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2015年4月28日 (火)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(9)

トマスが列挙している11の基本的諸感情の最後は「怒り」である。怒りに関して第一に着目すべきことは、これまでの諸感情とは異なり、怒りには、対となる感情─対立する感情─が存在しないとされている点だ。怒りは既に降りかかっている困難な悪から引き起こされると、トマスは言う。

「困難な悪」を対象とする感情には、三種類ある。怖れ、大胆、怒りである。そして、怖れと大胆は未来の「困難な悪」、すなわち、差し迫っているにしても、いまだ現在のものとはなっていない「困難な悪」に関わっている。この二つの感情は、「接近と後退の対立性に基づいて」対立している。「困難な悪」へと接近していくのが大胆であり、「困難な悪」から「後退する」のが怖れなのである。他方、怒りは、既に現在のものとなってしまった「困難な悪」を対象とする。「現在の困難な悪」へと立ち向かっていく、すなわち、「接近」していくのが怒りの特徴だ。それに対して、「現在の困難な悪」から「後退」する運動は原理的にありえない。なぜなら、「後退」が不可能な仕方で既に「困難な悪」の真っ只中に取り囲まれているという事態こそ、「現在の困難な悪」の特徴であり、その点において、「差し迫った未来の困難な悪」との相違があるからだ。こうして、「現在の困難な悪」に対して生まれてくる感情の動きは怒りと悲しみのみになる。その際、悲しみは、既に現在のものとなってしまった悪に屈服した結果生まれてくる感情である。このとき、「困難」という要素は既に消滅している。なぜなら、「困難な悪」と言われる際の「困難」とは、回避することが困難という意味だからである。悲しみが生まれてくるのは、まさに、「困難な悪」を回避する数少ない可能性すら消滅し、悪に屈服するしかなくなることによってなのだから、もはや困難か否かという側面は問題にならなくなっている。何らかの悪が回避困難だといわれるのは、あくまでもそれが回避可能な段階においてのみだ。

トマスは続けて、善と悪の反対対立性に基づいて、怒りに対立する感情があるかどうかを吟味し、怒りが「現在の困難な悪」に接近していく心の動きである以上、「現在の困難な善」という対立する極に接近していく感情が存在すれば、それが善と悪の反対対立性に基づいた、怒りに反対対立する感情だといえるのではないかという問題提起だ。この問題に対するトマスの解答は二段重ねになっている。まず、トマスが試みているのは、そもそも、「現在の困難な善」などありえないという事実の指摘だ。「困難な善」の「困難」とは、獲得困難の意味だが、何らかの善が現在のものになっているというとは、困難が無事に克服されたことにほかならないのだから、「現在の困難な善」は、原理的にありえない。このような事実の指摘のみでも、既に、「善と悪の対立性」に基づいて怒りに対立する感情が存在しないことを示すには充分であろうが、トマスは更にもう一つの事実を指摘している。悪が現在のものとなったさいに、悪に屈服する─悲しみが生まれる─あるいは立ち向かうような二つの可能性があるかどうかを吟味し、その可能性を否定している。なぜなら、悪の場合には、困難な悪を回避できず、決定的に巻き込まれてしまったときに、諦めて屈服してしまう可能性もあれば、巻き込まれてしまったことを前提にしつつ、状況打開のためにあらためてその「困難な悪」に立ち向かっていくという可能性もある。だが、善の場合には、善が現在のものになれば、生まれてくる心の動きは、獲得された善のうちに休らい喜ぶという動きのみであって、あらためて「現在の善」へと向かっていくことはない。もう自らのものになっているからだ。

