ。究極的には、人間は自らのなかに「不一致」を抱えているから欲望を抱くのではなく、自らのなかに愛という「一致」を既に有しているからこそ、欲望を抱くのである。そうした意味で、「欠如」としての具体的な欲望を抱着うること自体が、我々の存在の充実した安定性と根源的な発展可能性の表現だといえる。「不一致」である欲望が、「一致」としての愛を前提にして生まれてきて、更には、より内容豊かな「一致」である喜びへと差し向けられているという構造のなかに、常により充実した世界と自己との肯定的な関係の実現へと向けられた人間存在の根源的な動的性格が表現されている。

2015年4月23日 (木)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(4)

トマス「憎しみは愛よりも強力であるか」という問いを立てる。トマスがこの議論の中で語っているのは、愛と憎しみとの根源的な非対称性とも呼ぶことができる事態だ。我々は、しばしば、愛と憎しみを、同等の力で対立している二つの感情と見なしているが、トマスによると、我々が何かを愛するとき、その基盤に何らかの憎しみがあると想定する必要は全くないが、憎しみの根底には、常に何らかの愛が存在している。

例えば、或る人がその恋人を愛しているとき、それは、その人がその恋人に対して、どこか自らに適合する点を見出しているからだ。そのような適合性に基づいて恋人を愛しているその人は、もしも、その恋人に対して危害を加えたり、自分とその恋人との関係を妨害するような第三者が現れてきたならば、その第三者に対して、憎しみを抱くであろう。それゆえ、そうした第三者に対する憎しみは、恋人に対する愛を前提にしてはじめて成り立っている。恋人を愛しているからこそ、その恋人を傷つける人物に対する憎しみが生まれてくるのだ。こうして、愛はその前提条件として憎しみを必要としないが、憎しみが生まれてくるためには、その前提条件として愛が必要である。対象との「不共鳴」である憎しみは、「共鳴」としての愛をかき乱すものであるかぎり、愛を前提にしてはじめて成り立ちうる。

或る人がその恋人を愛していればいるほど、その恋人との関係を妨げる第三者に対する憎しみは強くなる。その第三者に対する憎しみの強さは、恋人に対する愛の強さの関数として決まってくる。別の観点から言えば、恋人に対する愛という大きな土俵を前提とした上で、その枠組みの中で、第三者に対する憎しみが結果として生まれてきているのであり、その意味において、恋人に対する愛が第三者に対する憎しみよりも強力なのだ。この場合の「強力」とは、感情の動きの論理的な構造に基づいて、愛が憎しみの発生しうるための大前提として、憎しみに基本的な土俵を提供するものであり、人間をより根源的な次元で動かすものであることを意味している。換言すれば、愛によってまず動かされていなければ憎しみによって動かされことも不可能だとの意味で、愛が憎しみよりも「強力」だと述べられている。

ところがトマスによると、ときらは憎しみの方が愛よりも強力だと思われることがある。とりわけ、次のようなことをトマスは挙げている。対象との適合性をその本質としている愛は、非常に強いものであっても、常態化して自然なものと受け止められやすいので、さほど強く感じ取られないようになる。それに対して、対象との「不共鳴」である憎しみは、それほど強くなくても「違和感」として、とても強く感じ取られやすい。

だが、ここで我々は、一つの疑問に直面せざるを得ない。なぜなら、体温計などを使用して客観的に数値化しやすい熱の場合とは異なり、憎しみや愛のような感情の場合には、「感じられる」からこそ感情なのであって、感じ取られてはいないが感情は存在しているのだ、とか、強く感じ取られていないが、実際にはその感情は非常に強力なのだ、と見なすことには、何かおかしな点があるようにも見受けられるからである。逆に言うと、この疑問を解消しうる仕方でトマスのテクストを読解することのうちにこそ、彼の感情論を正確に理解するための鍵がある。すなわち、感情とは、主観的に「感じ取られる」からこそ感情であるであるわけでは必ずしもない。「憎しみは愛よりも強力であるか」という問いに対する解答の末尾で、トマスは「やり大きな愛に対応する憎しみは、より小さな愛よりもより多く動かす」と述べている。感情の本質は、単に主観的に「感じ取られる」か否かという点ではなく、人間存在をその深層において「動かす」原動力として捉えられている。トマスの述べていることをより生き生きと理解するために、身近な具体例に基づいて考えてみよう。例えば、私の愛している友人を傷つける第三者に対して私が強い憎しみを感じる時、私の思いはその第三者に対する憎しみでいっぱいになっており、常態化している友人への愛をあらためて強く感じ取ることないかもしれない。だが、私の心を強く揺り動かす憎しみへと私を強く突き動かしているのは、私と友人との強い絆であり、改めて強く意識することもないほどまでに空気のように常態化しつつ私の存在全体を常に既に深く規定しているその友人に対する愛なのだ。違和感としての憎しみが愛よりも強く「感じ取られる」ことがあるという事実は、憎しみの愛に対する優位を意味するどころかつ、むしろ、憎しみという否定的な感情の起動力となるような仕方で、私の心の中の通奏低音として鳴り響き続けている肯定的な感情である愛の根強さを証している。

2015年4月22日 (水)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(3)

トマスは「苦しみまたは悲しみは泣くことによって和らげられるか」という問いを立て、肯定的な答えを出している。そこには二つの理由がある。涙や嘆きが癒しの効果を有するのは、第一には、内向しつつ心を侵食し傷を深めていく悲しみの動きを中和させる仕方で、涙や嘆きは心をほどよく外へ向けなおしていくからだ。そして、第二の理由として、「ふさわしさ=適合性」という概念を提示する。悲しみを抱いている人にとっては、「笑う」ことではなく「泣く」ことが自然であり、その意味で「ふさわしい」行為である。そして人間にとって、自らの本性に反した不自然な在り方を強いられずに、自らにとってふさわしい自然な在り方を発露させうるのは、喜ばしいことだ。それゆえ、悲しみを抱いている人が、「泣く」という自らにふさわしい在り方を発露させると、ふさわしい在り方をできた喜びが生まれてくる。そして、喜びは悲しみを和らげるから、悲しみを抱いている人が「泣く」ことによって生まれてくる喜びが、「泣く」という結果を呼び起こした悲しみを和らげ癒す。ここで注意しなければならないのは、この事例において悲しみを和らげる役割を果たしている喜びは、涙を呼び起こした悲しみと同一平面で対置されるような意味での喜びではないとうことである。いわば、悲しみという否定的な感情をありのままに受け止めること自体の中に、自ずと心の安らぎが生まれてくる要素が含まれているということなのである。換言すれば、悲しみという否定的な感情をありのままに受け止めること自体の中に、かすかであれ或る種の心地よさが生まれてきて、肯定的な心の在り方へとしなやかに移行していく回復力が人間精神には内在しているというのである。このように悲しみをありのままに受け止め抜くこと自体のなかに悲しみの治癒の可能性が内在しているという経験的な洞察に基づきつつ、トマスは、悲しみという否定的な感情と喜びという肯定的な感情との非対称的な構造を解き明かすことを試みている。

そのために、トマスは、一つの異論を提示している。トマスの論述形式で、探究される事柄に関する深いほりさげた考察を可能にするために、自己自身の見解とは異なる論をあえて紹介し、多様な異論との対話の中で、事柄についての多面的で柔軟な考察を展開する手法を採用している。

我々が泣くとき、我々は、悲しみをもたらす悪を思い浮かべており、そういった悪を思い浮かべることは、我々の抱いている悲しみを強化する。それと同じように、我々が笑う時、我々は、喜びをもたらす善いことを思い浮かべており、そうした善いことを思い浮かべることは、我々の抱いている喜びを強化する。その意味では、「泣くこと」は「泣くこと」の原因となった悲しみをより強めるはたらきを為し、「笑うこと」は「笑うこと」の原因となった喜びをより強めるはたらきを為す。このような意味では、「泣くこと」と「笑うこと」には、類似した構造が成立している。このような異論の見解にたいしては、この範囲ではもっともだと、トマスは言う。だが、話はそれで終わりではない。「泣くこと」と「笑うこと」には、決定的な相違が存在している。なぜなら、泣くべきときに泣くことは、あさわしいときにふさわしいことを為しえているという意味において、人間として自然な在り方を為しえている「ふさわしさ=適合性」が快適さを生む。そして、その喜びが、既に生きている悲しみを中和する役割を果たす。それに対して、笑うべきときに笑うことは、ふさわしいときにふさわしいことを為しえているという意味において、「笑い」をもたらした喜びにかてて加えて更なる喜びをもたらすことになる。こうして、トマスは異論の立場を全否定するのではなく、そのもっともな点を肯定的に受け止めつつも、より広い視野のなかに位置づけなおしている。

喜びを喜び抜くことは、更なる喜びをもたらすが、悲しみを悲しみ抜くことは、更なる悲しみをもたらすのみではなく、それ自体の中に、喜びという相反する動きを内在させており、人間の心を積極的な平衡状態へ自ずと回復させていく力動性を孕んでいる。トマスは、肯定的な感情を過度に抱くことを推奨することもなければ、否定的な感情を抱くことを抑止することもしない。むしろ、否定的な感情を抱くのがふさわしい状況では、否定的な感情を抱き抜くのが人間にとって適切なことだと主張している。感情は現実に対する直面から生まれてくるが、同時に感情自体が人間が直面する一つの現実でもある。生まれてきた否定的な感情から眼を逸らすことなく直面し、それを通してその感情を生む原因となった否定的な現実に対しても心を開いて直面すること自体の中に、否定的な感情を抱えながらもそれに打ち負かし尽くされない肯定的な精神の力が発現してくる。人間精神の有している「根源的肯定性」とでも名づけるべきこのような在り方を、トマスは、その感情論の中で、悲しみと喜びの非対称性という論点に限らず、他にも様々な観点から浮き彫りにしている。

2015年4月21日 (火)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(2)

第1部 肯定の哲学の展開

第1章 肯定的な感情の優位─愛、欲望、喜び─

トマスによると、11の基本感情は、「欲望的な感情」と「気概的な感情」とに大別される。「気概的な感情」は、善の獲得または悪の回避に困難が伴う場面で発現してくる感情である。それに対して、「欲望的な感情」の場合には、困難が伴う否かは、どちらでもよく、関心の焦点とはならない。困難が伴おうが伴うまいが、ともなく魅力的なものへと接近し、有害なものや状況から遠ざかろうとする心の動きが「欲望的な感情」と言われている。

感情の第一の対は「愛」と「憎しみ」である。愛は善との「共鳴」を意味し、それに対して憎しみは悪との「不共鳴」を意味している。ここで注意しなければならないのは、「善」という言葉で意味されているのは、単なる「道徳的善」に限定されているのではなく、「有益的善」─役に立つという意味で善いもの─や「快楽的善」─喜びを与えるとの意味で善いもの─を含む広い意味での善であり、「価値」と言い換えてもいいような概念だという事実である。たとえば、人を愛するとき、人柄が善いから愛する場合(道徳的善)もあれば、役に立ってくれる人だから愛する場合(有益的善)もあれば、一緒にいると楽しいから愛する場合(快楽的善)もある。いずれにしても、愛は、魅力的な「善」に心を動かされることによって生じてくる「好感=気に入ること」を意味しており、それは価値ある対象との「共鳴」とも言い換えられる。このような「善」という言葉の意味について、日本語で考えてみても、「よい」という言葉が道徳的な意味で使用される場合は、必ずしも多くはない。トマスは、価値のあるもの、魅力あるもの全般を「善」という言葉で意味しており、そうした広い意味での「善」が「愛」の抱かれる対象だと述べている。

