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2015年4月24日 (金)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(5)

肯定的な感情の運動の系列である「愛」「欲望」「喜び」と、否定的な感情の運動の系列である「憎しみ」「忌避」「悲しみ」という二つ三つ組の対比は、トマス感情論の中核的な骨組みを成している。ここでは、「愛」「欲望」「喜び」という肯定的な感情の連鎖の構造を、「欲望」を軸に考究したい。

トマスはこれらの概念を明確に区別しているが、「欲求能力」と「欲望」は一見紛らわしい概念となっている。しかし両者は根本的に異なった概念であり、はっきりと区別する必要がある。簡潔にまとめると、「欲求」とは人間の心が有している「能力・可能態」の一つであり、それに対して、「欲望」とは、その「欲求能力」が外界の刺激によって現実化して生まれてくる心の動き(感情)の一つである。そして、欲望と喜びについては、欲望はいまだ実現していないからこそ欲望なのであって、自らを引きつけている魅力ある善がいまだ手に入っていないからこそ、すなわち「不在」だからこそ、欲望という心の動きが持続している。他方、喜びは、魅力的なものが既に「現前」しているからこそ、つまり自分のものとして手元にあるからこそ、生じてくる感情なのだ。こうして、欲望と喜びとの区別は、「不在の善」と「現前している善」との区別、または、「未来の善」と「現在の善」との区別に対応している。

トマスは言う、「感覚に基づいて喜ばしいものものそのものは、欲求能力を自らに何らかの仕方で適合させ合致させる限りにおいて、愛を引き起こす」。それでは、「喜ばしいもの」と「欲求能力」が既に「合致」しているのであれば、すなわち、「喜ばしいもの」が既に現前しているのであれば、そこに生まれているのは喜びであるはずだから、喜びと愛の区別が不明確になってしまうようにも思われる。しかしそうではない。そこでトマスが「一致」の概念を二つに分けていることに注目しなければならない。トマスは「愛する者」と「愛されるもの」との関係において、二種類の「一致」が存在している。一つは「実在的な一致」であり、もう一つは「心の適合性に基づいた一致」である。前者は、「愛されているものが愛する者に対して現在的な仕方で現存している」場合である。トマスによると、これは、「愛の結果」としての「一致」であり、愛する者が愛されるものについて追い求めているところの「一致」である。このような「一致」の実現によって、喜びが生まれてくる。他方、「心の適合性に基づいた一致」の方は、より微妙な「一致」である。それは、「本質的に愛そのものである一致」とも言われる。誰かが何かに心を打たれてそれを好きになってしまうと、その「誰か」は「愛する者」となり、「何か」は「愛されるもの」となる。そのとき、その「何か」は、深く気になる存在として、「愛する者」の心の中に住み始める。「愛する者」は、何をしていても、その「何か」が気になってしまい、その「何」を抜きにしては自分のことを考えなくなるほどまでに、その「何か」を「愛する者」のアイデンティティの不可分な構成要素となる。誰かが或る人の魅力に打たれ、心を強く揺り動かされるとき、まだその相手との親しい関係が成立していない時点であっても、その相手は、その人の心に適う存在として、その人の心と気の話せない在り方で、心の中に深く住み始めるようになる。こうした事態を、トマスは「心の適合性に基づいた一致」と呼んでいる。

「心の適合性に基づいた一致」など、単なる主観的な思い込みにすぎず、「実在的な一致」と比べればほとんど価値がないと思われるかもしれないが、それは誤解だ。たとえば、或る男性が、長らく片想いをしていた女性と、ようやく親しくなり、その後、段階を踏んで結婚までこぎつけ共同生活を始める「実在的な一致」が実現したとしよう。だが、もしもそのとき、何らかの理由で、既にその男性がその女性に対してそれまで抱いていた強い思いを失っていたとしたならば、たとえ外見的には両者のあいだに「実在的な一致」が実現していても、そのような「実在的な一致」は、気の抜けたビールのようなものであって、実質的な意義は極めて希薄だと言えよう。その男性がその女性に対して「心の適合性に基づいた一致」を抱き続けているからこそ、「実在的な一致」にも意味と価値が生じてくる。その意味で、「愛そのもの」である「心の適合性に基づいた一致」とは、「実在的な一致」が実現する前の単なる主観的な準備状態に過ぎないのではない。それは、「実在的な一致」にその真の意義を与える持続的で中核的な原理なのだ。

以上の記述によって、愛と欲望と喜びの区別を明確化する手がかりが獲得された。愛は「心の適合性に基づいた一致」を意味し、喜びは、「実在的な一致」の実現によって生まれてくる。そして、「実在的な一致」が実現する時、「心の適合性に基づいた一致」は消滅してしまうどころか、「実在的な一致」によって生まれてくる喜びの重要な構成要素・前提条件として留まり続けている。このように、それぞれ別の意味ではあるが、愛と喜びは、どちらも「一致」を含意している。それに対して、欲望は、「心の適合性に基づいた一致」は既に実現しているものの、「実在的な一致」はいまだ実現していない段階だと規定できる。欲望とは、「心の適合性に基づいた一致」と「実在的な一致」という二つの一致のあいだの不一致に基づいた運動なのだ。自らがどのような対象と「実在的な一致」を果たしたいのかは「心の適合性に基づいた一致」によって自覚しつつも、現実的にその対象との「実在的な一致」をいまだに果たしていない緊張感が、人を、対象へと接近すべく強く促すのであり、それこそが欲望にほかならない。人が、自己のあるべき在り方、自己によって望ましい在り方、それこそが真の自己だといえるような本来的な自己、そのようなものに対するイメージが心の中でありありと描きつつも、いまだ現実的にはそこまで届いていないという否定性・欠如性、そしてそういった欠如を埋めてくれる善き対象への止めえない衝動、これが欲望なのだ。

欠如しているから、自分の中に不一致を抱えているから、だからこそ、欲望が生まれてくる。だが、それは事柄の一面に過ぎない。欲望という「不一致」は、愛という「一致」と喜びという「一致」とのあいだに架けられた橋のようなものだ。究極的には、人間は自らのなかに「不一致」を抱えているから欲望を抱くのではなく、自らのなかに愛という「一致」を既に有しているからこそ、欲望を抱くのである。そうした意味で、「欠如」としての具体的な欲望を抱着うること自体が、我々の存在の充実した安定性と根源的な発展可能性の表現だといえる。「不一致」である欲望が、「一致」としての愛を前提にして生まれてきて、更には、より内容豊かな「一致」である喜びへと差し向けられているという構造のなかに、常により充実した世界と自己との肯定的な関係の実現へと向けられた人間存在の根源的な動的性格が表現されている。

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