以上のように、怒りには対立する感情が存在しないのだが、その代わりに怒りという感情自体のうちに或る種の対立性・複合性が含みこまれている。トマスは、「怒りの対象は善であるか悪であるか」という問いを立てて、愛や憎しみと怒りの相違を指摘している。愛や憎しみは、或る種、単純な構造をしている。愛は、善き人に善きものを意志し、憎しみは、悪しき人に悪しきものを意志するからだ。それに対して、怒りは悪しき相手に、善という特質に基づいて意志するという、複合的な構造を有している。トマスは、さらに「怒りは憎しみよりも一層ひどいものか」という問いを立て、怒りと憎しみという他者に対する否定的・攻撃的な態度を含みこんでいる感情に関して、どちらがより問題含みで厄介であり悪しきものとなり得るかを考察している。憎むものは、敵の悪を悪である限りで欲求するのに対して、怒る者は怒る相手に対して、その者の悪を、何らかの善という特質を有する限りで正しいと見なしていることに基づいて欲求する、という。

トマスによれば、人間の欲求の対象は常に善であり、たとえ人間が悪を意志していると言わざるを得ない時あってさえ、悪を悪として意志することは決してなく、あくまでも「善の観点のもとに」意志している。例えば、或る人が盗みという道徳的に悪しき行為を為している時、彼が意志しているのは、「悪を為す」ことではなく、道徳的に悪しき行為によって獲得される「有用的善」としての金銭や物品、または盗みの快楽という「快楽的善」こそが、彼の意志の真の対象となっている。そうだとするならば、憎む人は、他者にとっての悪を「悪の観点のもとに」意志するというトマスの言明と矛盾するように思われる。この一見矛盾とも思える事態を解決するための手がかりは、事柄の善悪を論じる議論の水準を一段高めて事態を見直すことにある。すなわち、憎しみにおいては、「他者にとっての悪を悪の観点のもとに意志することにある。すなわち、憎しみにおいては、「他者にとっての悪を悪のもとに意志すること」が自らにとって善と見なされており、怒りの場合は、「他者にとっての悪を善の観点のもとに意志すること」がみずからにとっての善と見なされている。つまり、究極的に言えば、憎しみの場合も怒りの場合も、「他者にとっての悪」が「自らにとっての善」と見なされている点で、両者は共通している。だが、その具体的な内実においては両者には大きな違いがある。憎しみにおいては、「他者にとっての悪」は、自らにとって無条件に善と見なされている。それに対して、怒りの場合は、「他者にとっての悪」は、条件付きで善とみなされている。怒りにおいては、「他者にとっての悪」が「善という特質に基づいて」意志されているとする見解は、そのことを表現した言明なのである。その場合の「善という特質に基づいて」という条件は、換言すれば、「正しいこと=正義という特質に基づいて」という意味である。だが、善に基づくと言う要素が、怒りの場合には、その不可分の構成要素として含みこまれているからといって、怒りは、常に倫理的に善いものになるわけではない。トマスによると、「怒りの無秩序」は、二つの観点に基づいて考察できる。一つは「不適切な欲求対象に基づいたもの」であり、もう一つは「不適切な怒りに基づいたもの」である。後者は、「内的にあまりにも激しく怒る場合、または、外的にあまりにも甚だしく怒りの徴を表現する場合」である。それに対して、前者は、「不当な報復」を欲求する場合だ。正しい報復とは、「相手を傷つけようとする意図によってではなく、害悪を取り除こうとする意図によって」為される報復のことだ。報復する人の意図が、報復の相手を傷つけること自体に向けられ、そこで静止するのであれば、報復は許されない。なぜならば、それは、他者が被る悪を喜びとする憎しみに他ならないからだ。また、他者の悪事に対して悪で応答することは、悪に負けることに他ならず、望ましい態度ではないからだ。

「愛の宗教」であるキリスト教の神学者であるトマスが「報復」を容認していることに意外感を覚える人がいるかもしれないが、トマスはすべての報復を是認しているわけではない。「罪を犯す者の矯正」や「正義の保全」「神の尊祟」といった「善」に対する愛が基盤になっている限りで、報復が不可避の手段として容認されている。

怒りが目指している「正しいこと」が実現する時、そこで達成されるのは、他者からの侵害が行なわれる前の状態への単なる原状回復ではない。それは、否定的な関係性をも包み込むような在り方における、自他の根源的な融和的態度への発展的回復であり、そのような仕方で、怒りという一見否定的な心の動き自体の中に、人間本性の根源的な肯定力が輝き出している。

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