「在る」ということ雑感(5)
ハイデガーの死を前にして…というのは、何か短絡的とか思ってしまったりして…、橋川文三が、ドイツの大学生たちはナチスの戦争に疑問を抱きつつも祖国のためと自身の存在に向き合うということで、敢えて戦場の死に赴くのに、ハイデガーの「存在と時間」が背中を押した、ということを聞いたからかもしれない。(そういう橋川は日本浪漫派の保田與重郎の『日本の橋』をドイツの大学生と同じような心情で読んだと言っているが)
ハイデガーは真理というのは、ギリシャ語の語源に遡って明らかに提示されたもの、つまり、そのものズバリなことだという。現代の我々が真理はなかなか見えない深遠なものと考えているのは、ギリシャ以来様々な偏見とか、よけいな覆いが真理に被さってしまったからだという。しかし、そういうものに慣れてしまった我々の目は、もはや真理を直接見ることはできない、そこでプラトンの『国家』にある洞窟の比喩を持ち出す。我々が真理を見ることができるのは、洞窟に映った真理の影がせいぜいだ。
そんな勿体ぶったところは、わざわざ死なんかを持ち出して、そうでなくては存在と向き合えないとか言ってしまうのに通じてはいないか。
こんなことをホザいてしまう、私の方が偏見にとらわれていると言えなくもない。
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