「在る」ということ雑感(7)
“在る”ということの“地”と“図”という議論。敢えて“在る”というということは“図”に当たるわけであるから、それがよってたつ“地”は“在る”ということがない。ないということになる。つまり、虚無ということではないか。ということは、「無」ということがデフォルトで前提されているということになりはしないか。
これは、じつは“在る”ということは不断の営みということも考えられるのではないだろうか。身も蓋もない話に聞こえてしまうかもしれない。デフォルトが虚無であるとすれば、人は不断に“在る”ということをしている。多少の誤解を恐れずに譬えて言えば、虚無という深淵に陥らないため、絶えず必死にもがいているというイメージだろうか。つまり、“在る”ということは虚無に陥らない行為のようなことということか。そういう行為の営みを人は実は行っている。そういうイメージでは存在論的差異とはそぐわない。言うなれば“在る”ということでもがいているということであれば、表わすことはできないことになる。
このことは、もっと誇大妄想の風呂敷をひろげていくと、虚無から“在る”というように立ち上がってくるというので、無から生じているのは奇蹟であり、神の所業をやってしまっているということになるのでは。というより、むしろフィヒテの絶対的主観主義みたいに、結局は人が思うということにすべてが収斂してしまう危険も、その反面ある。
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