無料ブログはココログ

最近読んだ本

« 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(1) | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(3) »

2015年4月21日 (火)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(2)

第1部 肯定の哲学の展開

第1章 肯定的な感情の優位─愛、欲望、喜び─

トマスによると、11の基本感情は、「欲望的な感情」と「気概的な感情」とに大別される。「気概的な感情」は、善の獲得または悪の回避に困難が伴う場面で発現してくる感情である。それに対して、「欲望的な感情」の場合には、困難が伴う否かは、どちらでもよく、関心の焦点とはならない。困難が伴おうが伴うまいが、ともなく魅力的なものへと接近し、有害なものや状況から遠ざかろうとする心の動きが「欲望的な感情」と言われている。

感情の第一の対は「愛」と「憎しみ」である。愛は善との「共鳴」を意味し、それに対して憎しみは悪との「不共鳴」を意味している。ここで注意しなければならないのは、「善」という言葉で意味されているのは、単なる「道徳的善」に限定されているのではなく、「有益的善」─役に立つという意味で善いもの─や「快楽的善」─喜びを与えるとの意味で善いもの─を含む広い意味での善であり、「価値」と言い換えてもいいような概念だという事実である。たとえば、人を愛するとき、人柄が善いから愛する場合(道徳的善)もあれば、役に立ってくれる人だから愛する場合(有益的善)もあれば、一緒にいると楽しいから愛する場合(快楽的善)もある。いずれにしても、愛は、魅力的な「善」に心を動かされることによって生じてくる「好感=気に入ること」を意味しており、それは価値ある対象との「共鳴」とも言い換えられる。このような「善」という言葉の意味について、日本語で考えてみても、「よい」という言葉が道徳的な意味で使用される場合は、必ずしも多くはない。トマスは、価値のあるもの、魅力あるもの全般を「善」という言葉で意味しており、そうした広い意味での「善」が「愛」の抱かれる対象だと述べている。

それに対して憎しみは、魅力的な善との関係を脅かす悪との「不共鳴」と定義される。それゆえ愛と憎しみは同じ平面で対立しているのではなく、常に愛が憎しみに先行している。何らかの善を愛しているからこそ、それを脅かす悪に対して憎しみが生じてくるという構造になっている。ここにおいて我々は既に、トマス感情論における肯定的な方向の優位を見出すことができる。愛(肯定的な感情)と憎しみ(否定的な感情)という対を成す感情に関して、愛は憎しみなしにも存在しうるが、憎しみは常に何らかの愛を前提にするのだ。

感情の第二の対は、「欲望」と「忌避=回避」である。この対は、愛と憎しみの対に基づいて生じてくる。すなわち、何らかの善によって愛が呼び覚まされると、その善を実際に獲得しようとする欲望が生じてくる。対象の魅力によって心を揺り動かされることによって生じてくるのが愛であり、心を揺り動かされる対象の獲得を目指す能動的な心の動きが欲望である。欲望は、まだ対称獲得していないからこそ欲望なのだから、「未来の善」に関わる感情である。それに対して、何らかの悪によって憎しみが呼び覚まされると、その対象を避けようとする忌避の念が生じてくる。忌避は、いまだその憎むべき対象に完全に捉えられていないからこそ生じてくる感情なのだから、「未来の悪」に関わる感情だと言える。

感情の第三の対は、「喜び」と「悲しみ」である。この対は、愛と憎しみ、および、欲望と忌避の対に引き続いて生じてくる感情である。何らかの善によって愛が呼び覚まされ、その愛に基づいて生じてくる欲望が無事に満たされると、喜びが生じてくる。喜びは愛する善の獲得における欲望の休らいによって生じてくる心の充足感のことなのである。それに対して何らかの悪によって憎しみが呼び覚まされ、その憎しみに基づいて生じてくる、その悪を避けようとする忌避の念にもかかわらず、その悪に逃れようもなく捉えられてしまうと、悲しみが生じてくる。

このように、喜びと悲しみの対と、欲望と忌避の対の決定的な相違は、時間軸の中に位置づけることによって、はじめて的確に理解できる。喜びと悲しみの対は、既に実現した現在の事象に関わっており、それに対して、欲望と忌避の対は、いまだ実現していない未来の事象に関わっている。他方、愛と憎しみの対は、現在の事象にも未来の事象にも関わる特質を有している。なぜなら、いまだ獲得されていない善を欲望している時、我々はその善を愛しているからこそ欲望するのであり、また、その欲望対象を獲得したからといって愛が消滅するわけではなく、むしろ、その対象を愛しているからこそ、無事に獲得したことに喜びを感じるのだからである。

また、憎しみに関していえば、いまだ完全に捉えられていない悪を忌避するとき、我々はその悪を憎んでいるからこそ忌避するのであり、また、その対象に逃れようもなく捉えられてしまったからといって憎しみが消滅するわけではない。むしろ、その対象を憎んでいるからこそ、それに捉えられてしまったことに悲しみを感じるのだ。こうして、愛と憎しみの対は、未来の事象にかかわる欲望と忌避の対と、現在の事象にかかわる喜びと悲しみの対の双方の基盤にあり、現在と未来のどちらであるかに限定されない。

以上のように、愛と憎しみ、欲望と忌避、喜びと悲しみという諸感情は、善か悪か、現在か未来かという二つの補助線を引くことによって、鮮やかに分類識別できる。

様々な区別の積み重ねによる感情の分類は、いったん理解してしまうと、あまりに明瞭であるために、我々は、もともとその区別について知っていたような気さえしてしまうかもしれないが、それは、トマスがそうした区別をする前には、我々の多くが注意を明示的に向けることができていなかった区別だ。区別による分類は、我々が混乱した仕方で既に知っているものを明確化する営みだと言えよう。区別が為された後では、我々には、その区別はもともと存在しなければならなかった区別であり、その区別についてもっと知っていたようにも感じられる。区別を理解したう我々にとって、その区別は、トマスによって意図的に作成されたというよりは、むしろ、トマスの言葉を通じて、ふさわしい区別が、事柄全体の明瞭化へと向けて、事柄全体の側から立ち現れてきたと感じられる。こうした「区別」という方法は、感情論の中でのみ使用されているのではなく、トマス哲学の基本的な方法論である「スコラ的方法」の要となっている。トマス哲学の根本的特徴は、しばしば「真理の明示」と規定される。真理を「明示する」こと、それは、我々の日常的意識には隠されているような何らかの啓示的・宗教的な「真理」

を明らかにすることのみを意味しているのではない。我々が或る意味では常に既に知っている日常的な感覚的世界の構造をあらためて明示的に取り出すことを意味している。

« 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(1) | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(3) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(2):

« 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(1) | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(3) »