それに対して憎しみは、魅力的な善との関係を脅かす悪との「不共鳴」と定義される。それゆえ愛と憎しみは同じ平面で対立しているのではなく、常に愛が憎しみに先行している。何らかの善を愛しているからこそ、それを脅かす悪に対して憎しみが生じてくるという構造になっている。ここにおいて我々は既に、トマス感情論における肯定的な方向の優位を見出すことができる。愛(肯定的な感情)と憎しみ(否定的な感情)という対を成す感情に関して、愛は憎しみなしにも存在しうるが、憎しみは常に何らかの愛を前提にするのだ。

感情の第二の対は、「欲望」と「忌避=回避」である。この対は、愛と憎しみの対に基づいて生じてくる。すなわち、何らかの善によって愛が呼び覚まされると、その善を実際に獲得しようとする欲望が生じてくる。対象の魅力によって心を揺り動かされることによって生じてくるのが愛であり、心を揺り動かされる対象の獲得を目指す能動的な心の動きが欲望である。欲望は、まだ対称獲得していないからこそ欲望なのだから、「未来の善」に関わる感情である。それに対して、何らかの悪によって憎しみが呼び覚まされると、その対象を避けようとする忌避の念が生じてくる。忌避は、いまだその憎むべき対象に完全に捉えられていないからこそ生じてくる感情なのだから、「未来の悪」に関わる感情だと言える。

感情の第三の対は、「喜び」と「悲しみ」である。この対は、愛と憎しみ、および、欲望と忌避の対に引き続いて生じてくる感情である。何らかの善によって愛が呼び覚まされ、その愛に基づいて生じてくる欲望が無事に満たされると、喜びが生じてくる。喜びは愛する善の獲得における欲望の休らいによって生じてくる心の充足感のことなのである。それに対して何らかの悪によって憎しみが呼び覚まされ、その憎しみに基づいて生じてくる、その悪を避けようとする忌避の念にもかかわらず、その悪に逃れようもなく捉えられてしまうと、悲しみが生じてくる。

このように、喜びと悲しみの対と、欲望と忌避の対の決定的な相違は、時間軸の中に位置づけることによって、はじめて的確に理解できる。喜びと悲しみの対は、既に実現した現在の事象に関わっており、それに対して、欲望と忌避の対は、いまだ実現していない未来の事象に関わっている。他方、愛と憎しみの対は、現在の事象にも未来の事象にも関わる特質を有している。なぜなら、いまだ獲得されていない善を欲望している時、我々はその善を愛しているからこそ欲望するのであり、また、その欲望対象を獲得したからといって愛が消滅するわけではなく、むしろ、その対象を愛しているからこそ、無事に獲得したことに喜びを感じるのだからである。

また、憎しみに関していえば、いまだ完全に捉えられていない悪を忌避するとき、我々はその悪を憎んでいるからこそ忌避するのであり、また、その対象に逃れようもなく捉えられてしまったからといって憎しみが消滅するわけではない。むしろ、その対象を憎んでいるからこそ、それに捉えられてしまったことに悲しみを感じるのだ。こうして、愛と憎しみの対は、未来の事象にかかわる欲望と忌避の対と、現在の事象にかかわる喜びと悲しみの対の双方の基盤にあり、現在と未来のどちらであるかに限定されない。

以上のように、愛と憎しみ、欲望と忌避、喜びと悲しみという諸感情は、善か悪か、現在か未来かという二つの補助線を引くことによって、鮮やかに分類識別できる。

様々な区別の積み重ねによる感情の分類は、いったん理解してしまうと、あまりに明瞭であるために、我々は、もともとその区別について知っていたような気さえしてしまうかもしれないが、それは、トマスがそうした区別をする前には、我々の多くが注意を明示的に向けることができていなかった区別だ。区別による分類は、我々が混乱した仕方で既に知っているものを明確化する営みだと言えよう。区別が為された後では、我々には、その区別はもともと存在しなければならなかった区別であり、その区別についてもっと知っていたようにも感じられる。区別を理解したう我々にとって、その区別は、トマスによって意図的に作成されたというよりは、むしろ、トマスの言葉を通じて、ふさわしい区別が、事柄全体の明瞭化へと向けて、事柄全体の側から立ち現れてきたと感じられる。こうした「区別」という方法は、感情論の中でのみ使用されているのではなく、トマス哲学の基本的な方法論である「スコラ的方法」の要となっている。トマス哲学の根本的特徴は、しばしば「真理の明示」と規定される。真理を「明示する」こと、それは、我々の日常的意識には隠されているような何らかの啓示的・宗教的な「真理」

を明らかにすることのみを意味しているのではない。我々が或る意味では常に既に知っている日常的な感覚的世界の構造をあらためて明示的に取り出すことを意味している。

2015年4月20日 (月)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(1)

トマスの全体系を貫いて通奏低音のように鳴り響いている一つの根源的な旋律がある。それは、存在するもの全体に対する肯定と讃美の旋律であり、一見否定的な事柄をも巻き込みながらその全体を肯定していく人間の状況打開力と自己肯定力の強調である。自分について一人称で語りはせずに、ひたすら淡々と神学的・哲学的な用語を論理的に駆使しつつ様々な問題を次々と解決していくトマスのテクストに触れながら、その根底に横たわる肯定的な調べを聞き逃してしまうならば、ある意味、真に重要なことすべてを捉え損なってしまうと言えるかもしれない。逆に、この根源的な調べさえ聞き取れれば、トマスが論じているあらゆるテーマを正確に読み解くためのマスターキーを手に入れたことになる。「肯定の哲学」という観点こそ、トマスの全体系を読み解く鍵であり、そして、彼の哲学を現代に生かし直すための橋頭堡となるものである。

 

トマスは、伝統的なカトリック神学を体系化して壮大な神学・哲学体系を築き上げた人物だという説明がしばしば見られる。この説明は一面的と言え、トマスの革新性を捉え損なっている。以下で、トマスの革新性を時代背景と絡めながら説明したい。

アリストテレスがラテン・キリスト教会に与えた衝撃としてしばしば指摘されるのは、「世界の永遠性」と「知性の単一性」という教説が、キリスト教の伝統的な教義と真正面から対立する点が問題とされた事実だ。アリストテレスの世界観では、世界は永遠の昔から永遠の未来まで存続する永遠的なものと捉えられていた。そして、その世界観は、世界に時間的な始まりがあり、いずれ終末がやってくるとのキリスト教的な世界観とは両立しないと思われた。「知性の単一性」とはイスラーム世界を経由した、とりわけアヴェロエスの注釈による「全ての人間においてただ一つの知性しか存在しない」という教説で、このような考えは、知的判断を有する一人一人の個人が倫理的行為の主体であり、神による救いの対象となる主体でもあるというキリスト教的な世界観の根幹を揺るがしうるものであった。

これに対するラテン・キリスト教世界の知識人の対応は大きく三つに分けられる。まず「ラテン・アヴェロエス主義」は、しばしば二重真理説とも呼ばれ、聖書に基づいた信仰の真理とは異なる結果が導き出されようとも、哲学的には正しい真理として、アリストテレスに依拠した真理探究を、アヴェロエスの影響下に理性的に追い求めていく立場だ。これに対して、「保守的アウグスティヌス主義」の立場は、ラテン世界の神学の基盤を形作ったアウグスティヌスに由来する伝統的な神学に依拠し続けていればよいのであって、異教の哲学者であるアリストテレスを受け入れるべきではないとするものであった。そして三番目の「中道的アリストテレス主義」の代表者は、トマスと師匠のアルベルトゥス・マグヌスである。前の二つの立場の明確さと比べると、いかにも生ぬるい中途半端な立場との印象を与えるかもしれないが、それは誤解だ。この立場に属するトマスは、アヴェロエスとは異なる仕方でアリストテレスを読み直し、アリストテレスとキリスト教を両立させることを試みた。例えば、トマスは、知性は一人一人の個人に内在しているという考えがアリストテレスの真意だと解釈した。また、アリストテレスが『トピカ』の中で述べている言葉に基づきつつ、「世界は永遠なものか否か」という問題は、弁証法的な問題─理性によって確実な結論を導き出せない問題─だと解釈することによって、キリスト教の伝統的な教説と両立する仕方でアリストテレスのテクストを受けとめなおしている。トマスのこのような解釈は単なる辻褄あわせではない。アリストテレスを解釈しなおすことによって、キリスト教をも解釈しなおしている。キリスト教という不動の基盤があって、そこにアリストテレスを適用させようとしているのではない。前二者の立場には、アヴェロエス的なアリストテレス、アウグスティヌス的な伝統という不動の基盤があった。それに対して、マスは、キリスト教とは元来無関係であり脅威とも見なされがちであったアリストテレスから目を背けるどころか、正面から向き合うことによって、伝統的なキリスト教観を揺るがすことすらためらわない。中道的アリストテレス主義は、三つの中で最も革新的な立場なのだ。

アリストテレスが与えた衝撃は、単に、「世界の永遠性」と「知性の単一性」という一部の教説の問題性にのみ基づいていたのではなかった。万学の祖と呼ばれるアリストテレスは、自然学、形而上学、倫理学、政治学、霊魂論などこの世界のあらゆる現象におよぶ壮大な体系を築き上げていた。聖書に基づいたキリスト教的世界観のみが、神・人間・世界に関する統一的な理解を与えてくれると信憑していたラテン・キリスト教世界の知識人たちは、アリストテレスのテクストに直面して、世界全体を体系的に理解するもう一つの方式があることに気付かされた。それは、宗教的な啓示に依拠するのではなく、徹頭徹尾理性に基づいてこの世界の全体構造を捉える哲学的な姿勢であった。こうした理性的な包括的世界観に対する直面は、キリスト教信仰の絶対性もひいてはその存在意義をも脅かしうるものであった。

トマスは、アリストテレスのテクストの導入によって直面させられたこうした挑戦から眼を背けず、逆に徹底的な理性的姿勢をキリスト教神学に本格的に導入した。そのことによって、啓示に基づいたキリスト教が、非キリスト教的なものに変質したり存在意義を失ってしまったりするどころか、むしろ、よりキリスト教的なものに高められうると考えた。この世界を人間理性の力の及ぶかぎり哲学的に体系的な仕方で理解しなおすことは、この世界とそこに生きている自己や他者をふさわしく愛する、新たな観点を与えてくれるとの根源的洞察をトマスは抱いていた。この世界を秩序に満ちたものとして肯定的な仕方で哲学的に捉えなおすことは、宗教的な啓示をもより肯定的に捉えなおすことにつながり、そのことがまたこの世界やそこに生きている自己を更に肯定的に受けとめなおすことにつながるといった生産的な循環が成立しうるとトマスは考えたのだ。

「在る」ということ雑感(8)

“在る”ということの“地”と“図”という議論を、もう少し、しつこくやってみる。“在る”ということの“地”が無でないということは可能か。つまり、在るということがデフォルトであったとすれば、「在るということは、どういうことか」という問いが無意味となる…。だからといって、「在るということは、どういうことか」という問いが無意味になって困るのは、それを根源的な問いであるとして哲学の体系をつくった人であろう。そこで、視点を変えて、在るということは自明であるとしていけば、違った方向に考えを進める可能性があるのではないかと思う。

そこでは、根源を問うというのではなくて、(この場合、倫理的側面とか実践的側面として、問う意味がないということになろう)今、ここにあるということから出発することになろう。それは日常の些細な営みや想いをひとつひとつ掬い上げて大事にする考えだろうか。

その一つの実例の可能性として考えてもいいのではないかと思うのは、『論語』に表わされた孔子の実践的な思想があるのではないか。

2015年4月12日 (日)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(28)

