「在る」ということ雑感(8)
“在る”ということの“地”と“図”という議論を、もう少し、しつこくやってみる。“在る”ということの“地”が無でないということは可能か。つまり、在るということがデフォルトであったとすれば、「在るということは、どういうことか」という問いが無意味となる…。だからといって、「在るということは、どういうことか」という問いが無意味になって困るのは、それを根源的な問いであるとして哲学の体系をつくった人であろう。そこで、視点を変えて、在るということは自明であるとしていけば、違った方向に考えを進める可能性があるのではないかと思う。
そこでは、根源を問うというのではなくて、(この場合、倫理的側面とか実践的側面として、問う意味がないということになろう)今、ここにあるということから出発することになろう。それは日常の些細な営みや想いをひとつひとつ掬い上げて大事にする考えだろうか。
その一つの実例の可能性として考えてもいいのではないかと思うのは、『論語』に表わされた孔子の実践的な思想があるのではないか。
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