無料ブログはココログ

« 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(3) | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(5) »

2015年4月23日 (木)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(4)

トマス「憎しみは愛よりも強力であるか」という問いを立てる。トマスがこの議論の中で語っているのは、愛と憎しみとの根源的な非対称性とも呼ぶことができる事態だ。我々は、しばしば、愛と憎しみを、同等の力で対立している二つの感情と見なしているが、トマスによると、我々が何かを愛するとき、その基盤に何らかの憎しみがあると想定する必要は全くないが、憎しみの根底には、常に何らかの愛が存在している。

例えば、或る人がその恋人を愛しているとき、それは、その人がその恋人に対して、どこか自らに適合する点を見出しているからだ。そのような適合性に基づいて恋人を愛しているその人は、もしも、その恋人に対して危害を加えたり、自分とその恋人との関係を妨害するような第三者が現れてきたならば、その第三者に対して、憎しみを抱くであろう。それゆえ、そうした第三者に対する憎しみは、恋人に対する愛を前提にしてはじめて成り立っている。恋人を愛しているからこそ、その恋人を傷つける人物に対する憎しみが生まれてくるのだ。こうして、愛はその前提条件として憎しみを必要としないが、憎しみが生まれてくるためには、その前提条件として愛が必要である。対象との「不共鳴」である憎しみは、「共鳴」としての愛をかき乱すものであるかぎり、愛を前提にしてはじめて成り立ちうる。

或る人がその恋人を愛していればいるほど、その恋人との関係を妨げる第三者に対する憎しみは強くなる。その第三者に対する憎しみの強さは、恋人に対する愛の強さの関数として決まってくる。別の観点から言えば、恋人に対する愛という大きな土俵を前提とした上で、その枠組みの中で、第三者に対する憎しみが結果として生まれてきているのであり、その意味において、恋人に対する愛が第三者に対する憎しみよりも強力なのだ。この場合の「強力」とは、感情の動きの論理的な構造に基づいて、愛が憎しみの発生しうるための大前提として、憎しみに基本的な土俵を提供するものであり、人間をより根源的な次元で動かすものであることを意味している。換言すれば、愛によってまず動かされていなければ憎しみによって動かされことも不可能だとの意味で、愛が憎しみよりも「強力」だと述べられている。

ところがトマスによると、ときらは憎しみの方が愛よりも強力だと思われることがある。とりわけ、次のようなことをトマスは挙げている。対象との適合性をその本質としている愛は、非常に強いものであっても、常態化して自然なものと受け止められやすいので、さほど強く感じ取られないようになる。それに対して、対象との「不共鳴」である憎しみは、それほど強くなくても「違和感」として、とても強く感じ取られやすい。

だが、ここで我々は、一つの疑問に直面せざるを得ない。なぜなら、体温計などを使用して客観的に数値化しやすい熱の場合とは異なり、憎しみや愛のような感情の場合には、「感じられる」からこそ感情なのであって、感じ取られてはいないが感情は存在しているのだ、とか、強く感じ取られていないが、実際にはその感情は非常に強力なのだ、と見なすことには、何かおかしな点があるようにも見受けられるからである。逆に言うと、この疑問を解消しうる仕方でトマスのテクストを読解することのうちにこそ、彼の感情論を正確に理解するための鍵がある。すなわち、感情とは、主観的に「感じ取られる」からこそ感情であるであるわけでは必ずしもない。「憎しみは愛よりも強力であるか」という問いに対する解答の末尾で、トマスは「やり大きな愛に対応する憎しみは、より小さな愛よりもより多く動かす」と述べている。感情の本質は、単に主観的に「感じ取られる」か否かという点ではなく、人間存在をその深層において「動かす」原動力として捉えられている。トマスの述べていることをより生き生きと理解するために、身近な具体例に基づいて考えてみよう。例えば、私の愛している友人を傷つける第三者に対して私が強い憎しみを感じる時、私の思いはその第三者に対する憎しみでいっぱいになっており、常態化している友人への愛をあらためて強く感じ取ることないかもしれない。だが、私の心を強く揺り動かす憎しみへと私を強く突き動かしているのは、私と友人との強い絆であり、改めて強く意識することもないほどまでに空気のように常態化しつつ私の存在全体を常に既に深く規定しているその友人に対する愛なのだ。違和感としての憎しみが愛よりも強く「感じ取られる」ことがあるという事実は、憎しみの愛に対する優位を意味するどころかつ、むしろ、憎しみという否定的な感情の起動力となるような仕方で、私の心の中の通奏低音として鳴り響き続けている肯定的な感情である愛の根強さを証している。

« 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(3) | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(5) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(4):

« 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(3) | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(5) »