バフェットのもとでバークシャーはなにか大きな間違いを犯したのでしょうか。さて、作為の誤りは一般的ですが、ほとんどすべての大きな間違いは購入をしないときに起こりました。とてもうまく行くことが確実だった時のウォルマート株を購入しなかったことを含めて。不作為のエラーはとても重大でした。もし、幾つかのチャンスを掴んでいたなら、バークシャーの自己資本は少なくとも500億ドルを上回っていたことでしょう。本当に確実だと認めるのに十分な賢明さがなかったのです。

最後のタスクは次通りです。バフェットが引退するとしたら、バークシャーの素晴らしい業績は続くかどうか予想します。

その答えは、イエスです。バークシャーは多くの永続的な優位さに根ざした勢いをもった子会社の事業を抱えています。

さらに、鉄道と公共事業の子会社は、今、新しい固定資産に多額の投資をする望ましい機会を提供しています。そして、多くの子会社は賢明なボルトオン買収に取り組んでいます。

もし、バークシャー・システムが現在のままであれば、複合的な勢いとチャンスがあまりにも大きいので、バークシャーが普通の会社よりもずっと長く残ることが確かです。たとえ、(1)バフェットが明日引退し、(2)彼の後継者が突出した能力を持たない人で、(3)バークシャーが大規模な買収を二度と行なわなくても、です。

しかし、このようなバフェットがすぐに引退する状態を仮定していて、彼の後継者が「突出した能力がない」などということはないでしょう。たとえば、アジッド・ジェインとグレッグ・アベルは「世界的」という言葉でも過小評価になってしまうことが明らかな才能です。「世界のトップ」こそが私が選ぶ形容です。幾つかの重要な点で、彼らはバフェットに優っているところを持っています。

そして、私は、ジェインもアベルも(1)バークシャーは離れることはなく、(2)バークシャー・システムの変更を望まないと信じています。

私も、バフェットの引退とともに、新たな事業の望ましい買収が終了してしまうとは思っていません。今、バークシャーは大きさと我々の行動主義の年齢のために、望ましい買収のチャンスはそれほど多くなく、そしてバークシャーの600億ドルの現金は建設的に減少していくと、私は思います。

私の最後の仕事は、この50年のバークシャーの偉大な結果が、どこかほかでも有益であることを証明できることを考えることです。

答えは、明らかにイエスです。バフェットの初期の頃には、バークシャーには大きなやるべきことがありました。それは小さなたくわえを大きく有益な会社にしていくことです。彼が自身が向上を続け、彼のような人々を連れてきたので、官僚主義を回避し、1人の思慮深いリーダーを長い間信頼することによって、その問題は解決されました。

これを典型的な大企業のシステムと比べてみましょう。大企業は本部に多くの官僚機構を持ち、およそ59歳になってCEOをようやく引き継ぐと、静かに考える時間もなく、間もなく決まった定年になって辞めさせられるのです。

私はバークシャー・システムのバージョンは、しばしば他でも試されるべきで、官僚主義の最悪の特質がしばしば癌細胞のように扱われるべきだと思います。官僚主義を定着させた良い例はジョージ・マーシャルが、将軍の選抜に際して年功を無視する権限を議会から得たことによって、第二次世界大戦の勝利に貢献したことです。

チャーリー・マンガー

 

断続的に長くなりましたが、今年のバフェットの手紙は、これで終わりです。

2015年4月11日 (土)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(27)

では、バークシャーは、このような標準的なものとはかなり違う会社の個性をどのようにして獲得することができたのでしょうか。

さて、バフェットはわずか34歳の時でさえ、バークシャーの株式の約45%を押さえ、他の大株主すべてから完全な信用を得ていました。彼は望んだシステムを導入することができました。そして、彼はそうして、バークシャー・システムを作り上げたのです。彼は他の会社にも適合する単一のシステムを作ろうとしたのではありませんでした。たしかに、バークシャーの子会社は自身の事業活動においてバークシャー・システムを必要としていませんでした。そして、それぞれが別々のシステムをうまく使っていました。

では、彼はバークシャー・システムを何を狙って設計したのでしょうか。

私は、長年にわたり、幾つかの重要なテーマを見てきました。

(1)彼は、とくにシステムを自分で始める際に、合理性、スキルそして重要な人々の献身を最大化しそれを継続することを望みました。

(2)彼は至る所でウィン・ウィンとなる結果を求めました。例えば、それを与えることで忠誠を得るというような。

(3)彼は長期的に結果を最大化する決定を求めました。ふつうその決定を行ない、長くそこに留まる決定権者から求められるものです。

(4)彼は、本部の大きな官僚機構からほとんど必然的に発生する弊害を最小にしたかったのです。

(5)彼は、ベン・グレアム教授のように、達成させる知恵の広がりに個人的に貢献したかったのです。

バフェットがバークシャー・システムを開発した時、利益はすべて、これについてくると考えたのでしょうか。いいえ、バフェットは偶然に実行しているうちに改善させていことで、少し利益をえました。しかし、望ましい結果を見たときに、これを強めました。

なぜ、バークシャーはバフェットのもとで、うまく行ったのでしょうか。

主なものとして4つのことがあります。

(1)バフェットの構造的な特徴

(2)バークシャー・システムの構造的な特徴

(3)幸運

(4)一部の株主や、報道機関も含む他の称賛者の間で、奇妙なまでに篤い忠誠が広まったこと

私は4つの要因のすべてが存在し、貢献したと思います。しかし、重心を担ったのは、構造的特徴と忠誠そしてそれらの相互作用によるのです。

とくに、バフェットは活動を数種類に絞り、それらに対する緊張を最大限に高め、それを50年にわたり維持する決意をしました。これは異常なことです。バフェットはロジャー・フェデラーがテニスで上達したと同じ理由で成功しました。

バフェットは、実質的に、有名なバスケットボールのコーチであるジョン・ウッデンが勝利を得た方法にならっていました。ウッデンは試合時間のすべてを7人のベストの選手に実質的に割り当てることを学んだことで、ほとんどのリーグ戦を勝利しました。その方法では、二線級の選手に対する代わりに、対戦相手は常にベストの選手と対戦しなければなりません。そして、ベストの選手たちは、とくに試合時間中は、普段よりずっといいプレイをするようになりました。

そして、バフェットはウッデン以上にウッデンの方法をつきつめ、彼の場合は7人ではなく1人の人物にスキルの発揮するのを集中させましたので、彼のスキルはより改善され、50年の間に年をとってもバスケットボールの選手のようにスキルが落ちることはありませんでした。

さらに、重要な子会社のCEOにしばしば長期にわたり権力と権限を集中させたことにより、バフェットは、またウッデンのような効果を彼らにも与えました。そして、その影響はCEOのスキルと子会社の業績を伸ばしました。

それから、バークシャー・システムは多くの子会社とそのCEOに非常に望ましい自治を与え、バークシャーは成功し、広く知られるようになったので、その結果はより多くのよりよい子会社をバークシャーにひきつけることになりました。CEOの場合も同様です。

そして、よりよい子会社とCEOは本部からの注意を、あまり必要としなくなり、しばしば“好循環”と呼ばれることを作り出しました。

バークシャーが重要な子会社として損害保険会社を常に持っていたのは、どの程度までよかったのでしょうか。

驚くほど、うまくいきました。バークシャーの野心は極端でしたが、それでも、望むものは得られたのでした。

損害保険会社は、しばしば、バークシャーの保険子会社とおなじように、株主資本とだいたい同じくらいの価値で、普通株に投資します。そして、この50年間で、スタンダード&ブアーズ500は税引きで年率10%増加し、それが追い風を引き起こしました。

そして、バフェット時代の初期の十年間にバークシャーの保険子会社での普通株は、バフェットが期待したように、インデックスを大きく上回りました。そして、のちに、バークシャーの保有する株式が膨大になったことと所得税上の問題の両方がリターンのインデックスを上回る部分を少なくし(長い期間ではなかったが)なくなってしまう原因となったときに、別の有利な点が現れました。アジッド・ジェインは莫大なフロートと大きな引き受け業務利益を生み出す巨大な再保険ビジネスを何もないところから作り上げました。そしてガイコのすべてはバークシャーの傘下に入り、市場占有率を4倍にしました。そして、主に、有利な評判、引き受けの規律、良いニッチ市場を見つけ維持したこと、そして傑出した人材を獲得し抱えたことによって、バークシャーの残りの保険事業は非常に良くなりました。

それで、後に、バークシャーのほとんど独特で全く信頼できる会社の性格と大きな規模がよく知られるようになり、その保険子会社は他社では入手不可能な、未公開の証券を買うという魅惑的なチャンスに数多くあい、それをものにしました。これらの証券の大部分は満期が決まっており、優れた結果をもたらしました。

保険におけるバークシャーの素晴らしい結果は、自然とそうなったものではありません。通常、損害保険ビジネスは、たとえうまく運営されたときでも、平凡な結果しか残せないものです。そして、そのような結果では貢献しません。バークシャーの結果は、あまりにも大きかったので、バフェットがスマートさを維持しながら若さを取り戻して小規模な基盤に戻ってやり直したとしても、再現することはできないと思えるほどです。

バークシャーはコングロマリットとして拡大したことでデメリットを受けたでしょうか。いいえ。その拡大の機会は事業エリアの拡大に役立ちました。そして、一般的に他社であるような弊害は、バフェットの手腕によって起こりませんでした。

バークシャーは自己株式の代わりに現金で買収したのでしょうか。そうですね。バークシャー株と引き換えに何でも得るのは難しかったからです。それはあきらめるのと同じくらいの価値があったからです。

さて、バークシャーにはよりよい機会を補完する方法論的な有利さがありました。買収することに圧力をかける「買収部門」に相当するようなものは決してありませんでした。そして、あらかじめ取引に賛成するように考えている「ヘルパー」からのアドバイスに頼ることは決してありませんでした。そして、バフェットは専門知識をあまり主張しなかったので、自己欺瞞を寄せ付けませんでした。一方、投資家としての長い経験に助けられて、大部分の会社経営者よりビジネスにおいて何を行い、何をしなかったかについて、よく知っていました。そして、最終的には、バークシャーは他の多くの会社よりもよりよいチャンスを得たときでさえ、バフェットは超人的な忍耐を示して、ほとんど買収することをしませんでした。例えば、彼のバークシャー経営の最初の10年間で一つの事業(テキスタイル)を死ぬ間際まで見届け、2件の事業を取得しました。それで差し引き1件の増加です。

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(26)

副会長の考えること チャーリー・マンガー

バークシャー・ハサウェイの株主の皆様

私は、ウォーレン・バフェットの下でバークシャーの類稀な成功の50年を間近に見てきました。そして、今、私が独立の立場で彼からの祝いの言葉を補うことは適切なことでしょう。私は5つのことを試みたいと思います。

(1)小規模で避けられない悲しい運命にあった織物のコモディティ・ビジネスから現在の成長したバークシャーにしていったマネジメントシステムと方針を説明する

(2)そのマネジメントシステムと方針がどのように生まれたのかを説明する

(3)バークシャーが、なぜそれで、うまくいったかを説明する

(4)バフェットがすぐに始めたなら、素晴らしい業績が続くのかどうか予測する

(5)この50年にわたるバークシャーのあゆみが他でも役立つことを含んでいるかを考える

バフェットのもとでのバークシャーのマネジメントシステムと方針(ここでは一括してバークシャー・システムという)は早くから確立していました。それは次のようなことです。

(1)バークシャーは広大なコングロマリットになりましたが、有益な予測ができない行動を嫌います

(2)このトップ企業はCEOが最大限の自治を与えて経営する子会社を通して、あらゆる事業を行います。

(3)コングロマリットの本部には、会長、CFOと会計監査と内部統制でCFOを補助する数人のアシスタントによる小さなオフィス以外に何もありません。

(4)バークシャーの子会社には、いつも損害保険会社が主要なものとしてあります。グループとしての保険会社は引き受け業務による利益を生み出す一方で、投資のための相当な“フロート(未払いの保険からの負債)”を生み出すことも期待されています。

