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2015年4月25日 (土)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(6)

第2章 困難に対する直面と克服

本章では、気概的な感情─「希望と絶望」「大胆と怖れ」「怒り」─について、「困難に対する直面と克服」という観点から分析していきたい。

「気概的な感情」の第一の対は「希望」と「絶望」である。何かが希望の対象になるための条件は、次の四つだ。第一条件は「善であること」、第二条件は「未来のものであること」、第三条件は「獲得困難なこと」、第四条件は「獲得可能なこと」である。何かが絶望の対象になるための条件は、第三条件までは希望と全く同一であり、第四条件が「獲得不可能なこと」である点のみが異なっている。すなわち、希望は「獲得困難ではあるが獲得可能な未来に対する接近」であり、絶望は「獲得困難な度合いが高すぎて獲得不可能な未来の善からの退避」である。希望と絶望という心の動きには、一見そう思われるよりも多くの共通点があるのであり、その含意は、次に述べる絶望と怖れの区別によって、より明らかになる。

「気概的な感情」の第二の対は、「怖れ」と「大胆」である。怖れは「抵抗困難な未来の悪からの退避」を意味しており、それに対して、大胆は「困難な未来の悪への接近」を意味している。怖れに関して着目すべき点は、同じく否定的な感情でありつつも、絶望が善を対象にしているのに対して、怖れは悪を対象にしているという興味深い対比が為されていることだ。絶望は、誰もが陥りたくない否定的な感情だが、人間は悪に絶望するわけではない。善を獲得できないことに絶望するのであり、絶望の対象はあくまで善なのだ。それは同じく否定的な感情である怖れが、悪を怖れるのとは決定的に異なっている。我々が通常、曖昧な仕方で「否定的な感情」として一緒くたに分類しがちな複数の感情について、トマスは独自の区別の駆使によって、明確に分類することに成功している。このような区別は、単なる概念的・抽象的な区別に留まるのではなく、我々が自らの心の動きをふさわしく理解して適切な方向にコントロールしていく際に極めて有効な生の技法を提示している。

最後に「怒り」であるが、怖れと大胆という対と、怒りの相違は、時間軸のなかに位置づけることによって明らかになる。というのも、怖れと大胆は、「未来の悪」に関わるという点では共通しており、そこから「退避」するか「接近」するかという方向の違いがこの二つの感情を区分けする。それに対して怒りは、既に現在のものとなってしまった悪と思われる感情なのである。怒りに関するトマスの議論において着目すべき点は、前述のほかの諸感情とは異なり、怒りは対立する感情がないとされている点だ。愛に関しては、愛しているか愛していないかという対立のみではなく、愛しているか憎んでいるかという対立が存在する。喜びに関しても、喜んでいるか喜んでいないかという対立のみではなく、喜んでいるか悲しんでいるかという対立が存在する。それに対して怒りの場合には、怒っているか怒っていないかという対立のみが存在しており、怒りの正反対の感情は存在しない。逃れようのない仕方で悪が既に現在のものとなっているため、悪に対して「怒り」を抱いて立ち向かっていくか諦めるかという選択肢しかなく、諦める際には、「悲しみ」という「欲望的な感情」が生まれてくるのみだから、「怒り」と対になる「気概的な感情」は存在しないのである。

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