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2015年4月30日 (木)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(11)

勇気に対する問題群は四つに分節されている。第一は勇気という徳そのものについて、第二は勇気の諸部分について、第三は勇気の賜物─特に即した行為を実行しやすくなるために神から与えられる助け─に関してであり、第四は勇気の掟についてである。勇気に関する問題群の四つの構成要素のどこにも、勇気の対立する悪徳について論じる部分かは含まれていない。悪徳という否定的なものに関する考察は、勇気についての問題群の構成原理にはなっておらず、徳という肯定的な原理に対して相対化されるような在り方で、各部分に散りばめられている。つまり、勇気に対立する悪徳に関する考察は、「勇気」についての考察から独立して遂行されているというよりは、むしろ、勇気に関する問題群のなかの部分的な構成要素として相対化されて含みこまれている。論述の順序自体の中に、悪徳という否定的要素に対する徳という肯定的要素の優位という肯定の哲学の基本的発想があらわれている。

「徳」とは、語源的に「力」を意味しているからも分かるように、単に社会規範に従うとか、悪事をしないことではなく、困難に立ち向かう「精神の強さ」だ。悪や危険に満ちた世界に直面して萎縮せずに、毅然として自己を持しながら、自他にとっての善を実現していく積極的・肯定的な力である。倫理学の目的は、このような力を形成していく手助けとなることであって、諸々の細かい禁止事項の網によって自己をがんじがらめにすることではない。

信者の魂に対する司牧的配慮という実践的な関心によって導かれたドミニコ会のマニュアルは、告解のマニュアルとして有効であったが、悪徳や罪の提示の仕方は、総じて無秩序でまとまりのないものであった。ある程度のまとまった秩序が提示される場合であっても、諸々の罪の必ずしも完全でないリストが提示されるのみであった。「罪」と見なされる個別的な事例が、諸々の徳についての包括的な教えとは切り離されて列挙されていたために、倫理的生活の総合的な説明のために、倫理的生活の総合的な説明のための枠組みとしては到底不充分であった。

トマスは司教牧的マニュアルの存在意義を全面的に否定したわけではない。それどころか、彼は、それらのマニュアルから多くの素材と洞察を援用してもいる。トマスは、司牧的配慮に基づいた諸々のマニュアルから多くを学びつつも、明確な哲学的洞察に依拠した体系性の欠如に満足せず、より明確な構成原理に基づいた体系的神学の構築を目指していくことになった。それは、「実践」をより豊かな「観想」という基盤の上に据えなおそうとした営みであったとも言える。『神学大全』では、様々な徳や包括的な体系化と徳への勧告は、別々の作業として行なわれているのではない。徳と悪徳を体系的に区別しつつ連関させて据える作業そのものが、「悪徳」の「徳」への依存という基本的な構造を開示し、人間本性の徳への自然本性的な方向付けを明らかにすることによって、自ずと徳への勧告になるように、二つの作業が密接不可分な作業として行なわれている。逆に言うと、同時代の告解マニュアルにおける、非体系的な悪徳や徳の列挙という問題点と、建徳的な側面の欠如という問題点とは、別々の問題ではなかった。告解のマニュアルにおいては、どのような行為がどこまで許され、どこからは許されないかという境界設定に焦点が置かれ、些細な行為を含めてとにかく罪を避けさせることに主眼が置かれていた。それは、禁止事項の列挙にはなっても、人間が成熟していくための全体的な方向性を体系的・肯定的に指し示すような積極的人間論にはなりえなかった。トマスの倫理学は、同時代に広く流布していた告解マニュアルにおけるこのような問題点を克服することを目指したものであった。トマスの倫理学は、「告解」のための「罪」を同定するものではなく、徳の確立へ向けての積極的な促しを与える視点から体系化された作品であり、人生全体を体系的な仕方で肯定的な方向へと導いていくことを意図した実践的な技法の提示だったのである。

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