(5)子会社にはそれぞれ独自のシステムがあるので、全体としての人事制度、ストックオプションやその他のインセンティブ、定年制などといったものはありません。

(6)バークシャーの会長は以下のほんの少しのことを行なっています。

(ⅰ)彼はほとんどすべての証券投資を管理しています。それらの証券はバークシャーの損害保険会社が保有しています。

(ⅱ)彼は重要な子会社のCEOを選任し、彼らの報酬を決め、突然のケースに備えて彼が後継者に推薦するものを聞いて置きます。

(ⅲ)彼は子会社の競争の優位を伸ばした後、それによって子会社で生じた余剰現金を新たな子会社の買収などのグループの配置のために配分します。

(ⅳ)彼は子会社のCEOからのコンタクトにはすぐさま応じられるようにして、自身からはほとんどコンタクトを求めません。

(ⅴ)彼はアニュアルレポートのために長大な、論理的で有意義な株主への手紙を書きます。それは、彼が受け身の株主であったら、そうあってほしいと望むように、そして年次株主総会で何時間もの質疑応答に便利なようにデザインされています。

(ⅵ)彼は引退する前もした後も長い間、顧客、株主や同僚にとってよき人物であるという文化の模範となろうとするでしょう。

(ⅶ)彼の最優先事項は十分な時間をとって静かに読書し考察することです。とりわけ、何歳になっても断固として学習しようとします。

(7)新たな子会社は、新たに発行された株式ではなく、現金で買収されます。

(8)バークシャーは留保している利益が1ドルに対して株主のための市場価格が1ドルを上回っている限りは配当を払いません。

(9)新たな子会社を買収する際に、バークシャーは会長がよく理解した良好なビジネスに対して公正な価格を支払おうとします。バークシャーはまた、長い間、本部の助けを求めることなくうまく経営し、それを続けることが期待できる現場のCEOもまた欲しがっています。

(10)子会社のCEOを選ぶ際に、バークシャーはCEOの持っているものとして、ビジネスと周囲に対する信頼性、スキル、エネルギーそして愛情を確保しようとします。

(11)望ましい重要事項の一つとして、バークシャーは、ほとんど子会社を売却しません。

(12)バークシャーは、子会社のCEOを、別の無関係な子会社に移すことはしません。

(13)バークシャーは、子会社のCEOに、一定の年齢になったからといって引退を強制することは決してしません。

(14)バークシャーは、()あらゆる状況での完璧な信用と()現金を容易に入手可能であること及びいざという時に頼りになる信用を維持しようとしているため、未払いの負債は持ちません。

(15)バークシャーは大規模なビジネスの将来の売り手には友好的です。そのようなビジネスの売却の提案には迅速な対応を心がけています。もしそれが取引に至らなかったとしても、その提案についてバークシャーでは会長と他に1~2名以外には誰も知りません。そして、彼らは部外者には、そのことを決して話しません。

バークシャー・システムの要素とそれらが合わさった規模は全くユニークなものです。他の大企業でも私の知る限り、実際に、このような要素の半分すらあるところはないでしょう。

2015年4月10日 (金)

「在る」ということ雑感(8)

“在る”ということの“地”と“図”という議論を、もう少し、しつこくやってみる。“在る”ということの“地”が無でないということは可能か。つまり、在るということがデフォルトであったとすれば、「在るということは、どういうことか」という問いが無意味となる…。だからといって、「在るということは、どういうことか」という問いが無意味になって困るのは、それを根源的な問いであるとして哲学の体系をつくった人であろう。そこで、視点を変えて、在るということは自明であるとしていけば、違った方向に考えを進める可能性があるのではないかと思う。

そこでは、根源を問うというのではなくて、(この場合、倫理的側面とか実践的側面として、問う意味がないということになろう)今、ここにあるということから出発することになろう。それは日常の些細な営みや想いをひとつひとつ掬い上げて大事にする考えだろうか。

2015年4月 9日 (木)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(25)

 我々の取締役は、我々の将来のCEOがバークシャーの取締役会が良く知っている内部の候補から生まれると考えています。我々の取締役は、また、後任のCEOは若い人で、長くこの職を務められる人でなければならないと思っています。CEOが平均して10以上舵を握っていれば、バークシャーは最良の動きをするでしょう。(新しい犬に古いトリックを教えるのは難しい。)そして、彼らは65歳でも隠退しそうにありません。(皆さんもお気づきでしょう)

バークシャーの事業買収と大規模な投資のいずれもで、反対者がバークシャーのCEOと友好的で満足を感じる関係にあることは重要です。そのようなタイプの信頼で関係を強化するには時間がかかります。しかし、見返りは莫大なものとなります。

取締役会も私も、我々には、現在、CEOとして私の後を引き継ぐ適任者がいると思っています。私が死ぬか、引退した翌日から仕事を引き継ぐ準備ができている人です。この人物は特定の重要な分野で、私が今している仕事よりよい仕事をするでしょう。

 投資はバークシャーにとって常に重要で、数人の専門家によって扱われます。彼らは、投資判断が幅広くバークシャーの事業や買収計画と調整される必要があるので、CEOに報告します。しかし、全体として、投資マネージャーは大きく自治に委ねられています。この領域でも、これからの数十年はすばらしいものとなるでしょう。トッド・コームズとテッド・ウェシュラーは、それぞれバークシャーの投資チームで数年を過ごしましたが、あらゆる点で第一級で、とくに買収の評価においてCEOの助けとなります。

すべてを語りました。チャーリーと私が現場を離れた後、バークシャーは理想的な配置をしています。我々には適材適所で人がいます。正しい取締役、マネージャー、将来の後継者。さらに、我々の文化は至る所に埋め込まれています。我々のシステムは何度も生まれ変わることができます。かなりの程度まで、よくも悪くも文化は自身を恒久化させていくものです。非常に正当な理由で、我々に似た価値をもつオーナーやマネージャーはユニークで永遠性のバークシャーに引きつけられ続けます。

 バークシャーを特別なものにしているもうひとつの重要なものに敬意を表しないならば、怠慢ということになるでしょう。株主の皆さんです。バークシャーには他の大企業にないオーナーの基盤があります。その事実は昨年の株主総会で極端な形で示されました。そこで株主は委任状による決議が提案されました。

結果:会社は必要以上の現金を所有しているのに対して、株主はウォーレンのように億万長者ではないから、取締役会は株主に対して相当額の年間配当を支払うことを検討する。

その決議を提案した株主は総会に現れなかったので、彼の提案は正式に議場に提起されませんでした。それでも、委任状は集計され、それらは啓蒙的でした。

もっともなことですが、A株は比較的少数の株主によって保有され、多数の持分がありますが、配当議案について89対1で反対と答えました。

注目すべき投票はB株主の結果でした。彼らの数は何十万にもなり、おそらく百万を越えますが、彼らの投票は、およそ47対1で反対に投票しました。

我々の取締役は反対を推奨しました。会社としてはそれ以外に株主へ影響を加えようとはしませんでした。それにもかかわらず、投票数の98%が事実上こう言ったのです。「配当は要らんから、利益全額を再投資してくれ」。大小にかかわらず朋友たる株主のみなさんが、わたしども経営陣の持つ考えと協調しているのは、実に見事なことで、報われたと感じました。

みなさんのようなパートナーがいてくださり、わたしは幸運な男です。

ウォーレン・バフェット

 

「在る」ということ雑感(7)

 “在る”ということの“地”と“図”という議論。敢えて“在る”というということは“図”に当たるわけであるから、それがよってたつ“地”は“在る”ということがない。ないということになる。つまり、虚無ということではないか。ということは、「無」ということがデフォルトで前提されているということになりはしないか。

これは、じつは“在る”ということは不断の営みということも考えられるのではないだろうか。身も蓋もない話に聞こえてしまうかもしれない。デフォルトが虚無であるとすれば、人は不断に“在る”ということをしている。多少の誤解を恐れずに譬えて言えば、虚無という深淵に陥らないため、絶えず必死にもがいているというイメージだろうか。つまり、“在る”ということは虚無に陥らない行為のようなことということか。そういう行為の営みを人は実は行っている。そういうイメージでは存在論的差異とはそぐわない。言うなれば“在る”ということでもがいているということであれば、表わすことはできないことになる。

このことは、もっと誇大妄想の風呂敷をひろげていくと、虚無から“在る”というように立ち上がってくるというので、無から生じているのは奇蹟であり、神の所業をやってしまっているということになるのでは。というより、むしろフィヒテの絶対的主観主義みたいに、結局は人が思うということにすべてが収斂してしまう危険も、その反面ある。

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(24)

 我々はこのような保守主義を採っていますが、バークシャーの一株当たり収益力の基盤を高めていくことはできると思います。それは営業利益が毎年増加するという意味ではありません。アメリカ経済には干潮と満潮があるでしょうし、ほとんど干潮となるでしょう。その経済が弱まる時、我々の利益もそれに追随します。しかし、我々は自力での成長を成し遂げ、ボルトオン買収や新たな分野への進出を行ないます。したがって、私は、バークシャーが根底にある収益力を毎年伸ばしていくと信じています。

大きく伸びる年もあれば、ほとんど伸びない年もあるでしょう。市場、競争と機会はチャンスがいつめぐってくるか決まっています。そのすべてを通じて、バークシャーは現在我々が所有している堅固なビジネスとこれから我々が買収する会社との組み合わせの力で、前進を続けていくでしょう。その上、ほとんどの年には我が国の経済が、ビジネスにとって追い風となるでしょう。我々は幸運なことにアメリカをホームグラウンドとしています。

 悪いニュースは、バークシャーの長期的な成長が、ドルではなく成長率で、劇的になれず、過去50年に達成したものに近づけなかったことです。規模は大きくなり過ぎました。私は、バークシャーはアメリカの企業の平均を上回っていると思います。しかし、我々に強みはあるとしても、大きいものではありません。

結局、おそらく今から10年から20年の間、バークシャーの利益と資本資源は、会社の利益のすべてを賢明に再投資する経営を許さないレベルになります。その時、我々の取締役は余剰利益を分配する最良の方法は、配当か自己株の買戻しがそれらの両方かのいずれかを決めなくてはなりません。皆さんは取締役が正しい決断をするのに満足できるでしょう。

 バークシャー以上に株主を気にかけている会社はありません。30年以上の間、我々は117ページの株主方針を毎年、再確認してきました。それは次のように始まります。「我々の形態は会社ですが、我々の姿勢はパートナーシップである」皆さんとの契約は石に焼き付けられるほど堅いものです。

我々にはパートナーシップの約束を実行する準備をするのに十分の知識とビジネス志向で際立った取締役会があります。誰も、目先のお金のためだけに仕事を引き受けているのではありません。バークシャー以外のどこにもありえない報酬体系で、取締役は手数料しか支払われません。彼らは、バークシャー株の所有者であることを通じた報酬と重要な事業の良き管理者であることの満足感を受け取るのです。

彼らと家族の所有する株式は、多くの場合相当な価額になっていますが、(ストックオプションや補助金で購入されたものではなく)市場で購入されたものです。その上、他のほとんどすべての大企業とは違って、我々は取締役や執行役員に役員責任賠償保険をかけていません。バークシャーでは取締役はみなさんの立場で歩いています。

我々の文化を将来に向けて確実に継続させるため、私は息子のハワードを取締役ではない会長として私の後を引き継ぐことを提案しました。私の提案理由は、間違ったCEOの選任があった際に、それをただすべきであり、そのときに会長は強い力を使う必要があるからです。私は、バークシャーでは、このような問題が起こる可能性が低いことを皆さんに約束することができます。それは他の公開企業と同じようにです。しかし、私が勤めた19の公開会社の取締役会では、凡庸なCEOが自身が会長を兼務していると、CEOを取り替えるのがいかに難しいかを見てきました。(そのこと自体は行なわれましたが、たいてい非常に時間がかかりました。)

