「在る」ということ雑感(6)
存在論的差異っていうのは、結局のところ“在る”ということを特権化して、ほかの走るとか眠るとか転ぶなどといったこととは違うということを言いたい、ということになると思う。たしかに、私が、走っているときと走っていないときとがあるけれど、在るとは在ることがないときとがあるということはない。私は、ずっと在る。ただ、ここでの“ずっと”というのはあいまいだ。今は、それは措いておく。私が在るのではなければ、走ることも、走らないことも“あり”えない。(なんかデカルトっぽくなってきた?)
その前、そういうずっと在るのを、敢えて在ると言わなければならないのだろうか。というのは、敢えて在ると言うということは、在るのではないということもあるから、在るということだ。ここで、“地”と“図”の話に、少し戻る。今、話題にしている、敢えて在るというからには、それは、在るが“地”の上に書かれる“図”に当たるということだ。では、このとき“地”に当たるのは何なのだろうか。つまり、在るということに関するデフォルトはどんな場合なのだろうか。ちょっとこんがらがってくるか。別の場合を考えてみる。走るということであれば、走るというのは一種特殊な状態というのは、いわずもがなで、走らないというのがふつうで、だから敢えて走るということを言う言葉がある。走らないというのは敢えてそうだという必要のないことだから、の反面だ。そう考えると、在ると敢えて言うということであれば、在るのではない、つまり無いという、いってみれば虚無の状態がデフォルトということになる。だから、在るということが奇蹟的で、それに驚くということがあるのではないか。
牽強付会の議論だろうか。
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