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2015年4月20日 (月)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(1)

トマスの全体系を貫いて通奏低音のように鳴り響いている一つの根源的な旋律がある。それは、存在するもの全体に対する肯定と讃美の旋律であり、一見否定的な事柄をも巻き込みながらその全体を肯定していく人間の状況打開力と自己肯定力の強調である。自分について一人称で語りはせずに、ひたすら淡々と神学的・哲学的な用語を論理的に駆使しつつ様々な問題を次々と解決していくトマスのテクストに触れながら、その根底に横たわる肯定的な調べを聞き逃してしまうならば、ある意味、真に重要なことすべてを捉え損なってしまうと言えるかもしれない。逆に、この根源的な調べさえ聞き取れれば、トマスが論じているあらゆるテーマを正確に読み解くためのマスターキーを手に入れたことになる。「肯定の哲学」という観点こそ、トマスの全体系を読み解く鍵であり、そして、彼の哲学を現代に生かし直すための橋頭堡となるものである。

 

トマスは、伝統的なカトリック神学を体系化して壮大な神学・哲学体系を築き上げた人物だという説明がしばしば見られる。この説明は一面的と言え、トマスの革新性を捉え損なっている。以下で、トマスの革新性を時代背景と絡めながら説明したい。

アリストテレスがラテン・キリスト教会に与えた衝撃としてしばしば指摘されるのは、「世界の永遠性」と「知性の単一性」という教説が、キリスト教の伝統的な教義と真正面から対立する点が問題とされた事実だ。アリストテレスの世界観では、世界は永遠の昔から永遠の未来まで存続する永遠的なものと捉えられていた。そして、その世界観は、世界に時間的な始まりがあり、いずれ終末がやってくるとのキリスト教的な世界観とは両立しないと思われた。「知性の単一性」とはイスラーム世界を経由した、とりわけアヴェロエスの注釈による「全ての人間においてただ一つの知性しか存在しない」という教説で、このような考えは、知的判断を有する一人一人の個人が倫理的行為の主体であり、神による救いの対象となる主体でもあるというキリスト教的な世界観の根幹を揺るがしうるものであった。

これに対するラテン・キリスト教世界の知識人の対応は大きく三つに分けられる。まず「ラテン・アヴェロエス主義」は、しばしば二重真理説とも呼ばれ、聖書に基づいた信仰の真理とは異なる結果が導き出されようとも、哲学的には正しい真理として、アリストテレスに依拠した真理探究を、アヴェロエスの影響下に理性的に追い求めていく立場だ。これに対して、「保守的アウグスティヌス主義」の立場は、ラテン世界の神学の基盤を形作ったアウグスティヌスに由来する伝統的な神学に依拠し続けていればよいのであって、異教の哲学者であるアリストテレスを受け入れるべきではないとするものであった。そして三番目の「中道的アリストテレス主義」の代表者は、トマスと師匠のアルベルトゥス・マグヌスである。前の二つの立場の明確さと比べると、いかにも生ぬるい中途半端な立場との印象を与えるかもしれないが、それは誤解だ。この立場に属するトマスは、アヴェロエスとは異なる仕方でアリストテレスを読み直し、アリストテレスとキリスト教を両立させることを試みた。例えば、トマスは、知性は一人一人の個人に内在しているという考えがアリストテレスの真意だと解釈した。また、アリストテレスが『トピカ』の中で述べている言葉に基づきつつ、「世界は永遠なものか否か」という問題は、弁証法的な問題─理性によって確実な結論を導き出せない問題─だと解釈することによって、キリスト教の伝統的な教説と両立する仕方でアリストテレスのテクストを受けとめなおしている。トマスのこのような解釈は単なる辻褄あわせではない。アリストテレスを解釈しなおすことによって、キリスト教をも解釈しなおしている。キリスト教という不動の基盤があって、そこにアリストテレスを適用させようとしているのではない。前二者の立場には、アヴェロエス的なアリストテレス、アウグスティヌス的な伝統という不動の基盤があった。それに対して、マスは、キリスト教とは元来無関係であり脅威とも見なされがちであったアリストテレスから目を背けるどころか、正面から向き合うことによって、伝統的なキリスト教観を揺るがすことすらためらわない。中道的アリストテレス主義は、三つの中で最も革新的な立場なのだ。

アリストテレスが与えた衝撃は、単に、「世界の永遠性」と「知性の単一性」という一部の教説の問題性にのみ基づいていたのではなかった。万学の祖と呼ばれるアリストテレスは、自然学、形而上学、倫理学、政治学、霊魂論などこの世界のあらゆる現象におよぶ壮大な体系を築き上げていた。聖書に基づいたキリスト教的世界観のみが、神・人間・世界に関する統一的な理解を与えてくれると信憑していたラテン・キリスト教世界の知識人たちは、アリストテレスのテクストに直面して、世界全体を体系的に理解するもう一つの方式があることに気付かされた。それは、宗教的な啓示に依拠するのではなく、徹頭徹尾理性に基づいてこの世界の全体構造を捉える哲学的な姿勢であった。こうした理性的な包括的世界観に対する直面は、キリスト教信仰の絶対性もひいてはその存在意義をも脅かしうるものであった。

トマスは、アリストテレスのテクストの導入によって直面させられたこうした挑戦から眼を背けず、逆に徹底的な理性的姿勢をキリスト教神学に本格的に導入した。そのことによって、啓示に基づいたキリスト教が、非キリスト教的なものに変質したり存在意義を失ってしまったりするどころか、むしろ、よりキリスト教的なものに高められうると考えた。この世界を人間理性の力の及ぶかぎり哲学的に体系的な仕方で理解しなおすことは、この世界とそこに生きている自己や他者をふさわしく愛する、新たな観点を与えてくれるとの根源的洞察をトマスは抱いていた。この世界を秩序に満ちたものとして肯定的な仕方で哲学的に捉えなおすことは、宗教的な啓示をもより肯定的に捉えなおすことにつながり、そのことがまたこの世界やそこに生きている自己を更に肯定的に受けとめなおすことにつながるといった生産的な循環が成立しうるとトマスは考えたのだ。

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