選任されれば、ハワードは賃金を受け取らず、すべての取締役に求められている以外の仕事で時間を過ごすことはしません。彼は単に取締役がCEOに対する疑念を持ち、他の取締役が同じように疑念をもっているか知りたい時にときに彼のところに行くという、安全弁です。複数の取締役が疑念を抱いていれば、ハワードの議長としての地位は、問題に対し即座に、適切に、対処することを可能にします。

 適切なCEOを選任することは非常に重要で、バークシャーの取締役会で多くの時間をかけている問題です。バークシャーの経営とは主に資本配分の役割と、我々の事業子会社を統率する傑出したマネジャーを選び、維持することの両方です。あきらかに必要であれば、子会社のCEOの置き換えもやらなければなりません。これらの仕事はバークシャーのCEOに、ビジネスに対する幅広い知識を持ち、人間行動に対する深いと洞察をもった合理的で穏和で決断力のある個人であることを要求します。彼が自身の限界をわきまえていることは重要です。(IBMのトム・ワトソン・シニアは「私は天才ではないが、ある領域ではうまくやれる、だからそこにいる」といいました。)

人格は重要です。バークシャーのCEOは自身ではなく、会社に“すべて”をかけなければなりません。(私は扱いにくい言葉遣いを避けるために男性名詞を用いていますが、性別は誰がCEOになるかの決め手には決してなりません)彼は、必要をはるかに上回るお金を稼ぐことはできないのです。しかし、重要なことは彼の業績が彼らをはるかに凌いだとしても、エゴや貪欲さが彼の大部分の惜しげもなく報酬を受けている同僚たちに肩を並べる動機を与えないということです。CEOのふるまいはマネージャーに全面的な影響を及ぼします。株主の利益が彼に優先することが彼らに 明らかである ならば、彼らは、一部の例外を除いて、その考え方も受け入れます。

私の後継者は、ひとつの特定の強さがなくてはなりません。それは傲慢、官僚主義そして自己満足といったビジネス腐敗のABCを退ける強さです。このような会社の癌細胞が転移してしまうと、会社の最も強いものでさえよろめいてしまうのです。それを証明する実例はたくさんありますが、友好を保つために遠い過去のからの事例だけを持ってきます。

ゼネラル・モータース、IBM、シアーズ・ローバックそしてUSスチールは、全盛期においては巨大な産業の頂点に立ちました。彼らの強さは難攻不落に見えました。しかし、結局のところ私が遺憾に思った破滅的な振舞いによって、CEOや取締役たちが考えることも出来なかったように深みに落ち込んでしまいました。かれらの一時の財務力や歴史的な収益力は、それへの防御になることを証明できませんでした。

用心深くて決然としたCEOのみが、バークシャーがより大きく強くときに、衰弱させる力を防ぐことができます。彼は、チャーリーの嘆願を忘れてはなりません。「私がどこで死ぬことになるのか教えて欲しい。そうすれば、私は決してそこへ行かないであろう」。我々の非経済的な価値が失われたら、同じように経済的価値も雲散してしまうでしょう。「トップの状態」はバークシャーの特別な文化を守る鍵です。

幸いにも、我々の将来のCEOが成功するために必要とする構造は所定の位置にしっかりできています。現在バークシャーに存在している権限の委譲は官僚主義に対する理想的な特効薬です。事業運営の感覚では、バークシャーは巨大企業ではなく、大きな企業の集まりです。本部に、我々は委員会を持ちませんし、予算を子会社に押し付けることもしませんでした。(多くが、それらを重要な内部手段として使いましたが)我々には、他の会社には当然ある、法務、人事、広報、IR、経営企画その他の事務所も部署もありません。

もちろん、我々には専門バカにとどまらない監査機能は備えています。しかしながら、通常の程度を越えて、我々は財産管理人の鋭い感覚で我々のマネージャーが遂行するのに任せています。結局、我々が彼らの会社を獲得する前までは、彼らは正しく経営していたのですから。さらに、一部の例外を除いて、指令の流れや限度のないチェックや官僚主義の階層によって成し遂げられるより、信頼して任せることのほうがずっと良い結果を生みます。もし立場が逆転したならば、我々が互いに同じように望む方法で、チャーリーと私はマネージャーたちとの交流を試みています。

2015年4月 8日 (水)

「在る」ということ雑感(6)

存在論的差異っていうのは、結局のところ“在る”ということを特権化して、ほかの走るとか眠るとか転ぶなどといったこととは違うということを言いたい、ということになると思う。たしかに、私が、走っているときと走っていないときとがあるけれど、在るとは在ることがないときとがあるということはない。私は、ずっと在る。ただ、ここでの“ずっと”というのはあいまいだ。今は、それは措いておく。私が在るのではなければ、走ることも、走らないことも“あり”えない。(なんかデカルトっぽくなってきた?)

その前、そういうずっと在るのを、敢えて在ると言わなければならないのだろうか。というのは、敢えて在ると言うということは、在るのではないということもあるから、在るということだ。ここで、“地”と“図”の話に、少し戻る。今、話題にしている、敢えて在るというからには、それは、在るが“地”の上に書かれる“図”に当たるということだ。では、このとき“地”に当たるのは何なのだろうか。つまり、在るということに関するデフォルトはどんな場合なのだろうか。ちょっとこんがらがってくるか。別の場合を考えてみる。走るということであれば、走るというのは一種特殊な状態というのは、いわずもがなで、走らないというのがふつうで、だから敢えて走るということを言う言葉がある。走らないというのは敢えてそうだという必要のないことだから、の反面だ。そう考えると、在ると敢えて言うということであれば、在るのではない、つまり無いという、いってみれば虚無の状態がデフォルトということになる。だから、在るということが奇蹟的で、それに驚くということがあるのではないか。

 牽強付会の議論だろうか。

2015年4月 7日 (火)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(23)

バークシャーのこれからの50年

では、これからの先の道を見ましょう。私が50年前にこれから何があるのか予想を試みたら、そのいくつかは全く的外れだったことを心に留めて置いて下さい。この警告をもちながら、私のファミリーがバークシャーの将来について私に尋ねられたら言うであろうことを、今、これから話します。

 最初に、何よりもまず、我慢強いバークシャーの株主の皆さんには永久的な資本損失の可能性は単一会社の投資の中に見つけられるのと同じくらい低いと、私は信じています。それは、1株当たりの固有の価値が時間とともに上昇していくことが、ほとんど確実であるからです。しかし、この明るい予想は重要な注意を伴います。もし、投資家のバークシャー株への入り口が異常に高ければ、いわば高値、帳簿価格の2倍に近い価格はバークシャーの株価の最高値ですが、投資家が利益をえるのに長い年月がかかってしまうでしょう。言い換えると、健全な投資は、それが上り値で買われれば、無分別な推測に変わってしまうかもしれないのです。バークシャーも、この真実から免れてはいません。

しかしながら、投資家が会社が自己株を買い戻す価格よりも高値にしたバークシャーの購入品は、相当の期間内に収益を生み出すものでなくてはなりません。バークシャーの取締役は、固有の価値と思っている価格を下回る価格での買戻しを承認することしかできません。(我々の意見では、それは他社の経営陣にはしばしば無視されてしまう買戻しの本質的な基準です。)

購入した後1~2年で売るつもりである投資家に対して、私は入場価格がいくらであろうとも、保証を提供することはできません。ベン・グレアムが何十年も前にいいました。「短期的には市場は投票マシーンですが、長期的には計測マシーンになる」時に、投資家の投票の決定はアマチュアもプロも似たような、狂気の沙汰になりえます。

私は市場の動きを確実に予測する方法を知らないので、少なくとも5年は購入したバークシャーの株式を所有し続ける人にだけ、バークシャー株式の購入を勧めます。短期的な利益を求める人は、どこか他を探すべきです。

警告をもうひとつ。バークシャーの株式を借金して買うべきではありません。我々の株価は最高点からおよそ50%落ちたことが、1965年以降に3回もありました。この種の低下が、いつかまた、起こるかもしれません。いつ起こるかは誰も分からないのです。バークシャーは、ほぼ間違いなく持ち続けている投資家には満足を与えます。しかし、レバレッジをかける投機者には壊滅的な選択となります。

 私は、バークシャーが財政上の問題を経験させるような事件の可能性は、基本的にゼロであると思っています。我々は、常に千年に一度の大洪水の覚悟があります。実際、その準備ができていない人に向けてライフジャケットを売っているのですから。バークシャーは2008年から2009年にかけてのメルトダウンの間、「最初の応答者」として重要な役割を演じました。そして、我々は貸借対照表と潜在利益の強さを2倍以上にしました。皆さんの会社はアメリカのビジネスのジブラルタルであり、これからもそうであり続けます。

財務的な持久力をどんな状態でも維持するために、会社は次の3つの力を蓄えています。(1)収益の太く、信頼できるフロー、(2)多大な流動資産、(3)目先の現金をあまり必要としないこと。その最後の必要性を無視すると、会社に予想外の問題を経験させてしまうことになります。あまりにしばしば、有力な会社のCEOは規模が大きくても債務は借り換えることができると感じています。2008年から2009年において、多くの経営陣は、そういう考え方がどれほど危険であるかを学びました。

いかにして我々が常に3つの要点の上に立っているかについて、説明します。一番目として、我々の収益のフローは、巨大で、大規模な多数のビジネスから流れ出てきます。我々の株主は、現在、永続的な競争での有利さを備えた大企業を多数所有しており、将来はさらに多く獲得していきます。たとえ大災害が以前のあらゆる経験をはるかに上回る保険損失を起こしても、このような多様化はバークシャーの収益が持続することを保証することが出来ます。

二番目として現金です。自己資本利益率のような目安を下げる非生産的な資産として、好ましいビジネスでは現金は時に最小にすべきものと考えられています。しかし、ビジネスにとって現金は人間にとっての酸素と同じようなもので、それが存在する時はそれについて考えることはありませんが、なくなったときに掛け替えないものと思い至るのです。

アメリカのビジネスは2008年に、その研究事例を提供しました。その年の9月に、多くの長く反映していた会社が、突然、この数日の小切手が不渡になるおそれに直面したのでした。一夜で、彼らの財務における酸素が消えたのでした。

バークシャーでは、我々の「呼吸」は息切れすることはありませんでした。実際に、9月下旬から10月上旬までの3週間にあいだ、我々はアメリカの企業に156億ドルもの現金を供給しました。

我々は、常に少なくとも200億ドル、ふつうは現預金でそれ以上、は手元に持っているので、それができたのです。そして、本当に必要な時以外は、現金の他の代用品ではなく、流動性を提供することができる財務省短期証券にして持っています。支払期限がきたときに、法的に認められた支払い手段は現金です。

最後に、三番目の要点です。我々は、突然にいっぺんに多額の要求を受けて終わるような取引や投資を決して行ないません。それは、我々がバークシャーを短期的なサイズの大きい負債を負わせないし、巨額な担保が差押えになる可能性のあるデリバティブ契約やその他のビジネスの契約を結ばないことを意味します。

数年前、我々は明らかに誤った価格で担保要件がわずかしかないあるデリバティブ契約の当事者となりました。これらは、確かに利益をもたらすものであることが分かりました。しかし、最近では、新たなデリバティブ契約は完全な担保条件を求めるようになりました。それで、利益の可能性があることとは関係なく、我々のデリバティブに対する興味は終わりました。ここ数年、我々は公益事業で事業の目的上で必要とされるわずかなこと以外は、デリバティブ契約を結んでいません。

