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2015年4月 2日 (木)

「在る」ということ雑感(4)

“在る”ということ、例えば、私が“在る”ということは、私が走るということとは、ちょっと違う。意味内容が違うというのは当然だが、仮に会話の場面を想定してみよう。「私が走っている」と言えば、聞いた相手は私が何をしているか、どういう状態なのか把握できる。しかし、「私は存在している」と言って、私がどうなのか把握できない。もっと具体的なくわしいことを言われないと。たぶん、私たちの日常の生活では、“在る”というのは使われず、走る、歩く、寝る、倒れる、跳ねる…が使われるのだろう。それは日常生活での動きとか状態とかを具体的に示す在り方で、私とか、彼とか、あなたとか個人が、そうなっているという、ということだ。たんに“在る”という言葉だけで表されることになるということなんか、あるのだろうか。 それをハイデガーは、そういう存在がむき出しにはならず、日常では隠れてしまっているのを頽落という言葉で表す。存在がむき出しになっているような状態に普通の人は耐えられないからだという。では、存在がむき出しになるというのは、あるのか、在るとしたらどんな時なのか、それは異常な事態だ。そういう時、普段は意識していないような存在しているということが実感させられるという。端的な例が死に直面した時だ。

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