無料ブログはココログ

« 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(6) | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(8) »

2015年4月26日 (日)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(7)

トマスは「希望」と「絶望」を対立する感情として分類しているが、両者の内実を分析することによって、単純な意味で反対とは言えないことを明らかにしている。

まず希望の対象となる四つの条件から、他の諸感情と希望との区別を明確化する。希望の第一の条件は、「善であること」だ。この場合の善とは、単に狭義の道徳的善のみではなく、快楽的善や有益的善をも含む広い意味での善であり、魅力的なもの全般を意味する概念として、価値と言い換えてもかまわないような言葉だ。このような意味における善のみが希望の対象となりうるのであって、誰も、悪しきものすなわち価値のないものや価値を破壊するものを希望する人はいない。この第一の条件によって、希望は怖れと区別される。なぜなら、よいこと、価値のあることを怖れることはなく、悪しきこと、価値を破壊するものこそが怖れという感情の対象となるのだからだ。

希望の第二の条件は、「未来のものであること」だ。なぜならば、既に所有されている現在のものには希望は関わらないからだ。この点において、希望は喜びと異なっている。というのも、喜びは「現在の善」に関わっているからだ。換言すれば、欲求されていた価値のあるものが既に獲得されて、いま現在自らの手元にあるからこそ、喜びが生まれてくる。反対に、希望の対象は、いまだ獲得されていないからこそ、希望の対象なのであって、既に実現していることや既に獲得されているものは、当然ながら希望の対象とはならない。

希望の第三の条件は、「獲得困難なこと」である。すぐに獲得できる力を自らが有している些細な対象に関しては、「希望する」という言葉遣いはせずに、単に、「欲しがる」とか「欲望する」と表現するのが通常だからである。

以上、何かが希望の対象となるための四つの条件のうち三つの条件までの分析を、トマスの論述に即しながら進めてきた。これまでの論述で注意すべき点は、新たな条件の付加によって、それまでの条件だけでは区別できなかった諸感情のあいだに新たな区別が確立されていく構造になっている事実だ。第一の条件「善であること」のみでは区別されなかった希望と喜びが、第二の条件「未来のものであること」の付加によって区別される。そして、第一と第二の条件を合わせた「未来の善であること」のみでは区別されなかった希望と欲望が、第三の条件「獲得困難なこと」の付加によって区別される。このような構造を前提を、最後に第四の条件を検討してみたい。

希望の対象の第四の条件は、「獲得可能なこと」である。なぜなら、人は、どうしても獲得できないものを希望することはないからだ。そして、この「獲得可能」という第四の条件によって、希望と絶望が区別されてくる。ここで注目すべきことは、第四の条件の付加によってはじめて希望と絶望が区別されてくるということ、換言すれば、「獲得困難な未来の善」に関わるという第一から第三の条件だけでは希望と絶望を区別できないという事実だ。そうすると、希望と絶望とは、単純な意味で正反対の感情なのではなく、四条件のうちの三条件までもが共有されていることが判明する。希望という肯定的な響きのある感情が善に関わるのであれば、絶望という否定的な響きのある感情は悪に関わるのではないかと我々は考えがちだが、そうではないとトマスは述べている。たしかに、同じく否定的な響きのある感情である怖れの場合は悪を怖れるのだが、人は、悪について絶望するのではなく、望んでいる善が困難すぎて、自分には到達できないことに絶望する。

トマスは希望と絶望の善し悪しについては、常に善いか悪いかという次元で善し悪しを問題にはできず、個別的な事例を吟味する必要があると考えているようだ。この問題を考察するための手がかりは、「若者と酔っぱらいには希望があるか」と題された考察のうちにある。トマスは、この問いに対して肯定的に答えているが、若者が希望に満ちている理由は、希望の対象である「未来のもの」「険しいもの」「可能なもの」という条件に基づいて捉えられている。第一に、若者は未来に富み過去に乏しいがゆえに、過去に関わる記憶はさほど有さず、未来に関わる希望のうちに生きている側面が強い。第二に、若者の有する身体的な活力が、困難に立ち向かう原動力となるとされている。第三に、挫折や障害に対して未経験な若者は、物事が自分にとって可能だと見なしやすいがゆえに、希望を抱きやすい。これは具体的で理解しやすいが、トマスは別のところで経験は絶望よりは希望の原因と述べている。それは、若者は未経験であるがゆえに希望に満ちているというここでのトマスの論述と矛盾しているようにも思われる。トマスによると、経験が希望の原因であるのは、次のような構造に基づいている。希望の対象は、困難だが獲得可能な未来の善だから、何かが希望の原因となり得るのは、それが何かを人間に可能にしてくれるからか、または、何かが可能だと評定させてくれるからだ。前者は、人間の力・行為遂行能力を実際に増加させるものであり、後者は、自己の行為遂行能力に対する評価を増大させるものだ。前者の具体例としてトマスが挙げているのは、富と力強さ、そしてとりわけ経験である。経験によって、人間は物事を容易に為しうる能力を獲得できる。経験の積み重ねによって、以前はできなかったことを為せるように次第に成長していき、その結果、困難なことも達成可能になっていく。後者の意味では、何かが自分には可能だと評定させてくれるものはすべて希望の原因となる。例えば他者による教育や説得は、独りよがりな思い込みに基づいて絶望している人が、自らの卓越した状況打開能力に自信を持つように説得されることによって希望を抱き始めるというように、希望の原因たちトマスは述べている。そして、この意味では、経験は、希望の原因となる場合もあれば、希望が欠落する原因となる場合もある。なぜならば、経験によって、それまで不可能だとみなしていた事柄が自分にとって可能なのだという評定が生まれてくることがありうるが、反対に、それまで可能だと見なしていたことが自分には可能ではないのだという評定が生まれてくる可能性もあるからだ。こうして、結局、経験は、二通りの意味で希望の原因隣、希望の欠落の原因となるのは一通りにしかすぎないから、どちらかといえば希望の原因と言える。これはしかし、相反する立場が無理に統合されているように見える。