さらに、我々は、保険契約者に現金を引き出す特約のある保険契約を結んでいません。多くの生命保険製品には、大きなパニックの時に「逃げる」ことができることにする償還機能が含まれています。しかし、そのようなタイプの契約は、我々が生きている資産損害保険には存在しません。もし、我々の収益が縮小すれば、フロートは落ち込んでしまうでしょう。しかし、非常にゆっくりとしたペースではあるでしょうが。

我々の保守主義は、極端だと思う人もいるでしょうが、いつ起こるかは分かりませんが、人々がパニックを起こすということは完全に予想できることによるものです。ほとんど毎日は何の問題もなく過ぎますが、常に明日はどうなるかは分かりません。(私は、1941年12月6日も2001年9月10日も、特に不安を感じませんでした。)そして、明日、何が起こるか分からないのならば、何が起こってもいいように準備しておかなければなりません。

64歳の65歳で引退を計画しているCEOは、これから1年間に発生するリスクの可能性はわずかであると計算しているかもしれません。実際、彼は「99%」正しいかもしれません。しかし、その確率は我々に訴えるものではありません。たとえ、比喩的に100発装填可能で1発の弾丸だけしか込められていない拳銃であったとしても、我々は、皆さんが我々に委託した資金でロシアン・ルーレットのような運用を決してしません。皆さんが希望するものを追求する際に必要とするものを失うリスクを犯すとことは狂気の沙汰であるというのが、我々の意見です。

「在る」ということ雑感(5)

ハイデガーの死を前にして…というのは、何か短絡的とか思ってしまったりして…、橋川文三が、ドイツの大学生たちはナチスの戦争に疑問を抱きつつも祖国のためと自身の存在に向き合うということで、敢えて戦場の死に赴くのに、ハイデガーの「存在と時間」が背中を押した、ということを聞いたからかもしれない。(そういう橋川は日本浪漫派の保田與重郎の『日本の橋』をドイツの大学生と同じような心情で読んだと言っているが)

ハイデガーは真理というのは、ギリシャ語の語源に遡って明らかに提示されたもの、つまり、そのものズバリなことだという。現代の我々が真理はなかなか見えない深遠なものと考えているのは、ギリシャ以来様々な偏見とか、よけいな覆いが真理に被さってしまったからだという。しかし、そういうものに慣れてしまった我々の目は、もはや真理を直接見ることはできない、そこでプラトンの『国家』にある洞窟の比喩を持ち出す。我々が真理を見ることができるのは、洞窟に映った真理の影がせいぜいだ。

そんな勿体ぶったところは、わざわざ死なんかを持ち出して、そうでなくては存在と向き合えないとか言ってしまうのに通じてはいないか。

こんなことをホザいてしまう、私の方が偏見にとらわれていると言えなくもない。

2015年4月 6日 (月)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(22)

時々、専門家はバークシャーに特定の事業のスピンオフを提案します。これらの提案は意味がありません。我々の会社は、個別の会社としてよりもバークシャーの一部として、のほうが価値があるのです。その理由の一つは、企業同士であるいは新しいベンチャーに速やかに税金がかからずに資金を動かすことのできる能力です。その上、もし、事業を切り離したりすれば、ある経費が全部あるいは一部が重複することになります。たとえば、このような例です。一人の取締役のためにバークシャーの経費はわずかです。これを何十もの子会社に分割してしまうと、その取締役に対する総コストは急騰してしまいます。それで、調整や支出の管理をしなくてはならなくなります。

最後に、我々が子会社Bを所有していることによって子会社Aに大きな税効率が生まれることがあります。例えば、バークシャーの公益事業は、それ以外のバークシャーの事業が莫大な課税所得を生み出しているからこそ、税額控除を受けられるのです。このことはバークシャー・ハサウェイ・エネルギーに風力発電や太陽光発電の分野において、他の公共事業会社以上の有利さをもたらします。

投資銀行は、その行動に応じてペイしてもらうため、買収者に公開企業に市場がつけている価格の20%から50%のプレミアムを支払うように絶えず訴えます。銀行は買い手に対し、プレミアムは「支配する価値」や買収したCEOが責任を引き受けるという素晴らしい事実によって正当化されると説明します。(どんな買収したくてしょうがないような経営者がこれに挑戦するのでしょうか)

数年後に、銀行家は全く関係のないような顔をして再び現れ、そして、“株主価値の鍵をあける”ために以前買収したビジネスのスピンオフの正当性を訴えます。もちろん、スピンオフは所有している会社から何の保障的支払いもなしに「支配する価値」を手放させます。銀行は、スピンオフした会社は、親会社をおおっている官僚主義から解放され、経営者が起業家的になるので、反映するだろうと説明します。(我々が以前に会った優秀なCEOはこのくらいにして

分割された会社が後に再びスピンオフを望むのであれば、おそらく大きな支配のプレミアムを支払うことを主張する銀行によって主張されるでしょう。(銀行仲間によるこの種の精神的柔軟性は業務に手数料がついてくるというより手数料に業務がついてくる場合がずっと多いと言わせます。)

もちろん、バークシャーでも、いつかスピンオフや売却が規制当局から必要とされる可能性はあります。銀行持ち株会社のための新しい規制が、イリノイ州ロックフォードで我々が所有する銀行に分割を求めた1979年、我々はスピンオフを行いました。

しかしながら、自分から進んでスピンオフを行なうことには、我々は価値を見出しません。我々は支配するという価値、資本配分の柔軟性、そして時には重要な税務上の有利さを失うことになるのです。スピンオフした事業を運営すれば、子会社を見事に経営しているCEOたちは、成果をあげていくのが困難になっていくでしょう。その上、親会社とスピンオフした事業は、一度切り離されたら、それらが一緒のまま続いていた時よりもはるかに多額のコストがかかってきます。

 

***********

 

スピンオフの話題から離れる前に、以前に記載したコングロマリット、LTV、から学んだことを見て行きましょう。しかし、ここでお話しするのは、D誌の1982年10月号でジミー・リングについての小さな記事で読むことができます。インターネットで調べてみましょう。たくさんの会社のバカ騒ぎによって、リングは1965年にたった3600万ドルでちょうど2年前のフォーチュン500リストの14番目にあたるLTVを取得しました。リンクは全く経営スキルを表わさなかったことに注意しなければなりません。しかし、チャーリーは自分自身を過大評価する人を侮ってはいけないと、ずっと昔、私に教えてくれました。そして、リングは、まさにそういう人物でした。

リングは自らの戦略に“プロジェクト再配置”と名づけ、大企業を買収し、それから、部分的に個別の事業をスピンオフさせました。LTVの1969年のアニュアルレポートで、その後に続く魔法を説明しています。「最も重要なのは、買収はやり方によっては2プラス2を5にも6にもする試みであるべきです」報道、一般大衆、そしてウォール街は、こういう話が大好きでした。

1967年リングは、ゴルフ用品や調剤薬局に手を広げた食肉加工業者であるウィルソン社を買収しました。その後間もなく、彼は、親会社を三つに分け、それぞれを、食肉加工のウィルソン社、ウィルソン・スポーツ用品とウィルソン医薬としてスピンオフさせました。これらの会社は、間もなく、ミートボール、ゴルフボール、失敗ボールとして、ウォール街で知られるようになりました。

その後間もなく、リングがイカロスのように太陽に近づきすぎて飛んだことが明らかになりました。1970年代初めまでに、リングの帝国は溶融し、彼自身LTVからスピンオフ、つまり解雇されました。

定期的に金融市場は現実離れすることがあります。それを皆さんは期待しているのでしょう。ジミー・リングは、また、現れるでしょう。彼らは信頼できるように見え、聞こえます。報道は、彼らの言葉にぶら下がるようです。銀行は、彼らのビジネスのために戦います。彼らの言うことは、「働く」という言葉です。彼らの初期の追随者たちは、とても賢いと感じるでしょう。そこで、我々の提案です。彼らが何をしても、2プラス2は常に4に等しいことを忘れないことです。そして、誰かが皆さんにその数字が、どのくらい時代遅れかと話す時、財布のジッパーを閉めて、休暇をとって、2~3年後に安くなった株を買いに戻ってくればいいのです。

 

***********

 

今日、バークシャーが所有しているのは、(1)比類のないビジネスの集合と良好な経済見通し、(2)一部の例外を除いて、いつも子会社の経営とバークシャーに没頭しているすばらしい経営幹部たち、(3)収益力と財務力の多様性と、いかなる状況でも失われることがない流動性、(4)自分の事業を販売する相手を探しているオーナーやマネージャーたちの多くが最初に選ぶということ、(5)我々が50年間働いて育てて、今、岩のように堅くなった、多くの大企業の比べて特徴的な文化です。

これらの強さは、我々の経営の素晴らしい基盤です。

2015年4月 5日 (日)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(21)

それで、チャーリーと私はバークシャーのコングロマリット構造のどこに魅力を見出したのでしょうか。話しを簡単にしましょう。コングロマリット形態は賢明に利用されるのであれば、長期的に資本の成長を最大化させるために最適の企業形態なのです。

資本主義の賞賛すべき長所の一つは、資金を効率的に割り当てることができるということです。その議論は市場というものが有望な企業には投資を向けますが、衰える運命にある企業には投資しないということです。それは事実です。すべての余剰の資本主義市場での配分は、ふつう、どんな選択肢よりもはるかに優れています。

それでも、資本の合理的な動きに対する障害はしばしば起こります。1954年のバークシャーの議事録が明らかにしたのは、織物工業からの資本の引き上げが必要だったのが、経営陣のはかない望みと利己心のため数十年先送りされてきたことでした。たしかに、私自身、あまりにも長い間、時代遅れの織物工業を捨てることを先送りしていました。

衰退している事業で用途のない資本を有しているCEOは、その資金は事業とは無関係な事業にその資本を移すようなことは、めったにしません。このような移動は、普通、長年の同僚を解雇したり、経営の誤りを明らかにすることを余儀なくされます。その上、たとえ当人が引き受けるように説得されても、そのような移動に従事するCEOはいないでしょう。

株主の立場からは、事業や産業で資本を再配分しようとする時、税金と諸経費は個人投資家には重い負担となります。彼らは、ふつう、この仕事に仲介者を必要としているので、免税となっている機関投資家でさえ資本を動かすときには大きな経費に直面することになります。それから、投資銀行、会計士、コンサルタント、弁護士そして投資再配分の享受者はその多額の費用のおこぼれにあずかろうと、騒ぎ立てます。資本の移動は安くは済まないのです。

対照的に、バークシャーのようなコングロマリットは理性的で最小のコストで資本を割り当てられています。もちろん、このような形態であること自体が成功を保証するわけではありません。我々はたくさんの間違いを犯していますし、これからももっと多くの間違いを犯すかもしれません。しかし、我々の形態の利点は凄いんです。

バークシャーでは、税金やその他のコストによる多額の費用を生じさせることなく、我々は追加投資をするには機会が限られている事業から大きな見込みのある他の分野の事業に多額の資本を動かすことができます。その上、我々はもともとの産業で長年にわたり生活してきたことによる歴史的な先入観を持たず、現状を維持することに既得権を持つ同僚からの圧力を受けることはありません。それは重要なことです。馬が投資判断を支配していたとしたら、自動車産業は興らなかったでしょう。

我々が備えている、もうひとつの有利な点は、普通株で、素晴らしい企業を購買できる力です。それは、経営者のほとんどに対して開かれた行動指針ではありません。我々の歴史を通して、この戦略的な選択肢は非常に便利であることが分かりました。幅広い範囲のオプションは意思決定をシャープにします。我々が株式市場を通じて確かに、細切れに提供されたビジネスは、しばしば同時に提供される完璧なビジネスより、はるかに魅力的です。その上、我々が有価証券で獲得した収益は我々の資金調達能力を超えるような特定の大きな買収におおいに役立ちました。

