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2015年4月27日 (月)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(8)

前節で論述した「希望と絶望」と密接に連関した感情である「怖れ」と「大胆」という一対の感情の構造について吟味していきたい。この二組の感情は、幾つかの点で交錯した関係にある。まず、「希望」は、「絶望」と対立するのみではなく、「怖れ」とも対立する。全く同じ意味で対立するのではなく、対立の軸が異なっている。「困難な善」という同一の対象に対する「接近」と「後退」という観点から言うと、「希望」は「絶望」と対立する。だが、「困難な悪」と対立する「困難な善」を対象とするという意味では、「希望」は「困難な悪」を対象とする「怖れ」と対立する。同様に「困難な悪」に立ち向かう「大胆」は、「困難な善」から退避する「絶望」と対立する。

「大胆」と「絶望」という感情の対には、トマス人間論の基本的な枠組みを揺るがすように思われる驚くべき特徴がある。善には引き寄せられ、悪からは遠ざかろうとする人間本性の自然な在り方に反して、「大胆」には、「困難な悪」へとあえて近づいていく性質があるからだ。また同様に、絶望には、人間を引き寄せるはずの善から遠ざかるという不思議な特徴がある。

トマスは、「大胆は希望の後に続くものであるか」という問いを立て、これら四つの感情に関する分析を述べている。トマスは、諸々の感情は孤立しているのではなく連動した仕方で共振し共鳴しつつ発生してくる、ということを強調する。人間は、希望しつつ大胆に事態に対処し、また怖れつつ打開状況に絶望するのだ。「大胆は希望の後に続く」というのは単に時間的な意味で「希望」の後に「大胆」が生まれてくると指摘しているのではなく、「希望」が前提になって、それに支えられつつ、悪に立ち向かう「大胆」が生じてくるという事柄上の依存関係を意味している。同じように、絶望は怖れの後に続く、も同様に考えられる。差し迫った恐るべき悪を克服することという善に対する希望を抱くからこそ、人は、差し迫った恐るべき悪にたじろがずに、大胆に立ち向かっていく。また、希望されるべき善に関わる困難という悪に怖れを抱くからこそ、希望されるべき善からの後退と定義される絶望に陥る。このとき、人は、希望という感情に包み込まれるような仕方で絶望という感情に陥っている。希望を前提にしてはじめて大胆が生じ、恐れを前提にしてはじめて絶望が生じている。人間は、一度には一つの感情しか抱かないのではなく、同時に複数の感情が生まれてくることがありうる。いえ、むしろ複数の感情が共存しているのが人間の常態だとも言える。そして、複数の感情は、ごった煮のように一つの感情になってしまうのではなく、深く連動しつつも区別可能な仕方で関わり合う別々の感情として存続している。人間の心がそれ自体として追求するのは善のみであるが、その善を獲得する希望が大いに強まると、その強烈な希望の運動に促されながら、善の獲得を妨げる悪に対しても、心は大胆に向かっていく。大胆は、「困難な悪」が「困難な悪」であるがゆえに「困難な悪」に向かっていくのではなく、「付加された何らかの善」ゆえに「困難な悪」に向かっていく。

価値ある善を達成する希望に心躍らせながら、自らの進路を妨害する悪に大胆に立ち向かう。そのとき、そうした大胆な在り方は、たしかに希望の強烈さに基づいて生まれてきているのだが、だからといって希望という感情と区別できないものではない。希望しつつ大胆に事態に対処するという仕方で、二つの感情の連動が生じている。悪に向かって前進する大胆という感情の奇妙な在り方は、その前提となっている希望とのつながりにおいてはじめて十全に理解できる。「追求」がそれ自体としては善に関わる以上、「悪の追求」と規定される大胆は、それ自体では存在できず、「善の追求」と規定される希望を前提にして、はじめて存在できる。善を対象とする希望という感情が強まると、「困難な悪」に立ち向かい克服することの善が強く自覚され、大胆という心の動きが活性化されてくる。「獲得困難な善」へと進んでいく希望が強くなると、善と切り離し難く結び付いた悪へ立ち向かう姿勢も強くなり、大胆という感情が醸成されてくるのだ。同様に、忌避がそれ自体としては悪に関わる以上、「善の忌避」である絶望は、「悪の忌避」である怖れを前提にして、はじめて存在できる。「差し迫った困難な悪」を対象とする怖れが活性化してくると、心の中で悪がクローズアップされてくるから、「獲得困難な善」の獲得を妨げている悪が強く自覚され、絶望につながる。悪を回避しようとする怖れが強くなると、悪と切り離しがたく結び付いた善をも回避するようになり、絶望が生まれてくる。このように、「差し迫った困難な悪」を対象とする一対の感情と連動しつつ、人間存在を、肯定的な方向へも否定的な方向へも、非常に大きな振れ幅をもってダイナミックに動かしていく。ほんの少し些細な感情の動きがどちらかの方向に動き始めると、最終的には非常に大きな揺れ幅を持ち、対極的な終着地点へと導いていく。そうだからこそ、我々は、一つ一つの感情の発露に、充分に自覚的である必要がある。否定的な感情は否定的な感情を連鎖的に呼び込み、逆に、肯定的な感情は肯定的な感情を連鎖的に呼び込んでいく可能性があるからだ。こうした諸感情の連鎖構造と相乗効果は、人間存在が肯定的な方向にも否定的な方向にも向かいうる巨大なエネルギーを潜在させている事実を示唆している。一回ごとの感情の発露は、些細なことのようにも見えて、実は爆発的に人間を一定の方向へと導いていく潜在力を有している。感情に関して哲学的考察を加える意義の一つは、ここに見出せる。感情の本質や発生経緯を認識することによって、一つ一つの感情について自覚的になり、心の動きの全体を、肯定的な方向へと連鎖的に導いていくための手がかりを得ることができるのだ。

 

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コメント

よくよく考えれば、なるほど、と思うのですが、粗雑な頭のため、じっくりと考えることができず、だからなんなのだ、という気持ちになってしまいます。
出来が悪いのか、感じることはできても考えることに向いていないのか・・・・。

OKCHANさん、コメントありがとうございます。何をどう感じるかによって、考えることが変わってくると思うので、だからなんなんだと思われるのは、すでに周知のことなので、食傷したということなのかもしれません。

恐れ入ります。
食傷するほど勉強していません。
私にとってけっこうバカの壁が高いようで・・・。

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