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2015年4月29日 (水)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(10)

第3章 肯定的な生への促しとしての倫理学

トマスは具体的かつ身近な感情を手がかりにすることによって、人間の生やこの世界を単に観念的に上から肯定するのではなく、心の自然な動きそれ自体のなかに肯定へ向けた可塑的な形成力を見出している。この世界における否定的な側面や、それに呼応した人間精神の否定的な動きに対して眼を閉ざすのではなく、そういったものに直面すること自体のなかに、それを克服していく肯定的な回復力が含みこまれているのだ。だが、だからといって、感情というものは、うまれてくるがままに放置していれば自ずと善い方向に向かうものでもない。自覚的にコントロールされる必要がるものだともトマスは述べている。本章では、人間精神の肯定的な回復力がどのように発現するのかを、大胆と怖れという二つの感情を制御する「勇気」という徳の検討を通じてより具体的に解明するとともに、トマスの知的いとなみにとって、人間存在を肯定的に捉えなおすという課題がいかにも中心的であったのかを、同時代の他のテクストとの対比を浮彫にしていく。

 

「感情」は、或る種の「受動」であるかぎり、人間による能動的なコントロールを超えて襲いかかってくる面があることは否定しえない。だが、だからといって、感情の運動は、人間によるコントロールを完全に超えているわけでもない。たしかに、感情の運動の個別的なケースはコントロールし尽せないにしても、或る人が、全体としてどういった感情をどのような場合にどの程度抱きやすいかということは、習慣づけを通じて、少しずつ方向付けテイクことが出来る。トマスの用語に基づいて言えば、それは「徳」の形成といういとなみであり、大胆と怖れという対極的な二つの感情の抱き方をふさわしく方向づけていく徳が、「勇気」という徳にほかならない。「勇気」とは、立ちはだかる困難に屈せず抵抗し立ち向かう精神の力強さのことだが、だからといって、直面する困難に対する「怖れ」という感情を抱くことと「勇気」という徳を有することが両立しないわけではない。すべての怖れが「勇気」と両立しないわけではなく、「秩序に反する怖れ」が、「勇気」によって克服される。それに対して、過剰に怖れを抱くことは、「臆病」という「悪徳」の特徴だ。怖れるべきものを、然るべき時に、然るべき程度に怖れるのが、理性的な節度に適った怖れ方であり、怖れの過剰のみではなく、その過小すなわち「怖れ知らず」も悪徳である。「怖れ知らず」という在り方が生じてくる原因には三つの場合がある。「然るべき愛の欠如」による場合と、「高慢」による場合と、「愚昧」による場合とである。

第一の場合は、人間である限り、自己の存在の保持へと向けられた自然な愛が完全に失われてしまうことはないとしも、基本的な愛・根源的な自己愛が何らかの仕方で希薄になってしまうことによって、自己愛に基づいた自己保持を脅かす秋に対する怖れが希薄になってしまうことがありうる。「然るべき愛の欠如」に基づいた怖れの欠如は、その人の人間としての存在の充実が根本において病み脅かされていることの現われとして、「悪徳」である。「怖れ知らず」という在り方が生じてくる第二と第三のケースは、どちらも、「愛している善に対立する悪が自己へとやってくることはありえないと見なすこと」に基づいて生じてくる。この場合には、第一のケースとは異なり、「死や他の現世的悪」を全く怖れない場合も起こりうる。それは、「自己を過信し他者を軽蔑する精神の高慢」または「理性の欠落」すなわち「愚昧」ゆえに生じてくる。自己を脅かす悪が自己を襲ってくることはありえないと、高慢または愚昧ゆえに思い込んでしまうがゆえの「怖れ知らず」だ。

「怖れ知らず」と類似したものとして、「向こう見ず」という悪徳も存在する。「怖れ知らず」と「向こう見ず」の違いを一言で言えば、「怖れ知らず」が怖れの過小であるのに対して、「向こう見ず」は「大胆」の過剰である。怖れと大胆が対立する心の在り方なのであれば、怖れの過小と大胆の過剰は、表現の仕方または自体を見る方向性が異なるのみであって、実質的には同じだと考える人がいるかもしれないが、そうではないところに、この議論のポイントがある。