実際には、世界は、現実に多くの会社に対して開かれた範囲を越えて、我々に機会を提供してくれるので、バークシャーの牡蠣です。もちろん、我々は評価できる経営見通しの企業に絞っています。そして、それは重大な制限です。チャーリーも私も多くの偉大な企業が今から10年後にどうなっているか、まったく分かりません。しかし、単一の産業の限定した経験しかもたない役員に課される制限よりは、かなり小さなものです。それに加え、我々は単一の産業を営んでいることによって可能性を制限されている多くの企業に比べて、はるかに大きな規模で収益を上げることができます。

私は、以前にシーズ・キャンディは資金需要の規模を越える利益を生み出していると述べたことがあります。もちろん、我々はキャンディの事業を拡大するためにもその資金を賢く使いたいと思っていました。しかし、そのような我々の試みの多くは、無駄なものでした。それで、非効率な税金や関連コストなしに、我々はシーズ・キャンディが生み出した余剰資金をつかって、他の企業を購入する助けとしました。もし、シーズ・キャンディが単独の会社のままであったのであれば、その利益は、時には重い税金とたいていは重要な機関経費や関連経費によって大きく減少させられたあと、投資家に分配されてしまうものでした。

 

***********

 

バークシャーには、長年にわたり、ますます重要になってきた、もうひとつの利点があります。我々は、今、優れたビジネスのオーナーや経営者たちの選択の拠点になっています。成功したビジネスを所要しているファミリーが、売却を考える時には、複数の選択肢があります。しばしば、最高の決定は何もしないことです。人生においては、一人がよく分かっていることで繁栄しているビジネスを持っていることより、ひどいことはあるものです。しかし、じっとしていることはウォール街では、あまり推奨されません。(床屋なカットしたほうがいいかと尋ねるのと同じようなことです)

ファミリーの一部が売却したいと思い、他の人はこのまま続けたいと思った時に、公募はしばしば意味あることとなります。しかし、オーナーが完全に現金化したいときには、ふつう、二つ方法のうち一つを選ぶことになります。

最初ひとつは2つの会社を統合することによる“相乗効果”をしぼりとる可能性を垂涎しているライバルへの売却です。この買い手は、オーナーがビジネスを始めた時に一緒に助けた同僚たちの多くを取り除くことを常に考えています。しかし、思いやりのあるオーナーは、彼らの多くがそうなのですが、ふつう、長年の同僚が悲しげに古いカントリー・ソング“彼女が得たのは金鉱で、おいらが得たのは立坑さ”を歌いながら去っていくのを望まないのです。

売り手の第2の選択肢はウォール街の買い手です。数年間、このような買い手は、自分たちをレバレッジバイアウトと呼んでいます。1990年代初期には、その言葉は悪名をとどろかせていました。皆さんは『野蛮な来訪者』を覚えていますか。そのときに、これらの買い手は、急いで、自らをプライベート・エクイティと呼び直しました。

名前は変わったかもしれませんが、それだけです。プライベート・エクイティの購入では資産が激減し、実質的に積み上げられます。本当に、プライベート・エクイティの購入者が売り手に提供する金額は被買収企業が耐えられると買い手側が見積もる最大の負債額によって決まる部分もあります。

このあと、ものごとが順調に運び、資産価値が増加し始めると、レバレッジバイアウト業者はしばしば再レバレッジをかけるべく新しい借り手を捜し始めます。それから、収益の一部を莫大な配当として支払います。その結果、ときには否定的な数字になるほど資産は急激に減少します。

実は、資産という言葉は、多くのプライベート・エクイティにとっては良くない言葉です彼らが好むのは負債です。そして、負債は、現在、とても安価であるので、これらの買い手は最高額を支払うことかできます。その後、しばしば、そのほかのさらにレバレッジをかけた買い手に転売されるのです。実質的にビジネスは売買対象の商品になっているのです。

バークシャーは、ビジネスを売りたいと思うオーナーに第3の選択肢を提案します。(時折、経営の交替は必要ですが、)会社の人々や文化が維持された永続的な家です。それ以上に、我々が獲得するビジネスは財務力や成長力を劇的に伸ばします。銀行やウォール街のアナリストとの取引も、終わらせることができます。

売り手の中には、こういうやり方が好きではない人たちもいます。しかし、売り手がそうであれば、バークシャーはあえて競争を求めることはありません。

 

***********

 

2015年4月 4日 (土)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(20)

バークシャーの現在

バークシャーは手を広げているコングロマリットです。そして、さらに手を広げようとしています。

コングロマリットは投資家には評判が悪いことは一般に認められています。コングロマリットに対する、そのような評価は現実に見合うものでしょう。最初に、そんなコングロマリットがなぜ面目を失っているのかを説明しましょう。そして、なぜコングロマリットという企業形態がバークシャーに莫大な利益をもたらし有利さを維持させるかを述べていきます。

私がビジネスの世界に足を踏み入れて以来、コングロマリットは数年間にわたって大きなポピュラリティがありました。1960年代後半の愚かしい事態もありましたが。その時のコングロマリットのCEOのための手順は単純なものでした。CEOのパーソナリティ、宣伝、そして疑わしい会計のそれぞれ、あるいはその三つ全部によって、マネージャーたちは株価を利益の20倍ほどまで操作します。そして、利益の10倍かそこらの価格で売られている企業を買収するためにできるだけ早く株式を追加発行するのです。彼らは会計上は「プーリング法」を適用してます。根底にある企業の価値は一文たりとも変化しないにもかかわらず、一株あたりの利益は自動的に増加します。そして、その増加によって自身の経営の才能を示すのです。彼らは、次に、投資家に対してこのような才能が買収である企業の株価収益率の維持されて当然、あるいは強化されると説明します。最後には、この手順を果てしなく繰り返し、それによって1株あたりの利益を成長させると約束するのです。

1960年代が終わると、ウォール街ではこのペテンが熱狂的に受け入れられました。特にこのようなアクロバットが投資銀行に莫大な手数料をもたらす合併を実施すると、疑わしい操作によって一株あたりの利益の上昇が作られるとき、ウォール街の住人にはすでに、このような事態を疑うことをやめる準備ができています。監査人たちは、コングロマリットの会計に対して、喜んで聖水を撒いて、時には、さらにうまい汁をもっと増やす提案さえしました。あぶく銭が湧いてきたことで、多くの人にとって倫理感が洗い流されてしまいました。

拡大するコングロマリットの一株当たり利益獲得は株価収益率との差異から生まれていたので、そのCEOは低い収益率で売られている企業を探さなければなりませんでした。もちろん、これらは、貧弱な長期見通ししか立てられないとくに凡庸な企業でした。このような深海でうごめいている深海魚のような企業に引かれる事態は、コングロマリットの参加にある企業の中毒症状をひどくしていきました。それは投資家にとっては重要なことではありませんでした。重要なのは取引の速度でプーリング法の会計で利益が増えるように見えることでした。

合併の結果おこる大旋風はちょうちんかつぎの報道から絶賛されました。ITT、リットン・インダスリトーズ、ガルフ・アンド・ウエスタンそしてLTVのような会社がもてはやされ、それらのCEOは有名人になりました。これらの、かつての有名なコングロマリットは、現在までひとつも残っていません。ヨギ・ベラが言うように「すべてのナポレオンにはウォーターゲートが待っている」。

当時、あらゆる会計のペテンは、多くはお粗末な透明性で、許容され、見過ごされました。たしかに、拡大するコングロマリットの舵を握り会計のマジックを使うことができることは、巨大なプラスと見られました。このような事態で株主は現実の事業の状況がどんなに悪くなるかもしれなくても、報告される利益が失望させるものでないと確信できたのでした。

1960年代後半に、私は“大胆で想像的な会計”を自慢する野心的なCEOのミーティングに出席したことがあります。聞いているアナリストの大部分は、業績がどうであるかに関わりなく、自身の予想にそうマネジャーを見出したことで、承認するように頷きながら応答していました。

しかし、最後には、時計が12時を知らせると、すべてはカボチャとネズミに戻ってしまいました。もう一度、ビジネスモデルが高すぎる株式の連続発行に基づいていたことが明らかになりました。連鎖的に(チェーン)不特定多数への配布をするように求める幸福の手紙のように、富を再配分しますが、価値創造をすることはありません。にもかかわらず、二つの現象はこの国では、定期的に花開くように起こるのです。それらはプロモーターの夢であり、しばしば、慎重で巧みにデザインで現れます。しかし、結果はいつも同じです。お金は、騙されやすい者から詐欺師に流れるのです。幸福の手紙ではなく、株によって奪われてしまう金額は圧倒的なものです。

BPLでもバークシャーでも、我々は、株式を発行することに夢中の会社には投資しませんでした。その振舞いは、思い込みの管理、弱い会計、高すぎる株価、そしてしばしば明白な不正のプロモーションを確かに表示するもののひとつです

 

***********

2015年4月 3日 (金)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(19)

チャーリーの青写真があってさえ、私はワウムベックの一件以来、多くの間違いをしてきました。その中で最も恐ろしかったのがデクスター・シューズでした。我々が、この会社を1993年に購入した時、この会社は素晴らしい業績を記録して葉巻の吸いさしのような私には何も見えていませんでした。しかし、この会社の競争力は海外の競争者の出現によって間もなく消え去ってしまう運命にありました。そして、私はそういう事態が迫っていることが見えていませんでした。

その結果、バークシャーはデクスターに4億3300万ドルを支払い、即座に、その価値を失いました。しかし、GAAPによる会計は、私の犯したミスの大きさを記録しきれていません。実際のところ、私はデクスターの売り手に現金ではなくバークシャーの株式を渡したのです。そして、私がその購入のために使った株式は、現在では約57億ドルもの価値があるのです。財務上の失策としては、この件はギネスブックの世界記録に値するようなものです。

私はその後もいくつもの間違いを犯しましたが、それらは収益がもたつく運命にある会社を購入しようとして、バークシャーの株式を使ったのでした。この種の間違いは致命的です。まあまあのビジネスを得るために、バークシャーのような素晴らしい企業の株式を取引に使うことは、取り返しのつかないほど企業価値を壊してしまうのです。

バークシャーが株式を所有している企業でこのような間違いが起こると、我々も財務的に苦しむことになりました(それは、時に私が取締役として勤めているときに起こりました)。CEOが基本的に現実的に次のことが見えていないことが、あまりにしばしばです。買収によって得ることができる株式の本質的な価値というのは、取得した事業のもともとの価値を超えさせる以外にないということです。

投資銀行員が秘かに買収しようとしている取締役会にプレゼンティションをしている時、私はこの非常に大切な数字をその投資銀行員が定量化するのを、未だ見ていない。その代わり、銀行員の焦点は今取得するとしたときの“慣習的な”市場プレミアムを記述することにあります。これは、取得する企業の魅力を計るには最も愚かな方法です。あるいは、この取引が買収者の一株あたりの利益を増加させるかは考慮されないのです(だから、本来は決して決定的であってはならないはずなのです)。望ましい一株あたりの数字を成し遂げようと努める際に、苦労しているCEOやその“ヘルパー”はしばしば空想的な“相乗効果”を持ち出します。(長年にわたり19の会社の取締役として、私は以前の多くの会社が事業を閉じるのに立ち会ってきましたが、“逆の相乗効果”に言及されるのを聞いたことがありません)現実の結果を最初の予想と正直に比較して買収失敗の原因分析をすることは、アメリカの取締役会では、きわめて稀なことです。彼らは、かわりに標準的なきまりきったことをします。

私は、私が去った後もずっとバークシャーのCEOや取締役会が買収の際に株式を使う前に慎重に本質的価値の算出すると約束できます。(たとえ、アドバイザーがその交換を肯定する“公正な”意見をしていたとしても)皆さんは、100ドル札をエイト・テンと交換しても儲けることはできません。