若者が無経験だという事実から帰結するのは、若者には希望の根拠となる経験と絶望の根拠となる経験の双方が欠落しているという点だ。人間は、経験を積み重ねることによって、希望の根拠となる成功体験と絶望の根拠となる失敗体験の双方を積み重ねて行く。自分は、自らの能力や置かれた環境に基づいて、何をどこまで希望でき、何は希望できないのかが、成功体験と失敗体験双方の積み重ねを通じて、次第に分節化されてくる。逆に言えば、多くの経験を積み重ねていない若者にとっては、自分の未来は、いまだ分節化されざれる渾然とした可能性の束となっている。そして、身体的な活力と未来の豊富さにも支えられつつ、未分化で曖昧ではあるが気宇壮大な希望に満ちた若者は、経験を積むことによって、次第に、成功体験を通じた具体的な希望の範囲と失敗体験を通じた絶望の範囲を分節的に確定していくようになる。このような在り方を、筆者は、「経験の希望的構造」と名づけたい。人間が具体的な経験を積み重ねて行くことは、数々の失敗や挫折を通じて自らの能力の限界を思い知らせていくとともに、自らの能力のうちにある「可能なこと」の範囲の輪郭を次第に浮き彫りにさせていく。そして、その限られた範囲における自らの有する可能性を次第に開花させ、限界はあるが手堅い仕方で、自らの能力に対する、また自らの能力が切り拓いていく未来に対する希望を自ずと照らし出していくような構造を、経験というものそれ自体が有している。その意味で、絶望という感情にも、積極的な役割がある。然るべき時に然るべき程度に然るべき事柄に対して絶望するのであれば、それは善き絶望といえる。

たとえば、プロ野球選手になるという希望を持ちつつ日々練習に励んできた野球少年が野球チームのレギュラーにすらなれず、プロ野球選手になることに絶望する時、彼は、たしかに、一時的に落ち込み、悲嘆にくれるかもしれない。だが、そのような絶望を通して彼は新たな自己認識を獲得し、プロ野球選手になる夢を諦め、これまでは得意ではあったがそれほど打ち込んではいなかった数学の勉強に心を向け始め、数学の研究者になる希望を抱き始めるかもしれない。この場合、彼は絶望を通じて、それまで比較的未分化であった自らの有する潜在的な可能性を、新たな仕方で分節化することに成功している。その意味で、絶望という感情が善きはたらきを為していると言える。あまりに楽天的な希望を抱くことは、倫理的に悪しきこととまでは言えないにしても、当人自身の適切な人生行路の選択を誤らせる可能性があるという意味で、不適切だとは言えよう。それに対して、然るべき時に然るべき程度に絶望に陥ることを通じて、人生行路を微修正していく原点に改めて立ち返れるのだ。だが、その場合、「善い」のは飽くまでも、絶望という否定的な感情に陥った後に取ったふさわしい善後策─新たに希望を見出す─であって、あくまでも、絶望という感情自体は、悪しきものであるのではないだろうか。もしも、このように絶望が善きはたらきを為していると言えるのであれば、常に悪しきものとトマスによって規定されている嫉妬であっても、善きものだとせざるをえない場面が出てきてしまうのではないだろうか。成功した人を嫉妬し、それをバネに自らも奮起し、そのおかげで自分もある程度の成功をおさめたという場合のように。

絶望と嫉妬に類似性を見出す捉え方は、もっともに見えるかもしれない。だが、この二つの感情には決定的な違いがある。というのも、友人の成功を嫉妬する場合には、その背景・前提条件として、友人の成功を素直に喜ぶどころか悲しんでしまう人柄の歪みを想定せざるを得ない。たとえ大多数の人が友人への嫉妬といった感情を経験するのであっても、それは、大多数の人間に共通の性格上の歪みであり弱さだと考えざるを得ない。それに対して、絶望の場合には、まだまだ前向きに希望を持って頑張れる状況であるにもかかわらず簡単に絶望に陥ってしまう人の場合には、何らかの性格上の弱さや歪みを想定せざるを得ないとしても、野球少年の例のように、何ら性格上の歪みや弱さの表現ではなく、むしろ、自己認識が適切に行なわれていることが感情の次元で表現されている場合もある。嫉妬の場合には、嫉妬を抱いた後に、嫉妬を抱いている相手を引きずりおろしたりする選択肢を選ぶのではなく、嫉妬をきっかけにして奮起し、自己が更に向上していくためのきっかけにすることもたしかにできる。だが、後者の場合であっても、あくまでも、嫉妬という善からぬ感情を善用したと記述すべきであって、嫉妬自体が好ましい感情だということが帰結するわけではない。それに対して絶望の場合には、それを善用して自己の新たな人生行路を見出していくきっかけにできるのみではなく、絶望を抱くこと自体が、自己の陥った否定的な状況に対する的確な自己認識を伴った対応として、「困難な善」に対する適切な距離のとり方である限りで、辛いことではあるにしても、適切な心の持ち方すなわち善き感情だと言える。希望と絶望は、正反対の方向性を有するとはいえ、双方とも、人間本性の根源的な善性を表現しつつ、それを具体化していく状況打開的な方向性を有する人間精神のしなやかな強さのあらわれと言えるのだ。

« 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(6) | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(8) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(7):

« 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(6) | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(8) »