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2015年5月22日 (金)

竹内整一「『かなしみ』の哲学」(6)

第5章 神・仏と「かなしみ」

かぎりあることを「かなしむ」自己の有限性は、同じように限りあることを「かなしむ」他者の有限性と、互いに「ああ」と呼びかけ、呼びかけられる、そのような感情の連動・展開として「あはれ」が「あはれみ」に、「いたみ」が「いたましさ(いたわしさ)」に、そして「いたわり」へとつながっていく。それが倫理感情としての「かなしみ」ということであったが、ここではそのことを十分に押さえた上で、さらにそのさきにある問題について考えてみよう。

どんなに「かわいそうだ」と思ってもどうにもならないという問題は、われわれが有限であるかぎり、どこにでもありうる。「…しかねる」という「かなしみ」の届かなさ・力及ばなさが、さらに次元をすすめて問われてきている。つまり、これまで見たように、人は、そうした力及ばない「かなしみ」においてこそ、他者に呼びかけ、呼びかけられるという共悲・共苦の倫理性があったのであるが、今問われているのは、ぎりぎりのところでそれすらが届かない、力及ばないという問題である。どんなに「何とかしてあげたい」と思っても、何もできないということが思い知らされるということである。

親鸞は、以上のような問い直しに、「慈悲」という考え方を説く。浄土門の「慈悲」というのは─浄土教信仰ときは、ごく簡単に言えば、われわれが阿弥陀如来を信じ念仏をすれば、なからず往生し成仏することができるという信仰である。信じ念仏をすれば、かならず仏になれるのであるから─、念仏していそいで仏になって、その仏の大いなる「慈悲」心で、思うように衆生を助けることをいうのである。今生において、いかに「かわいそうだ」「不憫だ」と思っても思うように助けることができないということであれば、そういう自力門の「慈悲」は終始一貫しない。だから、念仏するということだけがそれを完徹しうる大いなる「慈悲」心なのだ、と。ここで親鸞がくりかえし強調しているのは、われわれ人間には、どんなに「かわいそうだ」と思っても助けることができないことがあるということである。ここには自力への絶望がある。

親鸞は浄土教として、基本的に、浄土に往生して成仏するという考え方をとっているが、同時に、信じ念仏をするならば、そのとき人は、そのままでもう必ず仏になることができる身分になるものだとも教えている。この考え方は、親鸞思想のたいへんなところで、われわれは、本当に信じ念仏をすれば、かならずしも来世を待たずして、その瞬間に仏と「等しい」存在になるのだということである。むろん、生身にはまだ煩悩をまとっているから、仏そのものにはなれない。その意味で、けっして同じではないが、等しい存在にはなれるのだというのである。こうした考え方をここに当てはめてみると、信じ念仏をするならば、この身のままで仏と等しい存在になれるということであり、仏と等しい存在になれるということは、何らかの意味で仏の働きが自分の中に働いてくるということである。大いなる「慈悲」心とは、その働きのひとつである。それは「すえとをりたる大慈悲心」であるからして、かならずや相手に届くはずのものである、というのである。

つまり、大切なことは、そこでたとえ自分が言ったり、やってやったりすることがあっても、それはけっして自分「みずから」の働きではなくして、仏の働き、他力としての仏の働きが自分の中で働いてくるということである。相手が、もうどうにもならないと弱っている時に、自分が、俺が、「みずから」の力でおまえをなんとかしてやろう、というときには、ややもすれば、むしろそれが暴力的に感じられることがある。親鸞の言っているのは、そうではなく、自分には慰め助けてやることができない、できないけれどもそれてる何とかしてあげたいという思いの中で祈りをもつとき、その祈りが自分を超えて自分の中に、自分を超えた超越的な働きとして働いてくるということであろう。

「慈悲」という考え方は、仏教の中心概念のひとつである。「慈悲」の「慈」は、友情を意味するサンスクリット語から翻訳された言葉で、一般的に「いつくしみ」の意味である。これに対し「悲」は、人生の苦しみ・かなしみに対する人間の呻き声であり、みずからが呻くような「悲」の存在であることを知ることによって、他者の苦しみ・悲しみがわかる、わかるがゆえに、その他者の苦しみを何とかして癒してあげたいという救済の思いとなって働いてくる、それが「悲」である。このような「悲」のはたらきには、すでにわれわれの自力を超えた働き、仏の他力の働きであるという理解がそこにはある。つまり、もともと、われわれ自身の有限性・無力性の感受において成り立ってきたはずの倫理感情としての「かなしみ」が、あらためてその有限性・無力性を思い知らされるという事態である。これは、人は人の営みとして、できうるかぎりを尽くしてながら、なおある届かなさ・力及ばなさは、それを自覚したところに、自然と向こうから、ある働きが働いてくるとしか言えない事柄である。