 

***********

 

とくに大規模なうまくいったケースがあったこともあって、全体として、バークシャーがやった買収は、うまくいきました。それで、また、有価証券への投資を続けています。後者は常に獲得した市場価格で貸借対照表で評価され、実現されていない分も含めて、自己資本にすぐ反映させられます。しかし、我々が即金で買った会社は、たとえ、その会社がもともと持っていた価値を大きく上回った金額で売れたとしても、貸借対照表では上方へ再評価されることはありません。とくに、この十年での早いペースで成長をしたことで、バークシャーの子会社の帳簿に表われてこない価値の成長分は巨大なものになっています。

チャーリーの話を聞くことは、大きな成果に結び付きました。

2015年4月 2日 (木)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(18)

チャーリーが私をそこから助け出した

私の葉巻の吸いさし戦略は、小さな額の投資をやっている間は、うまく行っていました。本当のところ、私が1950年代に得たたくさんの一服は、私の10年間の、相対的でも絶対的でも投資パフォーマンスを良いものにしてくれました。

しかし、それでも、私は葉巻の吸いさしに対する例外をほんの少し作りました。その最も重要なものがガイコでした。1951年に後にこの会社のCEOとなるロリマー・ダビットソンと話し合ったおかげで、私はガイコが素晴らしい会社であることを学び、すぐに同社の株式に私の9,800ドルあった自己資金の65%をつぎ込みました。この頃の最初の頃の私の投資のもうけの大部分は、バーゲン価格で取引した平凡な会社への投資から得たものでした。ベン・グレアムから私に教えられた技術で、それは役に立ちました。

しかし、この方法の主な弱点が徐々に明らかになってきました。葉巻の吸いさし戦略の投資は点のような規模の小さいものには有効ですが、そこまでで、それ以上の規模の大きな多額の投資には通用しませんでした。

その上、安い価格で株を買うことのできるマイナービジネスの企業は短期的な投資案件としては魅力的ですが、それらの会社は規模の大きく永続的な事業を構築する基盤としては適当ではありません。結婚相手を選ぶときには、単にデートする相手を選ぶ場合よりも、あきらかに多くの大変な判断基準を必要とします。(バークシャーは高い満足のできる“デートの相手”でした。我々が株式に対するシーバリイ・スタントンの11.375ドルの申し出を受けていれば、BPLのバークシャーの投資に対する年間加重リターンの約40%になっていたでしょう)

 

***********

 

私が葉巻の吸いさし戦略を切り上げて、満足な利益を求めて大規模な合併ができる事業を構築するコースに乗り換えるためには、チャーリー・マンガーを連れてこなくてはなりませんでした。チャーリーは、私と同じように、今、私がいるところから数百フィートの圏内で育ち、若い頃は私の祖父の食料品店で働きました。

我々の年次総会に出席したことのある方ならば、チャーリーが幅広い視野や莫大な記憶力やしっかりとした意見を持っている人物であることはご承知のことと思います。私は必ずしも決断力のないほうではではないので、時に我々はぶつかり合うこともあります。我々の意見が異なる時、チャーリーは、いつもこう言って会話を打ち切ります。「ウォーレン、あなたは頭がよく、私は正しい。だからよく考えてみよう。きっと私に同意するよ」

ほとんどの皆さんがチャーリーが建築に情熱を持っていることはご存知ないでしょう。彼は(自給15ドルの)開業弁護士としてキャリアをスタートさせましたが、30歳のころ、彼が最初に実際に金を稼いだのはロサンゼルス近郊に5棟のアパートを設計・施工したことによるものでした。同時に、彼は55年後の現在も住んでいる家を設計しました。(私のように自分の環境に満足しているのであれば、彼はじっとしているでしょう。)近年、スタンフォードとミシガン大学の大規模な寮を設計し、今は、91歳で他の大きなプロジェクトに従事しています。

しかしながら、私から見れば、チャーリーの建築における最も重要な仕事は今日のバークシャーのデザインだったと思います。彼のつくった青写真はシンプルなものでした。「いい値段で公正な事業を購入することに関する知識を忘れて、そのかわりに公正な価格で素晴らしいビジネスを買いましょう」

自分自身のふるまいを変えることは容易ではありません。私は、ビジネス・スクールで1日も過ごしたことのない弁護士(私ですら3日は出席したというのに)の意見を聴くので、チャーリーの意見もなくて合理的な成功を甘受していました。しかし、チャーリーはビジネスについての格言を繰り返し、私に投資することを決して諦めませんでした。そして彼の論理は反駁できるものではありませんでした。したがって、バークシャーは彼の青写真によってつくられました。私の役割は、バークシャーの子会社のCEOに下請けとしての実務をやらせる総合指揮者でした。

忘れてはいけない1975年のワウムベックの買収のように時折、私が以前に逆戻りすることがなくもなかったけれど、1972年という年はバークシャーにとって転換点となる年でした。それから、ブルー・チップ・スタンプからシーズ・キャンディを購入する機会があり、チャーリーと私、そしてバークシャーは大きな賭けでありました。最終的にはバークシャーに合併されてしまいました。

シーズ・キンディーは西海岸では伝説的な箱入りチョコレートの製造販売業者でした。わずか800万ドルの固定資産を利用して年間400万ドルの税引き前利益を稼いでいました。その上、この会社は貸借対照表に表れてこない巨大な遺産を持っていました。それは市場価格を支配できるほどの広範囲で永続的な競争優位性でした。この強みは、確実に、時とともにシーズ・キャンディの利益を大きく成長させるものでした。さらに良いことには、ほんのわずかの追加投資で実現したのです。言い換えると、シーズ・キャンディはこれから数十年にわたり現金を噴出させるように生み出していくことを期待できるということです。

シーズ・キャンディを経営しているファミリーはこのビジネスに3000万ドル要求し、チャーリーはそれだけの価値があると正しく言ったのでした。しかし、私は2500万ドル以上は払いたいとは思わず、その数字にも心動かされませんでした。(3回提示された固定資産総額に私は息をのみました。)私は見当違いの注意によって、素晴らしいビジネスの購入を逃すところでした。しかし、幸運にも、売り手は我々の2500万ドルの提示額に応じる決定をしてくれました。

現在までに、シーズ・キャンディは19億ドルの税引き前利益をあげ、その成長にために要した追加投資はわずか4000万ドルでした。シーズ・キャンディは、このように、莫大な金額を分配することができ、それは、次にバークシャーが他の利益を生み出し分配してくれる会社を買収するときの大きな助けとなりました。(まるで、ウサギの繁殖を見ているようです。)活動の中でシーズ・キャンディを見ることを通して、私は多くの他の有益な投資に対して目を開かせた強力なブランドという価値についてビジネス教育をうけることが出来ました。

 

***********

「在る」ということ雑感(4)

“在る”ということ、例えば、私が“在る”ということは、私が走るということとは、ちょっと違う。意味内容が違うというのは当然だが、仮に会話の場面を想定してみよう。「私が走っている」と言えば、聞いた相手は私が何をしているか、どういう状態なのか把握できる。しかし、「私は存在している」と言って、私がどうなのか把握できない。もっと具体的なくわしいことを言われないと。たぶん、私たちの日常の生活では、“在る”というのは使われず、走る、歩く、寝る、倒れる、跳ねる…が使われるのだろう。それは日常生活での動きとか状態とかを具体的に示す在り方で、私とか、彼とか、あなたとか個人が、そうなっているという、ということだ。たんに“在る”という言葉だけで表されることになるということなんか、あるのだろうか。 それをハイデガーは、そういう存在がむき出しにはならず、日常では隠れてしまっているのを頽落という言葉で表す。存在がむき出しになっているような状態に普通の人は耐えられないからだという。では、存在がむき出しになるというのは、あるのか、在るとしたらどんな時なのか、それは異常な事態だ。そういう時、普段は意識していないような存在しているということが実感させられるという。端的な例が死に直面した時だ。

2015年4月 1日 (水)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2014(17)

BPLのリソースの多くを瀕死の事業に投入するという最初の誤りを、私は引き止めることができず、瞬く間に過ちを重ねていってしまいました。実に、私の第2の大失敗は、最初の失敗よりもはるかに深刻なもので、私の経歴の中でも最も高くつくものでありました。

1967年のはじめ、私はオマハに拠点を置く小規模だれども有望なナショナル・インディミニティー(NICO)を買収するために、バークシャーに860万ドル支払わせました。(もう1社の小さな保険会社も、その取引に含まれていました。)保険は、私のスウィート・スポットです。私は、この事業を理解し、好きでした。

NICOのオーナーであるジャック・リングウォルトは古い友人で、私個人に、売りたがっていました。どう考えても、彼の申し出は、バークシャーのためのものではありませんでした。それでは、どうして私はBPLではなくバークシャーのためにNICOを購入したのでしょうか。私は、その疑問の答えを48年間探してきましたが、未だによい答えを見つけられません。私は途方もない間違いを犯したのです。

もし、BPLが購入したのであれば、私もパートナーもバークシャーがそうなっていくだろう企業形態の基礎部分となる運命にあった素晴らしい事業を100%を所有することになったわけです。その上、我々の成長は20年近い間、テキスタイルの織物事業に非生産的に資金を投入せざるを得なかったことで、妨げられることはありませんでした。最後に、我々の購入は、我々が、その人々に対する義務を持たないバークシャーのレガシー株主による39%の所有から私とパートナーによる完全取得となりました。私の目の前にこのような事実が迫っていたにもかかわらず、私はNICOの素晴らしい事業の100%と61%所有していたバークシャ・ハサウェイのひどい事業を一緒にすることを選んだのでした。この決定はBPLパートナーから1000億ドルかそこらの金額を見知らぬところにつぎ込んでしまうことになったのでした。

 

***********

 

もうひとつ告解してから楽しい話題に移りましょう。皆さんは、私が1975年に、もうひとつのニューイングランドのテキスタイル・メーカーであるワウムベック・ミルズを購入したことを信じられますか。もちろん、購入価格は私が受け取った資産から見れば“お買い得”で、バークシャーの既存の織物ビジネスとの相乗効果も期待できるものでした。それでも、おどろきですよね、工場を近いうちに閉鎖しなければならかったワウムベックは災害のようなものでした。

そして、いいニュースです。北部のテキスタイル・メーカーは最終的になくなってしまいました。私がニューイングランドをうろうろしていても、皆さんは不安になることはありません。

「在る」ということ雑感(3)

「“在る”というのは、どういうことか?」という問いを、もう少し“地”と“図”ということから考えてみる。この問いに答えるとすれば、「“在る”というのは、こういうことで<ある>」ということになるだろう。あれっ?と思わないだろうか。答えと思しき文の中に括弧をそれぞれつけたが同じ言葉がでてくる(英語ならBeだ)。こうすると明らかになると思うが、問われている当のそのものが、答えの中に出てきてしまっていることになる。これは、数学の定理の証明に、その当の証明している定理を使ってしまうようなもの。これでは、同語反復を繰り返す堂々巡りに行きついてしまう。それでは、答えたことにならないだろう。

そこでズルいことを考えよう。この答えに含まれる“在る”と<ある>は違うものだということにしてしまうことだ。つまり、<ある>は、“地”と“図”の“図”にあたるもので、図があるためには、つねになくてはならない。ということは無ということが認められない。ここが無となってしまえば、“在る”か無いかということ自体を問うことができなくなってしまう。“在る”と<ある>とは、在り方が違う、ということにしないと、「“在る”というのは、どういうことか?」という問いが成立しえない。なんかペテンにかかったような気分…

« 2015年3月 | トップページ | 2015年5月 »

最近聴いたCD