しかし、対処困難な悪に直面したときの心的態度を表わす同一線上に、ゼロをまたいで、プラス側に大胆が存在し、マイナス側に怖れが存在するという在り方で、大胆と怖れはゼロサムゲームを繰り広げるように対立しているわけではない。トマスによると、「怖れの欠如」は「大胆の過剰」とは区別されうるが、「怖れの過剰」は「大胆の欠如」と切り離せない。すなわち、怖れが欠如していれば必然的に大胆が過剰になるとは限らないが、怖れが過剰であるときには必然的に大胆が欠如してくる。怖れを抱いて逃げるべき状況においても怖れを抱かずに逃げない人物が、必然的に、悪しき困難な状況においても大胆に立ち向かっていくとは限らない。単に何もせずに傍観している可能性も充分にある。だが、だが、逃げるべきではない状況においても過度に怖れて逃避的態度をとる人物は、必然的に、困難な状況に対して立ち向かっていくような心的態度(大胆)が欠如してくる。

怖れの過小としての「怖れ知らず」という態度と大胆の過剰としての「向こう見ず」という悪徳との区別は、一見些細にも見えるかもしれないが、そうではない。「怖れ(の欠如)」と「大胆(の過剰)」という二つの密接に絡んだ心の動きを絶妙に区別することによって、トマスは、人間の心に様々な感情を呼び起こしてくるこの世界と人間の心との関係に関して、次のようなことを導き出す。すなわち、大胆と怖れという対立する一対の感情双方の共通の対象であり原因であるのみではなく、大胆は和らげ、怖れは強めるという非対称的なはたらきを為しもする事実が指摘されている点にある。感情の適度なコントロールは、人間が自らの心の中の様々な動きを、主観的に調整することによって成し遂げられるのみではない。感情を生み出す状況それ自体の内に、生み出される感情がどのようなものであり、どの程度の強さを持ったものかを調整する機能が備わっている。危険という困難な悪へとあえて立ち向かう大胆という、状況打開のために必要な感情を生み出しつつも、大胆が過剰になりすぎて不必要なまでに危険に巻き込まれすぎいてしまうことを避けさせるはたらきを、危険な状況自体が人間の心に及ぼしてくる。危険な状況を危険な状況として的確に受けとめること自体の内に、大胆がほどよく生まれてくる要因が内在している。人間は、自らの心の動きをほどよく調整してくるような在り方で自らの心とかみ合うことの可能な秩序ある世界の中の住民として、存在している。個別的・短期的に見れば、我々の心の中には、肯定的な心の動きだけではなく、否定的な心の動きも生まれてこざるをえないが、総体的・長期的には、この世界との絶妙なつながりの中で調和を見出し、肯定的な仕方で情緒的に自己形成していける存在として、人間は存立せしめられている。

「徳」の形成という作業は、自然な心の在り方を強引に抑制してり抑圧したり、逆に無理に前向きにさせたりするようなものではない。そうではなく、自らを巻き込んでくる状況との持続的な共同作業の産物としての「徳」という好ましい在り方は生まれてくる。だからといって、状況自体が有する感情調整力にすべてを任せておけばよいのではない。なぜなら、怖れに関しては、人間がより能動的に関与しなければ、歯止めなく強まってしまう可能性が残されているからだ。そこでとりわけ必要になってくるのが、「勇気」という「徳」の形成である。この勇気は、状況自体が有する感情調整力のみによって形成されるのでもなければ、人間の精神力のみによって形成されるのでもなく、両者の絶妙な相互関係によってはじめて生じてくることができる。否定性を孕んだ状況自体が、人間の能動的で肯定的な事態対応能力を引き出し、育んでくる。勇気という徳は、単に社会や指導者によって義務として外から課されるものではない。怖れに翻弄されがちな自己自身の頼りなさを、徐々にではあるにしても着実に克服し、少しでも頼りになるものとして自身に希望を抱き、肯定的に自己を受けとめなおして困難に満ちたこの世界に対峙できるようになるための原動力として、困難に対処する勇気は存立している。

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