 

倫理感情から宗教感情への展開は、本居宣長の「かなしみ」論にも見出すことができる。宣長の「かなしみ」論は自己表出や共悲・共苦論だけではない、天地自然や神々とのつながりの中で「かなしみ」がとらえられている。宣長は、人はしに際しては、ただひたすら「かなしめ」ばいいという。われわれ一人ひとりにとって、死を前にしてどう「安心」したらいいのかという問題は、みな疑問に思っていることだろうが、そんなものはとりたててない。なぜかというと、下たる者はみな、「上より定め給ふ制法」─単なる制度・法律といったものではなく、もっと根本的な、この世がこの世である仕組みのようなことにおよぶ事柄であり、宣長は、それは神々が定めたものとも、あるいはきわめて霊妙な「おのずから」の働きが働いてそうなったとも言っている─のままに受け入れて、われわれのできるかぎりの努力をして世の中を渡っていく以外に仕方がないのであるから、別に「安心」などというものは必要ない。それなのに、無益のことをいろいろと考えて、天地の道理はこれこれで、人が生まれてきたゆえんはこれこれ、死ねばこれこれになるなどと、じつはわかりもしないことをさまざまに自分自身にいいように論じて、「安心」をこしらえようとしている。それらはみな中国から入ってきた儒教とか仏教のさかしらごとであって、ほんとうのところはわれわれには知りえないことであるから、すべて想像でかたっている無益の空論なのだ、と。

わが国においては、そうした儒教・仏教のような考え方が伝わってくる以前のむかしには、そんなこざかしい心がなく、たた死ねば、よみの国に行くものとのみ思って、「かなしむ」よりほかなく、これを疑う者もいなかったし、理屈をこねる人もいなかった。「よみの国」というのは、きたなくあしき所とはいえ、死ねばかならず行かなくてはならないことであるから、この世に死ぬことほど「かなしい」ことはない。そのもっとも「かなしい」ことを「かなしまない」ように、いろいろと理屈をつけているのであろうから、それらが真実の道ではないことは明らかであろう、と。これはのちの「安心なき安心」論と名づけられた大事な議論であるが、ここで説いているのはふたつのことである。ひとつは、この世界は、神々が定めた世界としてあるから、それをそれとして受け止めて生き、死ねばいいのだろうということであり、もうひとつは、死ぬことはとてつもなく「かなしい」ことで、「かなしむ」以外にないことだということである。そのふたつのことが別事ではないということが、この考え方の肝心なところであろう。つまり、「かなしむ」以外のないことをきちんと「かなしむ」ことが、結局は、この世の仕組みをそう定めた神々の働きに従うことになる。だから、そこに「安心」というものがあるのだという考え方になるということである。

ところで、世の中のことは、何ごともみな「神のしわざ」であるという、そのことの中には、当然悪いこと、わざわいも入っている。そうしたわざわさごとは、みな禍津日神がもたらすということであるがゆえに、その神の「あらびはし(あらぶること)」は、どうしようもなく、たいへん「かなしい」ことだ、というのである。そのことを、あらためて「世の中は、何ごともみな神のしわざに候。これ第一の安心に候」という考え方にもどすと、そのどうにもならなさを「かなしむ」ことにおいてこそ、われわれは神々の働きに従っているということになるといった理解が引き出されてくる。「悲しむべき事を悲しいと受け止めること、喜ぶべきことをうれしいとうけとめること」というのは、「物のあはれ」論でもある。そう感ずべきをそう感じるということが「神への随順」であり、また「安心」ということなのである。われわれは、生き死にをふくめて、基本的に、そうした働きに司られているのであって、その全体は、われわれには最終的にはわからない、しかし、わからないままに「妙」なる働きとして働いているというのである。しかし、宣長のこうした考え方は、さきの親鸞と同じように、「みずから」は、ただ手をこまねいたまま、そうした「おのずから」の働きに従え、というのではない。宣長は「安心なき安心」論では、われわれの「あるべく限りのわざをして」従え、と言っていた。「かなしみ」をまっとうに「かなしむ」ということは、はっきりと「みずから」の有限性・無力性を受け止めることである。「せむすべもない」という自覚である。そうした自覚において、はじめてそこに、「みずから」を超えた超越的な働きとしての神、「おのずから」の働きをかんじることができるということである。

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